ひとつの可能性 【Ⅴ】
それは、ひとつの可能性。
「……?」
いつまで経っても、死が訪れない。
いや、これが、『死』なのか……?
『死』というものは経験したことがないから、それを判別することができない。しかし、これがもし本当に『死』だとすると、あの人間はやはり、それほどまでに強かったのだ。痛みも何も感じずに、そうなったのだから。
魔族にはそういう概念はないが、人間には死後、良き者は天国へ、悪しき者は地獄へ行くことになるという。スウは自らが悪しき者であるという自覚はなかったが、人間のいう神などに対する信仰を微塵も持ち合わせていないため、地獄へ行くことになるのだろう。人間の価値観では、そういうことになっているらしい。
そして、スウは目蓋を開いた。そこに地獄が広がっていることを夢見て。……自分にも人間と同じような死後があることを、夢見て。
しかし、そこには、地獄などは広がっていなかった。
……いや、ある意味では、地獄だった。死後の世界という意味での地獄ではなく、ただ、地獄。そんな光景が、目の前には広がっていた。
「お嬢様……」
そこには、ソフィがいた。
自分を庇うように立った、ソフィの背中があった。
「やめて、ください」
ソフィは懇願するように声を出した。それに青年は感情のない声で、
「それはできない相談だな。お前は知らないかもしれないが、そいつは――」
「知ってます」
ソフィが言った。「え?」とスウの口から声が漏れた。
「私、知ってます。スウが、人間ではないってことくらい。スウは隠しているつもりだったかもしれないけれど……」
その言葉にスウは驚愕を隠し得なかったが、そんなことは無関係に、青年は言う。
「なら、なおさらだ。そいつは、魔族。人間の敵だ。……それを庇うなど、もしや、お前、魔法によって洗脳されているのか……?」
「そんなことありませんっ。これは、私自身の意思です。私がそうしたいから、そうしているんです」
「なぜだ? 意味がわからない。そいつは魔族だ。どうして、それを庇いたいなどと思う……。人間と魔族は、敵対関係しかありえないというのに……」
それにソフィはきっと青年を睨みつけ、
「違うっ! 人間と魔族は、敵対関係以外も、ありえますっ。現に、私は……」
「私は、なんだ?」
ソフィは続く言葉を発するかどうか迷い、しかし、なにかを決断したように拳を握りしめ、言う。
「私は、スウのことが好きです。魔族である、スウのことを。だから、敵対関係以外ありえないなんてことは、ないんです」
ソフィの言葉にスウは衝撃を受けた。しかし、そんなことは青年には関係ない。
「そうか……」
青年はそんな言葉を言った。スウはそれをソフィが洗脳を受けたことを確信し、呆れ果て、ソフィごと自分を殺すことを決めて出た言葉だと思った。
しかし。
「……くっ」
笑い声が聞こえた。
最初、スウとソフィは我が耳を疑った。しかし、聞こえる。懸命にこらえながらも、漏れでてしまった笑い声が。
それは、どこから聞こえてくるのか。
「面白いよ、お前ら。……こんなやつらがいるとはな」
青年から、聞こえてきていた。
スウとソフィは呆然とする。青年はもはや笑い声を隠さずに、言う。
「魔族はすべて滅ぼすべきだと思っていたが、お前は例外かもしれない。人間と魔族が愛しあう、ね。……それは、人間と魔族が共存する、ひとつの可能性だったかもしれないな」
笑いながらも、その声に諦観が混じった。もうどうしようもないという諦観。もう取り返しの付かないところまできてしまったのだという諦観が。
「……サヤ」
「はい」
スウとソフィは驚いた。今、青年にサヤと呼ばれた少女がいつのまにか自分たちの目の前、青年の隣にいたことに。
全く気づかなかった。ソフィはまだしも、スウまでもが。第十であるスウが。魔族の中でも十位の力を持つスウが。
それは驚くべきことだった。どのような方法を使ったのかはわからないが、どんな方法であっても、それは驚くべきことだ。ただ単純な速さであっても、なんらかの魔法を使ったのであっても。
「ここはもういい。こいつは、殺さない」
「はいっ」
少女の声が弾んだ。それにソフィも嬉しくなった。スウを殺さないということに嬉しく思ってくれる少女に対して感謝の念を抱いた。
「行くぞ」
青年はスウとソフィに背を向け、歩いて行った。少女もそれに続き、歩いて行く。
「ちょ、ちょっと待ってください」
スウが言った。「ん?」青年は振り向く。
「あなたは、何者なんですか……?」
それに青年は笑い、「それを尋ねられるのも久しぶりだな」と呟き、言った。
「俺は勇者。魔王を倒す者だよ。あと、すべての魔族を滅ぼす……つもりだったが、お前は例外にしておく。まだ生きたいのなら、これから永遠に、人間に危害を加えずに生きろ。じゃあな」
瞬間、青年と少女の姿は消えた。