第三節 -17- 本気の一端
「……仕方ない」
勇者が突然、頭を掻きながら、釈然としない様子で言った。
ピーピリープリーはそれを怪訝な様子で見る。
――どういうこと? 何が、仕方ないの?
そう思ってはいるが、決して表情は変えない。勇者の心が読めない今、勇者に心を読まれることは避けたいのだ。第七エレクトロの死を知るピーピリープリーだからこその思考。勇者に心を読まれることの危険性を、しっかりと理解している故の思考。
「光栄に思え、魔族。俺は、お前を厄介だと判断する。――だから、少しばかり、本気を出してやる」
その瞬間、勇者は音もなく消えた。
ピーピリープリーは魔法を制御。勇者に攻略されたからと言って、まだこの空間はピーピリープリーの魔法だ。この空間からの勇者への干渉は難しいが、だからこそ、干渉できないと言う事実から逆算して、勇者の位置を特定する。そんな戦法は勇者も予測しているだろうが、勇者はそれを妨げる術を持たない。干渉されることこそが、最も危険であることを理解しているからだ。
――捕捉。
ピーピリープリーは魔法を行使した。勇者の存在する空間を惑わし、夢幻に堕とす。無限夢幻――無限の夢幻に惑わされ、世界自体が夢幻に惑わされ、無限に世界は変容する。
勇者のいるはずの空間が歪み、だが、避けられる。予測していたこと。そして、ピーピリープリーは夢幻ではない魔法を行使する。ピーピリープリーは夢幻以外の魔法を使うことができないなんてことはない。魔族屈指の魔法の使い手。それがピーピリープリーだ。その魔族が、たった一種の魔法しか使えないわけがない。
ピーピリープリーは背後から近づく勇者に向かって、単純な攻撃魔法を――勇者が使う、『攻撃』という概念のみを対象に放つ魔法に似た魔法を行使する。完全模倣とまではいかないが、一度経験した魔法ならば、ある程度模倣することができる。たとえそれが不可視の魔法だろうとも、実際に受けたのだから、その魔法構造を解析するだけならば(彼女にとっては)容易だったのだ。
背後で勇者が驚いているのが見える。案の定、驚いた。自らの魔法を模倣されたのならば、それは驚かないわけがない。
そう、驚かないわけがないのだ。
そして、実際、その表情は、明らかに、驚いているものだ。
そのはず。そのはずなのだ。
――それなのに。それなのに、それなのに!
ピーピリープリーは確かに見た。背後であっても、この空間はまだ彼女の魔法だ。勇者に干渉することはできないが、それでも、その中の事象ならば全て見ることができる。
――それなのに、どうして。どうして。
ピーピリープリーは全く理解することができなかった。見間違いだとしか思わなかった。もし実際にそうだとしても、虚勢以外に考えられはしない。自分の魔法を模倣されたのだ。それなのに、それなのに。それなのに、どうして。
――それなのに、どうして、こいつは『笑っている』んだ!
ピーピリープリーの魔法は勇者に直撃し、勇者の肉体に大きな穴が開く。虚勢だった? 本当に? もちろん、それは充分に考えられる。あの人間は、そんな人間だ。もし自分が劣勢であったとしても、絶体絶命の窮地に立たされていたとしても、虚勢を張り、相手の心を少しでも揺さぶり、自らが生きる道を選ぶような人間だ。だから、あの表情は、なにもおかしいことではない。虚勢であると考えれば、おかしくない、はずだ。
だが、ピーピリープリーにはそれがただの虚勢であるとはどうしてか思えなかった。あの表情が虚勢であるとは思えなかった。あの表情は、確かに、『引っかかった!』と思っているような顔だった。
そして、その疑惑は、正しかった。
気が付くと、ピーピリープリーの身体に、何かが触れていた。恋人を愛撫するように、首元に這うような腕があった。太腿の辺りを這うような腕があった。あまりにも優しく、あまりにも自然な手つきで、彼は、彼女の身体に触れていた。服の間から手を入れ、肉体に、直に触れていた。
ピーピリープリーの視界に、突然、勇者が現れていた。
「なっ――!」ピーピリープリーは驚きのあまりそんな声を上げ、だが、反射的に魔法を行使し、夢幻により世界を変容させ、勇者のいる空間ごと、勇者を歪ませる。
歪んだ。
勇者は空間ごと歪み、だが彼はまたしても、笑っていた。
そこでピーピリープリーは理解した。こいつは、エレクトロの魔法を使っている! もちろん、勇者がエレクトロの魔法を使えることは知っていた。だが、それはただの模倣だとしか思っていなかったし、それ以外には考えられなかった。
しかし、勇者の使った魔法は、ただのエレクトロの魔法ではなかった。エレクトロの魔法だが、これは、もっと高度な魔法だ。あの、『第七』の、エレクトロの魔法を使い、あまつさえ、それをさらに高度化する? 模倣なんてものじゃない。そんなのはもう、完全に模倣しているとか、そんな言葉では足りない。完全に、魔法を、自分のものにしている――『征服』している。
「ほんの少しだが、驚いた。まさか、魔族如きが、この俺の魔法を理解するとはな」
気付くと、勇者がピーピリープリーから離れた地点に立っていた。その輪郭に、滲み出すうな黒い影があった。
「だが、この俺が魔法を理解されたくらいで、そこまで驚くはずがないだろう。そりゃあ、俺のように征服したならば、結構な驚きだが、それでも、恐怖を覚えるほどじゃあない。現に俺は、色々と、魔族の魔法を征服しているからな」
そう、そこまで驚くはずがなかったのだ。
それだけの魔法を征服した勇者ならば、そこまで驚くはずがなかった。ピーピリープリーが勇者の魔法を模倣したところで、彼にとって、そんなことはなにも驚くことではないのだ。それでも、反射的に少し驚いた勇者だったが、そこまで驚くことでなはい。隙を見せるほど、驚きに硬直するほど驚くことでは、ないのだ。
「それと、理解しているよな? 俺は、お前に触ったぞ?」
ピーピリープリーはぎりっと歯を軋ませた。そう、『触れられた』。彼女の身体に――彼女の身体に刻まれた紋様に、触れられてしまった。
それが、なにを意味するか。それがわからないピーピリープリーではない。
……だけど、私の魔法は、夢幻だけじゃない。
ピーピリープリーは思う。そう、彼女の腕前ならば、それ以外の魔法も使えて当然だ。勇者の魔法の模倣だけでも当然ない。それ以外の自分の魔法も、確かに、あるのだ。
「お前が何を考えているか、手に取るようにわかるが、その思考は間違っている」
勇者の言葉に、ピーピリープリーは勇者を見た。そんなことがないことを、彼はさきほど見たところのはずだ。実際に、ピーピリープリーは夢幻ではない魔法を使った。
「はっきりと言おう。わかっているだろう? 理解しているだろう? 目を背けるな。事実を知れ。事実を受け止めろ。――『夢幻』以外の魔法で、この俺に敵うと、お前は、本当に思っているのか?」
ピーピリープリーの動きが、止まった。
「お前は確かに恐るべき魔法の使い手だ。だが、お前の固有魔法は『夢幻』だろう? その紋様から解析したからわかる。『夢幻』自体、それはそれは高度な魔法だ。世界自体を惑わすなんて、そんなの、俺ですら思いつかなかったし、今の俺では、技術面から考えても不可能だろう。だが、だからこそ、お前はそれ以外の魔法は、『夢幻』ほど強力な魔法を使えない。『夢幻』こそがお前の最強魔法、そうだろう? だから、お前は『夢幻』を使っていたんだしな」
ピーピリープリーはその言葉に何も返すことはできなかった。その通りだったのだ。勇者の言う通り、ピーピリープリーの最強魔法は『夢幻』。それを解析されるなどは考えたこともなかった。それほどまでに高度であり、おそらくは、魔王や第二以外の全ての魔族にも、解析されはしなかっただろう。もし解析されたとしても、それは、膨大な時間を要するはずだった。
だが、勇者は、違う。
彼の『眼』はそれほどまでの脅威であり、そんな『眼』を持つ者に触られたら、もうそれは、解析された以外は考えられない。
――いや、待て。それこそが勇者の狙いではないのか?
ピーピリープリーは思った。そうだ。そうだ。勇者なのだから、それくらいしてもおかしくはない。夢幻は、まだ、勇者に効果はあるはずだ。
ピーピリープリーは夢幻で世界を変容させた。勇者のいる空間を歪ませ、勇者に向かって夢幻によって惑わされた『世界そのもの』が勇者に攻撃を始める。
だが、やはり、効かない。
いや、そもそも、魔法を発動することができない。
「確かに、技術面では、俺はまだ『夢幻』を使うことはできない。だが、もう解析したんだ。そこから逆算すれば、その発動を妨げるだけならば、可能だろう? その魔法構造は、既に、理解している。お前は技術面で優秀すぎた。だから、その技術を解析されれば、もうお前に為す術はない。力任せの魔法ならば、解析されたくらいでは何のことはないが、お前の魔法は、超緻密な技術によって成り立っている。ならば、その魔法構造を理解し、『いじる』ことができるようになった俺には、その魔法はもう通じないし、発動することすら妨げることができる。当然だろう? お前の魔法は、それほどまでに高度で、それほどまでに正確性を求めるのだから」
勇者がゆっくりと歩いてくる。ピーピリープリーは、それでも魔法を行使する。夢幻ではない魔法を、様々な魔法を行使し、勇者へと攻撃する。だが、勇者にはその程度の魔法は通用しない。エレクトロの魔法を改良したあの魔法によって、今の勇者には、その全てがすり抜けるようにして当たらない。
もしも夢幻が使えたならば、それすら考慮して、世界を変容することによって、勇者にダメージを与えることが可能だっただろう。だが、今はもう、夢幻は使えない。
絶望の淵に立ち、ピーピリープリーは自分の失態を嘆く。
勇者がこの空間に足を踏み入れた瞬間に殺せばよかった。それが、おそらくは、ピーピリープリーには可能だった。それなのに、ピーピリープリーはそれをしなかった。何故か。仇を討つため。亡き同胞の仇を討つため。そのために、ピーピリープリーは勇者をすぐに殺そうとはしなかった。だが、それが間違いだった。
――ピーピリープリーは知らないが、おそらくそれは今まで勇者に殺されたほとんどの魔族が思ったことである。実際にはどうかわからないが、全くの油断無しに最初から勇者を殺しにかかっていれば、と後悔する魔族は大勢いる。そして、勇者はそのようなことすらも考慮して、戦闘している。勇者からすれば、魔族はバカだ。勇者はしばしば魔族を『畜生』と蔑んでいるが、それはただの挑発ではなく、本当に思っていることでもあった。勇者は、魔族の精神性が善良であることを理解し、戦闘に無駄な感情を持ちこむような存在であることも理解しているのだ。だから、それを考慮して、勇者は戦闘を行い、その戦闘における魔力消費量を最低限に抑えるようにしている。だから、勇者はその程度の力でしか戦闘をすることはなく、最初から殺しにかかっていれば、と魔族が後悔するのは当然であり、その思考こそがまんまと勇者の策略にはまっている証拠なのだ。
だが、そんなことを知らないピーピリープリーの後悔は止まらない。
そして、勇者が、ピーピリープリーの目前に至った。
「久しぶりに楽しかったぞ、魔族。その礼をこめて、一瞬で葬ってやろう」
そう言って、勇者は、ピーピリープリーに、左手を向けた。
ピーピリープリーは死を覚悟した。悔いは、あった。だが、それでも、彼女には――魔族には、希望があった。
「魔王様に、殺されろ」
ピーピリープリーはなんとかして笑みを作った。最後に、勇者を、少しでも苛立たせることができれば、最高だ。
「逆だな。俺が、魔王を殺す」
勇者はそんなことを言った。それにピーピリープリーは思わず吹き出してしまった。そんなこと不可能に決まっているじゃないか。なにを言っているのだ、この人間は。
「そ、そう。最後に面白い冗談をありがとう。でも、それは夢幻でしかない」
「いいや、これは夢幻ではないさ。俺が、現実にして見せる」
「私は『夢幻』よ? その私が夢幻だと言っているの。それを、信じられない?」
「信じてやってもいいが、俺はそれを超越する。現に、俺はお前を解析した。今はまだ無理だが、いずれ、俺はお前の『夢幻』を征服する。それと同じように、今はまだ、魔王には敵わない。だが、いずれ、俺は魔王を殺すほどの力を手に入れる」
勇者の言葉には妙な説得力があった。ああ、確かに、この人間ならば、私の『夢幻』を、いずれ自分のものにするのかもしれない。征服するのかもしれない。
だが、それでも、魔王だけは――
「……いや、これ以上言っても、無駄かな。私は『夢幻』。だから、あなたの夢幻を、否定しないわ、夢幻を抱くだけならば、自由だしね」
「ああ。そうだ。じゃあ、死ね」
勇者は笑い、左手に魔力が通った。
そして、魔法が発動する――はずだった。
しかし、その瞬間、勇者の背を、黒き閃光が襲った。