第三節 -5- 老人の記憶
そこには、瓦礫があり、血があり、人間の死骸があり――魔族がいた。
視界は揺れ、自らの身体を見る。血に濡れている。右腕を見て、左腕を見ようとして、あることに気付く。左腕が、ない。
「あぁああああああああああああああああああああ!」
視界の主が叫んだ。痛みや苦しみに、ではなかった。そんなものはとっくに枯れていた。左腕がないその事実に、驚き、恐れ、悲しみ、思わず、叫んだ。
「ほう。まだ、息があるか」
感心したような声が聞こえた。
可愛らしく、しかし凛とした、存在感のある声だった。
その声の方を見ると、そこには、全裸の少女がいた。
華奢な体躯。
月を思わせる髪。
白砂のように白き肌。
幼げな、しかし凛とした顔立ち。
宝石のように紅き眼。
美しく、可憐で、しかし、少なくとも、人間ではなかった。
人間ではないように覚えるほどの美貌を持ち合わせて、その実、彼女は、人間ではなかった。
「××!」
視界の主は、そんな言葉を叫んだ。何と叫んだ? 何を、叫んだ?
「なんだ、人間? 今更、自らの愚かしさを、後悔したのか?」
少女は楽しそうに笑っていた。
視界の主を見下し、人間を見下し――だが、彼女は、見下すだけの力があった。
人間のことを虫けらか何かだと思ってもおかしくないようなほどの、力が。
恐怖を覚えた。
それがただ垂れ流している魔力の量だけで、今までに見たどの魔族を遥かに超えたものだった。
もし彼女が本気で人間を殺そうとしたのならば、それは一瞬で果たされることだろう。
そう確信するだけの、力があった。
「××! お前だけは、殺してやる!」
視界の主が言った。
それは憎悪がこもった声だったが、彼女の力量を、きちんと把握しているわけではないようだった。
魔法の技術がまだまだの時代だ。仕方ないことだろう。
「我を見て、そんなことを言えるとは。勇者か、ただの愚者か――そうだな、なら、試してやろう。もしもこれを見て、未だ我に刃向かおうとするならば、勇者だ。我が全身全霊をもって、跡形もなく、殺してやろう。しかし、ただの愚者ならば、殺す価値もない。わざわざ人間を殺す必要もない。さあ、勇者か、愚者か。どちらだろうな?」
「お前が何をしようとも――」
視界の主が言いかけた、その時、
彼女の身体から、はっきりと視認できるほどの魔力が放出された。
それはただ単に、垂れ流しているだけだった。
となると、先ほどまでの魔力は、抑えつけていて、あれほどだったということになる。
そして、そう思えるだけの魔力だった。
膨大な魔力。
莫大な魔力。
色など無い。
実体など無い。
だが、確かに視認できた。
その魔力は堰を切ったように――実際、それと同じようなことをしたのだろうが――大気に流れ、地に流れ、空間に流れた。
その魔力は一瞬で空を覆い、地を覆い、空間に満ちた。
「あ、あぁ……」
視界の主はそんな声を出した。
そして、わかった。
これは、無理だ。
人間には、勝てない。
ああ、何故、こんなことをしてしまったんだろうか。
魔法なんて、望まなければよかった。
そう思った。
思ってしまった。
呆然とする視界の主を見て、彼女は呆れたように息を吐いた。
「やはり、そうか。もうよい。命は見逃してやる。だから、伝えよ。魔族には、もう、手を出すなと」
「××……」
「もう、喋るな。虫唾が走る。――シャム」
「此処に」
彼女が呼ぶと、いつの間にか、その隣に、最初からそこにいたかのように、魔族がいた。
その頭は牛と馬や羊が合わさったかのようなもの。
胴から下は人間のような形。
だがその色は人間にはありえない黒い紫色で、その背は蠢く腕で覆われている。
脚は二本だが、その人間ならば膝に当たる部分に風穴が開いており、そこにぴゅうぴゅうと風が吹き込んでいる。
体長は先ほどの魔物よりもさらに巨大。12メートルはある。
「帰るぞ。もう用はない」
完全に興味を失ったように、魔王は視界の主を見ようともしなかった。
「ですが、よろしいのですか?」
「よい」
「左様ですか。わかりました。では、帰りましょう」
そうシャムと呼ばれた魔族が言った瞬間、少女とシャムの姿が一瞬で消えた。
「××……」
一人残された――仲間は全て殺され、一人になった視界の主は、ただ、そんな言葉を、呆然と呟いた。
何を?
何と呟いた?
××――それは、どういうことだ?
「……××。×王」
王?
王とは、なんだ?
「魔王」
魔王?
誰が?
何が?
「魔王ぉぉぉおおおおおおおおおおおおお!」
視界の主は、慟哭した。自分が何もできなかった悲しみと、絶望に。
あの少女に勝てないことはわかっていた。何もできなかったし、今でも、恐れている。
だが――何か、しなくてはならない。
自分は今日、死んだ。
故に、あの少女を――魔王を、恐れる必要は、ない。
魔王に絶対に、ばれることがないように、魔法を、研究し――
「いつの日か、一矢、報いてやる」
視界の主は、言った。