第二節 -14- 大言壮語?
すると、青年が腕を振った方向の壁が跡形もなく消滅し、その先には一人の女性がいた。
その女性は数秒それに気付かずに呆然としていたが、なんとなくこちらを向き、ぎょっとした。その顔は見覚えがある顔で、そんな顔は今までたった一度も見たことがなかった。
全身が真っ白な、雪のような女性。
この街の領主、シェーラその人であった。
「なっ、ななな……!」
シェーラは口をぱくぱくと開閉し、こちらをじっと見ていた。
しかし、青年はそれを気にすることもなく、サヤに向かって、「ほら、シェーラだ。これで信じたか」と言ったが、サヤとしては領主さまであるシェーラがこちらを見ているだけで緊張なのに、その御方が驚愕の渦中にいるとなればもうどうしていいのかわからなくなってきているのである。故に、青年の言葉など、ほんの少しも耳には入っていなかった。
「おま、えっ。なにを、しているんだっ」
ぴりぴりとした空気が肌を刺した。シェーラの身体から何かが出ていることが認識できた。いや、迸っていると言った方が正しいかもしれない。
そして、シェーラがこちらに腕を向けた瞬間、その腕から先ほどまでのはただ漏れていただけなのだと確信できるほどの何かの奔流が迸ってきた。
「さすがシェーラ。やはり、お前は中々の才能がある。しかし、それ以上に、こいつの才能には目を瞠る。魔法についての知識がほとんどなく、魔力量も初期状態のまま、魔力を感知できるとは。俺の目に、狂いはなかった」
しかし、青年はそれをいとも簡単に消し去った。どうやって消し去ったのかはわからなかったが、この青年が消し去ったと言う実感はあった。
「シェーラ。こいつはお前の街の人間だぞ。そんな奴にこんなもんぶっ放すな」
「貴様なら消せるとわかってのことだ! 今のは、ただの八つ当たりのようなものだ!」
「何を八つ当たりすることがある」
「壁を壊しただろう、が……? なん、だ。これは。どうなっている。そこは、お前に与えた部屋のはずだ。それが、何故、この部屋の隣になっているのだ!」
シェーラは驚愕に満ちた表情で言った。
「ああ、すまんすまん。まあちょっと待て」
そう言って青年はひょいとサヤを持ち上げ、シェーラのいる部屋に入った。そして青年が「閉じろ」と言うと、驚くことに青年の背後には壁しかなかった。
「どうなって……もしや、次元の連結?」
「正解だ。お前、やっぱり才能あるな。俺が今までに見た中では、一、二を争うほどだった。今はこいつがいるから、ニ、三を争うほどだがな」
「いや、だがしかし、次元の連結など、そうそうできるものではないはずだ」
「そうでもないさ。ようは転移魔法の応用だ。と言っても、次元の連結部は魔力だけを通すから、強い魔力親和性がなければ通ることはできないのだがな。しかし、これを応用すれば、かなりの規模の転移点。『門』と言っていいほどのものができあがる。すなわち転移門。そこを通るだけで、転移先に行くことができるような門が。無論、それの作成には転移点を刻むよりも多い時間が必要だがな。魔力変化術式を必要とせずに転移を可能とするほどの魔力親和性を有するのはこの世界に俺とこいつだけだからな」
「魔力親和性?」
「魔力変換率のこととでも考えろ」
「ああ、魔力との相性の良さか。ふむ、それは確かに魔力親和性と言えるな。つまり、転移魔法の理論に則っているのか。どれだけ魔力と近づいているのか。どれだけ魔力に近いのか。そういうことか」
「正解だ。やはりお前の才能は喉から手が出るほどに欲しいな。俺と共に来るか」
「貴様、答えがわかって訊いておるだろう」
「また正解。お前は優秀な生徒だよ」
青年は手を叩いて笑った。サヤは話についていけずにおろおろとしていたが、突然、その頭を青年に軽く叩かれた。
「なら、代わりにこいつをもらっていく」
「私の街の娘か。それを許すと思っているのか?」
「思わないが、こいつの意思を尊重するのも領主の役目ではないのか。こいつがどうしたいのかは知らないが、な」
「それも一理あるな。……娘。そなたは、どうしたい?」
問われ、サヤは困惑する。サヤのような者からすれば、シェーラなど天の上の存在。そんな御方と自分が同じ場所に存在していることがもうすでに信じられないのに、そんな御方が自分に話しかけてくださっていることなど、もっと信じられることではない。
しかし、これが夢であろうと、領主さまの言葉に答えないなどと無礼なことはできるはずもない。サヤは困惑した頭で必死に考えた。
街に留まるのか、街から出るのか。
その二択。
「……この人に、付いて行きます」
「そうか。なら、止める必要もない」
シェーラは青年の方を向いた。
「だが、その前に、訊ねておきたいことがある」
「なんだ?」
そして、シェーラは満面の笑みで首を傾げた。
「何故、彼女は裸なのだ?」
その言葉に、サヤは今の自分の姿を思い出し、赤面した。
「それを説明するのは少し、って、なんで魔力を循環させる。だが、その魔法はかなりのものだな。俺も認めてやっても良い。……おい待て。何をしようとしている。そこまで循環させた魔法は、俺でも対応するのが――」
「黙れ変態」
シェーラの身体を魔力が迸り、次の瞬間、その魔力はただ魔力を放出する何倍もの力を発現させる魔法へと変換され、青年に襲いかかった。
空気が凍り、床が凍った。
そこには巨大な氷ができた。
凍結魔法。
全てを凍結させる魔法。
だが、
「……危ねぇなあ。永久凍結なんて、俺でもまだ難しいのに。やっぱりお前は才能があるな。特に、凍結系の魔法の才能が。俺は凍結とか燃焼とか、そんな風に魔法を別の力に変換させるのは好きじゃないから、凍結魔法だけを磨けば、凍結魔法だけならば俺を超えられるかもしれないな」
青年は平然として、シェーラの真後ろに立っていた。驚き、見ると、青年の身体には黒い影のようなものが帯びていた。
「あの氷を溶かすのは、俺でも骨が折れる。あいつを避けるようにしたのは流石だが、もうちょっと範囲を限定できるようになった方が良いな」
シェーラは、当然のこととして、サヤには凍結魔法を向けなかった。シェーラから見て先ほどまで青年がいた方向で、サヤだけはその氷の外にいた。
「これ……私が?」
シェーラは自分で驚いていた。自分がこんな魔法を発動したことが咄嗟に信じられなかったのだ。確かに凍結系の魔法は得意分野だが、ここまでの凍結魔法など、今までにしたことがなかった。
「なんで驚いてんだよ。昨日、お前は変わった。そして永久凍結の理論の構築はそこまで難しいものじゃあない。……良く見るとこれは完全な永久凍結じゃないから半永久凍結と言った方が適切かもしれないが、ここまでの凍結魔法ならば凍結魔法の基礎理論さえしっかり把握していれば、後はできるかできないかだけだ。完全な永久凍結の場合は、時空間理論や座標指定の計算とか、次元との関係性、影響を考えての魔法構築が必要だから、今思えば、お前にはまだ早いか。そこまでの知識も経験も持っていないだろうしな」
「だが、これは今までのものとは、全くの別だ」
シェーラは驚きを抑えに抑えた声を出す。青年は溜息を吐き、
「当然だろう。魔法の構築方法からして全くの別になったんだ。構築された魔法が変わらないわけがない。……と言っても、半永久凍結ならば」
青年は氷に触れた。
「ちょっとずらすだけで終わりだ」
直後、氷は跡形もなく消えた。
本当に、突然、消えた。
「な……ッ!」
シェーラは驚愕したように声を漏らした。信じられなかったのだ。今の魔法は発動した自分ですら驚くほどの出来であったのだ。それを、簡単に消し去る。これを驚かずして、何に驚く。
「……いや、そうか。貴様は、そうだったな」
否、実際は、驚くほどのことでは、ないのだ。この程度で驚いていてはいけないのだ。この青年は、魔王を倒す青年。これくらいのことを難なくやってのけなければ、そんなことを達成できるはずもない。
「魔王を倒すのなら、この程度のことは、できて当然か」
シェーラはふっと笑った。青年も微笑んだ。しかし驚愕に目を瞠る者がいた。
「魔王を、倒す……?」
サヤには彼らが何を話しているのか全く理解できなかった。しかし、魔王くらいは知っている。人間の敵。魔族の王。たった一人で他全ての魔族の戦力の総和を超える戦力を有すると言われる者。
それを、倒す。
それがどれだけ馬鹿げたことであるのかなんて知っていたし、酒に酔った男たちがふざけて言っているのを聞いたこともあった。それは実現不可能なことであり、そんなことを言ったとしても、それは確実に冗談である。
だが、彼らの目は真剣だった。本気でそれを達成しようとしていた。気が狂ってでもいるのか。最初にそう思い、だがすぐにありえないと確信した。青年の方がどうかはわからないが、シェーラがそうであるはずがない。しかし、そうであるのなら矛盾が生じる。魔王を倒すなどと言うのは妄言以外の何物でもないが、彼らはそれを本気で言っている。そして彼らの気が狂っていないとすると、彼らは冗談を言っていることになる。しかし彼らは冗談でそれを言っていない。矛盾。それ以外の何でもない。
「そのはず、なのに――」
それが不思議と、本当に、冗談なんかじゃない、本気の言葉のように思えて――
それが不思議と、この人ならばできてもおかしくないように思えて――
できるはずもない、不可能なことなのに。神を殺すと言っているようなものなのに。
それでも、何故か、不思議と――
「魔王を、倒す」
サヤは呟いた。呼吸をするように――自然にという意味ではなく、我慢しても、どうしても、吐き出してしまう息のように――呟いて、はっとした。
その言葉に、恐怖を覚えたのだ。
今までは何の現実味もない冗談であり妄言でしかなかったその言葉に、言えば笑いさえ起きることもあるようなその言葉に、サヤは、はっきりとした恐怖を覚えた。
何故か――現実味を、持ってしまったのだ。
本当に、魔王を倒すことを、つまり、魔王と戦うということが、現実味を持った、歴然とすらした未来の一つのヴィジョンとなってしまったのだ。
魔族を統べる王。それと、戦う。
そんなことは、想像したこともなくて、それどころか、サヤは魔族を見たことさえなかった。ただ、それがどういうことなのかは理解できた。そして、何故かその恐怖を明確に覚えた。ぼんやりとした、言わば、健康状態の時になんとなく考える「死」に対する恐怖のような曖昧模糊とした恐怖ではなく、死の際にまで迫った――サヤからすれば、先ほどの体験のような、すぐ近くにある恐怖、もうすぐ自分に降りかかるだろう災厄に対しての恐怖を、はっきりと感じていた。それも、その恐怖の大きさは、先ほどの体験で受けた恐怖よりも、大きかった。まだ体験していないし、想像すらできないはずで、そもそもありえないようなことなのに――サヤには、これまでの人生にないほどの恐怖が感じられた。
「ぁ――」
がくがくと身体が震え始めた。背筋が凍り、涙が滲んだ。心臓の動悸が激しくなり、すっと顔から血の気が引いた。腰が抜け、思わずその場に座り込んだ。
その音で青年とシェーラはサヤの方を見た。すると、二人は驚いた。……と言っても、二人の驚きは全く質の違うものだったが。
「どっ、どうした? そんなに身体を震えさせて……まさか、私の魔法でこの部屋の気温が下がったからか? そう言えばまだ服も着ていないし」
「それに関しては大丈夫だ。しかし、これは俺の想像以上のようだな……」
シェーラは純粋な驚愕であり、青年は感心したような驚きであった。青年はにやりと口の端を上げた。
「シェーラ。服を用意してくれ。寒さが原因ではないが、そろそろ発つ。俺は自分の準備をしておくから、こいつを頼む」
「え? あ、いや、おい待て!」
青年はシェーラの制止も聞かずに、シェーラの部屋を出ていった。シェーラはそれを見て憤慨しかけたが、どうにか抑え、そして一度だけ、深い溜息を吐いた。
「……とにかく、彼女をなんとかしないとな」
サヤは未だに恐怖に震えていた。