第二節 -2- 青年宣言
「飲め」
そう言って青年はひょいと何かが入った瓶を放り投げてきた。レナリーは両手でそれを掴み取り、「……これは?」と首を傾げる。
「薬だ。味は保証しかねるが、魔法で作った薬だから、効果は期待して良い」
レナリーは瓶の中に入っている液体をじっと見つめた。緑色で、どろっとしている。瓶の口に鼻を近づけると、なんだか嫌な臭いがした。
「そんな警戒すんな。大丈夫だ。なんなら、俺が飲んでみせようか?」
そう言うと、青年はレナリーが答える前にレナリーの手から瓶を奪い取り、口を付け、瓶を傾けた。ごくっと喉が鳴り、青年は瓶から口を離し、変な顔をした。「……いや、やっぱり不味いな」
そう言われると飲む気が失せてしまうのが人間である。そしてレナリーはれっきとした人間であり、無論、そんなことを言われると飲む気が失せてしまったのである。
故に、青年から差し出された瓶を嫌そうに、だがやんわりと拒絶しようとしたが、青年は顔をむっとしかめ、無理にレナリーの方へ瓶を押し付けた。最早こうなると、自分だけ不味いものを飲んだことが気に食わないからレナリーにも同じ気持ちを味あわせてやろうとでも思っているようである。そして事実、青年は半分くらいそう思っていたのである。
ぐいぐい押しつけられても拒絶するレナリーに業を煮やしたのか、青年はレナリーの頭を掴み、思い切りその瓶の口とレナリーの口をくっつけた。レナリーは口を一文字に閉ざしていたが、青年の力に敵うはずもなく瓶の口がレナリーの口内へと入れられた。どろっとした液体がレナリーの口内に入り込み、それは喉を通り、胃に落ちる。
すると、青年は瓶をレナリーの口から抜き出し、満足そうに笑った。レナリーはその液体の余りの不味さにむせながら、この人、嫌な人だ、と思った。
「どうだ? 治っただろ」
青年に言われ、まず何のことだろうと思ったレナリーであったが、その問いの答えにはすぐに思い至った。喉の痛みが消えているのだ。さきほどまでの傷が癒えていたのだ。
レナリーはまず驚いた。まさかあんな薬にそれほどまでの効果があるとは思わなかったのだ。青年の言うことが嘘ではないことはわかっていたつもりだが、ここまでの効果とは思わなかった。魔法によって作られた薬でも、ここまでの即効性を持つ薬など聞いたことがなかった。レナリーの住む村は確かに都から離れてはいるが、それほどまでに情報の伝達が遅いとは考え難い。魔法学の発展により、様々なものが開発され、情報の伝達のスピードも以前とは段違いになったのだ。
しかし、青年の持っていた薬ほど効果のあるものは聞いたことがなかった。そんな薬があるのであれば大ニュースになるはずであるが、そんなことはたったの一度も聞いたことがない。
「その薬は俺が以前いた国で開発された薬でな。俺もそれに協力したんだよ。感触と味はまだまだ改良中らしいが、それは俺の範囲外だ。だから、その時点でのサンプルをもらったってわけだ。一応は、現代魔法学の最先端技術の結晶だ。そんなもんを飲むことができたんだ。俺に感謝しろ」
青年は傲岸不遜な調子で胸を張った。いやはや謎は解けたが、こんな人がそんなにすごい人だとは微塵も思えない。しかしそれ以外にこの謎の答えはなく、つまりはこの青年の言葉を信じる他ないのである。
「なんで、そんな貴重なものを、私に?」
青年の言葉を聞いてレナリーがまず思ったのはそれだった。そんな貴重なものを何故自分に与えたのだろうか。自分はそんなに重傷でもなく、ただ喉が痛かっただけなのに。
その質問に青年が簡単に答えた。
「当然、俺がそうしたかったからだ」
無論、レナリーにとっては当然ではなかった。
「したかったから、って。どういうこと、なの?」
レナリーには青年の言ったことが咄嗟に理解できなかった。いや、咄嗟でなくとも理解はできないだろう。レナリーにとって、そんな貴重なものを『したかったから』などという理由で他人に、しかも今日初めて会ったような他人に与えるなど、考えられないことであった。
しかし青年にとってはそうではなかった。
「そのまんまの意味だ」青年は何故わざわざそんなことを訊ねるのか心底不思議なように言った。「俺がしたかったから。お前が傷に痛むのが我慢ならなかったから。俺が治してやりたかったから。感謝してもらいたかったから。あわよくば俺に好意を抱いてほしかったから。礼として何かもらいたかったから。偽善でも何でもいいから良いことをやったという満足感を得たかったから。あと、この不味さがどれほどのものか他人にも味わってやらせたかったから、とか。まあ見返りが欲しかったから、ってわけだな」
青年はさらっとそんなことを言った。それは青年の本音なのかもしれないが、もしそうなのだとしたらどれほど馬鹿正直なのだと思う。恥ずかしい言葉も、自分の欲望に塗れた言葉も、何でも正直に言った。成程それは確かに『したかったから』という理由ではある。
レナリーは困惑していた。これこそ当然である。感謝してもらいたい、礼として何かもらいたいとはっきりと言われるのは初めてであったのだ。いや、それは良いとしても好意を抱いてほしかった、など……。レナリーは顔を髪の色と同じように赤くした。そんなことを言われるのは初めてだったのだ。
誰でも他人に優しくする時はそういう『見返り』を心の奥底で求めるものであるかもしれないが、それを面と向かってはっきりと言われれば、困惑してしまうのは当然である。
「何、顔を赤くしてんだよ。俺に惚れたか? それはとてもとても嬉しいが、やめといた方が良いぜ」
青年は肩をすくめながら笑った。それを見て、レナリーは顔をむっとしかめた。
「そんなわけないじゃない。誰が、あなたのことなんかっ」
青年の言葉は冗談のように聞こえたし、実際、冗談なのだろう。そんなことはわかりきっていたが、それでも自分の言葉を抑えることはできなかった。その理由はよくわからないが、感情に理屈などないので気にしていても仕方がない。
「ん。そうか。なら、絶対にそうしておけ。俺はお前に好意を持ってもらいたいが、同時に好意を持ってもらっては困るからな」
「なっ……。わけわかんない。どういうこと?」
「俺の征く道は茨の道だからだ。俺は茨などで傷つくことはないが、俺以外の人間は簡単に傷ついてしまう。簡単に言えば、危険なんだよ。俺と共に、征くことは」
そう言った青年の顔は精悍そのものであった。その目に宿る意志は途方もなく強大であることが容易に感じ取れたし、事実、青年の意志は途方もなく強大だった。
何故か。それは簡単だ。
「あなたの、道って?」
「魔王を倒し、魔族を滅ぼし、人間の世界を治める。そんな道だ」
一言で言うならば、覇道。
それこそが、青年の意志だったからだ。
「はぁ? そんなこと、できるわけ……」
言いながら、レナリーは思い出していた。先ほどのことを。青年が一瞬でレナリーの村を襲った魔族を殺したことを。
「できる、わけ……」
それに、この青年は、あんな薬を持っていたじゃないか。最先端技術の結晶。それを手にするほどの実力。それが、この青年には、確かにある。
しかし、それでも魔王を倒すことなど、途方もない話であった。途方もない夢。叶うはずのない夢。
「だけど」
そう。だけど、信じたい。
叶うはずのない夢。そうだったとしても、信じたい。彼のことを。彼の言葉を。
何故、そんなにも信じたいと思うのだろう。レナリーは疑問を覚えたが、その答えは、すぐに導き出された。
魔族を滅ぼす。
それは、今のレナリーにとっても悲願そのものであったのだ。
自分ではできるはずもなく、だが、どうしてもあきらめられない。そんな夢。
それを、もしかしたら実現できるかもしれない人が。実現しようとしてくれている人が、今ここに、いるのだ。はっきりとした意志を持って、それを実現しようとしている人が。
それを、否定など、できるだろうか。
私の願いを、叶えてくれるかもしれない人を、否定することなどできるだろうか。
否定してしまっては何もできない。全ては信ずることから始まる。
私が信じなくて、誰が信じる。同じ願いを持つ者ならば、信じなければいけないだろう。それを叶えたいのならば、それを不可能と断じてはいけないのだ。自分の願いを不可能と断じてしまってはいけない。それでは、私は、何のために生きているのだ。自分の願いを否定して、生きる意味なんてあるのか。願いこそが生きる意味なのではないのか。
「……だけど、信じる。あなたが、魔族を滅ぼすって。滅ぼしてくれるって」
もちろん、自分にそれができるとは思ってはいない。
だから、託す。
「あなたの言う通り、私じゃ、あなたと共には行けない。だけど、だから、信じる。あなたが魔族を滅ぼしてくれるって。私の復讐を、してくれるって」
レナリーは真っ直ぐ青年に目を向けた。青年はその目を真摯に見つめ返し、鼻で笑う。
「お前の復讐? そんなもん、俺には関係ないな」
青年はレナリーに背を向け、その腰に携えた剣を鞘から抜いた。
「だが、背負ってやろう。その代わり、感謝しろ。俺に感謝しろ。俺を讃えろ。俺を褒めろ。この世にある全ての賛辞を俺に捧げろ。そうすれば、背負ってやる。お前の復讐を。魔族に殺された全ての人々の復讐を。憎悪を。怨念を。怒りを。恨みを。全ての負の感情を背負ってやる。そして、魔族を滅ぼしてやる。殲滅してやる」
青年は剣を掲げ、誓うように叫ぶ。
「俺の生は俺の為にある。故に、俺は俺の為に他の業を背負おう。他の悪意を背負おう。賛辞を捧げられることは、すなわち俺の願いの一つだ。故に、他の業や悪意を背負うことにより、他から賛辞を捧げられる為に、俺は他の願いを叶えよう。讃えよ! さすれば、俺はその為に力を尽くそう! 全ては我が欲望の為に! 夢の為に! 理想の為に! 俺は、魔王を倒す者だ。己の為だけに生きる者だ。俺は俺の為に、全てを背負おう! それを、ここに誓おう」
言い終えると、青年は剣を下ろし、レナリーの方を振り向いた。
青年は優しく笑っていた。
それにつられて、レナリーも笑った。