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9.脅迫

ペレウス、イスファハーン公の理想に感銘を受けたのち、

家出しようとするファリザードを脅迫すること

「やってくれたな、アーディル、あの(おおかみ)め」


 寄木細工(ハータム・カーリ)の椅子に腰かけ、前に立ったペレウスをひきよせてかれの耳の傷痕を検分していたイスファハーン公が、唐突に声を荒げた。

 父親のとつぜんの怒号に、室内にひかえていたファリザードがびくっと肩をこわばらせる。


 被害者側のペレウスものけぞりたくなったくらいである。イスファハーン公はジン族の例にもれず美形ではあるが、エルフ種には珍しいことにぽっちゃりした体型で愛想がよく、温和そうにみえる人物であった……が、その怒りにはさすがに齢四百年をこす妖王(マーリド)の気迫がこもっていた。


「責任をもってあずかった者に危害をくわえおって……〈剣〉め、ヘラスとの和平交渉などつぶれてかまわんとのつもりでやったのだろうが、そうはいかんぞ。こんど宮廷に出仕したとき、帝国に外交的失点をもたらしたと上帝の御前で糾してやる。

 ファリザード!」


 イスファハーン公はいきなり娘の名を呼んだ。部屋の扉を入ったところで子うさぎのように身を小さくしている彼女に、「なにをしている、ここへ来い」とさらに雷喝をあびせる。


「はい……父上」


 長い耳を力なく垂らして、死人のような顔色の少女がのろのろ父親に近づく。

 イスファハーン公は娘の頬を叩いた。力をこめてはおらず、叩かれた箇所がわずかに赤くなる程度の叩き方だったが、はっきりとはりとばした……ファリザードが、なめらかな頬をおさえて呆然としている。ペレウスは落ち着かない気分で父と娘を交互にみやった。かれはファールス語をひそかに身につけているため、父娘の会話はつつぬけなのである。

 イスファハーン公ムラードは、きびしく娘を詰問した。


「わたしはおまえに、日ごろの使節の応対のすべてをまかせた。それが真剣での決闘さわぎを起こしたあげく、こうなった。申し開きをしてみろ」


 頬をおさえたファリザードの瞳にみるみる水滴がたまる。二度目に見る彼女の涙に、ペレウスはいたたまれなくなってきた。


「わ……わたし……ヘラス人の接待役なんてしないって何度もいいました……それなのに、父上がきいてくれなかったから……」


「それでふてくされて、刀で歓待することを思いついたというわけか?

 みるがいい、ペレウス王子のこの耳を。この傷は一生残るぞ。直接手をくだしたのはおまえの伯父上の部下だが、これはおまえの愚かなふるまいに端を発したことだ。

 あのダマスカス刀はとりあげる。たぶん伯父上に突き返すのがよいだろう。ああいうものを持つのはおまえにはやはり早すぎた。自分の部屋に戻れ」


 盛大に雷を落とされたファリザードは「父上なんてだいきらい」とぐすぐす泣きながら出ていった。傲慢にそっくりかえっていたときの印象がのこっているだけに、自尊心をぺちゃんこにされた姿がなおさら哀れである。ペレウスは彼女に同情しそうになってきた。


(あいつ、たぶん悪いやつじゃなくて、中身が相当に子供っぽいやつなんだ)


 そう気づくと、昨日、修練場で耳をひきちぎられた忌まわしい事件の直後、ファリザードの手を「触るな、ジン族め」とふりはらったのは、ちょっと衝動的にふるまいすぎたようにも思う。

 あの瞬間は本心からそうしたのだが……イスファハーン公にこうして呼ばれ、眼前でファリザードが叱られるのをみたあとは、あまり彼女に恨みは残らなくなっていた。

 それに、かれの耳をちぎったのはジン族だが、治療したのもジン族の技術だ。貴重な植物を幾種類もつかって練り上げたどろりとした軟膏は、なんらかの魔術がこめられているのかとおどろくほどよく効いた。傷はいまも痛みはするが、すでに回復にむけて皮膚がはりはじめていた。


 イスファハーン公が、疲れたようにぐったりと椅子で背をまるめ、「ふだんからもうすこし厳しく育てるべきだったかもなあ」とぼやいた。


「状況は確認した。きみにも軽挙はひかえてほしかったが……だが、その傷についてはすまなかった、ミュケナイのペレウス。

 娘にはあのようにいったが、きみの怪我はわたしの責任だ。接待役をファリザードに任せた時点でまちがいだった。同年代の子たちと仲良くなれればよいと思っていたのだが、いっかなその兆しはないようだ」


「あのう……無理があったとおもいますよ。ご令嬢はあからさまにヘラス人を嫌っていますから」


「いや、あれとて最初からヘラス人にあれほどの拒否感を示していたわけではない……わたしの手伝いのために、ヘラス語をおぼえようとしてくれていたくらいだ。あれがああなったのは、きみたちが来るまえ、わたしが不用意にとある話を伝えたのが原因だ。

 ……まあ、その話はいまはいい。

 ファリザードは、わたしの宝だ。妻の命とひきかえにさずかった、わたしのはじめての女児だ。

 われわれジン族は、生まれてから二十年ほどは人族と同じように成長し、そののち肉体の老化が止まるが、いずれにしろ百歳未満であればまだ成熟しきってはいないとみなされる。十二歳というのは、昨日生まれた赤ん坊も同然なのだ。

 それもあってつい、あれのことは猫かわいがりにしすぎた。叱ったことさえほとんどなく、手をあげたのはさきほどのあれが最初だよ」


 顔をしかめてイスファハーン公は、分厚い手をにぎったりひらいたりしていた。叩いた手のひらのほうが痛いというように。


「そんな宝を手放してでも、わたしは人族とのあいだに和平を結びたいのだ」


「手放す?」


「ああ……ひとまず、あれをヘラスに留学にやることも考えている。

 各地をまわって見聞をひろめ、アテーナイやミュケナイの大学(アカデメイア)でそちらの文化と学問に触れるのがよかろう。きみたちの素晴らしい文明への理解をさらに深めれば、ファリザードはいくばくかの敬意をヘラスに払うようになるだろう」


 故国についてそういってくれるのはうれしかった――イスファハーン公のその言葉だけで、ペレウスの側でもジン族への敵意がおおはばにやわらいだ。

 しかし、ファリザードのあの様子では、まずヘラスへの出立からして納得しそうにないなとペレウスがひそかに考えていたとき、イスファハーン公は不思議なことをだしぬけに口にした。


「ペレウス王子、魔術師の宣告というものを信じるか?」


「せ――宣告? 予言のようなものですか?」


 ペレウスはとまどった。イスファハーン公は厳粛にうなずいた。


「そうだ、ファールス語では宣告(ホクム)だ。

 ジン族の古老には、わたしやホラーサーン公より古く……征服戦争のさらに以前、無道(ジャーヒリーヤ)時代から生きている者たちがいる。ファリザードが生まれる前、そのひとりに告げられたのだ。

 生まれるのが女児であれば、その子は人族とのあいだに信頼をきずき、いま起きている戦を終わらせる役割にかかわるだろうと。

 ばかげていると思うか? 思うだろう。じっさい、かれらの宣告は具体的なようでいて、ときに奇怪な道すじをたどり……ねじまがった結果をもって、強引に宣告の成就と呼ぶことさえある。

 しかし、この宣告はわたしの生涯の目的とあまりに合致しているのだ。人族とジン族が将来にわたって対立せずにすむ道を模索するのは、わたしの長年の願いだった」


 熱をこめてイスファハーン公は語りだした。


「人族は増加し、その文明は進歩し、いずれはわれらを圧する勢力に育つだろう。歴史の流れだ……それは止められない。何度没落しても、人族ははいあがってくるのだから。

 わたしは、ジン族は人の勃興をみとめて、融和の関係をきずかねばならないと考えてきた。われわれがまだ優位であるいまのうちにこそ、こちらから手を差し伸べておくべきだと。許すことは、われわれジンにとって苦手なものだが、われわれはそれを身につけねばならんのだ」


 ペレウスはぽかんと聞き入った。

 そんな構想を持つジンがいるなどと想像もしていなかった。だが理屈よりもなによりも、イスファハーン公の目の真摯な色が、ペレウスの疑念を大きくとりのぞいた。


(この人は本気でヘラスとの和平を願っている)


 けっしてジン族を信じ切ったわけではないが、イスファハーン公個人に対しては好意がふくれあがるのをペレウスは感じた。

 ひざを屈して和平を乞わざるをえないヘラス諸都市を、このひとならば温かく抱き起こしてくれるだろう。実質上の敗北といえど、和平は屈辱ばかりではなさそうだった。


「ぼくにできるなら、力のかぎりお手伝いします、ムラード様」


 使命感を胸に申し出たペレウスににこりと笑み、イスファハーン公はそれから眉をくもらせた。


「とはいえ、前途多難だがな……和平派に敵対する者が手ごわい。その政敵とはわたしの義兄だ。きみの片耳を奪ったホラーサーン公のことだ」


 そういわれて、ようやくペレウスはあの男がヘラスにも名がひびいている「皮剥ぎ公」ことアーディルだったと知った。高いわし鼻、無慈悲な声を思いだすと、背筋が氷をさしこまれたように冷えた。


「……失礼ながら、ファリザードと剣を合わせたとき、ジン族なんてさほど怖くないぞといったんは思ったのですが……そのあとに現れた、あの方たちは……」


「怖れるべきだ。その印象は正しい。今後、きみがどんな戦士になろうが、齢百年以上を生きたジンとは一対一では戦わないほうがよい。

 きみを傷つけたのは妖士(イフリート)イルバルスだ。かれは鋼の鎧の魚鱗(ぎょりん)を指でちぎる。正直なところかれは、血筋のおかげで妖王(マーリド)の位を得ているわたしより強い。妖王の名に恥じぬわが義兄にいたっては、そのイルバルスが四人いようと瞬時に斬り殺してのけるだろう。

 しかし、あの義兄の真の怖ろしさは戦士としての強さではない。

 かれは、和平と真逆のやりかたで、人族の脅威を未来永劫とりのぞこうとしている。征服し、管理してしまえという意見をもっているのだ。

 そして、帝国のジン族は、数をひかえめにみても半分以上がそれに賛成している。ヘラス人やヴァンダル人に復讐しろと叫ぶものたちは、喜んで〈剣〉を支持するだろう。

 わたしにしろ、もし近い身内から戦死者が出ていたら、けっして和平などいいださなかったかもしれない。なにしろジンというのは憎むのも愛するのも極端なのだ」


 〈剣〉がファールス帝国の上帝(スルターン)でないのは帝国以外の国の幸福だ――とかれはしみじみいった。


「義兄は、帝国でもっとも偉大なジンのひとりであり、同時にもっとも狂っているひとりだ。一面ではジン族らしさを煮詰めたような男であり、べつの一面ではまったくジン族らしくない妖王だ。

 具体的にあの男が体現するのは、ジン族の冷酷な面だ。これから上帝の命で、将軍としてのかれに掃討される砂漠の賊や、都市アレッポに国家をきずいているヴァンダル人がそれを思い知ることになろう。

 ヘラス諸都市もまたかれの残忍な刃に直面することになるまえに、すみやかに内側での意見をまとめ、帝国との和平を締結することをわたしは望んでいる」


  ●   ●   ●   ●   ●   ● 


 少年が退出したあと、ガラスをはめこんだアーチ状の窓枠のそばに近づき、イスファハーン公は不審げにうなった。


「しかし、上帝の意を受けての出兵? 陛下がこうも簡単に兵権を〈剣〉に与えたまうとは妙なことだ」


  ●   ●   ●   ●   ●   ● 


 イスファハーンを守る、赤茶色の長大な市壁。築かれた五つの門の、そのひとつの前である。


「お父上になにも告げてないんだろ? どこへ行くつもりだよ、こらっ」


「う、うるさい、手をはなせ!」


 巨大な石扉の内側で、ちょっとした騒ぎが持ち上がっていた。

 二十名ほどの衛兵たちがやれやれといわんばかりの表情をしている前で、ペレウスはファリザードの愛馬、黎明(サハール)の手綱をつかんでひきとめている。

 かれはこんどこそサー・ウィリアムに会うために市内に出たのだが、少ない小づかい(貧しい故国ミュケナイからの仕送り)の範囲で、食べるものをなにか持っていこうと市場で物色していた。ちょうどそこで、伴をぞろぞろつれたファリザードが馬にのって門の前に来るのが目に入ったのだった。

 市場のファールス人がささやき交わすのをペレウスは聞いた。いわく……


「ファリザード様、また遠乗りかねえ」


「しかしこんなときに砂漠に出るのはどうかね。せっかく〈剣〉が賊の討伐にいらしているんだから、それが済むまで待てばよかろうに」


「お館様に叱られでもしたのかね。昔から、すねたら乳母の村まで逃げる子だったからなあ」


「だれかお館様に注進してきたほうがいいんじゃないか?」


 首をつっこむのもどうかとは思ったが、「あれはわたしの宝だ」といったイスファハーン公の声が耳にのこっていた。怒られたことでファリザードがすねきって危ないところに行こうとしているなら、その父親のために止めなければならなかった。


「市壁の外は危険なんだろ? 賊がますます猖獗(しょうけつ)をきわめているっていうじゃないか!」


「賊も父上も関係ない! おまえはいちばん関係ない」


 まぶたを赤くはらしたファリザードは、頑固に見上げるペレウスから弱り気味に目をそらす。生まれてはじめて敗北したことで、ファリザードはかれに対して苦手意識を植えつけられてしまっていた。

 彼女はしょげきった声をだした。


「たのむから放っておいてよ。おまえはわたしを負かしたし、わたしが怒られるのもみたじゃないか。もう満足だろ? こっちはもうおまえになんか関わりたくない」


「ちょっ――なにその勝手な言い草! あの決闘さわぎもそれ以前も、からんできたのはそっちからだったろ!? それにどう考えてもぼくのほうがこうむった災難が大きいよ、耳は生えないんだぞ!」


「み、耳のことは悪かったと思ってる……手綱を放してってば! わたしは村に帰っている乳母に会いにいくだけだ! ちゃんと衛兵だっているし、賊が出没している方角とは真逆の方向にいくんだから」


「そうはいったって……」


 ペレウスはあることのために困惑した。


「……ぼくには勝者の権利がのこっている。きみに勝ったことの見返りをまだもらっていない。なのに、それを叶える前に留守にしてもらっちゃ困る」


 それを口にすると、ファリザードが、怖れていたことをやっぱりいい出されたとばかりの絶望的な表情になった――しかしペレウスは、この件では、もう斟酌(しんしゃく)してやるつもりはなくなっていた。

 少年はサー・ウィリアムを、ファリザードの権力――父親の七光りだが――をうまく利用して市壁の外に出すつもりでいたのだ。

 傷心の彼女が乳母のところに滞在して、しばらくイスファハーンに帰らないなどということになれば、それを待っている期間のぶんだけサー・ウィリアムが飢えかねない。底をつきかけているペレウスの小づかいではいつまでももたないのだ。


「せめてもうすこし人をつれていきなよ。ぼくも行く。すぐ支度するから待ってて」


「な……な……」突然の申し出に、ファリザードが口元をわなわなさせている。


(ぼくの荷物持ちとでもといつわって、サー・ウィリアムを今日、市壁の外に出そう。領主の娘といっしょなら、きっといちいち身をあらためられることなく検問を通りぬけられる。砂漠にでたら、適当なところでこっそり逃げてもらえばいい)


 ほんとうに検問を身元あらため無しで通れるかは賭けのようなものだ。だめだったならば、正直にイスファハーン公にわけを話し、騎士の安全を乞うという手もある。ただしそれもうまくいくかわからないし、本当に最後の手段だが。

 ファリザードが焦りながらもどうにか拒否しようとした。


「だ、だから勝者の権利だなんて、そんな厚かましいことわたしは承諾していない!」


 開き直られそうになって、ペレウスは窮した。そのあげく、


「……きみがいないあいだ、大きな声で触れ回ろうか? 領主の娘はじぶんから挑んだ決闘でヘラス人に負けて、しかも代償をはらうのをいやがって逃げっぱなしの卑怯者だって。きみへの評価は、領民のあいだで下落するんじゃないかな。

 『貴種の恥と民の恥とは平等の重さではない』だっけ? 領主の娘が醜聞をばらまくのはよろしくないよね」


 やけくそというか、駄目もとである。

 最後こそひどい事態になったが、あれはしょせん子供の喧嘩だったのだ。代償うんぬんとさわぐほど大したものではないし、ファールス人は慣れ親しんだ領主の娘の肩をもつに決まっている。そもそもペレウスは表向き、ファールス語を話せないことになっているのだから「どうやって触れ回るつもりだ」とつっこまれたら言い返せない。


 が、ファリザードはあっさり惑乱してくれた。微妙に泣きそうになって馬上から抗議してくる。


「そんなの脅迫だろ! 卑怯なのはおまえじゃないかあ!」


(あれ……おかしいな、ダークエルフというのは狡猾だって話だったんだけど……)


 こんな素直で大丈夫なんだろうかこの子――と、安堵どころか呆れすらとおりこして、余計な心配までわいてくる。

 以前、ちくちく皮肉る側にあったときはあれだけ小悪魔じみたひねくれ具合を発揮していたくせに、防御に回らされたとたん彼女はいっぱいいっぱいの有様になっていた。


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