4-8.蜜と香
ペレウスは戸口の横で、壁に耳をつけて息を殺している。
部屋のなか、もう何時間もかれはその姿勢で待ち続けていた。
――かつん。
壁の向こうで、ごくごくかすかに音が聞こえた気がした。廊下を渡ってくる何者かの足音……かつんかつんと速く、規則正しく、大またの歩きぶり。
(あいつだ。彼女だ)
ペレウスは断定した。
(焦るな)
自分に言い聞かせて、かれはすぐそばの椅子に手を伸ばした。背もたれをつかみ、よろけないように注意しながら椅子をたかだかと頭上にさしあげる。
(傷つけることになってもかまうもんか。あっちが先に、何度も僕に恥知らずな真似をした)
ペレウスは激怒している。
(殴り倒したら、すぐにこの部屋を飛び出してやる。閉じ込められるのはもううんざりだ)
かれが軟禁された部屋の分厚い扉は、奇妙な鍵がかかっている。
特定の合言葉を投げかけなければ開かないのだ。鍵かあるいは扉自体が、ジンによって細工された魔具なのだと思われた。
それがいかなる言葉なのか、ペレウスには知るよしもない。彼女は扉を開けるとき、ペレウスに決して聞かれないように注意してささやきかけていた。
……壁の向こうから聞き取れない程度にぼそぼそとささやき声がした。そして扉が開いた。ほぼ同時に、ペレウスは椅子を思いきり振り下ろした。
入室してきたルカイヤへと。
しかしルカイヤには、意表をつかれた様子はまったくなかった。彼女は、ちょっと顔をあげて落ちかかる椅子を見つめ――それから、部屋の外へすばやく半歩さがって椅子をやりすごした。
一撃をかわされて勢い余ったペレウスはつんのめった。その横でルカイヤが胴体をねじり、長い左脚を繰り出す。靴を履いた足裏が少年の腰にぴたりと貼りつき……
ペレウスは後方へ蹴りだされて椅子を手放した。
このときルカイヤが見せた足技は横蹴りだが、打つのではなくやんわり突き飛ばすのに近い蹴り方だった。戸口と反対側の壁に背中を打ちつけて、ペレウスは咳きこむ。
騎兵の軍服を来たルカイヤは、蹴った脚を軸足に引きつけ、片足で立つ構えを維持している。壁を背負ったかれを、彼女は冷徹なまなざしで見つめていた。
閨で味わう享楽を、かれに初めて教えたときと同じように。
喉の奥でうなり、ペレウスは彼女めがけて床を蹴った。
彼女の腹めがけてこぶしを突き出す。その突きをなんなくさばいて、ルカイヤはかれをまた蹴り飛ばした。
ペレウスはふたたび壁際までたたらを踏んで後じさる。ルカイヤは部屋に入ってきて、後ろ手に扉を閉めてしまった。
(ちくしょう。魔法の言葉を聞き出さないと出られなくなった)
あきらめずに再度打ちかかるペレウスの突きや蹴りを、彼女は切れのある動作でことごとく払った。
(なんていやな女だ。実力差があることを見せつけてるんだ)
おまえの攻撃はすべて無駄だと言われているようなものだった。
怒りがつのる。ペレウスは床のじゅうたんに転がる椅子をふたたび拾い上げた。かれが閉じ込められたこの部屋には、ほかに武器になりそうなものは何一つなかったのである。
意外にもルカイヤは、かれが椅子を拾うことを阻止しなかった。
踏み込んでペレウスは、横殴りに椅子を叩きつけた。
瞬間、彼女の肉体はかき消えた。椅子を振りぬいた姿勢で息を呑んだとき、獣のうなり声が足元で聞こえた。
あっと思ったときには、ペレウスは三本足の狼に飛びつかれていた。ルカイヤが『変化』した狼は、前肢でかれの胸を押し、かれののどをくわえこんで床に倒した。
それからルカイヤは本来のジンの姿に戻ってかれを押さえ込んだ。その手には、先端が輪になった拘束用の縄を持っている。
激しく暴れて、ペレウスは彼女をはねのけようとした。
(この女は『大力』の呪印を使わない。たぶん持ってないんだ……それなら、片腕のこいつに取っ組み合いで負けてたまるか!)
あいにく、ジンという種族は器用だった。それをペレウスはいやというほど思い知らされていた。この数日、いろいろな場面で。
床を転げまわる熾烈な格闘ののち、ルカイヤはかれを完全に組み敷いてしまった。息をはずませる彼女の、鮮やかな緋色の長髪が、ペレウスの顔面に落ちかかってきた。夕の光の差し込みのごとく。美しく赤くさらさらと。
ペレウスは無我夢中でその髪に噛み付いた。くわえたまま顔をねじり、ぐいと引っ張る。ルカイヤが痛みにくぐもった声を漏らし――
ごつん。衝撃がペレウスのひたいに降ってきた。髪を引っ張られたルカイヤが、正面から頭突きしてきたのである。
目が回り、ペレウスはぐったりと横たわった。ルカイヤ自身もひたいを赤くしてちょっと目尻に涙を浮かべている。
彼女はかれをうつぶせに転がして、後ろ手に縛った。
「暴れて気はすんだか。立て」
くらくらしている間に引き上げられ、寝台の前まで歩かされた。
ひざ裏を踏まれて、ひざまずかされる。上半身を寝台に伏せさせられた。
ルカイヤが背に覆いかぶさってきてペレウスをシーツに押さえ込む。豊満な胸部や引き締まった腹をぴったり密着させて、女の体が柔らかく圧迫してくる。
シーツに頬を押し当てたペレウスの頭上で、からんと乾いた音がした。顔を上げてペレウスは見た――煙をくゆらせる真鍮の香炉が、枕元に置かれたのを。
「……またその香かっ!」
ペレウスはわめいた。
『妖火』をもって点火した香を置いたルカイヤは、ペレウスのあごに手を回した。かれの首を後ろに反らさせて、
「そうだ。いつものようにたっぷり吸い込むがいい」
「やめろ。こんないかがわしい薬は大嫌いだ」ペレウスは歯ぎしりまじりの声を漏らした。
香煙が部屋に満ちはじめる。
あらゆる香りをごたまぜにしたかのような、濃厚な匂いだった。竜涎香と麝香と白檀の香り。熟れすぎた果物と腐った肉と花々の香り。熱病と阿片の夢と蒸発する酒の香り……
一呼吸ごとに、頭の芯までじんじんと、呪わしい麻痺がしみとおっていく。
四肢から力が抜ける。激しい運動の直後の煮えた血が、急速に、別の種類の熱にすり替わっていく。なぜかよだれがごぽりと口内にあふれた。
「〈ザフィーヤの香〉だろ、これ……」
あえぎ、唇を濡らしながら、いまいましいその名を吐き捨てた。ルカイヤがわずかに動揺の気配を伝えてくる。
「知っているのか」
「知ってるとも。あんたが僕にやってることがその名高い淫婦と同じだから、思い出したよ!」ペレウスは怒鳴った。
愛で狂ったジンの女ザフィーヤの話。それをかれは、以前に白羊族の若者ホジャに聞かされたことがあった。
三百年前、シャイバーニー家の女当主ザフィーヤという、美しく誇り高いジンがいた。医学をはじめとする学問に通じ、独身の女でありながら名家を継ぐことを認められた才女であった。しかし彼女は、こともあろうに自分が所有する人族の少年奴隷ハウカル相手に『ジンの愛』を目覚めさせてしまう。女主人に愛を告げられた奴隷ハウカルは、身分違いにおびえたのであろうか、彼女をかたくなに拒んだ。絶望した彼女はみずからの手でハウカルを殺し、以降、精神に変調をきたした。その性的嗜好は大きくねじまがった。
ザフィーヤは女といまだ寝たことのない人族の少年奴隷をつぎつぎ買いつけた。それらの奴隷を決まってハウカルと名付け、一ヶ月ほど愛玩したのち、毒で殺した。一説によればそれは毒ではなく、少年たちに至純の官能を与えるための薬であったともいう。強すぎる効果により、被服者は法悦の極みで心臓を停止させることが避けられなかったのだと。
三百二十三人目の「ハウカル」――のちの偉大な航海者バード――が、彼女に買われるまで殺戮は続いた。バードは自分と心中してくれるよう彼女をかき口説き、先に毒を飲ませることに成功したのである。
彼女は手記を遺した。〈逸脱者ザフィーヤの書〉と呼ばれるものがそれで、少年を責めるための手管が詳細に書き連ねられているという。肉体への効果的な愛撫法、精神の折り方や欲情の煽り方、器具や媚薬に至るまでを網羅しており、天下の奇書とされている。
そのなかに記された薬のひとつに、心身の力を剥ぎ取り、理性を弱めるという香がある。
〈ザフィーヤの香〉と呼ばれるそれこそが、ルカイヤがこの部屋に持ってくるものだとペレウスは確信していた。
(ホジャさんの話を最後まで聞けばよかった。どうやればこの香の効き目を拒めるんだ)
朦朧としながら、ペレウスは後悔していた。
猥談が苦手なかれは、顔に困惑を浮かべて、ホジャに別の話をしてもらったのだった。まさか自分に使われるなどと思ってもみなかった。
「人族の男児に女を教えるなど、おれにとってもはじめて行うことだ」ルカイヤが生真面目に言う。「万全を期してアーガー卿の図書室で調べてみたが、〈逸脱者ザフィーヤの書〉くらいしか手引書がなかったのだ」
「そんなことを調べるな、こんな香を調合するな! 死んだらどうするっ」
「〈ザフィーヤの香〉は死薬ではないはずだ。それに貴様にだけこの香を嗅がせているわけではない、おれも毎回嗅いでいるのだぞ。……よしんばふたりそろって死んでもそれだけのことだ」
(そうだった。もともとのこいつの目論見に沿うんだ)
ペレウスを堕落させるか、もろとも死ぬかでルカイヤの目的は達成されるのだ。かれに最大限の義理を通しつつ、ファリザードとかれを引き離すという目的が。
――ファリザード様をあきらめろ。埋め合わせならしてやろう。
――貴様のため、夜ごとに歌を唄ってやろう。骨までとろけるような快楽の歌を。
――約束しよう。すぐに貴様のほうからおれを求めるようにしてみせると。
ルカイヤは最初にそう言った。
そして彼女は、その誓いを守るべく全力を尽くしているのだ。
(なんて女だ。本当に、真面目なやつがとち狂ったらどうしようもない)
ルカイヤの言うとおりになどなるはずがない、と笑いとばせれば楽だったろう。しかしこれは愛の技術に長けたジン族の全力であり、彼女の誓いは、けっして成算のない大言壮語などではなかった。
そういうわけでペレウスにとっては、きわめてやりにくい戦いになっている。
これまでペレウスという少年は、苦痛という石臼をもってしても砕かれることはなかった。しかしルカイヤが責めに使うものは石臼ではなく、蜜だった。漬け込まれると暴力的なほどの甘さが肉身に食い入り、精神をむしばむ……そのような蜜のなかで、ペレウスは溺れさせられている。
「今日も、そろそろ始めよう」
そっと言うと、ルカイヤはかれの首筋に顔を伏せて口づけしてきた。うなじが吸われ、甘咬みされ……同時に、脇腹を彼女の手が撫で下ろしてくる。ペレウスは快感にぞわっと鳥肌を立てた。唇を当てられるたび脊髄にわななきが走る。歯をくいしばっていたはずが、いつのまにか切れ切れの声が漏れていた。
(大嫌いだ、大嫌いだ、大嫌いだ。こんなことすべて大嫌いだ)
ペレウスはいまやほとんどルカイヤを憎悪していた。与えられる愛撫を憎んだ。彼女が用意するこのような香も。かれを閉じ込めたこの部屋も。日に二度かれの世話をしに訪れる耳の聞こえない奴隷たちも。すべてが怒りの対象になっていた。
とりわけ腹立たしいのは、彼女の愛撫にいちいち反応する自分の体だった。
「おれが憎いか……?」
見透かすように、ルカイヤが口づけの合間にふと言った。
優しくなくもない言い方で。
「憎みながらでかまわぬ。それでも身を、いまはただ感覚にゆだねていろ。体の内からわきおこる歓楽は、唯一神が被造物にお与えになられた自然の喜びなのだから……神にたまわった慈悲をすなおに受け取るのも、被造物としてのつとめだ」
かれのシャツの前に回された彼女の手が、さらに下、ズボンのほうへと下がっていく。ペレウスは弱々しく罵声を吐いた。
「ほら……もういつもどおりだ。意志はともかく貴様の体は、おれがこの部屋を訪うのを期待するようになってきている」彼女の低いささやき声には、冷たい分析と、妖しい甘みがにじんでいた。「それにしても……」
もぞ、とルカイヤが腰をよじる。自身も熱に浮かされたように。
「ん……香の効き目がけっこうきつい、な……」
双方の意識がますますとろけていき、感覚だけが鋭敏になっていく。
ペレウスはあごをぎりっと食いしばり、理性を懸命につなぎとめようとする。
どう言われようとも、あきらめて快感に身をゆだねる気はなかった。最後にはどうせ無駄になる我慢でも、しないよりはましだと思われた。堕落の階段を一歩ずつ下りるつもりはなかった。
(でももうだいぶファリザードに申し訳が立たない状況だ……何が何でも、早いうちに逃げ出さないと)