4-7.同盟
戦闘が終わったあとのことだった。
解放されたダシュトの、城門そばの庭園。入城したファリザードがそこに馬を入れて休んでいたときである。トゥグリルが伝えてきた。
「ガージィ卿がお目通りを願っております」
彼女の側について戦った〈粉ひき〉家門の当主は、頭を垂れてひざまずいた。
「少し前、テヘラーンで貴女の意に添わぬ真似をしたことをお許し下さい、ファリザード様。遅まきながら、どうか哀れみを乞わせてください」
「なにを言うのだ、ガージィ卿」
鷹揚に笑みを浮かべ、ファリザードは手を振った。度量をしめすべきだとわかっていたし、戦勝で心に余裕があるのも確かだった。
「戦場に出る前の言葉よりも、戦場での行動こそがより雄弁に語る。聞けばこのたびの戦いでは、卿の活躍は目覚ましいものだったそうではないか。みずからの一門に敵対してまでわたしの軍のために戦ってくれたあなたには感謝と敬意を払おうではないか。哀れみなどは最初から必要ないものだ」
「もったいないお言葉を……ですが……哀れみは私のためにではなく」
ガージィは声をつまらせ、より頭を深々と垂れた。
「わが一族にご寛恕を。死罪だけはなにとぞお許しを」
ファリザードの表情を困惑がいろどった。
「ええと……それは……難しい問題だな」
ひざを屈した者を許すのは簡単であるが……
(かれらは負けたあと、降伏すら拒んで逃げだしているのに)
「なにとぞ、ファリザード様。愚かな反逆者であってもわが血を分けた肉親たちなのです。お聞き届けくだされば、今後は貴女さまに絶対の忠誠を捧げましょう。日輪と月輪にかけて、誓います」
食い下がられたファリザードは始末に困って顔をあげた。周囲のトゥグリルやカイスの顔を見回すと、かれらの顔も難しげにしかめられている。
「反対です」
冷ややかに声をあげたのは、〈油売り〉の当主タバリーだった。
「反逆者たちが助命されていいものでしょうか? ダシュトの城壁の上には、ちょうど首をさらす杭がたっぷり空いていますよ」
「タバリー、黙っていろ。薔薇姫の下す裁きにしたがえ」
バハラームが地響きのように重いうなりをあげた。
目を閉じて、ファリザードは下唇を噛み締めた。
生かしておけば〈粉ひき〉たちはふたたび敵となるだろうか? すでに一度反逆したのだ、なるかもしれない。だが……
(ガージィ卿の忠誠は手に入らないだろうな)
ジンの血の恨みは解きにくい。ガージィの頼みをしりぞけて〈粉ひき〉たちを処断すれば、いずれガージィ自身が敵に回る可能性がある。
〈剣〉であれば、迷わず反逆者たちの皮を剥ぎ、ガージィがどう思おうが意に介さないだろう。サマルカンド公家であれば〈粉ひき〉の血を引く者を、ガージィを含めて全員殺し、禍根をすっぱり断つだろう。
(けれどわたしに、伯父ほどの強さはない。そしてサマルカンド公家ほど残酷になれば、多くの者を幻滅させるだろう)
彼女は目を開いた。
「……〈粉ひき〉たちのうち、二つの条件を受け入れた者は命を助けよう。降伏してイスファハーン公家への忠誠の誓いを新たにすること、そして〈油売り〉にもう手を出さないことだ。日輪と月輪にかけて誓ってもらう。
〈油売り〉も同じことだ。〈粉ひき〉に報復してはならない」
ファリザードが言い渡すと、ガージィは「その条件でかまいませぬ」と即座に飛びついた。
眉を寄せて不満もあらわな表情となっているタバリーをちらと見て、ファリザードは言い添える。
「まったく罰なしというわけにはいかない。〈粉ひき〉の一族は、現在の領地アリアバードを手放して移住すること。〈油売り〉たちに賠償としてアリアバードの半分を渡す。〈粉ひき〉たちには代わりに別の領地を与えよう。未開発の土地だが、新しい地下水路を通せば、何十年かあとにはアリアバードと同じくらい豊かになるはずだ。
だれか馬を飛ばして、追撃部隊に伝えるように。〈粉ひき〉たちを可能な限り殺さず、生かして連れてくるようにと」
かくして、ひとまずこの問題にはけりがついたかに見えた。
しかしほどなく状況は急変した。
日が沈む前に、追撃に出ていた一隊が戻ってきたのである。「もう捕らえたのか?」驚いてファリザードは問いかけた。彼女の前にやってきた兵士は、妙に青ざめており、口ごもりながら、
「ファリザード様……あの……まもなくかれらが来ます」
「……かれら?」
「サマルカンド公家軍が。われわれはかれらに出会いました。『戦いたくはない。イスファハーン公家に味方する。戻ってわが意をファリザード姫に伝えよ』とラーディー公がみずから言いました。かれは軍を合わせてともに〈剣〉と戦わないかと申し出てきております。補給を肩代わりしてくれるならば、全面的にこの軍に協力すると」
その知らせがもたらされたことで、ちょっとした騒ぎが起きた。
「まさかあのサマルカンド公家があちらから合流を望んでくるとはな。で、どうする。先に手を差し出されたわけだが……まだ連中と戦うつもりか、雄鶏野郎」
皮肉っぽくバハラームがトゥグリルを見つめて言った。両者はそれぞれ、サマルカンド公家に対する方針において、和平か戦闘かで対立していたのである。
「聞きしに勝るな、やつらの利に汚いところは。こちらが一勝あげたとたんになびいてくるとは」
顔をしかめて吐き捨てたトゥグリルだが、「業腹だが、同盟の申し出を受け入れるしかあるまい」とつぶやいた。
「とにかく、わが軍の戦力はこれで飛躍的に増える。それを無視するわけにはいかぬ。ただ……ファリザード様、くれぐれも連中に気を許しはしませぬように」
「む、無論だ」
ファリザードはうなずいた。だが彼女がその警告をほんとうの意味で理解したのは、かれらがやってきてからだった。
夜が来ていた。篝火が門楼の上に焚かれはじめ、ダシュトの城門前が照らされる。
跳ね橋の内側でファリザードたちは待つ。
堀の向こうに、遊牧民の騎兵たちが続々と集まってきていた。部族ごとに旗がひるがえりはじめ、それはしだいに数を増やしていった。
やがて、奴隷によってかつがれた輿が運ばれてきた。輿には、片目に眼帯をはめたジンの貴公子が座っていて、愛想よくにこりとした。上等な草色のマントを羽織ったそいつは名乗った。
「僕がサマルカンド公ラーディーだ。
お見知り置き願おう、薔薇の公家のファリザード姫」
柔らかく上品な物腰は、育ちの良さを感じさせた。にもかかわらずファリザードは、かれに不安を強く抱いた。
(こいつ……だいじょうぶか?)
ラーディーはふらふらと頭を振っていた。酔っているのかと思ったがそういうわけでもなさそうである。その隻眼は、ファリザードのほうに向けられながらも、どこか遠くを見ているようだった。茫洋として定まらず、たまに焦点を合わせてくるのである。
とりあえずファリザードは口を開いた。
「ラーディー公だな。わたしたちと同盟を組みたいとのことだが」
「そう、そう」
おっとりとラーディーはうなずいた。
「反乱した貴族にみごと勝ったじゃないか。あれで感心したから、きみと手を組むことにしたんだよ」
「それは嬉しいな。欲を言えば、反乱鎮圧に手を貸してくれればもっと嬉しかったがな」
「悪いねえ。そのかわり、ちゃんと手土産を持ってきたんだよ。受け取ってくれると嬉しいな。ところでこちらは、わが信頼する将にして親衛隊の長、黒羊族長クルズルク」
ラーディーが紹介したのは、顔に交差する傷のある若い男だった。ファリザードはその人族を見て不快感を押し殺した。そいつの目つきがひどく気に入らなかったのである。
クルズルクという男は彼女をじろじろ見つめ、「なるほど。これは……美しいお方だ」舌なめずりしそうな様子で言った。「なんと甘く、柔らかそうな果実であることか」
だがファリザードの気分をもっと悪くさせたのは、そいつが腰にさげた飾りだった。
赤いしずくをしたたらせ、ぶんぶん飛び回る蝿を何匹もまといつかせた、丸く大きな……
「……それは? ジンの首のようだが」
「さっきまで貴女が戦っていた相手だよ、姫。わが軍には軽騎兵が多い。追撃戦ならお手のものさ」
ラーディーが答えたとき、悲痛な叫びがファリザードの後方から聞こえた。
「ヌーフ!?」
生首を見て叫んだのはガージィだった。かれは衝撃を受けた様子でよろめき、がくりと地面にひざをついた。
馬から下りたクルズルクが、ヌーフの生首をこれみよがしにかかげる。
「あんたから逃げて東に向かおうとしていた〈粉ひき〉どもだ。わが軍の騎兵で追い回して殺してやったよ。全員ね」
見れば首を腰に下げているのはかれひとりではなかった。黒羊族と呼ばれた騎馬部族の何十人かが、腰にジンの首を下げていた。男の首、女の首、そして二名の幼児の首……
「女と子供は残しておきたかったんだが、なにしろどいつもこいつもしぶとく抵抗しやがるのでね。まあいいさ、女子供の肉は柔らかくて美味い」
クルズルクが舌なめずりし、ラーディーが言った。
「さあ薔薇姫よ、受け取ってくれたまえ。われらから、同盟のための贈り物だ」
真っ青になってファリザードは後じさりかけた。彼女の左右の肩を、背後のトゥグリルとバハラームがそれぞれがっしりとつかんで支えた。
すさまじい沈黙が場に満ちた。
ファリザードの脳裏に、かつて歴史書で読んだ、ジン族を悪しざまに形容する詩のひとつがぐるぐると巡った。
残忍性の極み無く、
敵と味方の隔て無く、
拷問そして死を運ぶ……
(サマルカンド公家はまちがいなく、この悪評について責任の多くを負うべき連中だ)
静寂を破ったのは、ぎぃぎぃと軋む車輪の音だった。
檻付きの荷車が、二頭の雄牛に牽かれて場にやってきていた。
ごとんとそれが停まる。
鉄の檻のなかに横たわっていたのは、裸のジンの男だった。
檻は小さいが、その体は問題なく収まっていた……小柄だからではない。四肢が半ばから焼き切られていたからである。炭化した四肢の断面から、黄色い膿が無数のしずくとなってにじみ出ている。膿と汚物の悪臭が立ち上っていた。
「兄さん、前にあんたが言っていた子のところに来たよ。ファリザード姫だ」
ラーディーが親しげに檻にささやきかけた。
吐き気と戦慄をこらえてファリザードは、檻のなかのジンを呆然と見やった。
(『兄さん』……では、これが、先のサマルカンド公ティムール……)
四肢を失ったティムールは、恐ろしいことに、生きていた。かれは薄く目を開けて朦朧と彼女を見、また目を閉じた。
「ファリザード姫、この都市でわが兄を治療させてほしいんだけど」
あいかわらず焦点の合わないまなざしを、ラーディーは彼女に向けた。「いま死なせたくないんだ。この兄をまだまだ責め足りないからね」
ファリザードは、自分が冷や汗を流していることに気がついた。檻から目をそらすと、黒羊族の腰のベルトにつけられた〈粉ひき〉たちの首が目に入った。
また吐き気がした。
(さっきの戦いで、もしもわたしが負けて逃げていたら……いまこの檻のなかに入っていたのは、あるいはこうして首にされていたのは、わたしだった)
気づかざるをえなかった。ラーディーたちは、彼女と〈粉ひき〉の戦いをただ静観していたのではない。最初から、負けた側に追い打ちをかけるつもりだったのだと。
このとき、ファリザードをはじめとするイスファハーン公家軍の面々は、ひとつの思いを共有していた。
“本当にこいつらと組んでいいのか?”