4-6.ダシュト解放・本戦〈下〉
かつて伯父に聞いたことがあった。
『正攻法だろうと奇策だろうと、必ず勝ちたいならば敵の行動を読め。
それが難しいならば、敵がこちらの思惑に沿って動くよう手を打て』
中央の本陣、衛士たちに囲まれたファリザードは戦場を見わたす。左翼ではトゥグリルが敵歩兵集団に切り込んで蹴散らしており、右翼ではバハラームの部隊が盾で矢の雨を防ぎながらじりじり前進している。
ファリザードは黎明の鞍の上でつぶやいた。
「いまのところ、全体的には押しているように見えるな」
「はい。このまま勝てるでしょう」そばで衛士隊長であるカイスが勢い込んだ。「トゥグリル卿が敵右翼を崩し、バハラーム卿が敵左翼をじわじわと半包囲しつつあります。中央の本隊はこのままひた押しするだけで勝ちは転がり込みます」
「そう願う」
(勝てる、きっと勝てる。わたしたちは〈粉ひき〉の軍の三倍。まして敵は烏合の衆だ)
〈粉ひき〉の雇った傭兵どもは、雇われてすぐ戦場に出たばかりだった。配置すら熟考されたものではないだろう。相互の連携が満足にできようはずもなく、かれらはばらばらに戦っていた。
しかし……個々の隊ならばじゅうぶんに手強い。イスファハーン公家軍の練度不足の歩兵たちなど、相手にもならないだろう。
粘られれば、こちらの中核であるジン兵にも犠牲が出かねない。
(少しでも犠牲を減らして勝ちたい)
「それにしても……砂ぼこりがひどい。戦場がよく見えなくなってきたぞ」
ファリザードはむずむずする鼻をこすり、目を細めた。
空気がいやに乾いていた。砂漠の地で砂塵がひどくなるのはおもに乾季の夏だ。だがこの冬の日は、季節外れの乾燥が砂をもうもうと舞い上がらせていた。
砂塵は、遠景をかすませるだけではなく、この本陣にまで流れこんできている。
くしゃみのあと、本陣の背後を彼女はあおいだ。
すぐ後ろに低い丘がある。その頂上に立てば眺めはいくらか澄んで見えると思われた。
「最後まで戦場をきちんと見ておきたい。あそこに行こう」
カイスに言い、ファリザードは黎明を駆って丘に登りはじめた。
「ファリザード様、ご自身でそこまでしなくとも……」
「わたしの気のすむようにさせてくれ」
(わたしは戦士としては役に立たないから)
ファリザードは自身の弱点を自覚している。古老ジオルジロスにかつて言われたことがあったからだ。
(わたしはこの手で直接、ジンや人を殺すことが怖い)
だからせめて、将としては最善を尽くしたかった。戦況を把握するくらいはやっておきたい。
木のほとんど生えていない小さな丘に馬を進める。半ばまで上ってから振り向いた。
やはり、戦場全体の砂ぼこりがひどい。特にそれは〈粉ひき〉の軍から発生しているようだった。
(もしかして、〈粉ひき〉の連中、わざと砂塵を起こしているのか?)
考えられることだった。〈粉ひき〉の軍は風上にいる。砂まじりの風を背負ったほうが有利になるのは、乾燥地の戦闘の常識だ。
(しかし、今日の風はそれほど強くない。こっちの数の優位をくつがえせるほどじゃないぞ。これが〈粉ひき〉どもの策だというならたいしたことはない。わたしの策にとってむしろ好都合……)
『敵がこちらの思惑に沿って動くよう……』
〈黎明〉の足をぴたりと止め、ファリザードは丘へと上るのをやめた。急速に疑惑がふくらんだ。
(勝ちたいと願うのも策をめぐらせるのもわたしだけではない。敵だってわたしを誘導しようとするに決まってる……この砂煙を起こして、〈粉ひき〉どもはわたしになにをさせようとした?)
まさにいま、彼女がしようとしていることではないのか。
高所への移動。
砂ぼこりが少なく、戦場全体を見渡せる場所に総指揮官が立とうとすること。
「ファリザード様! 危ない――戻って!」
カイスの叫びと、異様な風切り音がファリザードの耳に届いた。
「小娘への狙撃が成功すれば、われわれの逆転勝ちだ」
ヌーフは〈粉ひき〉本陣で、砂ぼこりに咳き込みながら告げた。軍馬の尾に箒をくくりつけさせまでして、砂ぼこりを立たせている。
かれは一族でも一二を争う射手に、魔弓に加えてダマスカス鋼の鏃の矢を渡した。分厚い板金の鎧やかぶとすらも、チーズを射るかのようにぶちぬく矢だ。
射手は『隠形』を使い、戦闘の混乱に乗じて本陣の裏に回った。いまごろは丘に潜んでいるはずだ。ファリザードが近寄ってきたとき、そこを射ることになっている。
総大将を失えば、イスファハーン公家軍は士気とともに隊列を崩壊させるだろう。でなくとも退却するはずだ。
雇った傭兵隊の全軍が〈粉ひき〉にとって、陽動部隊にすぎない。
(高所に立て、ファリザード。そして射られて死んでしまえ)
まもなく砂煙の向こうから、勝利の知らせが届くだろう。
よしんば死ななかったとしても、この煙幕の追い風があれば、イスファハーン公家軍も苦戦するはずだ。どうせ一丸となった作戦などとれない寄り合い所帯だが、個別にならば傭兵隊は強い。
(なるべく小娘の軍に出血を強いて……)
すさまじいざわめきが砂煙のかなたで起きた。
つぎつぎにそれは戦場に広がっていく。全軍が震えるほどの衝撃が起きたのだと知れた。
(来た!)
ファリザードの死という吉報をつかの間ヌーフは幻聴した。
……だが駆け抜ける伝令兵が叫んでいたのは、まったく別の内容だった。
「サマルカンド公家軍が来た!」
殴りつけられたようにヌーフは棒立ちになり、それから呆然とつぶやいた。
「なんだと?」
(来るはずがない。あんな計算高いやつらが、小娘に請われたところで来るはずがない。嘘だ。その知らせは嘘だ)
あえいで否定したヌーフは、(いいや、もしかしたら、われわれの助けになるつもりかも)と都合のよいことを考えた。(そうだ、むさぼり食う部分が大きい獲物は、明らかにわれわれではなく小娘のほうではないか。乱入したサマルカンド公家軍は、イスファハーン公家軍に攻めかかったのでは?)
その希望を、戦闘の現場から響いてきた叫びが木っ端微塵に砕いた。
「サマルカンド公家軍がイスファハーン公家の援軍に来たぞ!」
敵味方の双方に周知させるように。
砂煙でよく見えないなか、大混乱がはじまった。ヌーフはそばの物見櫓に飛びついて上り、戦場を見渡した。
南側から、五百ばかりの騎兵の一団がかれの軍の左翼に突撃をかけていた。
効果は如実にあらわれていた。〈粉ひき〉軍は突撃を防ぎつつも、見るからに浮足立ちはじめていた。後方の傭兵隊の一隊は、はやくも武器を捨てて潰走をはじめていた。べつの一隊は整然と行進して退却しはじめていた……どちらも要するに逃げだしたことに変わりなかったが。ほどなく全ての隊が逃走に移るだろう。
二公家の軍を相手にして勝てるはずがないと、傭兵たちはよく知っている。踏みとどまって〈粉ひき〉のために玉砕する義理はかれらにはない。
(負けだ)
憤怒に燃えて〈粉ひき〉の長ヌーフは罵声をあげた。
「あの小娘め。ほんとうにサマルカンド公家軍にすべてを差し出して武力を買ったか、恥知らずめ!」
だが戦場をにらみつけるその表情は、あることに気づいたとき怒りから驚愕に一変した。
「なんだと」
呆然とつぶやいたのち、ヌーフは叫んだ。崩れつつある眼下の味方へと、金切り声で。
「――ちがう、偽物だ! 戻れ、兵ども!」
横合いから突入してきた部隊は、たしかに騎馬部族だった。ただし、それは先頭の百名ほどでしかなく、大部分が白羊族という部族だ。ファリザードに手を貸しているという連中である。さらに先頭の二十名ほどが別の騎馬部族の服装だが……残りはすべてイスファハーン公家の騎兵だった。
ヌーフにはいまや真実が見えていた。
「ぺてんだ、まやかしだ、馬鹿者ども! あれはサマルカンド公家軍などではない! あれはただの敵の別働隊だ! 戻れ! 戻って戦え!」
足を止めた傭兵隊もいた。しかし、逃げ散る傭兵たちのほとんどは聞いていなかったようだった。どのみち、一度背を向けて逃げはじめた軍がふたたび戻って隊列を立て直すのは不可能に近い。かれらの足は止まらず、ヌーフの怒号は虚しく響いた。
「どうやらうまくいったな。損切りの判断が速い傭兵どもで助かった」
崩れてゆく〈粉ひき〉軍を見ながら、ファリザードはほっと息をついた。
先ほど狙撃された彼女は、雰囲気のぴりぴりした衛士たちに囲まれて厳重に護衛されている。
狙撃された瞬間、彼女はとっさに鞍に伏せて矢をかわすことができた。暗殺という敵の思惑に気づいた直後だったためである。矢は一瞬前までファリザードの小さな頭があった虚空を飛び去り、木の幹に矢羽のあたりまでふかぶかと埋まったのだった。
その狙撃手はいまごろ、カイスをはじめとするジン兵に追いつめられて捕らえられるか討たれているだろう。
(殺されるところだったけど、とにかくあっちの策は失敗した。そしてこっちは成功した。楽に勝てるにこしたことはない)
戦闘の前、彼女はサマルカンド公家軍の陣に向けて、馬に乗った護衛兵をともなう「使節団」を放った。しかし、その使節団は陣には着くことなく途中で引き返す手はずになっていたのである。
『戦闘がはじまったあとに戦場に駆け戻ってきて敵の横腹に突っ込め。捕虜から脱がせた服を着て、さもサマルカンド公家兵のような顔をして。サマルカンド公家軍だと名乗りをあげて』
それがファリザードの命じたことだった。
使者を出したという情報が敵軍に漏れていたことが、この奇襲の成功率をかえって高めた。〈粉ひき〉の傭兵たちはサマルカンド公家軍の参戦の可能性に戦々恐々としていた。だからこそこれほどまで過敏に反応したのだ。
この日の戦闘でイスファハーン公家軍が出した犠牲は、重傷者を含めても二百にも満たなかった。〈粉ひき〉の一族はその大半が馬に乗って東に逃げ去った。すぐさま追撃隊が組織される一方で、包囲されていたダシュトは解き放たれ、歓呼のうちに城門を開けてイスファハーン公家軍を迎え入れた。
ファリザードは最初の困難を切り抜けたのである。