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ジンニスタン 砂漠と海の物語  作者: 二宮酒匂
帝位簒奪者対公位僭称者
83/90

4-2.自由の身短し

 おびただしい血が寝台からあふれてじゅうたんまで濡らしている。

 都市テヘラーンの領主アーガー卿の館。爽やかな朝の光が採光窓から差しこんでくる室内――だがそこには、ペレウスがすっかり嗅ぎ慣れてしまった赤い臭いが満ちていた。凄惨に汚れた寝台を見つめてまばたきし、青ざめていたペレウスは眉根を寄せた。

(どこに消えたんだ、〈虚偽〉(ドゥルジュ)の体は? まさか生きていてひそかに出て行ったのか? ……この血の量を見るとそうとは思えないけれど)

 死にかけていたジンの女の体は、昨夜横たわっていた寝台から完全に消え去っていたのである。

 大量の血痕をあとに残して。

(いや……血だけじゃあない。なんだこれは――宝石?)

 赤染めのシーツの上には、一個の球体が転がっていた。大きさは鶏卵ほど――ルビー(ヤークト・サルフ)のごとき血紅色の、それはつややかな妖しい石。

 血溜まりで滑らないように注意しながら寝台に歩み寄り、ペレウスは球体を手にとってみる。血を弾くなめらかな球面はほのかな熱を孕んでいた――ちょうど生きた肌のぬくみのように。

 〈虚偽〉のささやきが脳裏によみがえる。

『あとになにが残っていようと、それをあなたが持っていて、王子さま』

 このままファリザードに渡してどこかに保管してもらったほうがいい、と理性がささやいた。

 どうせ地下神殿で〈虚偽〉が口にした遺言は、とうにルカイヤがファリザードに伝えてしまっているはずだ。そしてファリザードがこれをすんなりペレウスに持たせたままにしてくれるとは思えなかった。どんな危険があるかわからないものを持たせておけるか、と彼女は言うに違いない。

 それに実際、客人にすぎない自分が厄介事を一人で抱えこむべきではないのだ。

 だが……ペレウスはため息をついた。

(僕に持たせておいてくれとファリザードに言おう)

 どんな腐れ縁でも、一応は縁があった相手であり、その最期の願いである。むげにするのもためらわれた。

 一歩引いて血溜まりをつくづくと眺める。

(それにしても謎ばかり残していく奴だった)

 だれかに聞くべきだろうかとペレウスは思った。ジンの死にともなってこのような現象が起きるのは、はたしてよくあることなのかを。

 その機会は、思ったより早く訪れた。かれの望まない形で。

 その日の午前中、赤い石をいじくって調べたあと、昼下がりにペレウスはもう一度〈虚偽〉の滅びた病室へと戻った。なにか見落としがあるのではないかと期待したのである。

 あてははずれた。優秀な奴隷たちの働きであろう。寝台のすさまじい惨状は、すでに跡形もなく片付けられていた。空気にはいまだ赤い臭いが混じっている気がしたが……

 嘆息してから、ふとかれはバルコニーの向こうを見た。

 かなたのテヘラーンの市壁ごしに、もうもうとたちのぼる砂煙が見えた。市の外で野営していた軍勢に動きがあるのだと知れた。

 見下ろすと、市内もまたごった返していた。商人たちがロバやラクダや奴隷に荷物をかつがせていた。かれらは軍の後ろについていって兵に食料その他を売りつけ、または兵の戦利品を買い取るのである。館の門から、ジン兵の一団が出て行くのが見えた。美々しい甲冑とマントを身に着けた精鋭たち。

(ファリザードがついに出陣する)

 彼女はどこを目指すつもりなのだろうかとペレウスは眉根を寄せた。

 当初の予定通りならイスファハーン公家軍は南下するはずだったが、それはすでに過去の計画だった。〈剣〉のホラーサーン公家軍が帝都バグダードを落としてしまう前の。ティムールに率いられたサマルカンド公家軍が西進してくる前の……

 戦争の状況は、短期間にめまぐるしく変わっていた。

 ペレウスはいぶかしむ。

(まずだれと戦うつもりなんだ、ファリザード? 〈剣〉と? 崩壊したサマルカンド公家軍の残党と? それとも、反乱を起こしたというイスファハーン公領内のジンたちと? きみにこの状況を打開する新しい戦略はあるのか? たとえそんなものがあったとしても、きみは僕には教えてくれなかったようだけれど)

 イスファハーン公家軍は、表向きには今もまだ四万の軍と号している。だがその実数がすでに一万六千名に減じていることは、知らぬ者がなかった。

(彼女の手元には、弱体化した軍しかない)

 とつぜん、ペレウスはじっとしていることが我慢ならなくなった。サー・ウィリアムの安否を早く知りたい。ファリザードだけを危険にさらしたくない。この館で待っているだけなのはやはりまっぴらだった。

(やはり僕も同行できないだろうか?)

 ぎゅっとこぶしをにぎりこむ。

 と、ずっと手にしていたものが圧縮されて縮むかのような感触があった。思ったより柔らかい――あわててペレウスは手を顔の前で開いた。

 幸い、にぎりしめていた赤く丸い石に異常はなかった。かれはほっと安堵の息をつき、それからつぶやいた。

「……これも含めて、だれか教えてくれないだろうか」

(僕がどうすればいいかを)

「ずいぶんと大きな魔石だ」急に背後で声がした。「その邪教徒の女が称していた出自……シェバの女王ビルキースだというのが本当かはともかく、間違いなく歳経たジンではあったようだな」

 ペレウスはふりかえった。そこにはファリザードの乳母、ルカイヤの姿があった。昨日まで地下に囚われの身であったジンの女貴族は、簡素な一枚布を身に巻きつけ、煉瓦の壁に背をもたせかけている。

 昨夜館に帰って報告を済ませてからすぐ、疲労で倒れるように眠ったと聞いていた。どうやら目を覚ましたようだった。

「魔石? これが……」

「それは魔術加工をほどこされる前の状態だから、心臓石とも、原石とも言う」

 ルカイヤは言葉を切り、その隻腕で、身に着けていた薄布をいきなり脱いだ。

 裸身を眼前であらわにされて、さすがにペレウスは度肝を抜かれた。

「な……なにしてるんですか」

 かれの動揺を、ルカイヤは冷然と一瞥した。

「貴様、この部屋をなんだと思っている? 病室だぞ。ここは給湯かまどにも薬師の控え室にも近いのだ。そしておれは、野良犬より汗臭くなったいまの自分のにおいにはうんざりなのだ。本来なら浴室を使いたいが、晩まで待つなど耐えられない」

 彼女は部屋の外の廊下に向け、入れと手まねで指示した。

 布と薬箱を持った小柄な老婆の奴隷が、ガチョウのようにひょこひょこあごを突き出しながら入ってきた。後ろからは、湯を満たした壺を頭に乗せた若い女奴隷たちが続く。四つの脚がついた木製の浴槽(よくそう)さえも、数人がかりで運ばれてきた。

 ルカイヤが奴隷たちに体を清めさせるつもりだと知って、ペレウスはあわてて部屋を出ようとした。

 だが、女奴隷たちが手を広げてかれをさえぎった。

 わけがわからずとまどうペレウスに、ルカイヤが「部屋に残れ」とかれに命じた。

「魔石について説明してやる。それと貴様には話がある」



 湯の音に混じって低い歌声が響いていた。


  むかしニネヴェのジンの王、

  人の王スライマーンと争って、封印の紋を刻まれた。

  ニネヴェを領する王言えり、

  いかでひざなどつけようものか

  炎の精なるジンの身が、泥より()れし人などに――


  ダーウドの子スライマーン答えていわく、

  泥の煉瓦の集まれば、泥の(うてな)に、(あららぎ)

  螺旋の(きざはし)彫り込まれ、高きは雲をしのぐごと

  万世(ばんせい)を経て揺らぎなく、ジンの火炎をひしぐなり――



 静かに歌を口ずさんだのち、ルカイヤは説明してくる。

「これは古代から伝わる歌。人の王スライマーンが、かれに従わなかったジン王をついに負かした場面を歌ったものだ。おれたちジン族にとっては屈辱的な歌だが……この歌は、両種族の運命について語っているといわれる」

 石けん――原料はオリーブの油と海藻の灰と練りこまれた薬草――の匂いがペレウスの感覚を甘くくすぐる。

「人は泥によって造られた存在だという。対してジンは、炎から生まれた天使に近い存在。それが証に、ジンの心臓の近くには、火の精髄のごとき魔石の原石が入っているのだ、と。

 この原石は、ジンが長く生きるほど大きくなってゆく、ごく少しずつ。そして、加工次第でさまざまな力を帯びる。

 もっとも有名な加工法は、数種の金属と掛けあわせて鍛え、ダマスカス鋼と呼ばれる素材に変えるものだ。だが、もっとも多くの者に行き渡る使い方は、金糸のような繊維状に加工することだ。そうして少しずつ服地や鎧の繋ぎ目に織りこむのだ。そうすればその服は魔法を宿し、『変化』の呪印による肉体形状変化を経ても、ジンとともに在るようになる」

「ああ、そう……ですか」

 頬を紅潮させたペレウスは、浴槽の中で身を清められているルカイヤからとうに顔をそむけている。

 なんでジンはこうも素肌をさらすことに無頓着なんだ、と少年は内心で毒づいた。

 思えば、ファリザードもかつてはヘラス人の前で肌を惜しげもなくさらしていた。あるいは意識していないからこそ……人が動物に裸を見せてもさほど気にしないように、たいていのジン族は人族の異性に見られようがどうでもいいのだ。ただそれによって人が情欲をあからさまにすれば、ジンによっては嫌悪と不快を示すであろうけれど……

(つまりこのひとは、僕を見下げていると態度で示しているんだろうか?)

 快くはない疑問を抱きつつ、ペレウスはたずねた。

「……つまり、あなたたちジンが〈変化〉したら服が消えて動物の姿になるのに、〈変化〉を解いたらまた服を来たジンが現れるのはそのためですか」

「そうだ。普通の服だといちいち破れたり脱げたりとわずらわしい。そんなわけで魔石は、需要に比して絶対量がつねに不足している。……ましてやそれだけ大きい原石となると価値はたいへんなものだ。莫大な値がつくだろう」

 それからルカイヤは言葉でちくりと刺してきた。

「事情はわかったな。それは軽い扱いをしていいものではない。もし貴様が売りでもして敵の手に渡れば敵を利することになるのだ。

 さっさと上に渡すことを勧める、なにがしかの褒美をアーガー様がくださるだろう」

「売りなどしない。身に付けます」

 むっとしてペレウスは言い返す。ルカイヤはそれに対してはなにも言わず、ただ、

「会話しているのに礼を欠いた態度だな。きちんとこっちを見ろ」

 浴槽から立ち上がったのであろう水音がした。床の上に進み出る濡れた足音が続く。

 ぎょっとして顔を戻し、あとじさったペレウスが見たものは、女奴隷たちに体を拭かせはじめたルカイヤの姿だった。

 床につきそうなほど長く赤い髪が、水をしたたらせる。

 たっぷりの布が髪や肌に押し当てられて、湿り気をとっていく。それと並行して、水滴をぬぐわれる端から薬がすりこまれる。片腕がないこと以外は完璧な裸身へと。呼吸のたび重たげに上下する両乳房の下部、発達した骨盤とその上できゅっとくびれた腰、しなやかだが肉感に富む太ももやふくらはぎ……軟膏が細かい傷のまわりに塗り伸ばされ、褐色の肌がぬらぬらと妖しく照り輝く。包帯が肉をくびり出すようにきつめに巻かれていく。

「先に言っておく。この奴隷たちは耳が聞こえぬ者ばかりだ。おれたちの話を聞かれることはないゆえその点は心配いらない。っ、ぅ……」

 治りかけの傷口を布にぎりぎりと締めあげられて、ルカイヤは痛みをこらえるうめきを漏らした。「……そのせいで微妙な加減について言葉で指示できぬが」と不満げにつけくわえる。

 地下で捕囚となってやつれたにもかかわらず、隻腕のジンの女貴族はあでやかさを増した感すらあった。

 また目をそらしたペレウスに、彼女は「本題だ」と告げた。

「邪教徒どもに囚われたあの日、中断した話の続きだ。

 もうファリザード様に近づくな」

 半ば予期していた話題だった。ペレウスは叩き返すようにすぐ答えた。

「それはあなたに指図されるいわれのないことだ」

 正直なところ迷ってはいたが、(あの子が自由意志で決めればいい)とペレウスは腹を据えていた。外界のなにかに自分たちの関係を左右されたくはなかった。

(僕のほうでは、ファリザードと離れたいと思ってないんだ)

 これが恋と呼ぶべき想いかどうか確信は持てなかったが、好いてくれる彼女に少なからず情が移っていることは自覚していた。

 当然ながらその答えは、ルカイヤの期待したものとはほど遠いようだった。不機嫌な声が返ってくる。

「……なるほど。

 ところで、おれもまだ聞いたばかりだが……貴様とファリザード様のことが街中でうわさになっているそうだぞ。あの子はヘラス人の子供にジンの愛を捧げてしまったのだと」

 この情報はペレウスを戸惑わせた。なにしろ、完全に事実であったから。

(いったいだれがそんなうわさを流したんだ?)

 思い当たるふしはないとはいえない。白羊族をはじめ、知っている者はそれなりにいる。かれとファリザードがふたりきりのところを目撃した者はもっといる。お忍びに出た彼女と市場(バーザール)を歩いたり、馬場(マイダーン)で馬の駆けくらべをやったことがあったから……そしてファリザードは、あのように全身で感情を表す少女だ。見る者が見れば、彼女がペレウスに向ける想いはすぐわかってしまうのかもしれない。

(不用心すぎただろうか?)

「このうわさだけでもファリザード様の名誉はいくらかそこなわれた」ルカイヤの声に、冷えた岩のような意志がこもった。「おれの意見も覚えておけ。おれはファリザード様の手を貴様がとるのはけっして認めない。貴様はいまや悪竜になった。怪物にあの子が魅入られるのを黙ってみすごしはしないぞ」

 頭に血が上った。ルカイヤの言い草に。

 女の肌が目に入ることへの照れなど吹き飛び、ペレウスは向き直った。

「竜と同化したのは、あんたを置いていかず地下に残った結果だぞ。礼を言えとは求めやしないが、怪物呼ばわりが唯一のお返しか!」

 かれの剣幕に、ルカイヤは表情に後ろめたさを見せ――しかしかたくなに言い切った。

「恩を感じていないわけではない、だから万人に貴様の正体をばらしまではしない。そうすれば貴様は遠からず殺されるだろうからな。それでも、あの子のことだけは絶対に譲らない。それを恩知らずと言うならば言え」

 両者は対峙してにらみあった。かつて一度そうしたように。

 ……ルカイヤがまた歩き出す。かれに向けて。ペレウスはとっさに身がまえたが、彼女はかまわずに距離をつめてきた。

「炎と泥」

 ルカイヤは傲然と胸を張るようにしてペレウスの眼前に立った。なめらかな裸の乳房が少年の顔近くで存在感を示し、かれをたじろがせた。

「ちょっと、おい、近い……というか隠し……」

「前に言ったように、そしてさっきの歌にも出たように、ジンと人とは、炎と泥だ」

 ペレウスの羞恥を意に介さず、女はかれの肩に隻腕をかけ、かがみこむようにして目をのぞきこんできた。底光りのする、意図の読めないまなざしで。

「ジンにとっては人は汚い泥。劣る種族、劣る者たちなのだ。険しい顔だな。しかし貴様が不愉快に思おうが思うまいが、これがジン族の主流の価値観だ。

 あるいは歌でスライマーンが語るように、いつの日にかその『泥』が数を増やし、技術を向上させて、おれたちをしのぐ文明を築くのだとしても……いまはまだその時は来ていない。貴様はファリザード様には釣り合わぬと、ジン族のほとんどは考えるだろう。

 周囲の偏見はどうにもならぬ。あの子をその中で生きるようにはしたくない」

「……たしかに前も聞いた、そのごたくを」

「いや。前とは状況がひとつ違うな。悔しいがおれは、たしかに貴様に恩を受けた。ジンは借りを返す……おれとて恩人を殺したくはない。前は殺して埋めるつもりだったが、いまはそれは最後の手段にしておこうと思っている」

「それはまったくありがたいお話だな! あんたみたいに勝手な――」


 罵りかけた口をペレウスはふさがれた。ルカイヤの唇で。


 柔らかい感触。地下に囚われていた日々のせいか少し唇の表面が荒れていたが、じゅうぶんに甘い口づけだった。

 度肝を抜かれて目を見開きつつ、ペレウスは気づいた。奴隷たちはいつのまにか部屋からいなくなっていた。なんだかまずい――警鐘が頭のなかで鳴る。

 勢いよくのけぞり、「なっ……なにをする!」ペレウスは叫んだ。ルカイヤがかれの後頭部をぐっとつかんで逃げられないようにし、より深く口づけを重ねてくる。舌に舌をからめられて愛撫され、ぞわりと妖しい感覚が芽生える。

 ペレウスはとっさにルカイヤを突き飛ばした。

 明らかにルカイヤはそれを予期していた。ジンならではの反応速度で彼女はぱっと身を開いた。ペレウスの手が何もない空間を押す。その手首をとらえたルカイヤは、かれの体を背負うようにしてふわりと宙に浮かせ……一回転させて、〈虚偽〉が横たわっていた寝台へと、背中から叩きつけた。

 怪我しないように配慮された投げ方だったが、衝撃でペレウスは一瞬息がつまって身動きできなくなる。

 ルカイヤが床の包帯の余りを拾い上げ、寝台に上がってくる。

 組み敷いてくる彼女を、ペレウスは強くもがいて押しのけようとした。

 ジンの体重は軽く、加えてルカイヤは隻腕である。それでもペレウスは彼女をはねのけることができなかった。密着され、またがられて完全に押さえこまれる――ルカイヤの足の裏がペレウスの左腕の自由を踏みつけて封じる。一方でルカイヤはつかんだかれの右手首を包帯でくくってしまった。彼女はとても器用に隻手と口で包帯を結び、すぐにペレウスの左手首をも同じように拘束した。

「たわいない。竜の力とやらは大したものではないようだな。すくなくともまだ」

 つぶやくルカイヤはペレウスの髪をわしづかんで、かれの後頭部を寝台におしつけた。かれの頭が逃げられないように固定してから、上体を伏せてくる。ふたたびの口づけ。むさぼるように情熱的で、それでいながら繊細な……

(な、なんだ、これ……)

 その口づけは恐ろしいほどに巧みだった。これが初めての経験のかれにも、尋常でないとわかるほどの。

 押しつけられる官能的な肉体の柔らかさと熱さ。石けんと薬のにおいが入り混じる肌の香。くらくらしてペレウスは目を回しそうになる。かれがわれにかえって噛み付く前に、ルカイヤは唇を離し、見下ろしてきた。

「長命のジン族には、人に比べて武術の研鑽の時間がたっぷりある。おれの積み上げた武はイルバルスには通用しなかったが、貴様が相手であれば赤子の手をひねるようなものだ。だから下手に手向かいしても無駄だぞ。

 ……おや」

 ルカイヤは、密着したかれの下腹の変化に気付き、妖しい光を瞳にたたえた。

「きちんと男として機能したな。竜と同化したその身がはたして反応するのかその点が心配だったが、おおいにけっこう」

 拘束されたペレウスは真っ赤になって歯ぎしりした。意思に反して体の反応を無理やり引きずり出されたことに、憤怒と恥辱が燃え上がった。

「なにがしたいんだ、この痴女っ!」

「貴様をファリザード様の前から排除する。『恩人』をなるべく殺さずにすむよう、こういうやり方で。手段の優先順位は変わったが、最初から目的はなにも変わらぬぞ。

 ジンの愛とて、裏切られれば不変ではない。ことに、愛した男をほかの女に奪われれば……変化はあるのだ、なにかしらのな」

 そう口にしたとき、ルカイヤの瞳の奥につかの間暗い影がよぎった。彼女は言った。

「貴様があの子を裏切ればよい。ひどく幻滅させてくれればさらによい。そのほうが、長い目で見てあの子の傷は軽くすむであろうから。

 あの子の乳母であるおれに手を出したなら、たぶんあの子は貴様に幻滅するだろう」

「あんたなんかに手を出すか!」

 ペレウスは怒鳴った。

「ずいぶんと馬鹿にしてくれるものだ! 僕はそんな話に乗らない。だいたい、あんたは僕を嫌いぬいているくせに。

 おあいにくさまだ、こっちだってあんたのことなど――」

「いいや。嫌ってはいない」

 ルカイヤは言った。大まじめな口ぶりで。

 沈黙するペレウスに、彼女は告げた。

「おれはあの地下で毎夜、見ていたのだ。貴様がおれと、ナスリーン……山の民の小娘の身代わりに竜にむさぼられるところをな。あのような苦痛を人が耐えられるなどとは、これまではけっして思わなかった。

 貴様のことを、人族ではあるが稀有な男だと認めてやろう。

 勘違いはするなよ。愛は一片も抱いていない。だが、簡単に殺すには惜しく、操か命をかけて対峙するに値する奴だと判断した。そうでなくば、このように本気で誘う気にはならぬぞ」

 冷たく、淫靡な微笑だった。

「さあ……あの日の交渉の仕切りなおしだ。

 ファリザード様をあきらめろ。埋め合わせならしてやろう、泥の種族よ、人の仔よ……火炎天使が欲しいのならば、あの子ではなくおれを取れ。貴様のため、夜ごとに歌を唄ってやろう。骨までとろけるような快楽の歌(ギナー・アル・ムトア)を。

 約束しよう。すぐに貴様のほうからおれを求めるようにしてみせると」

「なにを寝言を……そんなことになるわけがあるか」

「貴様の認識はだいぶ甘いな。

 武術と同じだ。長い寿命のうちにジンが磨く(ねや)の技術は、人には想像もつかない高みにあるぞ。われらは戦と愛には熱心な種族だと、聞いたことはなかったか?」

 薄く笑むルカイヤは、豹が尾をくねらせるように、かれに押しつけた裸身をよじった。

 獰猛なほどに色香と肉感を充満させた体を。

 彼女の手には前とちがい槍はない。それにもかかわらず前とおなじく今回も、武器を突きつけているのはルカイヤのほうだった。

(ジンの美しさは、ジンが握る刃と同じくらい危険だ)

 ペレウスは悟った。昨夜と今日で、〈虚偽〉にルカイヤ……成体のジンの女(ジンニーア)ふたりに間近に接し、いやでも思い知らされていた。

 彼女たちは自分が美しいことを知っている。そして、その武器の扱い方も知っている。

 ただ、つかみどころがなかった〈虚偽〉と違い、ルカイヤは冗談をかけらも言いそうにない気質で……

「よしんば最後まで貴様が屈しないなら、殺すことで排除するだけだ」

「こ、この……なにが恩を感じてるだっ!」

「ただしその場合はおれも死んでやろう。恩を仇で返すせめてものつぐないにな」

 彼女は言った――恐ろしいことにどこまでも本気の目で。

「言ったはずだ。操か命をかけてやろうと。あの子をあきらめて自分からおれを抱くようになるか、あるいはおれとともに死ぬか、貴様にとってはどちらかしかない」

(『一本気なやつがぶっとんだ方向の決意を固めると、最初からぶっとんでるやつよりよっぽど始末に負えないことがある』とユルドゥズさんが以前に言っていた。

 これがまさにそれじゃあないか)

 最悪だとペレウスはうめいた。たぶん彼女を暗黒の地下神殿に永久に置いてくるべきだったのだろう。

「おい! 僕の服を剥ぐなっ、やめろ、こ、こんなことが許されるわけがあるか――僕はこれでも他国の使節だ、このあとすぐアーガー卿に伝えるからな! すぐ問題になるぞ!」

「そういえばまだ聞いていなかったか。おれはファリザード様に仰せつかっている」

「な……なにをだ」

「あの子が戦に行っているあいだ、貴様を決してこの館から出すなと。ついでに言うとしばらくは、おれが貴様らヘラス人使節たちの面倒を見ることになっている。アーガー卿はこちらのことなど気にかけておられぬ、忙しいからな」

 ふたたび冷然とした笑みを浮かべたルカイヤの顔は、火照りを帯びているように見えた。風呂上がりだからか、羞恥を覚えていないわけではないのか、あるいは妖しい昂揚(こうよう)のゆえか。

「おれの権限で、貴様を他人と接触できないようにしておくのはそう難しいことではない。『説得』の時間はたっぷりあるわけだ」


 ペレウスは軟禁された。


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