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EX4.騒乱の種


 “虚偽”は苦痛を和らげる阿片(ハシーシュ)を飲まされ、絹張りの寝台に横たえられている。行水を終え、服装をととのえて、ペレウスは彼女が最期を待っている部屋に入室していた。

 陽が沈んでからまだあまり時間はたっていない。


(ファリザード、早く来てくれ。ぼくは急いでサー・ウィリアムを助けに戻らなければ)


 ひとりしんがりを守って残った騎士のことは、テヘラーン領主アーガー卿の館に入った時点ですでにジン兵に伝えてある。さらにファリザードに詳しく説明して兵を出してもらい、ペレウスはみずから道案内をつとめて助けに行くつもりだった。

 もっとも、ここにいて“虚偽”の最期を看取ってやりたいという気持ちもあり……


「“虚偽”」


 寝台に腰かけ、ペレウスはその女にそっと呼びかけた。


「水かなにか欲しいものがあるなら……」


 返事はない。無反応の彼女のまぶたはわずかに開いていたが、その目は細密画のほどこされた天井を通して高いどこかを見つめていた。ごくごくかすかに上下する胸だけが、まだ彼女の呼吸が絶えていないことを知らせていた。

 言葉を切ってペレウスはまつげを伏せる。名を知るジンが目の前で死んでいくのを見るのはこれで二度目だ。カースィムも“虚偽”も、ペレウスにとって味方とはいえなかった……にもかかわらず、どちらも一生忘れられない光景になりそうだった。


「……希望を言っていいのなら……」


 声にペレウスは驚いて面を上げた。遅れて“虚偽”はペレウスに顔を向けており、瞳の焦点はぼんやりと結ばれていた。彼女が上体を起こすと、服の前身頃の血の染みがさらに広がった。


「う……」


「痛いなら起きるなよ。寝ていればいい」


 押しとどめようとしたペレウスの首にするりと横から腕を回し、“虚偽”は上体を乗り出して少年に身を預けてきた。硬直するかれにいつかのように口づけ寸前まで顔を寄せ、ジンの女はささやいた。


「わたしを殺して、愛しい子」


 淫靡なねだり声。(むしば)むような。

 ペレウスは身を離そうとしたが、“虚偽”の腕は柔らかくそれでいてしっかりとかれの首を巻き締めている。重傷者を強く突き放すわけにもいかなかった。


「あのカースィムを殺したように、あなた自身の手でわたしの心臓に刃を。なんならその手で首を絞めてくれるのでもかまわない」


「何を言って……もしかして、とどめが欲しいくらいに苦しいのか?」


「ふふ……心配してくれているのね。違うわ、もちろんとても痛くて辛いけれど。

 わたしはこの先もあなたのそばにいたいだけ。いまのあなたがわたしを手にかければ、わたしの魂は竜の……あなたの一部となることができる」


「……冗談じゃない。他人の命を吸収なんかしたくない」


「あら、そう? でもどのみちあなたに命は流れこむわ。幻で見たでしょう、あなたが竜と同化しているあいだに、最初の病がすでに撒き散らされていたのだから。(むし)を通じ、禽獣を通じ、旅人を通じて疫病は大地に広がっていく。

 疫病が流行しているあいだは、あなたの意思と関係なく、あなたは黙っていても強くなっていく。人が病で死ねば死ぬほどに、その魂が竜に流れこむのだから」


「やっぱり最悪だ。暗黒の神も、竜も、おまえも」


 蒼白になって罵ったペレウスに、“虚偽”は笑いかける。艶麗にそして冷酷に。


「病に殺される人々のことを思って胸を痛めたのね、責任感の強いひと。でも、最初のこの一回についてはあなたの意思で撒き散らされたわけじゃないでしょう。気に病む必要はないわ」


「そういう問題じゃ――」


「ペレウス、おまえが隠していたことを最初から説明してもらうぞ!」


 音高く扉を開け、決然とファリザードが踏みこんできた。

 が、密着した美女と少年を見て、彼女はとっさに赤らんだ困惑の表情をそむける。

「あっこれは失礼、部屋を間違えたみたいだ……」ともごもご言いながら後じさり、ぱたんと扉を閉めた。


 閉まった扉を見つめてペレウスと“虚偽”も動きを止める。

 一拍。二拍。


「間違えてないっ待たんかああっ! ななな何やってるっ!?」


 再度扉を開ける音もすさまじく、真っ赤になったファリザードが飛びこんできた。その背後からやれやれとため息をつきそうな表情のユルドゥズが続いて入ってくる。


「だれだその女っ、いやまず離れろ、いますぐ離れろっ」


 混乱しながらもファリザードは胸前で小さなこぶしを握り、毛を逆立てた子猫よろしく全身で“虚偽”に対し威嚇をはじめる。直前まで室内にあった妖しく(しめ)やかな空気は残らず消し飛んだ。


 半目になりつつ、(なんというかこの子を見ると安心感が湧くな)とペレウスは心中ひとりごちた。

 ここしばらく、腹黒く信用のおけない者たちばかりに出会ってきたせいか、まっすぐぶつかってくるファリザードの単純さがいっそ爽やかである。……と、現実逃避でもしないとやっていられないペレウスだった。

 かれの首を背後から抱きなおし、「くす」と“虚偽”が笑いを漏らす。ペレウスは嫌な予感を抱いた。それは“虚偽”の発言ですぐ的中した。


「このくらいでそんなにかっかしなくてもいいじゃない、ファリザード? わたしのほうがあなたより先にこの子に目をつけていたんだから。あなたがこの子を嫌っていたときからね」


「な、な、なっ、どういう意味だっ、おまえみたいなジン周りで見たことはないぞ」


 ファリザードがわなわな震えだす。ペレウスは首に回った腕を外そうと試みながら「“虚偽”、からかうのはやめろ。ファリザードも乗るなよ、このジンはこういう性格なんだ」と双方に釘を刺した。しかし、致命傷を負っているとは思えないほど楽しそうに“虚偽”は続けた。


「わたしがかれに帝国の言葉を教えたのだし……かれはわたしに好意を寄せてくれたわ。ねえ、王子さま、あなたが最初に好きになったジンはわたしでしょう?」


「詐欺もいいところだろあれは!」葬りたい過去を暴露されて思わず自分から泥沼に足を突っ込んでしまい、ペレウスははっと口をつぐんだ。「え、え?」ファリザードが固まっている。ジンの少女は、自分がまだ持ちえない濃艶な風情を備えた“虚偽”の姿をあらためて見つめた。「うー!」情けないうなり声をあげ、激高ではねあげていた眉を自信なさげにへにゃっと下げ、それでも、


「む、昔の女だろうとそれがどうしたっ! いまのこいつはわたしのものだ、返したりしないぞ!」必死に威嚇続行。


「昔の女ってその解釈はなんだよ!? というか、な、なにを言い出してるんだ!」あいだに挟まれたペレウスは赤面しながら突っこんだが、


「胸が大きければ偉いか!? そんなものすぐ育ってやる! とにかく断固として返還交渉には応じない、いっさい話は聞かない!」


「聞けよぼくの話を! ほんっとに戻ってきた実感が湧くよきみの飛びっぷりを見ると!」


 少女の虚勢と少年の羞恥の罵声が交差するなか、“虚偽”は「あはは、あ痛、笑うとすっごく痛ぁ……」とペレウスの髪に顔をうずめてひくひく震えている。

 ぱん、と乾いた音が鳴り響いた。全員がそちらを見る。ユルドゥズが手を打ち合わせたのである。


「あのさ、そろそろ肝心の話進めとくれ。いつもの痴話喧嘩はあとでいいだろ、あとで」


 呆れを宿した隻眼ににらまれ、さすがにファリザードも首をすくめて恥じ入った様子になる。“虚偽”もおふざけを切り上げる気になったらしく、ペレウスの首にからめていた腕をあっさりほどいた。

 “虚偽”の腹の出血に気づいたファリザードが目を見開いた。


「大怪我じゃないか、血の臭いがすると思ったら……では、おまえがルカイヤの話していた古老なのか。

 昼のあいだペレウスに化け、夜はルカイヤに化けてわたしたちをあざむいたという……わたしが生まれたときに〈宣告〉を下したのもおまえだそうだな。突拍子もなさすぎて正直なところいまひとつ信じきれないような話だが――」


 その台詞が立ち消えになったのは、“虚偽”が変じてみせたからである。ペレウス、ファリザード、ユルドゥズと室内のすべての者に順繰りに。最後にここにはいないとある少女の姿に。ペレウス以外のだれもが驚きの声を小さく漏らし、ことにファリザードは「ゾバイダ……」と名を呼んであえいだ。

 変化したことでさらに消耗したのか、“虚偽”は息を荒くして寝台に身をまたも沈めた。ものを見るのも億劫とばかりにまぶたを閉じ、彼女は細い声に戻って言った。


「信じてくれたかしら。……あのね、ファリザード」


「な……なんだ」


「そんなにこの王子さまに入れこんでるとあとが辛いわよ」


 少年少女はまた赤面した。「よ、余計なお世話だ……」とうつむいて言うファリザードの声は小さい。

 “虚偽”はその含羞を一顧だにせず、驚愕の〈宣告〉をさらりと吐いた。


「だってこの王子さま、もうしばらくしたらあなた以外の女の子と結婚するもの」


………………………………

………………

……


「その男への救援の兵ならもう送ったぞ」


 サー・ウィリアムへの加勢をあらためて要請したところ、ファリザードはそう答えた。

 “虚偽”が死を待つ部屋と隣り合った一室に、一行は移動している。

 ペレウスの結婚うんぬんのあのとんでもない宣告について、“虚偽”はどれだけくりかえし訊ねられても寝台に詰め寄られてもそれ以降一言も口にしなかった。ただ別の〈宣告〉を投げかけただけである。


『味方の裏切りに気をつけなさい、ファリザード。あなたは戦のなかでたくさん裏切られることになる。

 どれも対応を誤れば致命的なものになりうる……もしかしたら、それは避けられないのかもしれない。ひどい結末になるかもしれない。でもそのすべてを無事に切り抜ければ、あなたは〈剣〉との戦争に勝ち目を見出すかもしれない』


『さあ……王子さま、あなたが殺してくれないのなら、わたしは当初の予定通りにするまでだわ。そろそろひとりきりにして』


 心情としては拷問官を呼んであの場で尋問にかけたかったくらいだ、とペレウスはあとになってファリザードの物騒なつぶやきを聞いたものだ。

 死人のようなどんよりした瞳で“虚偽”のいる部屋のほうを見つめつづけているファリザードに、ペレウスはおそるおそるサー・ウィリアムの件を切り出したのだった。


「しかしファリザード、道案内がいないと場所がわからないんじゃないか。かれが残った場所までぼくが先導しようと思っていたんだけど」


 彼女の即答にペレウスが疑問を呈すると、「場所はわかっている」彼女は卓に置いてあった巻物を取って、燭台の赤光のもとに広げた。


「……地図?」


 いかにもそれは地図だった。それも庶民が持つような目印と大まかな地形しか書いていない粗雑な絵地図ではない。領主しか持ち得ない比較的精度の高い地図である。


「ティムールのサマルカンド公家軍本陣が崩壊した地点はこのあたりにあった」ファリザードの指が地図の一点を指し示す。「そこからテヘラーンに戻ってこれた時間からみて、おまえたちが使ったのはこの最短の隊商路で間違いない。約四十ファルサング。歩兵含めた軍隊なら通常十日、早くて五日かかるが、鎧なしの少人数で良い馬を惜しみなく使えば一昼夜で駆け抜けられる道だ。さらに」彼女の指がきびきびと動いて指し示していく。「話を総合するに最後の襲撃を受けたのは、この川沿いの岩山が迫って細くなった箇所。このあたりに領地を持つジンたちに聞けばすぐわかった。過去の戦でも要道となった場所とのことだ。百騎を送り出して、そのおまえの恩人とやらを助けに行かせた。……しかしそれでも無事かどうかはわからないぞ」


「それは……しかたない」


 ペレウスは深く嘆息した。ファリザードができうるかぎり迅速に手を打ってくれたのは明らかで、これ以上のことは望めない。ありがとうを告げようとしたとき、地図をくるくる巻いているファリザードが付け加えた。


「送り出した指揮官には、ヴァンダル人に直接的な恨みを抱いていない者を選んである」


 心臓がはねた。口ごもったかれをファリザードは静かに見つめ返してきた。


「ファリザード、言ったっけ……その……助けてほしいのはヴァンダル人だって」


「おまえは今日、ほかのヘラス人使節たちを先にテヘラーンに入らせただろう。かれらからいちおう状況を聞いている」


「かれは……」善良な人間だ、と言おうとしてペレウスは詰まった。騎士の過去――破壊騎行――を思い出したのである。それはかつてファリザードが“ヴァンダルの犬どもの非道”と呼んで嫌っていた所業そのままだろう。だがそれでも……「ごめん。かれはぼくにとって師で、大切な友なんだ。どうしても助けてほしかった」


「なぜ謝る。ヴァンダル人ということで驚いたのはたしかだが、いまはもう人種だけで悪しざまに言おうとは思わない。なによりおまえの命を助けたのなら、わたしにとっても恩人だ」


 昔とはまるで違うファリザードの落ち着いた声に、かえってペレウスは心苦しさを覚えた。なので、次にファリザードの声に責める調子がこもったときは逆に安心したくらいであった。


「わたしが怒るとするなら別のことだ。何も言ってくれなかったのはどうしてだ?」


 地図を置いて向き直ったファリザードがペレウスの胸ぐらを両手でつかみ、ぐいと引き寄せる。間近でよく見れば、憤る彼女の目の下には隈ができていた。

 同じく疲れきった表情のユルドゥズが部屋の隅で立ったまま口にする。


「数日寝ていないのさ、こっちは。あんたや嬢ちゃんの乳母がいきなりいなくなったからね。ただでさえサマルカンド公家軍の接近でいっぱいやることがあったうえにそれだもの。ま、こっちの警備の手落ちでもあるけど、なにが理由であんたがさらわれたのか話くらいは聞きたいね。

 山の民にさらわれて、その次にサマルカンド公家にさらわれて……それでどうやって逃げ出したんだい?」


「……そこまで知ってるんですか」


「クラテロスとリュシマコスといったな」ファリザードがユルドゥズのあとを引き取る。「おまえを探す途中でふたりのヘラス人を保護した。山の民どもが恩着せがましく送りつけてきたんだ……あのふたりの話を聞いて、おまえが連中に拉致されたことが判明した」


「あ、あのふたりもテヘラーンにいるんだ」ペレウスはほっとする。


「そこからさらに、やつらの目の前でおまえがカースィムにさらわれたというから、生きた心地もしなくなった。ユルドゥズたちを走りに走り回らせて捜索させていたら、つい先刻の日暮れ前には残りのヘラス人どもがそろって館にやってきた。サマルカンド公家の崩壊の場におまえといっしょに居合わせていたと言い出すじゃないか。

 訊きだしているうちに日が暮れたらルカイヤがぼろぼろのひどい姿で現れた。ペレウス、おまえの体とともにいままで邪教徒に囚われていたと彼女は報告した。わけがわからず頭を抱えたぞ。ルカイヤは、おまえが怪物になったとまで言った」


 そうと聞いて思わずペレウスは内心毒づく。


(ルカイヤめ、こんなに早くしゃべったのか。ぼくが竜と同化したことが広く知られたら殺されるぞと“虚偽”は言っていたのに。

 口をつぐんでいてくれたっていいだろう?)


 だが、その期待が甘すぎたのだと認めないわけにはいかなかった。ルカイヤはもともとかれを排除しようとしていたし、ファリザードに忠誠を尽くしている。正直に報告するに決まっていた。


「ジオルジロスのやつが地下牢から逃げたと報告を受けていたが……そんなことになっているとは思いもしなかった。あの邪教徒どもの企みにおまえが巻きこまれていただなんて。

 そんなことになってなぜ黙っていたんだ? 知っていればわたしの権限で対処できたかもしれないのに。

 おまえがわたしに守られたくないと思っていることは知っている。けれど、命を落とすまで意地を張るようなことなのか?」


 強いまなざしで射抜いてくるファリザードの瞳が、泉の面のように涙を溜めて輝いている。以前にファリザードに懇願された記憶――『もう、危ないことはしないで。おまえを危険に晒したくない』――が、ペレウスの脳裏によみがえった。


「ち……違う。意地を張って黙ってたわけじゃないんだ」


「ではなんだ? なにがどうなってそんなことになった? 説明されないうちは引き下がらないぞ」


 観念するしかなかった。どうせ試練は終わったあとである、すべてを明かしたところで問題はないだろう。

 長い話をペレウスは語らされた。

 ファリザードはそのあいだかれに細かく問いただし、再確認し、悪態をつき、かれの胸ぐらをつかむ手に力をこめ……話の初めのほうでは彼女の表情は怒りだったが、それはだんだん気力を失ったような(うれ)わしげなものに変わっていった。ざっと語り終えるころにはペレウスは彼女の表情を見られなくなっていた、ファリザードは悄然とうなだれてかれの胸にひたいを押し当てていたので。

 戸惑いながらペレウスは弁解する。


「だから、これまでは言うわけにはいかなかったんだ、ファリザード。試練のことはだれにも気づかれてはならないと“虚偽”に念を押されていた。それを破ればどんな報復があったかわからなかった。

 あいつのはったりで、実際は話したところでなんの意趣返しもなかったかもしれないけれど、あえて試みる気にはなれなかったんだ」


「そういう事情があったのだから、納得しろと? もう起こってしまったことだから受け入れろと?

 おまえは死んでいてもおかしくなかった。命は落とさなかったが、身に厄介事をしょいこんだというわけだな。どうやっておまえを死から遠ざけておけばいいんだろうな、毎回自分から毒蛇の巣にはだしで飛びこむようなやつを!」


「……心配かけて悪いと思ってる」


「うるさい。大っ嫌いだ、おまえなんか! ひっぱたいてやりたい」


 言葉とは裏腹に、少女の手は二度と離すまいとするかのようにかれの服をぎゅっとつかんでいる。声からも体からも彼女の震えが伝わる。声をかけるべきか迷い、けっきょくペレウスは黙って彼女の背を撫でた。

 前に何度かやったように、彼女の震えが収まるまで触れていた。

 灯火の揺れる前でたがいに沈黙――ややあって、ジンの少女は柔らかい頬をかれに押し当て、つぶやいた。


「わたしの知らないうちに死んでいたらどうしようと思った」


 父上のように。

 そう聞こえ、ペレウスは自分もずきりと胸奥にうずきを覚えた。癒えきっていない彼女の傷の痛みをつかの間共有して。


「ごめん」


 謝罪にファリザードはまた黙ったが、直後に「もう……いい」と顔を上げた。


「わたしだって理屈ではわかってるんだ。おまえの落ち度は、最初に城壁の外にうかつに出たくらいだって。

 それに、無事だった……かどうかはともかく、ちゃんと帰ってきたことだし。おまえがここにいる、今日のところはもうそれだけでいい」


 火明りに照らされた少女の顔が微笑を刻む。しかたなさげに、少年への想いをこめて。


(……ごめんファリザード、ぼくはやっぱり拉致されたのは良かったと思ってる)


 ペレウスは不覚にも鼓動が速まるのを感じながら、


(サマルカンド公家軍本陣に行ったからこそ、ティムールのやつがきみに要求を突きつけるのを阻めたんだから)


「悪竜だったか、そのろくでもないのをおまえから引き剥がすことについても明日から考えよう……あれ、おい、ペレウス、あの……?」


 いつのまにか彼女の頬に手が添えられていることに気づいて、ペレウスは驚愕した。それが自分の右手だったので。

「えっと、これはつい手が伸びて」間抜けなことを淡々と言う。冷静なのではなく狼狽しすぎて逆にそれが表に出てこないだけである。なので、「今ここにいるきみの存在を触ることできちんと実感したくなったというか……」さらに益体もない、言い訳にもなっていないことを口走ってしまった。

 触れているファリザードの頬がどんどん熱くなっていくのがわかる。彼女はあわあわしながら早口でしゃべりだした。


「そそ、そういうのをヘラス語を学んだときちょっとかじったぞ、てっ哲学だったな!」


「そ、そうそう! 存在論!」


「た、た、たしか、アリスタルコス説くに曰く、触れてわかる肉体は質料(ヒュレー)であって形相(エイドス)とあわせ存在の実体(ウーシア)をなす一因でありそういう意味ではたしかに接触により実体の一部を確かめられるともいえるのだろうが、待って、わ、わたしはまだジンとして育ちきっていないのでいわゆる可能的状態(ディナミス)であり現実的状態(エネルゲイア)つまり大人として完成しないうちは存在が定まったとはいえず触れても不変の本質があることには――ひゃん! く、くすぐるな!」


「してないよ!」


 しいていえば指先がほんの少しずれてファリザードの耳に触れた気がするが、それだけで肩をはねさせるのは単にそっちが過敏になってるだけじゃないかとペレウスは彼女と同じくらいに目を回しながら考える。


「ふ……不意打ちで肌に触るなんて駄目なのに……この、帝国の作法を知らない野蛮人……」息切れし、酒でも呑んだようになったファリザードが切れ切れに言う。


「き、きみだって触ってくるくせに。今日だってひたい当ててきたのはそっちからだぞ」


「お、おまえからこんなふうに触るのはわけが違う……男が女に触るのは…………」


 少女の言葉は弱々しく、熱っぽく、震える声になっていく。反比例して少年の心音は高まるばかりで――


「悪いけど、あたしゃ帰って寝ていい?」


「うわぁぁ!」


 ユルドゥズの声にふたりはそろって叫び、体ごと部屋の隅に向き直った。くたびれきっているらしくいつになく静かな白羊族長は、壁に寄りかかってあくびしたのち隻眼をしょぼつかせ、


「いつもなら観賞しとくけど今夜は半端なく眠いんで……坊やの話も聞いたしさ。もう用はないかなって」


「よ、よし今日はもう解散でいいな!」


 ファリザードが不自然にひきつった笑顔で手を鳴らした。ペレウスもまだ赤いままこくこくうなずく。


(でも“虚偽”のことは気にかかるな)


 ぼくはこの部屋で待っていてもいいだろうか――そのことを切り出そうとしたとき、出ていきかけていたファリザードがくるりと振り向いた。真面目な顔で。


「言っとくが、山の民との接触のような、先々の危険につながりそうな情報はこれからはちゃんと教えてもらうからな」


「そうするよ」


「そうしてもらう。……ところでさっそくだがペレウス、これだけは訊いときたいんだが、おまえ近々他の女と結婚する予定とかないよな?」


「ないよ! いろいろ言いたいがまずそれって危機につながる情報か!?」


「実は親の決めたいいなずけがこの世のどこかで呼吸しているとかもないな?」


「いないよ!」少なくともぼくの知る限りでは、と付け加えるのはやめておいた。ジンの嫉妬の話を唐突に思い出したので。ファリザードは「それならいいんだ」といくらか安心した表情を浮かべ、断固として宣言した。


「あの古老の思わせぶりな宣告は、今度という今度だけは実現させないぞ」



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