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3-15.ビルキース

試練は終わり、局面はつぎへと移ること


 炎上するティムールの大天幕。それを離れた丘の上で見つめるのは、どこにでもいそうな人族の男たちである。

 サマルカンド公家が転覆したその夜、“指”たちは久々に一同に会している。炎を見ながら、「ラーディーは持つ場所がないたいまつのようなものだな」と“一の指”の横にならんだ同僚がぽつりと口にした。


 “指”の暫定のまとめ役である“一の指”はうなずく。まったく同感である。

 サマルカンド公子ラーディーの能力も、その人となりも、制御が易いものではない。どちらもあまりに狂おしすぎる。

 思い通りに動かそうとするなら、まだティムールのほうがましだったろう。あれは狡猾だが理詰めにのっとり利で動くジンだったから。

 そうはいってももちろん、叩き潰してしまったティムールのことを考えてもどうしようもない。「あとは帝とわれらが将が判断してくださるだろう」と“指”はぼそりと断じた。


 そのとき、「ぐぐぐぐぐ」怪音とともに〈霊薬王〉が現れた。醜怪な着ぐるみのようなかれは、ひとりの大柄な少年をひきずっていた。その少年は恐怖に魂も飛び失せた様子で震えていたが、“指”たちがかれを〈霊薬王〉から引きとるや気色を取り戻した。「保護してくれるのか? そうなんだな? おれを助けるのが賢明だぞ」とまくしたてた。

 よろしい、とヘラス語を完璧に解する“指”の男は同僚と目配せしあった。これで用事はだいたい終わった。

 残るは――


「“一の指”、あの娘を探して始末しなくてもいいのか」


 ほかの“指”が陰々とささやきかけてくる。“指”としてかれらが叩きこまれた各種言語のうち、もっとも世に知られていない語を使って。むろん会話をヘラス人に聞かれないための用心である。

 あの娘とはゾバイダと名乗っていた少女のことである。少々、便利に使いすぎたと“一の指”にも自覚はあった。


 サマルカンド公家の崩壊は、あの娘を表に立たせてかれらが演出した劇であった。ゾバイダ自身は裏で立ち回っていたつもりだったであろうけれども。

 “指”たちの将は押さえている。大陸じゅうの多くの秘密を、否、「秘密とされている情報」を。であるから、かの少女の正体を“指”たちが看破し、その目的を推察するのはさほどの難事ではなかった。彼女を利用できると見た“指”たちはラーディー派の遊牧民を焚きつけ、または身分を偽ってみずから彼女に接近した。秘密裏に手を回して情報と資金を与え、傭兵を紹介し、黒羊族その他の反乱分子として使えそうな者たちの名が彼女の耳に入るようはからった。あとは彼女自身がそれらを結びつけようと積極的に動きはじめ、“指”たちは成果を待っているだけでよかった。関与をけっして臭わせぬよう、遠い暗がりから静かに見つめているだけで。


 ゾバイダはまだこの計画を自分の思いついたものと信じきっているだろうか、それとも、だれかに思考と行動を誘導されたと気づいているだろうか? 正直、どちらでもいい。


「いまは放っておいていい」


 “一の指”はそうくぐもった声を出した。ことが明るみに出たところで、今となってはかれらはもはや痛痒を感じない。むしろ、陰謀にかかわったことで首が締まるのはあの娘のほうになる。それを材料に脅し、今後また利用することもできるだろう。

 それに、かれらの将は、いかに任務を達成するかは可能な限り現地の“指”たちの裁量にゆだねてくれていたが……それでも利用するだけならともかく、許可なくしてグルジア王族の殺害に踏み切るのはさすがにためらわれた。その娘がたとえその故国の王宮では身分の低い姫であろうと。


「では、次はどうする。イスファハーン公領に潜入した同志たちはまもなく仕上げの行動に移るぞ。手を貸しに行くか」


 その質問に“一の指”は首を振った。イスファハーン公領内の同志たちは、あの薔薇の女児ファリザードから何人かの諸侯を離反させようとしているはずである。それほど難しい仕事ではないだろう。


「われらはあくまでサマルカンド公家担当の“指”だ。イスファハーン公領の者たちは長くあの地で種を撒いてきた。収穫のときに手出しされるのを機嫌よくは思うまい」


「その収穫がうまくいくとは限るまい。薔薇の公家は今夜倒れた塔の公家に比べるとまとまっているぞ」


「ほう?」


「ティムール軍が反乱で倒壊したのはそれまでのサマルカンド公家の血の歴史ゆえだ。イスファハーン公家はやつらとは事情が違う」


 つねに粛清が行われ、君臣どころか血族間ですら信頼はなく、つまり結束力がまるでないのがサマルカンド公家だったのだから。対して、イスファハーン公家は武力においてはほかより弱いとみられているが……ファリザードは諸侯のだれからも大きな恨みは買っておらず、諸侯はまだ公家をそこそこ敬っている。少なくとも、いまはまだ。

 そのような言葉で危惧を述べた同僚に“一の指”は内心小さな驚きを覚え、片眉を上げた。


「貴様は薔薇に軽侮の念を抱いていたのではなかったか。『小娘を(いただ)いた惰弱な公家になにができるというのだ。右往左往し崩壊寸前ではないか』と」


「惰弱だと思っていた。あの小娘がホラーサーン公位僭称という手を打つまでは。

 あれが小娘自身のさえずりだろうと周囲のジン共の歌わせた曲だろうと、右往左往どころか、薔薇の宮廷が大胆な挑戦にふみきったことに違いはない。成り行きしだいでは再結束しかねないぞ」


「かれらの挑発は、大胆というより愚かな手だ。どう転ぼうと戦いがわれらの勝利に帰することを思えばな」


 そう言いつつも“一の指”は相手の言葉に一理あると認めた。敵を過度にあなどるべきではない。捕虜を送るついでに、われらが将に判断を仰ぐべきだとかれは結論する。


 “指”たちは夜陰にまぎれ、ヘラス人の少年ひとりを連れて立ち去る。

 かれらが直属する将はただひとりの人族のホラーサーン将である。かれらは煽動・撹乱・破壊・暗殺各種の工作を担当する部隊であり、ホラーサーン軍の汚れ仕事を担うことが多い。

 都合が悪くなればいつでも無かったものにされる部隊ゆえに正式な部隊名は存在しない。ただ存在を知る者からは将の名を冠して呼ばれている。


“カーヴルトの指”と。


   ●   ●   ●   ●   ●


「お尻が痛い。馬に乗りっぱなしで血まみれだよ」


 川と岩山が迫る細い道を駆けぬけたあとだった。都市イオルコスの使節である幼いイオンがべそをかいて訴えたのは。


「鞍ずれくらいいまは我慢しろよ、追いつかれたら死ぬんだから」とポセイドニオスがペレウスの言いたいことを代わりに言ってくれる。

 もっとも、不満たらたらなのはイオン一人ではどう見てもなかった。極限状態の糸が切れたように、ヘラス人使節たちの何人かが騒ぎ始めた。


「ちょっとそこのヴァンダル人に訊いてくれよ、ペレウス。いつこの逃走は終わるんだ。馬に乗る野蛮人ども、しつこすぎるだろう。朝になっても追ってくるなんて」


 都市シフノスの使節エウマイオスが愚痴をもらした。騎行に疲れ、からからに乾いた抑揚のない声で。死の恐怖に間近に接し過ぎて麻痺した声で。

 かれはじめヘラス人少年たちの何人かは、馬の首にかじりついているかのように背筋を丸めて荒くあえいでいる。黒羊族の矢に後ろから狙われることを少しでも避けようとしてのことか、慣れない騎乗に疲労困憊してのことかはわからない。

 ほかの同行者たちはそこまでの醜態はさらしていない。白羊族はさすがに慣れたもので油断なく周囲に目を配っているし、未亡人アーミナでさえ赤子を抱きしめながら背筋を伸ばして鞍に座っている……だが、夜通し騎乗と不断の緊張を強いられて全員がげっそりとやつれていた。


(みんな怯えて、いらいらしてる。あたりまえだ、騎兵に追跡されてるんだから)


 脚を伝う血があぶみに達するほど出血したペレウスは、目がかすむことに危惧を覚えながらも律儀に通訳する。

 質問を受けてサー・ウィリアムが淡々と答えた。


「勝った軍の軽騎兵とはそういうものだ。血をしたたらせ逃げる獣を――敗軍の兵に迫って一匹でも多く仕留めようとする猟犬役だ。通常なら三昼夜でも追ってくるんだから、この程度でとやかく言うな」


「そんなことを聞きたいんじゃない、ヴァンダル人」とつぜん、かんしゃくを起こしたように民主政都市ヘルミオーンのマカルタトスが割りこんで声を上ずらせた。「けっきょく俺たちが逃げきれるのかそうでないのかが問題なんだ! どのみち逃げきれないなら、こんな辛い道のりを我慢する意味なんてないじゃないか」


「敵の矢とおなじくらい、我々の乗っている馬にはもううんざりだ。降伏という手だってある……下手に逃げるから追われてるんじゃないか?」


 ぶすったれた表情で、都市アブデーラのフィロペメンが同調した。

 ヘラス人同胞らの、サー・ウィリアムに憤懣(ふんまん)をぶつける口調にペレウスは眉根を寄せた。


(ここにいるみんなが生きて夜を越せたのはかれのおかげだぞ)


 ――……サマルカンド公家軍の急速な崩壊ののち、黒羊族の軽騎兵による掃討戦が始まった。その無差別追撃から一同を守ったのはサー・ウィリアムであった。ペレウスを始めとして、十六人ものヘラス人の使節たち――結局会えなかったセレウコスは除く――、換え馬の世話をする白羊族の若者数人、それにペレウスが保護したアーミナとアーレの母子という大所帯がここまで逃げおおせるのは、騎士の尽力なくしては不可能だったであろう。かれは追手の小部隊が迫るつど黒い大剣(ナイトシンガー)を手にひとりで道を引き返し、どうやってかことごとくなぎ払って戻ってきたのである。

 しかし……東の空が白み、ついに太陽が登ったとき、「夜が終わっちまった」とサー・ウィリアムが苦々しげに告げたのをペレウスは聞いた。「この大剣の魔具としての力はもう使えん。陽の下ではこれはただの鋭利なダマスカス鋼の刀だ」と。


 そして黒羊族の新たな追撃隊が迫っていた。

 先のことも不安であったが、目下の問題は口々にわめきはじめた


「だいたいよく考えたら僕らはなんで逃げなきゃならないんだ? 追いつかれたら死ぬだなんて大げさだ」


 民主政都市エレウシスのテオグニスが言い、それに言葉を継いだのはなんと王政都市の使節たちの一部だった。


「そうだな……僕たちはティムールに協力した覚えはないんだ。だから公子ラーディーだの黒羊族だの、反乱起こした奴らに恨まれているはずがないじゃないか」


「イスファハーン公家の保護のもとに戻るったって、ファリザードの歓待が居心地よかった覚えがないぞ」


「ああ。どいつもこいつもジンってことじゃ同じなんだ、だれに捕まったって差なんてないだろ」


 ある者はためらいがちに、ある者は大胆に、口々にさんざめく。今度こそペレウスはむっとして途中で通訳をいったん切り、傷の苦痛を忘れて言いかえした。


「同じじゃない。ファリザードはサマルカンド公家の当主たちみたいに残酷なジンではない。

 それに、ぼくらをいま追っている黒羊族はジンではなく人だが、とてつもなく残酷な連中だ。命の危険がないと本気で思うのか? ぼくはあいつらが奴隷に矢を射かけて遊ぶのを見たぞ。サー・ウィリアムが敵を撃退してくれなければいまごろぼくらが的になっていたかもしれないんだぞ」


 この主張に、珍妙なものを見る目つきでかれらはペレウスを見返した。王政民主政の区別無く。ポセイドニオスが困惑の声で言った。


「きみは……ぼくらのなかでも特にジンに心を許していないと思っていたが」


(それは昔のぼくだ。ジン族もきみたちも憎んでいたころのぼくだ)そう言おうとしたとき、サー・ウィリアムが「面倒くせえな」と洩らした。


「ペレウス、伝えろ。降伏したいやつは勝手に下馬して残って降伏を試みろと。逃げるやつに回す予備の馬が増えるならそれに越したこたあない。ただしどんな目にあう可能性があるかは警告しといてやる」


 かたわらを流れる冬の川より冷然と、


「追撃の狂熱のあと、しばしば兵どもは捕らえた者を犯す。女なら十にもならない童女から六十を超えた老婆までだ。男でも、華奢さが女とそう変わらない少年期だったりしたら格好の餌食だぜ、特にこの地のやつらはしばしば男色を行うからな。

 相手が血に酔ういかれ野郎なら勢いで殺されることもよくあることだ。尻を掘られながら刃物で解体されることになろうと自分の選択を悔いるなよ。

 それで、どいつが残るんだ?」


 ヘラス人少年たちはひとり残らず沈黙した。

 サー・ウィリアムはそれを見て言葉を継ぐ。


「いちいち動揺するな。おまえら愚痴を垂れる小僧どもは、おれが責任もって逃がしてやる。おまえらが疲れたと言い出して馬をのろのろ歩かせたりしないかぎりはな。

 さっき言ったように通常なら遊牧民の軽騎兵の追撃は数日にもおよぶ。だが今回はテヘラーンがほんのすぐそこだ。黒羊族とてイスファハーン公家軍の鼻先まで追っていって殺戮を行う気にはなるまい」


 騎士は下馬する。盾と大剣を持って。


「この逃避行、思ったよりもついている。

 ここまで逃げたが、本来ならとっくにティムールの送り出していた数千の先遣隊とかち合うところだ。そいつらの姿が見えないってことは、ラーディーと黒羊族の反乱を聞いておおあわてで移動したんだろうよ。

 隊を導くのはあとは白羊族どもに委ねる、テヘラーン目指してひたすら安全圏まで駆けろ」


 指示を終えると、サー・ウィリアムは刃を鞘から抜きはなった。墨を塗ったような刀身は決して陽光にきらめかなかった。光を吸いこむかのように。


(あとは委ねるだって?)


「サー・ウィリアム、なにを……」


 ペレウスの胸ににわかに濃い不安がきざす。サー・ウィリアムは声をかけたペレウスをふりかえって、にやりと笑った。それはかつて稽古をつけてもらっていた時に見ていた笑顔だった。悪童のような、どこか晴れやかな。


「話してやったことがあるだろ、坊主? 『むかしむかし北の高地(ハイランド)に、老獪な騎士王ロバートがいて……』という物語をさ」


 それはロバート王がまだ王位になかったころ、敵の追撃を受けた日の話だった。ロバートは討手の部隊から味方を逃がすために、敵がひとりずつしか渡ってこれない浅瀬に立ちふさがったのである。討手を相手取ってこれをつぎつぎ討ち、ついに通さず退けたという。


「ロバート王はおれたちアングル人に煮え湯を飲ませた敵で、そのとき追っ払われた討手ってのもアングルの兵だったがな……まあ英雄のひとりにゃちがいないさ。

 見ろよペレウス、おれたちがいま通ったのは細道だ。戦士がここに残れば足止めになるだろう。

 英雄にあこがれたおれにとってはまたとない機会ってやつだ、これはな」


「だめだ!」少年は考える前に思わず制止していた。しかし、サー・ウィリアムは、その反応を予期していたように首を振った。悪童じみた笑みから大人びた苦笑いになって。


「なあ、別の昔話も覚えているだろう。十字軍の補給が絶え、ヴァンダル諸王が帝国の地で略奪や拉致の蛮行を大規模に行うようになった話だ。おれは……それをおまえの前で、僚友たちがやるのを見ているしかできなかったかのように語った」サー・ウィリアムの苦笑は消えていた。人生に疲れた老人のような陰がかれの面に宿っていた。「おれがやったんだ。実行したのはおれだ」


 罪の意識にまみれた告白。


「あのとき十字軍内で徴発(ちょうはつ)と奴隷狩りのための部隊が編成された。指揮官にプレスターのやつがおさまり、あいつの従弟のおれはその補佐役になった。『破壊騎行』……あれを、聖戦に貢献するりっぱな戦術だと思えとプレスターは言った。家々を焼いて敵の民を殺すか拉致することをだ。呪われた異教徒の邪悪な力の元(土地と民)を根こそぎにするのは、善行でさえあるのだぞと。

 部隊すべて、おれの従者までがしだいにプレスターに感化され、敵にならなにをしてもいいと思う獣どもに成り果てた」


「けれどあなたはそれに疑問を抱いたんでしょう。最後には、自分の従者を斬り殺して出奔したんじゃなかったんですか」


「そうだ、そう語ったな……自分だけは善人だとおまえに印象づけるかのように。

 ああ悩んだよ、これは真の騎士の行いじゃないと悩みながら、何度も蛮行に目をつぶった。『これは戦争だ、徹底しなきゃわが軍は勝てない』『王たちの命令に逆らえるか? 大人になるべきだ』『プレスターに逆らうのは主君への反逆だ。騎士の仕事というのはこれなんだぞ』と自分に言い訳しながら陣頭に立って、反抗する農民たちを殺しつづけた。……せめて私的な略奪には走るまいとした、しかしそれに自己満足以上のなんの意味がある? 先祖伝来の家や畑を焼かれる人々にとって、縄で数珠つなぎにされて奴隷として引っ立てられる男女にとって、奴隷にする価値なしとその場でのどを掻き切られた老人や不具者たちにとって、奴隷狩人のひとりのちっぽけな自律などなんの慰めになるだろう? あれこそ偽善だった。

 『最後には』?……流されるまま流されたあげく、我慢できなくなってすべてを放り出して逃げただけだ、おれは。獣よりなお悪い卑怯者だった。おれは真の騎士から遠ざかりすぎた」


 まじまじとペレウスは見つめた。いまやあらわなサー・ウィリアムの本質を――自身で言うように卑怯者で、偽善者で、弱い男。正義感と良心を残し、それでいて罪に手をひたしつづけた、ただの悪人よりいっそう罪深い騎士を。

 友人を。

 沈黙ののち、サー・ウィリアムがぎこちなく発言する。ほんの少しだけ少年じみた笑顔を取り戻して。


「だから、ペレウス、おれに残らせてくれ。再会したあの日、おまえが地下であの女たちを救うために踏みとどまったように……かつてのおれが憧れていた真の騎士の真似事をここでさせてくれ」


 どんな顔をすればいいのかわからず、ペレウスは奥歯を食いしばった。


「あとから来なければ、こっちから迎えに行きます。あなたは以前、次あったらぼくに稽古の続きをつけてやると言った。その約束をまだ果たしてもらっていない。だから、生きていてもらわないと困るんだ」


「死ぬ気はまだないさ。行け」


 追手の気配は、ついにペレウスたちに追いつくことはなかった。


………………………………

………………

……


 ペレウスは息絶え絶えで下馬する。テヘラーン郊外、太陽はまた星々に変わろうとしていた――刻限の寸前。

 農地のある場所には地下水路が張り巡らされている。定期的な修繕のために地上には水路に降りるための穴が開いていた。露出したその穴のひとつにペレウスはひとりきりでよろめき入った。


〔もっと先へ〕


 “虚偽”の声が舞い戻ってきて導く。先へゆくと水路半ばに別の横穴が通っていた。その通路にふみこんでしばらくすると見覚えのある光景が徐々に広がっていった……といっても、あたりを照らす光など(コケ)の発する微弱なものくらいであったけれど。


(前にグールに襲われたのはこのあたりだ)


 めまいでひざをつきそうになりながら、ペレウスはかろうじてふんばった。かれが宿った“虚偽”の体は腹部に深手を負っている。しかも長時間の騎行で揺られつづけて息も絶え絶えとなっていた……が、かれはどうにかうずくまらずにすんだ。いま倒れたら動けなくなるだろう。

 テヘラーン入城寸前なのに、この状態で一同から離れることを同行者たちに納得させるのがいちばん厄介だった。みなをどうやって説得したか、頭がもう朦朧として思い出せない。

 やがて、以前に訪れたときは見なかったものが現れた。

 石造りの扉である。


 着いた。間に合った。冬至の太陽が沈む前に。


 扉にもたれかかるようにして、ペレウスは体重をかけて押し開けた。暗黒の神殿。壁天井をおおう黒い謎の素材、そこに彫られたくねり曲がる細い(みぞ)……邪悪をつかさどる空間のただ中へと、ペレウスは踏み込んだ。


 床の中央、黒い油に似た液体のたまった水盤のなか、入浴しているかのように少年の体が横たわっている。その身は毀たれ、欠けていた――顔と上半身はその一部が、下半身と四肢はほぼすべてが。人体の残骸としか思えないが、それは眠りながら生きていた。


「あ、あなた、いったい……」水盤の横に付き添っていたぼろぼろの格好のナスリーンが、動揺の極みに達した声を放ち、水盤と入り口それぞれのペレウスの姿を交互に見た。ルカイヤは口を引き結んでいるが、こぼれ落ちそうなほどに目を見開いている。

 女ふたりの注目を浴びつつ、ペレウスはよろめきながら自分の本体に近づいた。


 サー・ウィリアムが取り戻してくれた“鍵”の短刀をふところから取り出す。

 液体に浸かった体の、呼吸に上下する白い胸肌に切っ先を擬す。ナスリーンが反射的に止めようとしてくるのを「心配ない」と押しのける。カースィムにとどめを刺したときのように、肋骨を避けて、ずぶりと――


………………………………


 ……次にペレウスが目を開けたとき、かれの体に欠けた部分はなく、なくなっていたはずの手も足もそろっていた。

 身を起こすと、のぞきこんでいたナスリーン、ルカイヤのふたりと顔がぶつかりそうになった。女たちはあわててのけぞったが、それでも怖れと困惑をあらわにペレウスの肢体を見つめるのはやめなかった。


「ふたりとも無事だった?」


「ええ」「……おかげでな」たずねると、我にかえったらしきふたりは気まずさたっぷりの表情でうなずいた。ペレウスは腕を眼前に持ちあげて眺めてみる。皮膚はなめらかな黒い(うろこ)に覆われていた。


(なるほど、凝視されるのは当然だ。これからどうすればいいんだ、これ?)


 顔をしかめたが、鱗は徐々に透けて消え、見る間に白く柔らかくなっていった。皮膚はすぐに通常の人のものと変わらなくなる。ひとまずペレウスはほっとして水盤に立ち上がり、床に下りた。闇のなかでも昼間と変わらぬほどに目が利くようになっている。全身が軽くこころよく、血管から神経のひとつひとつにいたるまで完全に同化していると思われた。


(そういえば胸に突き立ったはずの“鍵”が見えない)


 抜かれたのではなく、扉と鍵が一体になったのだとなんとなく悟った。自分はいまや、開け放たれた門となったのだと。

 しかし――肉体の爽快感とは別に、突如としてさらに苦い思いが舌の奥にこみあげ、ペレウスは新たな渋面をつくった。かれは試練に勝った。肉の破壊と再生をくりかえして人ならざる存在に置き換えられた体を手に入れた。

 そしてたぶん、死の王の忌むべき力をも。


「“虚偽”、これで試練は終わりだな」


 かがみこんでナスリーンとルカイヤの手や足のいましめを解きながら、ペレウスはその女に顔を向けた。壁にもたれて、腹の傷を押さえているジンの女へと。

 “虚偽”はいまや、ペレウスがそれまで見たことのない女の姿へと変わっていた――否、ペレウスは確信した、これが彼女の本来の姿なのだと。

 “虚偽”は、く、と苦痛に体を折ってうめいたのち、


「……ふふふ……そうね」


「……なぜだ、“虚偽”?」彼女に、迷いながらペレウスはたずねた。「なぜ、おまえはここまでしたんだ。自分の命を賭けてまで。ぼくはもう少しでおまえの心臓を間違えて貫くところだったんだぞ」


 一度答えを見つけたと思ったとき、ペレウスはみずからの、つまり“虚偽”の胸を刺しかけた。アークスンクルが直後に邪魔立てしなければ、ペレウスは試練に失敗し、“虚偽”は死んでいただろう。


「この試練はなんだったんだ? なんでこんな二重底の落とし穴みたいな構成にしたんだ?」


 “虚偽”はあっさりと明かした。


「なぜなら試練の合否をさだめる基準は、論理ではなかったからよ」


「……論理(ロゴス)ではない、だって?」


「秩序だった思考によってものごとを導く、そんな能力を求めてはいなかった……あなたは半分だけの正解を論理によって導いた。けれど、仮にあなたが、推理の末に完璧な答えを出してここを訪れても、この神殿は目覚めていないあなたを拒んだはず……」


「最初に悩めって言ってたじゃないか。『その果てに答えが見つかる』と」


 不機嫌に文句を口にこそしたが、ペレウスもいまでは理解していた。あれは、思考することによって答えを導くという意味ではなかったのだ。重要なのは、思考を超越した認識に到達することだった。


「思索の力は道具のひとつにすぎない」“虚偽”は目を閉じながらささやいた。「霊的な適性をこそあなたは示さねばならなかった。魂で真理を()ることが必須だった。閃き、啓示、神との合一、偉大なる預言者や魔術師たちに訪れるそれはさまざまな呼び方をされるけれど……魂が神々の器となれるかの証明なのよ。

 わたしの見いだした竜の仔よ……あなたはそれを示してみせた」


 苦しい息の下で“虚偽”のまなざしはどこか恍惚とするようにとろけ、ペレウスを妖しく見つめた。ジン族の際立った美貌と豊艶な体、花型の髪飾りをつけた蜂蜜(はちみつ)色の髪、アーモンド型の目は緑……少年はたじろぎ、それから、


(どうしてだ?)


 初めて見る姿にもかかわらず既視感がよぎり、ペレウスはまぶたをしばたたいた。急に、呼吸が苦しくなった。竜に見せられた夢のなかで、この女に似たジンをペレウスは見ていた……


(なぜこの女に、大人になったあの娘の面影があるんだ?)


「あは……ねえ、『どうしてファリザードに似ている』あなたがいま抱いた疑問はそんなところかしら?」ペレウスの心を完全に読みきって、次に“虚偽”は聞き捨てならないことを告げてきた。「当然よ。わたしたちが似ているのは」


「……どういうことだ」


 眉を寄せるペレウスにまた妖しい秋波を向けたのち、「助言をいくつかあげる」と彼女は言った。


「勝利の可能性に結びつく唯一の道なのだから、覚えておいて。

 まず、命を奪えば奪うほど、あなたに宿った竜はどんどん強くなる。だから……」


 ペレウスは黙って“虚偽”の秘密の助言を聞くが、言われることの予想はついている。「疫病という竜の力を際限なく解き放つべきだ」と彼女は残酷にささやくのだろうと。強い嫌悪感を覚えながらペレウスは待ち、


「……だから、竜の力を軽々しく解き放ってはならない。あなたは味方を失わぬようにしながら強くならねばならない」


 予想外のことを言われて驚いた。「なんだって?」と思わず口走る。


「スライマーン王が暗黒神と光明神に与えた魔具は、それぞれ釣り合いがとれるように仕組まれている。闇が濃くなれば炎も燃え盛るのよ。暗黒神の魔具である竜が強くなるほどにそれに対応して光の六卵も強くなる……そして、光の六卵のうち、竜に対置された火炎の書(アータル・ナーメ)を身に宿した者はいま〈剣〉の副将となっている。

 あなたが焦って力をふりまき、もしも存在を知られれば、最優先で標的にされるわよ。

 そうでなくとも、〈剣〉には暗黒の神の力だけでは勝てない。わが神には気の毒だけれど、どのような古代の神々でもあのジンには勝てない」


 暗黒光輪(ドゥシュクワルナフ)を戴いた子よと、“虚偽”の声がペレウスの鼓膜を愛撫する。


「あなたは竜の力を足がかりにして戦い、生き残り、味方を増やし、スライマーン・ベン・ダーウドの魔具を集めなければならない。特に『スライマーンの書』と『スライマーンの首飾り』は絶対に」


 ペレウスはくらくらした――阿片(ハシーシュ)をのむ痴愚者のたわごとのような、濃密で壮大なおとぎ話に。


「たしかその話、以前にジオルジロスも言っていたけれど……」


 記憶をたどってそう言うと、“虚偽”は間髪入れずに忠告してきた。


「それよ。ふたつ目、闇の六卵のうちでは“悪思”のジオルジロスと“無秩序”のプレスターには気をつけなさい。かれらはとても危険だから」


 ペレウスは懐疑的に彼女を見つめる。


「あいつらに殺されかけたことがあるからそれはわかってる。でも、おまえが言ってもレモンがライムを酸っぱいとけなしているようにしか思えないぞ」


 しかし“虚偽”は真剣な面持ちでくりかえした。


「あなたにはわたしも“悪思”も同じことを言っているように聞こえるのでしょうが、かれはわたしとは違うわ。かれが追求するのはひたすら暗黒の神の勝利。〈剣〉を倒すためあなたたちと同じ道を歩むように見えても、かれは必ずどこかで裏切るわ」


「じゃあ、おまえはどうなんだ? いったい誰についているんだ?」理解できなくなってペレウスはたずねた。「暗黒の神の使徒なのに、その神に尽くしているわけじゃないのか」“虚偽”のことがますますわからなくなっていた。“虚偽”は長いまつげを伏せ、ささやきをつむいだ。


「わたしは先祖たちがスライマーンとともに創ったいまの世界に尽くしているのよ。暗黒の神だって、現在の世界の調和に一役買っているのだから、それ以上を望まねばよいのにと思うわ。

 ねえ、覚えておいて、わたしの名前はビルキース」


 ブルブル鳥がしめやかな夜の歌を歌うように。


「それがかつての名前。わたしが女王位を退いて、わが一族を残してシェバの国を去ったときだれからも呼ばれなくなった名前……」


「ばかな! 嘘をつくな」


 血相を変えて“虚偽”の言葉に噛み付いたのはルカイヤだった。衰弱した体でよろめきながら壁にすがって立ち、ルカイヤは激高する。「嘘だ、ぜったいに嘘だ! この古老……言うにことかいて、なんという冒涜を……」歯噛みするルカイヤを“虚偽”は醒めた目で見つめた。

 突如発生したジンの女たちの対立にわけがわからず、ペレウスはとほうにくれてナスリーンと顔を見合わせ、ルカイヤに訊ねた。


「どういうこと?」


 ふりむいたルカイヤの面にあるのは単純な怒りではなかった。そこにはまぎれもない畏怖と、決して信じたくないという固い拒否の念が混じっていた。


「ビルキースは神代のジンの名だ。シェバの女王にしてスライマーン王に嫁いだジンであり、彼女の一族は伝説によればイスファハーン公家の先祖だった」ルカイヤは笑いとばそうとして失敗した。「この邪教徒は厚かましくもわれらが遠つ祖を名乗りだした!」


「あら、スライマーン王の后のビルキースじゃないわよ。わたしも彼女の子孫。その名はわたしの代までは、彼女の血族であるジンの女性には珍しくなかったの。……うふふ、でもわたしもあなたたち薔薇の公家の祖のひとりにはちがいないわねえ」


「嘘だ」蒼白になってルカイヤがなおも否定する。ペレウスは一歩踏みこんで切り出した。


「それが本当だったとして、おまえはなぜそんなことを打ち明ける?」


「わたしの名を記憶に残してほしいのよ。わたしは今夜この世を去るのだから」


 ペレウスは凍りついた。少年の驚愕の表情を見て取って“虚偽”が苦笑する。


「あなたときたら無謀すぎるわ。〈霊薬王〉の毒をもらった上にゾバイダに刺されるんだから。これじゃわたしもさすがにもたないわよ」


 この女でも死ぬのか、とペレウスは衝撃を噛み締めた。ついで引け目を感じ、思わず顔を伏せてしまった。彼女が死ぬのはかれの行動が呼び込んだ傷と毒によってで……


(いや、おかしいだろ。騙されてたんだし、ぼくが申し訳なく感じる必要はないはずだぞ)


 にもかかわらず、何も言えなかった。息を詰めていたルカイヤが横で深々と嘆息する。


「ジンは長く生きるが、どんなジンでも殺せば死ぬ。貴様が……貴様がどんな出自だろうと、その点だけは尋常の存在だったわけだ」


 だが、“虚偽”は首をふって薄く笑った。無知な幼児たちを相手にする大人のように。


「殺しても死なないジンもいるわよ。でも、あなたたちはそのジンに勝たねばならない。

 そのために、あなたはスライマーンの魔具を探さなければならない。最初のジンの帝国(ジンニスタン)を制圧して、すべてのジンを支配した、いにしえのスライマーン王の玉座を継がねばならない。〈剣〉(アル・シャムシール)の全力と並ぶのは、あの王の力だけなのだから。

 わたしは最後のシェバの女王……世界を変えうる戦争を予見して以来、この日のために暗黒の神のふところに入って仕えてきた……スライマーン王の後継者を導き、まず竜を与えるために」


「……まさか信じろというのか」


「わたしの言うとおりにしないならどうぞご勝手に。予定調和の未来として、〈剣〉が世界の王(ジャハーンシャー)となるだけよ。わたしが待った意味も、あなたが苦労して試練に勝った意味もなくなるわ。

 本音を言えばわたしはそれでもいい。〈剣〉が勝ったあとの、すべてがかれに厳格に管理される未来もひとつの世界の在り様だから……ただ、未来の選択肢を増やしたかった。

 そろそろわたしは(ねむ)るわ、ねえ、お願い。わたしをテヘラーンに連れて行って。わたしを静かな一部屋に置いて、わたしが去るまでひとりにしておいて。そして、あとになにが残っていようと、それをあなたが持っていて、王子さま。そうすれば、また……」


 言葉を切り、返事を待たずに“虚偽”は目を閉じた。その体からぐったりと力が抜けると、抑えていたものが溢れだしたように血がこんこんと流れて床の溝を伝った。

 ペレウスはぎりっと奥歯を噛む。この女には翻弄されっぱなしだった。それでも、頼みを無視するつもりには不思議となれなかった。


(彼女を安置して、すぐにサー・ウィリアムを助けに行かないとならない)騎士が生きているにせよ死んでいるにせよ間違いなく戦闘は終わっているだろうが……(ファリザードはヴァンダル人のために兵を出してくれるだろうか?)


 ぽうと明かりがともった。見るとルカイヤが手のひらに妖火を灯していて、ペレウスは彼女とナスリーンに見つめられていた。ふたりとも汚れた顔に憔悴の色は隠せなかったが、視線は「今日までのことを説明しろ」とばかりにもの問いたげである。


「……これからやることが山のようにある、地下に入る前のいざこざは後回しにしてくれ。でも、まず、この女を運んでテヘラーンに入城しよう」


 ナスリーンの父親が死んだことも言わないとならないな、と重い気分になりつつペレウスは言った。ルカイヤが少年の下半身を一瞥する。


「そうだな。やることがある。まず、おまえは服を調達するべきだ」


 ナスリーンが困惑したように赤らんだ顔をそむけた。


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