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3-14.真相〈下〉

魔術師としての素質を開花させ

ペレウス真相をつかみとること

 熱気流に乗るようにペレウスの意識は急上昇した。


 少年の精神は鉄板を突き抜け、そこで殺戮を見た。ティムールの大天幕の庭でサマルカンド公家の近衛兵たちがグールの群れと戦っていた。騎馬部族の反乱にそなえての馬防柵、地面に埋め込まれた逆とげ、空堀という幾重もの防御機構は、大猿に似たグールには効力が薄いようだった。魔獣たちは各種の防御機構をかるがると乗り越えてティムールを襲ったのである……が、そこまでだった。

 最初こそ驚愕したのであろうが、迎え討つ近衛隊のジン兵たちはすでに余裕を取り戻していた。かれらはあるいは刀をふるってグールを斬り捨て、あるいは呪印の力によってグールから絶命の叫びを絞りとっていた。優位がどちらにあるかはあきらかであり、魔獣たちは動揺して潰走寸前となっていた。

 その戦場の有り様がくつがえったのは、大鉄板のそばにラーディーの姿が突如としてあらわれたときだった。ティムールのかすれた驚きのうめきをペレウスは聞いた……どこかから……どこから……? 


 自分の口から。


 ペレウスは鉄板の上に座ったティムールのなかにいて、かれの目で見て、かれの鼻で大気の臭いを嗅いでいるのだった。

「兄さん」ラーディーがかれを振り返って笑った。間をおかずそのジンの呪印が浮かび上がった。赤い渦、火の粉の吹雪、炎の竜巻――鉄板のなかで見た光景が地上にも展開され、たちまちグールもジンも人も燃えて踊った……


 〔地獄を見物している場合じゃない。早く助けを呼ばなくては〕


 ペレウスは強く、強く念じた。またしても火をからめた深紅の風がかれを押し流し、矢のようにペレウスの意識は別の肉体へと吸い寄せられた。


 〔今度は誰の体なんだ?〕


 呆然とおのれの肢体を観察してみれば、それは白い亜麻布を奴隷風に巻きつけた少女のものだった。ペレウスは隆起した胸を見下ろし、オリーブ色の肌の手を見下ろし、足元にうがたれた覗き穴ほどの“扉”の向こうにある呪われた火の光景を見下ろしていた。


 〔これは……ゾバイダの体だ〕


 彼女がかれの存在に気づいたのはその時だった。瞬間、ゾバイダの驚愕の思念が、肉体の内側でとなりあったペレウスに強烈に伝わってきた。彼女の悲鳴がたちまち口からほとばしって聞こえた。


「なによあなた、で――出ていって!」


 体の制御をゾバイダに奪い返され、ペレウスは彼女の内側からはじき出された。

 思念は陣のはずれへと流れて、かれはまた別の体に入った。


 見えるのはここでも戦だった。やや遠く、燃える天幕群の前で十字傷の男――黒羊族のクルズルクが弓をにぎりしめたこぶしを突き上げ、馬上から大声を発していた。「青狼族の長の首を目立たせろ」槍先に刺された男の首が右に左に振られていた。「ティムールの兵どもを殺せるだけ殺せ、武器庫に兵営に馬の柵に火の手を上げろ」かれに従う騎兵と歩兵が火と矢を放っていた。「叫べ、叫べ、混乱させろ、見えるすべてを赤く染めろ」煙と血のにおいが夜気を満たし、混乱に飲み込まれてサマルカンド兵たちが潰走をはじめていた。一部の兵はこの期に及んでも馬を引き出して抵抗するべく、即席の柵で囲われた放牧場に殺到していた……が、横手からの黒羊族の矢の雨がかれらを馬ごと殺していった。

 ペレウスが乗り移った男は、大胆にも燃えつつある天幕の陰にとどまってそれを見ていたが、とつぜん自分の頭にもぐりこんできたかれに気づいたようだった。


「だれだ!」はっとして頭を押さえ、険しくなった顔を一瞬後に驚愕にわななかせ「……嘘だろう。おまえなのか、ペレウス?」


 〔サー・ウィリアム!〕声で何者の内側に入りこんだのかを知って、ペレウスは歓喜した。自分をここまで追ってきたサー・ウィリアムこそが “虚偽”の言った助けなのだろうと知れたから。〔あっちにいる。陣の中央だ。ぼくはティムールの持つ大鉄板のなかにいる、ゾバイダに放り込まれて!〕かれの内側で絶叫し、かれの手を動かして、大天幕の方向を指した。だがそこに見えたのは公子ラーディーによる猛火の柱であった。ペレウスは一瞬考え、別の方角へとサー・ウィリアムの指を向けた。


 〔ゾバイダはあっちにいる。彼女は通路を開くことができる〕


 今しがた乗り移ったばかりのためか、彼女の居場所をペレウスはまざまざと感じ取ることができた。サー・ウィリアムが少し考える気配のあと、「あの火のなかに行くよりは、ゾバイダの売女を締め上げるほうがましそうだな」とつぶやいた。まだ何も解決はしていないが、ペレウスは強い安堵を覚えた。

 だが、サー・ウィリアムのなかに留まることは許されなかった。



                  ――来い



 それまでとは異質の力が働き、ペレウスはぐっと強い力で引かれた。何者かに()ばれ、抗う間もなく、ペレウスの意識はサー・ウィリアムの体から引きずり出された。

 とたん、サマルカンド公家軍の本陣が地平のかなたに消失した。周囲の眺めは急速に遠ざかって光芒のごとく流れた。もちろん、急速に移動したのはペレウスのほうであった。

 新たな肉の器に無理やり押しこまれる感覚があった。頭蓋がきしみ、四肢の関節がばきばきと悲鳴をあげ、口から漏れたのは……


 ち。

 ち、ちちち。


 ……新しい体は人ではなく、場所は地上ではなかった。

 ペレウスは前足と後ろ足をけんめいに動かし、小さな巣穴の中をしっぽを垂れて弱々しく這い進んでいた。地リスとなったかれは、ごちそうであるミミズを探しているのではなかった。その元気もなく、死にかけた地リスはただ地上を目指して逃げているのだった。“良くないものがやってくる”生存本能はそれだけを訴えていた。“暗い地の底から死がやってくる”かれの一族は虐殺された。代々穴に住んできたおびただしい地リスたちは、穴のなかで一網打尽にされたのだ。その敵に比べれば、残忍な山猫も、ずるがしこい狐も、上空から狙ってくるタカも、巣穴を掘り起こしてくるラーテルも、もぐりこんでくる怖るべき毒蛇も、どれもこれも問題にならない相手でしかなかった。その敵には牙も爪もなかった。姿そのものがなかった。気付かれないうちに忍び寄って地リスたちに(せき)をさせ、手足を痙攣させ、血の泡を吹かせた。疫病という名のそいつはどこに逃げてもすぐべつの巣穴に入ってきて、最初の咳から死までをわずか半日で進行させた。この何日かで、数百数千の巣穴が驚くほどあっけなく壊滅した。“最初に咳の現れた巣穴……”おぼろに残った人間としての思考回路が、地リスの記憶と結びついて、失敗の原因をささやいた。“あの穴を深く、深く掘りすぎた。あの神殿に届いてしまうくらいに。竜がぼくを養分としてあそこで目覚めつつあるときに、暗黒の神殿に地リスたちは触れてしまった”

 へとへとになってようやく地表の穴から這い出たとき、急降下してきた大型の渡り鳥の一種が地リスの首をがつんとつついた。すぐにぐったりした地リスを足でおさえつけ、鳥はかれの肉をつつきはじめる。死にゆく宿主を見捨てるように、地リスの体から血を吸うノミたちが跳びだして鳥の羽毛へと移っていった。


 ――……地リスの死とともに、ブヨの群れが飛び散るように意識は四方へ散らばった。大陸じゅうに。


 列をつくった雁となり、地平線が弦となって見える空の高みでかれは羽ばたいていた。鴨、シギ、鶴、ムナグロ、アビ、ペリカン、西へ東へ北へと散ってゆく幾百幾千もの鳥たちのなかに同時にかれは存在していた。地でもまた、リスや地リスやネズミやウサギの仲間を中心に、幾千幾万もの獣たちがかれと感覚を共有していた。かれらの食事と交尾と残酷な死を少年はつぶさに体験した。鳥と獣の目が見るものをペレウスは見た。


 あらゆるところで間をおかず次々とペレウスは死を味わった。その死を上回る速度でかれの器となる生物は増えゆき、かれは世界のどこにでも存在するようになっていった。時間が経つほどかれの「入りこむ」能力は増し、豚も牛も犬もラクダも馬もかれの器となった。ノミや蚊は獣の血とともにかれを宿して運んだ。

 空間は広がったが、時の位相はめちゃくちゃに乱れた。現在と交錯して、おそらくは近い未来の光景がちらついた。


 帝国内では戦がいつでも起きていた。とくに小さな戦は、飛び散った火の粉があちこちで炎上するように連続した。

 砦に据えつけられた投石器がうなりを上げると、砦を包囲した軍めがけて巨大な石弾が飛んだ。丸く削られた石弾は地面に落ちてもごろごろ転がって人馬をひき潰した。愛馬黎明(サハール)に乗ったファリザードが鎧を身につけ、近衛に守られながら山道を駆けていた。砂漠の乱戦では弓を背負った両軍が高みをとろうと砂丘を奪い合い、三日月刀で切り結んだ……


 カモメの見下ろす西の海上では帆とオールを備えた船団が波を蹴立てていた。二百隻を超える大規模な船団はあきらかに戦のためのガレー船であり、補給船を従えて、明確な意志をもっていずこかへ突き進んでいた。その船団のかかげる帆にはヘラスの女神の一柱が描かれていた……


 反対側の、大陸の東南かなたの海では、西側の大船団をさらに圧倒する規模の船団が港に集結していた。ただしこちらでは輸送船が主であった。浅黒い肌の人々に操られて、長い鼻と大きな耳と二本の牙を持つ巨獣が物資を運搬してきた。あまりにおびただしい物資の山は小舟に積まれて輸送船団に運びこまれていた。

 希釈されたペレウス自身の意識が“これは重要なことだぞ”と訴え、かれの入っていたマナヅルは目を凝らして眼下の港をもっとよく見ようとした。が、番をしていたジン兵のひとりが空を見上げ、仲間と相談を交わし、すぐに弓矢でかれを射落とした……


 赤い夜の中、サマルカンド公家軍の本陣で、サー・ウィリアムがゾバイダをひざまずかせていた。まわりには斬られてしかばねに戻されたグールたちが転がり、ゾバイダは悔しげに騎士をにらみつけていた。大剣を突きつけながらサー・ウィリアムが命じると、しぶしぶ彼女はうなずいた……


 北方の、水のほとりの王国で、ペレウスやファリザードよりわずかに幼い年頃の少女が祈りを捧げていた。宮廷の庭にたたずむ十字架を抱いた聖女像に対して。「姉様をお守りください」少女のかぶった白いヴェールからは銀色の髪と、ぴんととがった白い耳がのぞいていた。繊細で秀麗な顔立ちや長い耳は、少女がエルフ種、もしくはその血が混ざっていることを示していた。

 やがて目を開けた彼女は、ペレウスの入ったブルブル鳥(ナイチンゲール)が像の上にとまっているのに気づき、目を輝かせ、おいでとばかりに手を差し出した。地リスの死が脳裏をちらりとよぎり、彼女に触れぬようかれは枝を蹴って飛び立った……


 都市イスファハーンには腐った死体と絶望の臭いが満ちていた。ファリザードをおいだしたその都市では扉も窓もふさがれ、市場に行き交う住民は例外なくむっつりと重苦しげな顔つきだった。広い通りには死体の入った袋が大量に並べられ、棺桶屋だけが忙しそうにしていた。ペレウスの入った犬が牙を剥きよだれを垂らして路地にさまよい出ると、恐怖がさっと広がった。「狂犬だ! 新たな病を広めるぞ」かれらは叫び、棍棒をもって犬を殴殺した……


 朝か夕か淡い光が窓から射していた。どこかの城の回廊で、少年と少女が落とし格子にへだてられて向かい合っていた。「だめなんだったら、ペレウス」美しく着飾ったファリザードは立ち尽くし、顔をおおって悲痛に泣いていた。彼女にひざまずいて血まみれでなにかを懇願する黒髪の少年の前で。「こんなの……もう遅いんだ、もう……」少女は足の力が抜けたかのように格子に手をかけ、少年の眼前へひざをついた。少年が格子の目から手を伸ばして少女の肩をつかむと、彼女はうつろな目をして震え、しばらくたってから細い声をかろうじてしぼり出した。「……誓、う」少女の涙と少年の血がぽたぽたと落ちた。声はいよいよかすれ、石の窓枠にとまって覗きこんでいるカラスには聞こえなくなった。やがて少年と少女は両の手のひらを重ね、なにごとかをささやき交わした。最後の唱和だけが耳に届いた。「……日輪と月輪にかけて、誓います」……


 まばらに椰子(やし)のしげる大河のほとりに巨大な都市があった。高い城壁をめぐらせ、百もの塔を持つ輝く都――すでに敵の手に落ちた都。いまその城門から、都を制圧した敵軍が黒蟻のように列をつくって出ていっていた。このときのペレウスは城壁の上でネズミとなってそれを見つめながら、炉の熱と光を感じるように、その軍のジンたちのまばゆい力を肌で感じ取っていた。ことに目隠しをして背を丸めた小柄なジン将や、獅子を模した青い鎧のジン将が馬に乗って出てくると、門から溶岩が流れ出したのかとさえ思われた。だが最後に輿(こし)に乗って出てきたジンの印象はかれらさえ塗りつぶした。太陽のごとく輝く力のその男は、ふいにペレウスの視線に面を上げて城壁の上を見返した……暗い金色の瞳が獣の肉体をつらぬいてペレウス自身を見た。

 見た。

  見た。

   見た。

 ネズミが自分の前足や尻尾を噛みちぎりはじめた。ペレウスの制御はきかず、発狂したネズミは駆け出して城壁から落ち、中にいるかれもろとも地面に叩きつけられた。

 最期の痙攣をするペレウスの心に、とつぜん、どす黒い悪意がにじみだした。

“ジンの帝よ、つかの間は勝ちにひたるがいい。ぼくの力はじきに人やジンをもむしばめるようになる。家畜はすでに冒せるようになった。植物……穀物に手が届く日もいずれ来る。おまえの軍が戦場で無敵を誇ろうとも、生命を殺す数ではぼくの足元にも及ばない。ぼくは死の竜だ。ぼくは文明破壊者ウィースポー・マハルカだ。疫病と飢餓の操作者だ”


 ネズミの死を最後として、一瞬とも一年とも感じられた無数の幻影の展開は閉じた。色も模様もごたまぜで際限なく広がっていたじゅうたんはひるがえって、黒一色の裏地を見せた。


                  ――来い 暗黒の神の召しなれば


 冷たい大地の底に吸い込まれ、散らばっていた意識はひとつきりの肉の器へと収斂した。


(ぁ……ぁ)


 意識が徐々に明瞭になってゆく。

 まだネズミの姿で落ち続けているかのようにペレウスはもがいた。手も足もない、半分解体された芋虫同然の姿で。

 見上げているのは暗黒の神殿の天井である。かれは横たわった水盤で溺れ、馴染み深いあの激痛を味わっていた。

 夜毎の竜の伽だと、すぐに悟った。


(そういえばもう夜だった。ではぼくはぼく自身の体に戻ったわけだ……)


 ぼく自身の?

 巧妙になにかを覆い隠していた膜が突き破られたことにペレウスは気づいた。残った眼球がわなないた。


(ばかな、竜の伽は夢のなかの話じゃないか……)


 じゃあここにいるぼくはなんだ? かつてないほどに鮮明に味わう苦痛、これはほんとうに夢なのか?


(待て、待てよ、 “虚偽”は以前になんて言った? そうだ、「苦痛は真実」「その苦しみの夢にはあなたの真実があるわ、と彼女は言ったんだ……)


 いま味わっているこの苦痛こそが、真実だ。

 悶えながらペレウスは切れ切れに考え、つぎに竜の言葉を思い返した。“朝が来れば汝は忘却する、次の夜が来るまで”竜は言っていた……そうだ、ぼくは昼のあいだ失っていたんだ、夜のあいだここで起きていたことを。苦痛以外のほとんどの記憶を。


「今夜も……起きてしまいましたか」


 感情を抑えた声がすぐそばで聞こえた。見れば少女が水盤の横にひざまずいてペレウスをのぞきこんでいた。しばらく手入れされず傷んでしまった烏羽(からすば)色の長い髪、ぼろぼろの黒装束……汚れた美貌のなか、瞳が慚愧と自責にうるんできらめいている。


「がんばるのです。がんばって」


 舌も声帯も食い荒らされていたが、ペレウスは声なき声でつぶやいた。


 ナスリーン。


 またひとつ、封印されていた記憶の小箱のふたが開く。

 行方不明とされていた彼女はずっとここにいた、この暗黒の神殿に。足に鎖をつけられながら水盤のそばにひざまずいて、苦しむかれのそばで励ましの声をかけ続けていた。それしかできないみずからへの憤りを声ににじませながら。

 ナスリーンの後ろには、同じく鎖で囚われながら沈黙して唇を噛み締めているルカイヤの姿もあった。ふたりとも汚れ、憔悴してはいたが、無事であった。


(彼女たちはあの夜からこの神殿に囚われていた)


 胸の奥で、そこだけは竜に一度も牙を突き立てられなかった心臓が脈打った。どくんどくんと血の音がする。


(あの結婚式場で、ファリザードはルカイヤについて言っていた)


『そういえばルカイヤ……わたしの乳母も数日前からなんだか変なんだ。昼間は気分が悪いと言ってずっと部屋で休んでる。夜には顔を見せるんだけど。少しのあいだだけ』『気のせいかもしれないけれど、おまえとルカイヤからどことなく似た匂いがしているような……もしかしてふたりで会いでもしたのか?』


(それはルカイヤじゃなかったんだ、ファリザード。そのとききみの前にいたぼくもぼくじゃなかった。わかった、完全にわかった、何もかも)


“我が(にえ)よ”


 かれが答えをつかんだとき、唐突に悪霊は訪れた。ナスリーンの鼻先で、彼女の励ましを嘲笑うように黒々とした影となってペレウスにのしかかってきた。

 今夜の竜は、黒い羽の生えた人型の骸骨(がいこつ)だった。手足の先には鉤爪があり、ワニに似た長い尾骨が波打っていた。ナスリーンにもルカイヤにも竜の姿は見えておらず、声もペレウスしか聞いていないようだった。

 痛みがひときわ増した。胴体や四肢をあらためて半ばから断ち切られ、骨と肉と神経がむきだしになった切断面をやすりでぞりぞりけずられるような痛み。思考が寸断されて叫びをほとばしらせる。


 どけ、とペレウスは声の失せたのどで絶叫した。ひたすら朝まで耐えるのはもう無意味だった。時間がない、一刻も早く“鍵”の短刀をここに持ってこなくてはならない。だがどうすればいい? どうやって……もちろん、方法はひとつしかない。


(サマルカンド公家軍のなかに置いてきたあの体に戻る。もう一度だけ、あの偽物の器に)


 初めて自分の意志で、ペレウスは精神を肉体から切り離そうとした。新たに獲得した感覚がそれを導いた。

 めりめりと肉から魂が剥離し……


   ●   ●   ●   ●   ●


「――おい。おい、起きるならはやく起きてくれ!」


 自分を呼ぶ切迫した声。

 まだ燃えていない天幕群に囲まれながら目を開けて、ペレウスは身を起こそうとした。とたんに腹の刺し傷がうめきをあげさせる。かれを覗きこむのはセレウコスを除いたヘラス人の少年たち、それから白羊族の男たち、最後にサー・ウィリアムとゾバイダ……


 騎士は油断なく大剣をゾバイダの首につきつけ、ゾバイダは地面にへたりこんで汗みずくでぜいぜいあえいでいた。ポセイドニオスがかれらを指さした。


「火に巻かれたときはもう駄目かと思ったよ。あのヴァンダル人もきみの知り合いなのかい? かれが魔女をおどして通路をまた開けさせてくれたんだ。

 それに、騎馬部族が逃げるための馬を分けてくれる」


「目が覚めてよかった。一刻も早く戦場から遠ざかるぞ、乗れ」


 サー・ウィリアムが厳しい表情をつくって馬の鞍を叩く。ポセイドニオスがペレウスの腹の傷を指さし、「ヴァンダル人、かれはこの深手だ。運んでいる最中に危険な容態になるかもしれない」とためらいながら言った。ヘラス語を解さなくともサー・ウィリアムは正確にポセイドニオスの懸念を読み取り、そして首を振った。


「だめだ。ペレウス、ティムールは敗れた。じきにもっといかれた奴らがこれまでのサマルカンド公家軍にとってかわる。残ればひどいことになるぞ」


 白羊族たちも半ばやけになったようにまくしたてた。「逃がしてやるから行っちまえよ、おれたちに下ってたティムール公の命令は本人の権力とともに吹き飛んだも同然だ。うちの族長のところに行って、さっさと戻ってくるよう伝えてくれよ」


 ペレウスは嘆息した。


「あなたに任せます、サー・ウィリアム。安全なところに連れて行ってください……ただ、ぼくは“鍵”を取りに行かなければ。アークスンクルという青年が“鍵”を持っているはずです」


「その男とは出会った。“鍵”は回収してある」


 サー・ウィリアムがこともなげに言った言葉にペレウスは一瞬顔を輝かせた。ただ、あまり驚きはしなかった。なんとなくだが、かれならば手を打ってくれているという気がしていたのである。

「助かりました」脂汗を流しながら感謝したペレウスに、騎士は硬い声を出した。


「よせ。礼など金輪際言うな」


 思いがけない拒否にあってペレウスは息を呑んだ。気まずい沈黙がふたりのあいだに横たわった。

 このとき、手を頭の後ろで組まされたゾバイダはまだかれらの横でひざまずかされていたが、きっと睨み上げて口を挟んできた。


「“背信”をよほど信用しているみたいね、“熱”。でもいつか裏切られるわよ。

 この男はいまは偽善者、むかしは残酷な戦士だったわ。“背信”が十字軍にいたころにやってきたことを訊いてみなさいよ、そこらの小悪党なんか及びもつかないわよ。こいつは悪名高い『破壊騎行』部隊だったんだから」


「ゾバイダ。おまえの素性もばらされたいか、それともそのよく動く舌を失ってみるか」


 騎士の持つ黒い大剣がゾバイダの首筋に触れ、彼女は青ざめて唇を噛んだ。


「礼がまだだったな。ペレウスたちを助けるための通路をおとなしく開けてくれてありがとうよ」サー・ウィリアムはペレウスがついぞかれから聞いたことのない冷たい声で言った。「命惜しさとはいえ、加えておまえ自身が元凶だったとはいえ、よくやってくれた。それにおれは女は殺したくない……おまえのような性悪の魔女でも。だからおまえを生かしてやってもいい。余計なことを言わず、せず、おれたちが逃げるのを手伝えばだが。おまえの力はまだ使えるか?」


 ゾバイダは屈辱のあまり震えて涙まで浮かべ、歯ぎしりした。


「できないわ。ほんとうよ、力を消耗しすぎた。火が燃え盛っている環境は闇の力をふるうには最悪なのに、だれかさんに強いられて無理することになったもの」


 ふんとサー・ウィリアムは鼻を鳴らし、手首をひるがえして剣の平でゾバイダの後頭部を打った。彼女が昏倒すると、騎士は「では、ひたすら馬で突っ走るしか……」言いさし、そこで口ごもった。

 かれは一転して緊張の面持ちをペレウスに向け、訊ねてきた。


「……ペレウス、ところで答えはわかったのか? 冬至は明日だが」


 ペレウスはためらいなくうなずいた。


「貫くべき心臓は『自分』のものです」


 騎士の顔は喜色をあらわにしかけたが、一瞬後に不安の色を濃くした。そわそわとかれは足ずりをして念を押してきた。


「おい、それでほんとうに間違いないか? ものごとには裏がある、よく考えねば……」


「『本物の自分の心臓』です」


 胸の前に手を当てる。ここで脈打つ心臓は答えではない。


(これはあの女の体だ)


「“虚偽”」


 ペレウスは呼びかけた。いるはずの彼女に。


「おまえが声なき声によって話しかけてくるとき、ぼくはおまえの意思がぼくの体に入りこんだのだと思っていた。

 ……逆だった。そうだろう? おまえがぼくの内側に入ったのではなかった。おまえの能力が他者に変化することだということをよく考えるべきだった。

 ぼくの思念が夜以外はずっと、ぼくに化けたおまえの体に入っていたんだ。ぼくの本物の体はいまもあの神殿にある。ぼくはその心臓を贄にしなければならない。

 違うか?」


 〔正解!〕


 “虚偽”の思念は、うれしげに響いた。


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