3-13. 真相〈上〉
ゾバイダの罠、ペレウスを導くこと
刺されたと実感したとき、奇妙な、くらりと浮くような心地がした。ゾバイダがかれの腹に刺した小刀をぐりっとねじって抜くまでは。
腹を裂かれる激痛に声をもらしてペレウスは傷口に手をあてた……赤いものがとどめようもなく指のあいだから溢れだした。血の臭いで何体ものグールがかれを囲んでのどを鳴らしはじめる。魔獣どもの頭には袋の残骸がかぶせられており、体には微量の土がついていた。
(この袋は見たことがある、ぼくはかれらを見たことがある、かれらが死ぬその瞬間を)
ペレウスはあえぎ、首をふってゾバイダをにらみつけた。
(そういうことなのか? グールというのは……)
「なぜこんなことを、と言いたそうね。じきにわかるわ。
同意は前もって得たわよ、手を貸してくれるといったじゃない」
微笑む少女の瞳が黒猫の目のように細まって光った。その右手の小刀から血がしたたり、静まりかえった空間に、ぴちゃん、ぴちゃんと音が響いた。
「“血は魔術の媒”。六卵のひとりであるあなたの血は、じゅうぶんな力の源となるでしょう」目を細めて、「……たとえあなたがどっちであっても」
謎めいた言葉のあとで、ゾバイダはもう片方の手をかかげた。
その手がつかむ水晶の器を見て、だれもがぎょっと息を呑んだ……器のなかには液体が満たされ、一個の眼球が海月のようにただよっていた。ペレウスは裂かれた腹をおさえながら嫌悪に顔をゆがめる。
「……目玉?」
「これから、この空間をべつの場所へとつなげるわ。“扉”のようにね。そしてあなたをそこへ送り込む」
器を開け、ゾバイダは眼球をつかみあげた。えぐり取られたばかりのようにその眼球は生々しく、鮮度を保っていた。
「いい、よく聞きなさい。ティムールはジン族を閉じ込めておく特殊な魔具……異空間に存在する牢獄を持っているの。どのような強力なジンでも封印することのできる、ほかから隔絶された場所を」
「……きみがぼくらを誘い込んだ、いまいるこの場のようにか?」ペレウスは皮肉ったが、ゾバイダは「いいえ、こんなちゃちな空間じゃないわよ。わたしの張った結界は一時的なものにすぎない」と否定した。
「ティムールが玉座のように使っているあの鉄板は異空間に通じる入り口よ。あれを通さずに異空の牢獄に行き着くことは、通常ではできないわ。
けれどわたしたちの暗黒の神は、時空神の長子。その暗黒神の力の一端をさずかったわたしは、ある程度は空間に干渉することができる。閉じ込められた者の眼とあなたの血を媒となし、わたしの術によって隔絶された空間へと至ることができる」
小刀の切っ先から眼球へとペレウスの血が垂らされる。しばらくは何も起こらなかったが、やがて羊毛の玉に墨がしみこんでいくように眼球は黒く、黒く、不自然なほどに黒い塊へと変化していった。
「ここにあるのは片眼だけ。もう片眼は、まだ持ち主の顔からえぐり取られていないはず。残ったほうの眼が映す世界を、ここにある片目も見るでしょう。
眼と眼が引きあうことがふたつの空間をつなぐために必要なの。
さあ、“熱”、約束を果たしてもらうわ。あなたはいまからこの中へ入って、牢につながれた者を解き放ちなさい」
ゾバイダはペレウスの足元にできつつある血だまりに眼球を放りこんできた。どす黒くぶよぶよした玉に変わったそれは、血だまりに急速に溶けて――ずぶりと、ペレウスは足がゆっくり沈むのを感じた。
これはまさしく竜卵と同じ……あれよりはるかに小さな“扉の宝玉”だった。
しかし沈む速度は遅く、その気になれば簡単に抜けられそうだった。ペレウスは急速な失血で青ざめながらも、妖術の泥沼から足をあげて乾いた地面に上がろうとした。グールを怖れず馬で駆け寄ってきた白羊族のひとりが馬上からかれの手をつかんで引き上げてくれた。ヘラス人たちも幾人かはあわてて周りに集まってきた。
「ほかの子たち、あなたたちも“熱”といっしょに行くの? それでもかまわないわ。むしろ、何人かはいっしょに行ってもらったほうがいいかもしれない。その子、じきにひとりでは歩けなくなるかもしれないもの」
白羊族が刀や弓をつぎつぎと構える。
「口を閉じろ、魔女め。本性を現したな。サマルカンド公の被保護者に傷をつけた罪を償わせてくれよう」
ゾバイダが笑いもせず手を払うと、一同の馬がそろって激しくひづめを鳴らし、ライオンに接近されたかのように泡をふいて暴れだした。突然の恐慌状態におちいった馬たちに振り落とされかけて白羊族は矢を放つどころではなくあわててなだめにかかり、使節たちは悲鳴を上げた。
「ちゃちな空間とは言ったけれど、わたしと戦うつもりなら侮らないで。
冬至が近いから、暗黒の神の力も増している。ここは蜘蛛の巣のなかよ、わたしの罠に入った時点であなたたちは不利になった。その上でわたしのグールたちと殺し合いをしたいならそれでもいいわよ。
……言っておくけれど“熱”は、その子はわたしに『協力する』と言ったのよ。わたしは約束を守ってもらいたいだけ」
(悪魔に言質を与えるべきじゃないな)
苦渋のしかめっ面になりながらペレウスは訊いた。
「ゾバイダ、自分ではなくぼくの血を使ったのは、わからなくもない……だがなぜ、自分でその牢獄へ助けに行こうとしない? 人に任せるより確実だろう」
一拍置いて、ゾバイダは肩をすくめた。
「血という力の源泉の供給者であるあなたは向こうに、技術者であるわたしはこちら側にいなければならない。わたしまで向こう側に行ってしまったら、空間をつなげる通路を確保しておけないのよ」
(もっともらしい嘘を言う。どうせ『向こう側』にのっぴきならない危険があるから自分で行く気がない、そんなところだろう)
もう全く少女を信じる気にはなれなかった。グールたちを視線でさっと撫で、かれは見て取った真実に胃のむかつきを覚えた。
「もうひとつ。グールは……もとは人なんだな? かれらは、処刑された羚羊族だろう?」
頭に袋をかぶせられ、肩まで埋められて、鞠打ち遊びを模した処刑で槌で打たれて殺された人々。ティムールに謁見した日に目撃した、あの残酷な光景。
「きみは……かれらのしかばねをあまりにも冒涜している。人の骨肉をしゃぶる怪物としてよみがえらせるだなんて。きみたちなんか滅び果てるがいい、暗黒の神もその眷属も……どこまでも命や尊厳を踏みにじるために存在するんだな」
ゾバイダの沈黙は先よりもっと長かった。しかしいかなる逡巡があったにしろ、彼女が再度口を開いたとき、それはかけらも声に残っていなかった。
「それがどうしたの。他人の命や尊厳なんか気にしてられないわよ、こちらはずっと、自分の命と尊厳と権力のかかったゲームをやってるんだから。
あれこれ言わずおとなしく従えばいいのに。お腹に穴が開いたくせにまったく強情な……“熱”、あなた自身のことでは脅しは通じにくいようね。では、こんなのはどうかしら? 白羊族の野営地からさらってきたところだけれど」
ゾバイダが合図すると女と赤子を連れた一体のグールが現れた。心臓をつかまれたかのようにペレウスの顔がこわばる。
(アーミナとアーレ)
未亡人アーミナは気を失っているのかぐったりとしてグールの肩にかつがれており、赤子は毛むくじゃらの大きな手に胴を握りしめられて泣き声を放っていた。
赤子をゾバイダは横目で見た。
「絶望や憎悪、強烈な負の念を抱いて死んだ者は簡単にグールに仕立てることができるわ。
でも残念だけど羚羊族のしかばねは子供のものじゃなかった。子供ならとても従順で良質なグールになるのに」
つっと彼女の指先が赤子のひたいをなぞる。
「とはいえ、さすがにこれは“材料”にするにはちょっと幼すぎるけれどね……わたしが赤子を殺せないと思っているのなら、その認識を改めたほうがいいわよ。
この母子を殺せばつぎはそこの護衛たちを皆殺しにする。あなたの仲間は囚えておいてグールの材料にしてあげる、長い時間をかけた拷問で責め殺して負の念を植えつけてね。
おとなしく行くなら、その瞬間にみんなを無事で解放してあげてもいい。あなたの怪我もあとから治してあげる。最初に言ったとおりエラム公も助けられるわよ。血を流しすぎる前に、早くしたほうがいいと思うけれどね。さあ行くの、行かないの?」
悪罵しかけて、ペレウスは激怒で震える声を呑み込んだ。
――またも、ふわりと意識が浮遊しかけたのである。腰が落ちかけてたたらを踏む。灼熱と化した傷の痛みを再認識させられて呻吟したとき、数日ぶりの無音の声が頭蓋内で響いた。
〔ゾバイダに従って〕
戻ってきた彼女の思念にペレウスは小声で愚痴をたれた。「“虚偽”、あの性悪娘はなんとかできないのか。ぼくがいくら馬鹿でもいまならわかるぞ、ゾバイダがぼくの命を使いつぶす気満々なのは」
〔わたしが口を出しても無駄よ、彼女はあなただけでなくわたしをも害しようとしている。
けれど彼女の敵意はわたしたちの障害にはならない。おそらく、最終的にはだけど〕
“虚偽”の声は限りなく真剣であり、いつものふざけた調子がなかった。
〔わたしを信じなさい。大丈夫、どうにかなるから〕
暗黒神の使徒のひとりに陥れられたばかりでまたもうひとりを、それも“虚偽”を信じる? 傷の痛みがなければペレウスは笑っただろう。
残念ながら信じようが信じまいが、この場では従うしかなさそうであった。
………………………………
………………
……
通路を抜けた先にあった空間は、尋常ではない大きさのドーム状の広間だった。本物の空のように巨大な丸天井には紅玉、青玉、真珠やトパーズ、金剛石が無数にちりばめられている。床は白銀と黄金と銀と雲班石でモザイクが描かれていた。天井や床のそこかしこに点在して輝く角灯が、あまたの貴金属を燦爛と輝かせていた。
場違いなのははるかかなたの壁沿いにぽつんとある山羊毛の天幕で、それは何十人も収容できそうな大きな代物だったが、この空間にあっては鶏小屋ほどにみすぼらしく小さく見えた。
ペレウスに付き添った使節たちは三人だったが、予想外のこの光景には全員があっけにとられていた。
「見ろよ、信じられないほど壁が向こう側だ」
ペレウスの肩を支えるために同道したポセイドニオスが驚嘆の声を上げた。「単なるドームよりもずっと天井の傾斜がゆるやかだ……こんな建築見たことないぞ、梁なしでどうやって天井の重さを支えてるんだろう」
「宝石の星の光が降ってくる、なんて美しいんだろう。本物の天球より幻想的じゃないか」
詩でもつむぐようにうっとりとつぶやいたのは、意外なことに民主政都市代表からただ一人ついてきたコリントスのアッタロスだった。敵意をこめてちらりとアッタロスを見た王政都市シュラクサのヒエロンは相槌を打とうともしなかった。
ペレウスはというと、周りを見回すどころではなかった。
(なにが大丈夫だ、“虚偽”。ぼくは浮きそうだ)
どういうわけかこの空間に来たとたんかれの体調は急速に悪化していた。頭痛と吐き気と悪寒とめまいがひっきりなしに襲い、傷は塩でも塗りたくられたように痛んだ。苦痛が薄れるのは、ときおり意識が薄れてふわりと浮き上がる気分になるときだけだった。傷を強く押さえて、ペレウスは浮遊感をこらえた。
(この局面で気を失うよりは痛いほうがましだ)
ポセイドニオスだけがアッタロスに同意してうなずいている。
「たしかに予想した風景よりましだね、それどころか美しくさえあるな。あの魔女が魔法の牢獄なんていうから、もっとひどい場所を覚悟していたよ」
「その認識を改めるのは早いかもしれない、なにかの危険があるはずだ……」ぽたぽた落ちる鮮血で床を汚しながら、ペレウスは首を振った。苦痛と浮遊感が交互に来て、気を引き締めなければすぐにも意識が飛びそうである。「変わった建築というのは当たり前だ、ここはティムールの所有する大鉄板のなかだそうだから……護衛の白羊族たちはともかく、きみたち三人まで来ることはなかった。いっしょに来てくれたのはもちろん感謝するけれど……残っていてよかったのに」
「なに、あちらが安全とは限らない。あの魔女がグールをなだめすかしている場所に残って君たちを待つより、君のそばにいたほうがましかもしれない」ヒエロンがこわばった笑みを浮かべ、「それより、早く用事を済ませよう。なにをすればいいんだ、向こう側の天幕にだれかいるのか?」とせっついたときだった。
「後ろのほうによく目を凝らしなさい、間抜けな人たち」
ゾバイダの声が足元の“通路”から響いた。
アッタロスが振り向いて小さく声をあげ、目をみはって進み出る。かれの伸ばした手が、ずっとそこにあったらしき物体にぶつかった。
それは床からそびえる巨大な円柱で、根本の太さは大人が十人手をつないで囲んでも囲みきれないほどであった。柱というより塔が近いであろう。表面はつるつるして銀色とも透明ともつかず、言われねば気づけないほど風景に溶けこんでいた。
好奇心をあらわに目を輝かせて触っているアッタロスにならって、ペレウスを支えたポセイドニオスとヒエロンもそろそろと柱に近づいた。
「この柱、透明な材質でできている。玻璃か水晶だ」
「違う。透けているのではなく周りの灯りを映しているぞ。これは鏡の壁だ」
「鏡だと? ばかをいえ、われわれの姿が映らないじゃないか」
「それどころか影がほとんどない……いや、影の濃さが一瞬ごとに変化してるぞ。こんな妖しげな物体、ダマスカス鋼とやらの一種でしかありえない」
仲間たちの議論を聞きながら、ペレウスはひどくなる一方の吐き気をおさえて柱を見上げた。
(ファリザードの兄がこの向こうにいる……? ほんとうに?)
「……おい、穴が!」
目ざといアッタロスがいきなり叫んだ。指差す先、“通路”の穴がぎゅっと収縮していた。かれが蒼白になって床にとびついたときには遅く、すでに“通路”はネズミの巣穴程度の細さとなっていた。人間では通れないのは確実である。
「ちゃんとその柱の封印を解いたら出してあげる。血で六芒星を描きなさい。どんな大きさでもいいわ」
ゾバイダの命令に嘆息してペレウスはたずねた。
「約束どおりそちらに残った全員を解放したか……?」
「ええ、結界の外に放り出したわ。嘘ではないわよ、あいつらにそばにいられると正直邪魔だったもの。それよりも聞こえたの?」
「六芒星を描けと……」
「そう。正三角形と逆三角形を組み合わせた、“スライマーンの封印紋”を。そこに限っては封印を解く紋だから」
ペレウスは呻吟しながら目をふたたび閉じた。
(それは……たしか、あれと同じものだ)
かつて見た、ファリザードの下腹に浮かんだ子宮錠の紋様を思い浮かべた。あまりにも克明にそれは記憶に焼き付いていた……ペレウスは自分の血がべっとりついた手を上げ、円柱の表面にそれをなぞった。
とたんに柱が喚いた。
ぎょっとして全員がのけぞった前で、柱はペレウスの塗った血を嫌がるように身震いし、のたくるように下から上へと波打ち、絶叫した。断崖から落ちる人間の断末魔がこだまとなって谷間にとどろくように、柱のあげる音は空間をめちゃくちゃにはねまわった。血の六芒星は壁面に吸い込まれるように消えていった。
異様な雰囲気にペレウスたちは後じさり、直後に通路から漏れでてくるゾバイダの冷ややかな笑いを聞いた。
「〈スライマーンの牢獄〉のその反応は、やっぱりそうなのね、“虚偽”。そこにいるんでしょ、聞こえてるでしょう? これで試練とやらの内容は確信できたわ。笑わせるじゃない、あなたその子に勝たせるつもりあったの?」
忍びやかな笑声ののち、
「――“熱”、それでいいわ。次はあなた以外の人間の血を使って書かせなさい。急ぎなさい、ティムールの番人たちが来る前に」
ペレウスがヘラス語に翻訳してポセイドニオスに頼むと、かれは持ってきていた三日月刀で手のひらを傷つけて血を滴らせた。ちょいちょいと柱に六芒星が描かれる。今度はなんの反発も起こらなかった。六芒星がすっと吸い込まれて消えるのは同じだが、円柱はたちまち震動を収めて静かになったのである。
「……なんなんだ、いったい」アッタロスが柱を見上げてつぶやくかたわらで、ペレウスの胸にきざした強烈な違和感は急速にふくれあがっていた。
(試練のことで、疑いなくぼくはなにか見落としている)かれは心臓をまさぐるように胸に手をあてた。(ぼくはとんでもない勘違いをしていたかもしれない……また頭がふわふわしてきた、考えられない、くそっ……)
「侵入者だ!」怒号が響いた。ふりむけば武装した一団の戦士たちが、天幕からおっとり刀で飛び出してきていた。円柱が発した先刻の音を聞きつけたのであろうかれらの数は二十人をくだらず、その手の剣には見覚えのある特徴があった。
(山の民だ。ティムールに召し使われて、番人として置かれたのか)
全身から怒気を放って距離をつめてくる戦士たちにポセイドニオスが浮き足立って「ひ」としゃっくりに似た音を出した。かれが抜き身のまま持っていた三日月刀は、余計に相手を刺激する以上の役には立ちそうもなかった。
「やめろ、」ペレウスは衝突を止める言葉を探し、とっさに「ナスリーン姫を取り戻したいなら止まれ!」
殺到する山の民が間近でぴたりと急停止した。驚愕といぶかしみの視線が血まみれの少年に集中し、ややあって、ひとりの威厳ある初老の男が進み出た。黒々とした山羊ひげをたくわえた面長の顔立ちで、眼は厳しくペレウスを見据えていた。
「われらのいた詰所に姿を現さなかったということは、ティムール公の大鉄板を通して来た者ではないな。だが、いったいどうやってそのようなことができた? 叛徒どもに与しているのか?
なにより、わが娘の名を出した貴様は何者だ、小僧」
(娘……ではこの人がナスリーンの父親、アークスンクルの叔父の……)
「あなたが、山の王シールクー……?」
「いかにも。山の民の王だ」
「ぼくはペレウス……あなたがナスリーンの行方を知るために、甥のアークスンクルと組んでさらわせようとした子供だ」
山の王シールクーは顔色も変えなかった――少なくとも表面上は。かれが命令を飛ばすと山の民たちは近寄ってきてペレウスら四人をたやすく取り押さえた。後ろ手に拘束されたペレウスをじろじろと見て、シールクーは訊ねてきた。
「それがほんとうなら、おまえがここに着いているということは、〈霊薬王〉の手勢は頼んだことを果たしてくれたのだな。
ティムール公にここの番を命じられて動けず、〈霊薬王〉と接触できず困っていたところだ。おまえには聞きたいことがいくつもある。手始めに、わが甥アークスンクルはたしかに死んだか?」
ペレウスは不快になった。苦しいあえぎの合間に「知らない」と短く言い捨てる。アークスンクルのことは苦手だった、厚かましくて本心のつかめない青年で信用ならなかった……けれども、それほど嫌いではなかった。
「ぼくにも質問がある……」
「状況がわかっておらぬのか、小僧。おまえたちは捕らわれたのだぞ」
シールクーの指摘をペレウスは無視した。
(すでに六芒星は描いた。あとはもうなるようになれ)
「あなたがたは……イスファハーン公エラムを捕らえたと聞いた」
「……保護したのだ。エラム公は傷ついておった」顔をしかめて首肯したシールクーに、ペレウスは要求した。
「ナスリーンのことを話すには条件がある。あなたがたがエラム公をこの牢獄から解き放ち、イスファハーン公家につくことだ……どうせ今夜、サマルカンド公家は崩壊するぞ……ティムールについていてもいいことはない。
あなたがたがそうしないなら、こちらが協力できることはなにもない」
捕虜の分際でなにを厚かましいと笑われるか、怒りを向けられるかだろうとペレウスは予測した。
だが、反応はどれでもなかった。シールクーはいぶかしげな顔をしたのである。
「そのような誤報が外に伝わっておるのか? エラム公の身柄はわが鷲ノ巣城に保護しておる。かれはここにはいない。ティムール公からはかれの身柄を渡すよう迫られたが、まだ応じてはいないぞ」
(ゾバイダのやつ、徹底して嘘ばかりだった)
半ば予想はしていたがやはり衝撃で、ペレウスは目をきつく閉じた。
「何を話すにせよこれ以上、柱の近くにいるべきではない」
シールクーは断じた。
「おまえたちはなにも知らぬようだ。この“スライマーンの牢”に閉じ込めておるジンは、狂った火竜だ。下手に柱に触るな」
「もう遅い」
魔女の宣告が割りこんだ。
「シールクー、あなたが欲しがっていたその子の身柄をあげるわ。でも残念だけど、あなたの娘の居所を尋問している暇はないわね。
ティムールにはこれで勝てる。“熱”、“虚偽”、あなたたちは用済みだわ。全員そこで炎妖に焼かれて死ぬがいい」
それを最後に声は絶えた。指一本入るかどうかの大きさになった床の穴を呆然としてシールクーが見やる。かれはそれから、ゆっくり顔をあげて柱のほうへ目をやった。
柱は明滅しはじめていた。透明とも銀色ともつかない柱の壁面に細かい紫電がつたわり、やがて輪郭がぼやけ、幻影であったかのように下部から姿が薄れ……
「ラーディー公子」凍りついた山の王がつぶやいた。「おまえたち、なんということをしてくれた」
柱が消えたあとに、ひたいを床にこすりつけて突っ伏す裸のジンの男がいた。
「頭が痛いよ、兄さん」正気の残っていない様子でぶつぶつつぶやくそのジンは隻眼で、片眼はえぐり取られていた。残った目は濁って茫洋としており、涙をあふれさせて頬を濡らしていた。「ティムール兄さん、気持ち悪いよ、ここにはいたくない、ここはジンを痛めつける、スライマーン王の力が僕を苦しめるんだよ……そう訴えたのに、なんでこんなところに僕を入れるんだ……」
ペレウスはにわかに質の違う悪寒を覚えた。
それは単純に体調の悪化がいよいよ危険域に達したからか、あるいは解き放たれたラーディーの姿に本能が警鐘を鳴らしたためか、それともぶりかえした強烈な違和感のためか……
(『この空間はジンを痛めつける』……ばかな、ぼくは人だ。この気分の悪さとは関係ないだろ?)
隻眼のジン、公子ラーディーの背肌に呪印が浮いていく。びっしりと、痩せた腕にも脚にもからんで、ペレウスがそれまで見たこともないほど広範囲に。
赤い火球がちろりと背の上で燃えた。見る間にそれは倍に、その倍に、さらにその倍にとふくれあがっていく。
――“妖火”をペレウスはかつてルカイヤに見せられたことがあった。それは小さく、手のひらに包めるていどの大きさだった。しかしラーディーが出した炎はすでに、象よりも大きな球になっており……
「撤収しろ。天幕の後ろの出入口へ走れ」
蒼白になった山の王シールクーが下した命令は正しい処置であったろう。致命的であったのは、ゾバイダの言うとおり遅すぎたことで、しかも声を出したために注意をひいてしまったことである。
ラーディーが身震いするや火球が破裂して火が飛び散った。ペレウスの頭上を巨大な熱の奔流がごうっと駆け抜けた。顔を上げ、ペレウスは唇を震わせた……
シールクーの腰から上が、すっぽり赤い毛布でくるんだように火に包まれていた。
この世のものとも思えない凄惨な叫びとともに山の王はめちゃめちゃに腕や頭を振り、駆け出し、燃える服を引き裂こうとし、地面に身を投げてごろごろと転げまわった。泡を食った部下たちが駆け寄り、火を叩いて消そうとしたが、“妖火”は怖ろしいほど簡単に触った者に移って悲鳴をあげさせた。二十も数えないうちにシールクーは足を痙攣させるばかりになり、その両の眼球はどろりと顔から融け落ちて火のなかで縮んでいった。
それが幕開けだった。無謀な攻撃にかかった者がラーディーに触れる前に燃えた。逃げようと背を向けて走った者が燃えた。その場から動いた者すべてを火球が飛来して襲った。妖火は分裂してすさまじい速さで四方八方に流れ、たちまち広間の周縁部にまで行き着いて円い壁沿いにぐるぐる廻りはじめた。
裸でうずくまって肌から炎を吹き出すジン、燃えながらそのまわりで踊り狂う人の影、肉と脂の焼けるにおいが充満し、炎熱地獄が現出していた。青い炎、緑の炎、赤い炎がもつれあって、牢獄のなかに幾十も螺旋を巻いた。熱風に乗った火の粉がオレンジ色の吹雪となって舞った。天井の宝石が火を受けてきらめき、角灯の玻璃が溶けて雨のようにしたたった。
ずっとへたりこんで息を殺していたヘラス人使節たちと、三、四名にまで減って同じように床に伏せている山の民だけが、すすり泣く“炎妖”のそばにいながら奇跡的にまだ燃えていなかった。だが、それも時間の問題のように思われた。
「兄さん、兄さん、いま、そちらに行くよ……殺しはしないよ、殺しはしない、僕らふたりだけ同じ腹から生まれた兄弟だもの、兄さんだって僕を殺さなかったよね……だから、手足を全部焼き切るだけで済ませてあげる」
ラーディーがふらふらと起き上がり、みずからのつくり出した火の海をはだしで渡り去っていく。朦朧としてそれを見送り、熱風を避けて床に丸まりながらペレウスはつぶやいた。
「おい……“虚偽”、けっきょく死ぬじゃないか」
ラーディーが去っても四方を囲む妖火の壁は消えず、出入口にはたどりつけそうもない。かれらはまもなく炙られて死ぬか、吸える空気が尽きて死ぬだろう。もしかしたらペレウスはその前に意識を手放せるかもしれない、いまも気を抜くと水の底のあぶくのように意識が舞い上がろうとするのだから。ただし焼け死ぬ苦痛は味わわずとも、その後、魂は永遠に竜の供物にされるという未来が待っている。
(でもこれで、ティムールが好き放題にファリザードを脅迫するのは阻止できたかもしれない……)
公子ラーディー……あの妖火を使うティムールの政敵は、出入口に向かっていた。いまごろは、黒羊族と対峙するティムールの本陣のまっただ中に突然現れているだろう。ホラーサーン将に匹敵するほどのあの能力は、ただ一人でも破壊的な混乱をまき散らすだろう。ティムールは倒されるか、少なくとも大打撃を受けるだろう。もしもティムールとラーディーの両者が生き延びたなら、サマルカンド公家軍は分裂するだろう。いずれにせよ弱体化はまちがいなかった。
ほんの少し安心したとたん、限界が来た。こらえにこらえていた浮遊感がついにかれをさらい、体から引き剥がし……
――ずるりと精神が肉から抜けた
( あ
れ ? )
自分が一滴の水となり、水滴が氷となり、氷が粉みじんになる感覚を一瞬で味わった。ふりかかった衝撃に気だるさはいっぺんに吹き飛んだ。
気づくと――視点が宙空にあった。火焔に取り巻かれてうずくまるヘラス人たちと、その中央で腹の傷をおさえて目をかたくつぶっている自分を見下ろすことができた。
(どうなってるんだ?)
意識を失うのではなく、本当に精神だけが浮いていた。
驚く間にも感覚は煮え立ち、凍え、澄み、尖った。あまりの切り変わりようにペレウスは混乱した――惑うかれの思念によりそうように女の喜びの思念がほとばしっていた。〔やっと開いた、やっと目覚めた、やっと発芽した!〕喜悦する“虚偽”の声は飛びはねるかのようだった。〔わたしは待っていた、あなたが自覚するのを、力に、真実に目を開くのを! さあ行きなさい、竜の力を手に入れなさい、スライマーンの玉座を継ぐために!〕
彼女の興奮につづいて、ペレウスの視界は塗りかえられた。
そして、試練の答えもわかった。