3-12.略奪者
黒羊族の長クルズルクとゾバイダの企みのこと
数名の不運な歩哨たちにゾバイダは叫ぶ暇を与えなかった。
彼女に命じられ、闇から飛びだした五体のグールの爪が歩哨ののどを引き裂く。すぐにグールたちは頭部にかぶせられた袋を破って牙をむき出し、うずくまって新鮮な腸を引きずりだしはじめた。「やめなさい。立ちなさい!」ゾバイダは叱咤したが、生まれたばかりの怪物たちは聞く耳を持たず食事に専念しつづけた。血臭が夜を満たすなか、彼女は舌打ちしてひとりごちた。
――これだから即席で造った出来損ないどもは嫌なのよ。
それでも命令を繰り返すうちに、ようやくグールたちは屍肉を投げ出してのろのろと立ち上がった。ゾバイダは背中を怪物たちに見せないよう注意しながら後じさる。この不出来なグールたちといえどさすがに主たる彼女に襲いかかりはすまいが、絶対ということはない。どれだけ警戒しても足りることはない。目の前のグールたちは能力が低いくせに、反抗的だった。
(もう少し準備期間があれば、そして素材を選べさえすれば、もっとましな性能のグールが造れた。より強靭でより身軽で、なにより従順な……)
竜の力さえあれば、と彼女はいらだった。あの強大な力があれば、即席だろうとなんだろうとグールの出来に悩むことはなくなるだろう。翼や毒の爪をもったグールすら生み出せるはずだ。
「竜はわたしのものとなるべきだった」ゾバイダは呪詛を再度漏らした。
(わたしからその機会を取り上げた“虚偽”にも、横入りしてきたあの男の子にも、報いを受けさせてやるわ)
そう誓うことでゾバイダはひとまず、眼前のグールたちへの不満をのみこんだ――それに、これから会う「手駒」に比べれば、この出来損ないどもはまだしも危険ではないのだ。
比較的言うことを聞くグールの肩に注意して乗り、陣中から抜け出て原野をひとしきり駆けさせる。
人の的――捕虜を大規模に使った追物射の大会という名目で、その「手駒」は部族をひきいて原野に出ていた。
すぐにゾバイダは斥候と出くわし、手駒のもとへと案内させた。男は植えられたざくろの大木の下にいた。顔に傷のあるその若い男は、配下になにごとか低い声で命じたのち、ゾバイダに気づいた。
「あんたか。こちらの用意はできているぜ」
「そう。例のものを渡して」
● ● ● ● ●
ざくろの大木の枝に、死体がいくつも縄で吊られている。
顔に交差する傷のある黒羊族の長クルズルクは、大木の枝にぶらぶらと揺れるしかばねに向け、噛んでいたものを吐き出した。切り取った指を。
「おまえの指は筋張っていてまずいなあ、トルカシュ。
おまえ、ティムールの野郎の間諜になどならねばよかったのに。死肉になったところで美味しく食えもしない奴なんだから」
少年のころからの友であった男の死体にクルズルクは話しかけた。
トルカシュはかれの側近でありながら、サマルカンド公ティムールの手先となってかれの動向を向こうに伝えていたのである……ティムールは、政敵である弟のラーディーを裏切って自分についたクルズルクを、味方に引き入れたとはいえまるで信用していなかったのだろう。
実際、その疑いは正しかった。
今夜これからクルズルクは、ティムールの陣に夜襲を仕掛けるのである。その前にトルカシュはじめ、間諜の疑いのある者たちを吊るさせたのだった。
「トルカシュ、おまえは俺を裏切り、俺の権力を奪おうとしていた。
だから、俺が先におまえの命を奪った。それだけのことだから恨むなよ」
殺して奪う。
クルズルクにとって、それは二十五年間のかれの人生においてずっと実践してきたことだった。
かつてクルズルクは母にべったりの幼児だった。付けられた乳母をこばみ、夜寝るときは母の胸にしがみつき、昼間でもたびたび母親の乳首に吸いついていた。しかし四歳のとき母がつぎの子を孕んだのをきっかけとして、父親によってかれは母から引き剥がされた。『いつまでクルズルクを乳飲み子にしておくつもりだ。あれは一族にふさわしい戦士になるべきだ』族長の息子のひとりである父は母をそう叱責して、クルズルクに一人寝用の天幕を与えた。それでも父の見ていないときなら、昼間に母に抱きついて乳を含ませてもらえることはあった……それもかれの弟が産まれるまでだったが。
弟が産まれて半年ほどしたある夜、隊商が黒羊族の勢力圏内を訪れた。それは裕福な商人たちの一行であり、宿代をはずんだかれらへのもてなしの宴は盛大をきわめた。客人を歓待することに気をとられ、母を含め一族の女たちは、眠る子供や赤子たちからほんの短時間目を離した……
その間に、何者かがクルズルクの弟を連れさった。夜分、首に刺し傷のある弟のしかばねが見つかったのは、砂漠に掘られた浅い穴のなかでだった。穴のそばに隊商の護衛のひとりが酔いつぶれて寝入っており、かたわらには護衛自身の刀が血にまみれて転がっていた。起こされた護衛はすべてを否認したが、黒羊族は半信半疑ながらけっきょく隊商のすべての財産を没収し、商人たちを追放して護衛たちを股裂きにかけた。
母親の乳首をずっと独占していた弟が死んだので、クルズルクは悲しみにくれる母の胸に少しのあいだ戻ることができた。“あのじゃまなやつはもういない。それにしても、殺すってなんてかんたんなんだろう”奪い返した乳の味とともに勝利感をかれは味わった。
悲しみにくれる母がそのわずかふた月後に心労で倒れ、死病を得てあっけなくこの世を去るまではだったが。
六歳のころの出来事だった。
母がいなくなってから、父はクルズルクをあからさまにうとむようになった。赤子の死にずっと疑いを抱いていたのかもしれない。
やがて父は再婚し、クルズルクは馬も弓矢も召使も与えられたが、かれだけが寝る天幕は家族の天幕からさらに遠ざけられた。
黒羊族の者たちは父に嫌われたクルズルクにあえて近寄ろうとせず、かれに接近してきたのは部族中のはみだし者たちばかりであった。そのうちのひとりトルカシュは黄鶏族の血をひく青年だった――それゆえにか黒羊族内で避けられていた。
『おれのおふくろはまだ十五のころ黄鶏族の成人の儀式のためにさらわれたんですよ。おれは戻ってきたときにおふくろが孕んでいた子でさ。おかげで生まれたときからのけものですよ。クルズルク殿、あんたは父親に嫌われてひとりぼっちになったが、おれの親父は顔も名前もわからない。だから親父を具体的に思い浮かべて憎むことすらできない。おれは機会があるなら黄鶏族の男をみんな殺してやりたい、全員殺せばたぶんそのなかに親父がいるでしょう』かれはクルズルクにささやいた、『ところであんたももう十三歳だ。ひとつ、黄鶏族にならった成人の儀式に行きませんか? 他ならぬ黄鶏族のところへね』
トルカシュとともに換え馬を何頭も連れて遠出し、かれらは身分を隠して黄鶏族の集落に訪れた。狩りで迷ったと嘘をついて。その夜にかれらは集落内でたまたま目についた若い女を暗がりに引きずり込んだ。女の声を封じ、クルズルクとトルカシュはことを済ませた……そこまではトルカシュも興奮と満足を面に浮かべていたが、下穿きのひもを締めたクルズルクが最後に刀を抜いて女ののどを掻き切ると、一気に血の気の引いた表情になった。
『そこまでしたら、見つかったとき確実に殺される』
それを聞いて、クルズルクはずっと年上のトルカシュの怯えを嘲笑った。『すぐに逃げるんだから関係ないじゃないか』どのみち客として来て歓待されておきながらそれを踏みにじったのだから、殺そうが殺すまいが捕まると極刑なのだ。集落から逃げる途中、『あんたが殺しちまった女はもしかしたらおれの姉妹だったかも』とトルカシュは不満そうに漏らした……それなら三発もやらねばよかっただろうが、とクルズルクはまた笑った。
十三歳のころの出来事だった。
矢や馬を大人と変わらぬほどうまく扱えるようになってから、かれは父の後妻とその子供たちを殺した。そのまま生かしていれば、将来の相続においてクルズルクの取り分を奪っていくかもしれなかった者たちを……
父が戦争に出ているときに、うかつにも集落から出た後妻と子供たちを追い、無人の荒野で護衛ふくめ全員を殺害した。盗賊に殺されたようにみせかけ、死体は放置して野の獣が食い荒らすにまかせた。黒羊族の古い伝統である人肉食を実践してみたのはそのときである。
のどに流しこんだ後妻の血は、なぜか母の乳を――味がまったく似ていないにもかかわらず――かれに思い出させた。その温かさにぞくぞくするような快感を覚えた。あんたのことをやっと新しいおふくろだと思えたよと、クルズルクは後妻のしかばねに笑いかけた。
十六歳のころの出来事だった。
以来、黒羊族の集落の近辺では、ときおり女がさらわれる事件が相次いだ。陵辱され、殺されるだけでなく、のどを掻き切られた死体には血を飲んだ形跡があった。
十七の歳にはとうとう父を殺した。父はクルズルクを殺人犯と確信して処分しにかかったので、反撃せざるをえなかったのである。
『異常者め、このグールめ、吸血鬼め』死ぬ前の父の叫びがときおり耳にこだますることがある。『人の血と肉を口にしてよいのは、悪神が大寒波をもたらして家畜を殺し、飢饉におちいったときだけだぞ! それも、敵の肉だけだ!』
『肉は肉だぜ、親父殿。いつ食ったって敵も味方も、人も獣も変わりゃしねえよ』クルズルクは父の胸に刃を突き立てながらそう返した。
それからもクルズルクは族長であった祖父をはじめたくさんの者たちを殺し、踏みにじり、奪い尽くした。殺されそうになったことも一度や二度ではないが、かれの戦士としての勇猛さ、戦闘指揮官としての才能、なによりも強運がかれを生き残らせ、周りに戦士たちを集めた。
女には不自由しなくなったが、向こうからすりよってくる女を抱くよりも、人の妻や婚約者や娘や姉妹を奪ってもてあそぶことのほうをかれは好んだ。殺した相手から切り取った生の肉片や血を口にふくむときは、“命そのものを奪っている”という恍惚感が湧いた。
弱いウサギのような相手を一方的に蹂躙するのはとても楽しい。しかし父を殺したときのように、強力な敵と戦ってそのすべてを強奪するのは格別の勝利感がある。
クルズルクは顔の傷に指で触れる。
ある女を犯そうとしたときに、かれの邪魔をしてこの傷をつけたジンがいた……一昨日にそいつに復讐してクルズルクは“ジン殺し”の称号をもつかみとった。
ふと、笑顔をしかめる。殺したジンのそばにいた異国人の黒髪の少年を思い出したのである。外見はどうみても狩られるウサギの部類だったが、まったく怯える色がなかった。そういう「態度の悪い弱者」がクルズルクは大嫌いだった、強敵と同じくらいに。
(あの餓鬼のせいでジンにとどめを刺しそこねた。今夜見つけたら切り刻んでやろう)
どうせあの餓鬼を保護すると言ったティムールとは今夜で決別するのだ。
そうだ――そろそろティムールからなにもかもを奪いに行かねばならない。近くに控えていた部下たちに問うた。
「捕虜どもに武器は持たせたか」
「はい。弓も刀も行き渡りました」
「よし。ティムールの首を叩き落としに行くとやつらに言え。先刻約束したとおり、一度負けた恨みを晴らさせてやると言ってやれ」
大量の捕虜部族の男たちを原野に連れ出したあと、にクルズルクは説いていた。『ティムールを討つためにおまえらも協力しろ』と。
『おまえらは俺の捕虜になり、黒羊族はおまえらを虐待した――ふりをした。それがティムールを油断させるだろうと思ってのことだ』
もちろん、捕虜となった部族の者たちは簡単に納得しなかった。かれらは怒りを抑えきれずにクルズルクに詰め寄ってきた。
『あれがふりだと。われらをなぶるのもいいかげんにしろ、殺すなら一思いに殺せ。
き――貴様はわれらの主であったサマルカンド公子ラーディー様を裏切ってティムールに引き渡した。黒い羊よ、なにをたくらんでいる。なぜわれわれが貴様らに協力すると思うのだ』
本気でなぶって遊ぶならとっくにおまえらの手足の筋を切ってるぞ――こみあげるいらつきをひた隠し、クルズルクは表向き一笑して答えた。
『俺はラーディー殿を裏切ったわけではないぞ。
これしかなかったのだ。あの日、先手を取られてティムールの軍に囲まれた以上、真正面からやつと戦うのは危険だった。裏切ったふりをしてティムールの軍の内側に入り、決起の時期を待つほうが得策だったのだ』
『信じられるか。だいいちティムールに逆らって貴様にどんな得があるというのだ。ティムールの軍内で黒羊族は高い地位を与えられている。それなのになぜいまになって地位を捨て、ティムールにあえて挑戦する危険を犯す』
『はは、日の出の勢いの新サマルカンド公を裏切ることで俺にどんな得があるかって? 考えてみろよ、サマルカンド公家はいつだって、俺たち遊牧民同士の仲を裂いて結託できないようにしてきた……ちょっとでもほかの部族より勢力を伸ばした部族があれば、たちまち危険視され、策略によって孤立させられた。
ティムールがいまいちばん警戒しているのは、サマルカンド公家軍内でもっとも勢力を拡大した俺たち黒羊族だ。遅かれ早かれあいつは黒羊族の力を削りにかかるだろう。おまえらを簡単に俺に与えたのも、黒羊族がおまえらをむごく扱い、子孫までの不和の種をまくと期待してのことだろうよ。
俺はティムールにいずれ粛清されかねない。死にたくなきゃ、先手を打つしかないだろう?』
疑い深くクルズルクを見つめながらも、捕虜部族たちは最終的に説得を受け入れた……
ティムールは驚くだろうか、とクルズルクはほくそ笑んだ。きっと驚くだろう。捕虜として黒羊族にひきわたしたはずのラーディーの兵たちが、黒羊族の指揮下で牙を剥くのを見せてやれば。
……いや、油断はするまい。謀略はティムールにとっても得意分野だ。まったく気づいていないとは思いにくいし、どのような予防策を講じているか知れたものではない。捕虜部族にひそかに意を通じていて、土壇場で逆に黒羊族を襲わせることすらありうる。ぺろりと唇を舐め、クルズルクは配下に命じた。
「捕虜どもには馬を与えるな。ティムールの天幕前の柵や空堀にまっさきに突撃させる歩兵として扱え。万が一やつらが寝返れば、容赦なく後ろから矢を射こめ。
そう各部隊に通達しろ」
言いながら見回して、クルズルクは気づいた。
波打つ黒髪の少女が離れたところにたたずんでいることに。
「あんたか。こちらの用意はできているぜ」
「そう。例のものを渡して」
ゾバイダというその少女は手を出してきた。クルズルクはふところから取り出したものを放る。
それは正十二面体の形をした水晶の器――中に、酒に漬けられた一個の眼球が収められている。
「まちがいなく、これね?」
「ああ、公子ラーディーの目玉だよ」
「よろしい。これで今夜の蜂起はきっとうまくいくでしょう」
水晶の器を腰にさげた袋にしまい、ゾバイダはざくろの木に揺れる死体群に目をとめた。
「ところで、この変わったざくろの実はなんなの? ティムールの手の者たち?」
「そんなところだ。まずくて食えもしない。ざくろなら……」クルズルクは答えながら少女の胸に視線を下ろした。赤子の頭ほども大きくなるファールス帝国のざくろの果実は豊かな乳房の隠喩でもある――詩人は女の美しさを詠むとき、豊満な胸をざくろにたとえて歌う。
(この娘の体は美味しそうだ。二番目のおふくろのように)
クルズルクは血肉と女体への欲求がどろりとあふれるのを感じた。戦闘の前後には肉欲が高まる。
(簡単に目玉を渡してやるのではなかったな)
この少女は得体の知れない妖術師ではあるが、胸や腰まわりの、若さに似合わぬほど熟れた肉置きにはそそるものを覚えた。男の遠慮のない欲望の視線をうけ、不快そうにゾバイダは身をよじり、布の上からも目立つ肉体の線を両腕で隠そうとした。そのしぐさがクルズルクをさらにあおった。
「あんたには夫がいるか? あるいは恋人は、婚約者は?」
つい質問をぶつけていた。ゾバイダが虚をつかれた表情となって「……いいえ」と首を振る。
「父親はあんたを愛しているか? 兄弟は?」
けげんそうにしていたゾバイダの顔が、怒りに眉を逆立てた。
「いいえ! この質問になんの意味があるの?」
クルズルクの興奮はひとまず、通常の情欲の段階でとどまった。ほかの男の手から奪い取る楽しみがない女は、かれにとってただの女にすぎない。
「じゃあ、いい。意味など気にするな」
露骨に醒めた口調になったかれをにらみつけ、ゾバイダはなにかを言いかけた――その視線が潔癖な少女の嫌悪のまなざしから、ふいに冷徹に見とおす目に変わった。
「邪悪な男ね」
クルズルクは失笑しかけた。自分や自分の行いが善悪どちらに属するかなど興味はなかった。かれはしたいようにふるまってきただけだった。
「ご不満か? 同盟を組むなら聖人がよかったか?」
「まさか。いい人でも役立たずなんて求めてないもの。
あなたは自分の黒い魂の命じるまま、思うがままに生きればいい。わたしの役に立つならば、そのうちあなたにふさわしい立場をあげましょう。“背信”か“虚偽”か“熱”か……六卵のどれかがもうすぐ空席になるでしょうから、あなたのためにその座をとっておいてあげる」
「なにを言ってるのかわからねえが、くれるものがあるなら期待しておく」
「ええ……もう攻撃にかかっていいわよ、ほかの味方はあなたに合わせて陣内で蜂起するから」
通達をすませたゾバイダが背を向ける。去ってゆく少女の尻に視線を注ぎながらクルズルクは薄ら笑いを浮かべた。
――与えられるよりもぎとるほうがいつだって好みだがな。
目を離し、命令を待つ自軍の兵に歯を剥いた。
「隊列は組んだな、できそこないども? まずはほかの部族を追い散らす。
狼狩りをはじめるぞ」
● ● ● ● ●
天幕のあいだを戦火が見えないほうへと、十六名のヘラス人使節たちは逃げていた。
護衛してくれる白羊族十六騎に同乗させてもらっている。馬は混雑のなかで並走する、あるいはすれ違う人々を何度となくふみつぶしそうになっていたが、白羊族の手綱さばきはうまくそれらをかわしていた。
「ミュケナイの王子よ、俺たちはいまからあんたらをティムール公の大天幕へ連れていく。そこなら今夜を通してもっとも安全だろうからな」
わかったと答えながら、鞍のうしろでペレウスはふりかえった。
(日が落ちたとたんこんなにも速くめちゃくちゃになるなんて……ゾバイダはどれだけ混乱の種を埋めこんでいたんだろう?)
かれらが後にしてきたサマルカンド公家軍の夜営の一角は、内部からの攻撃を受けて大混乱に陥っていた。あらゆるものがそこかしこで燃え、大たいまつとなって闇を照らしていた。そのあいだを走る蜂起した反逆兵たちが、追われて逃げまわるサマルカンド軍兵の背に斬りつけ、放火と大声で混乱を倍加させていた。追い回される一部の兵は攻撃をしかけてくる者たちに反撃をはじめ、そこかしこで、てんでんばらばらに戦いはじめていた……
規律をたもって進んできたジン族の歩兵隊が防衛側に参加すると、とたんに白兵戦の戦況はひっくり返った。攻撃側が逃げ出して、追うものと追われるものはところを変えた。
それは戦闘のほんの一部にすぎなかった。陣のあちこちで同じことが起きていた。見はるかすかなた、北から東にかけての丘陵地帯ではより激しく火がちらついていた。騎馬部族同士がめまぐるしく駆けながら戦い、戦鼓や角笛や喊声が地をすべって伝わってきていた。
遠くの戦の音を、間近からのかんしゃくを起した声が押しのけた。
「あんまりだ、ちくしょう」都市ネメアのホスチスが悪態をついていた。「やっと奴隷の身から解放されたのにつぎは戦に巻きこまれただなんて!」
「生きているだけましだと思おう。少なくともまだみんな無事だ」
ポセイドニオスが真面目な顔で言い、「……ああ、いや、セレウコスはここにいないけれど」と付け加える。昼間の騒ぎのあと、数々の問題を引き起こしたセレウコスだけがヘラス人一行から離されていたのである。
白羊族からある程度の情報を得ていたペレウスは振り向いて一言添えた。
「セレウコスはティムールのいる軍の中心部に保護されているらしい。ティムールが優勢なら、そこほど防備の堅固な場所もないだろう」顔をしかめて、「いま聞いたところだが、ぼくらはそこに向かっているそうだ。だから、あいつと再会することになるかもしれないぞ」
「その可能性だけで今夜という夜がいちだんと呪わしく思えてきたよ」
都市シュラクサのヒエロンがうんざりした表情を隠そうともせず言った。使節たちのほとんどが同じく愉快ならざる顔つきである。ポセイドニオスが声をはりあげて「まあ、それは置いて、とにかくわれわれの安全は保証されそうだ」と述べ、一同の緊張した雰囲気はわずかにゆるまった。
使節たちが落ち着いたのを尻目に、ペレウスは目の前の白羊族の背中に問いかける。
「だれが攻撃をしかけてきたんだろう?」
その壮年の白羊族は答えてくれた。
「黒い羊のクルズルクだ。いまは青狼族と戦っているようだな」
「……黒羊族?」
ペレウスは耳を疑った。交差する傷のあるクルズルクの顔が脳裏に浮かんだ。(だけど、黒羊族はティムールの忠実な臣だったじゃないか!)忠実? 自分で考えておいてペレウスはすぐに笑いたくなった。二回しか会っていないが、黒羊族の若い長クルズルクはだれかに忠誠を尽くすような人間にはまるで見えなかった。話では、かれは以前の主であったラーディーを裏切っている。また同じことをしてもたぶん意外ではないのだろう。
「クルズルクの野郎は本気で狂ったに違いない。あいつの血まみれの生はこれで終わりだ」
白羊族の男の声には嫌悪と、クルズルクの死への期待がこもっていた。ペレウスはその背にまた訊いた、「ティムールは黒羊族に勝てるのか? ティムールの軍内で暴れだしてる兵は黒羊族以外にもいるみたいだけど」
「ティムール公の側が勝つさ。ティムール公は、軍を構成するどの人の部族に攻められてもいいようにいつでも用意をととのえている。すべての部族がいっせいに離反してかれの大天幕を囲めば危ないだろうが、それはありえない。長年をかけてサマルカンド公家は、部族と部族のあいだにくさびを打ち込んできたからな。
もっとも、『勝ち目がないのにこの局面で裏切る馬鹿はいないだろう』という先入観のせいで、クルズルクの狂気を読み誤ったようだが……狂気はしょせん狂気にすぎない。
よほどのことがないかぎりジン兵の部隊と騎馬部族連合は今夜の反乱を粉砕する。黒羊族は鉄板の下で押しつぶされることになるだろうよ」
礼を言い、ペレウスは得た情報をすばやく頭のなかで咀嚼する。
(これはまちがいなくゾバイダの計画と関係がある。あのクルズルクという男はゾバイダの笛に合わせて踊っているのか? 「よほどのことがないかぎり」……よほどのことをゾバイダは起こすつもりだ。彼女からはまだ連絡がないが、ぼくになにをやらせるつもりなんだ?)
考え続けた――異様な雰囲気に満たされたその場所に突っ込むまでは。
陣内の一角で、騒音に代わってとつぜん不気味な静寂がかれらを出迎えた。ただひとつの灯火に照らされて、沈黙する天幕が延々と連なり、重苦しい闇が一同の上にのしかかっていた。
「……なんだ、ここは? なぜ急にほかの兵が見えなくなった?」
白羊族たちがにわかに警戒を強めた声をだし、馬の足を止めた。馬がおびえた様子でさかんに足踏みする。新鮮な血と腐った血の臭いが鼻に届いた。
瞬間、大猿のような影が天幕のうしろから跳躍した。
足をつかまれそうになって、まだ十歳の都市イオルコスのイオンが悲鳴をあげた。イオンを乗せた白羊族があわてて馬首をめぐらせ、三日月刀を抜いて影に切りつけた。影は悲しげな泣き声に聞こえる叫びを上げ、闇のなかにとびのいて見えなくなった。
一同が恐怖にどよめき、騒然とするなかで、ペレウスは馬から降りた。制止しようとする白羊族をふりきって進み出、声をはりあげる。
「ゾバイダ、いるのか!? いるならグールをひっこめろ!」
亜麻布をまとった少女の姿が現れたとき、ペレウスはほっとすると同時に、深く呼吸して覚悟を決めた。声をひそめて白羊族や使節たちに聞かれぬようにする。
「もう頃合いだ、ぼくがやれることがあるならいま言ってくれ。
ティムールに接近して刺せとでもいうのか」
「まさか。サマルカンド公の身辺警護がそこまで甘いわけがないでしょう。直接殺せるなら自分たちでやってるわ」
「ではなにを? そうだ、ぼくにファリザードの兄君を助けろと言っていなかったか」
「そうね……ええ、助けに行ってもらうわ」
ゾバイダは微笑した、これまでペレウスが見たこともないほど艶やかに。
彼女が歩みよって体を寄せてきたのでペレウスはどきりとして固まった。離れようと相手の肩に手を置いて身を引き、また固まり、目を丸くしてゆっくりと自分の胴体を見下ろした。
腹に小刀が突き立っている。
「うわ」
痛みを認識する寸前にペレウスはつぶやいた。