3-11.海の文明の使節たち〈下〉
一挙二話投稿の二話目。
ペレウス、ゾバイダに怒られること
セレウコスは悲鳴をあげて鼻をおおい、よろよろと後退した。その隙にペレウスはすばやく距離をとって身構えた。
血を鼻孔からつっと垂らしながら顔を上げたセレウコスとがっちりと視線が噛み合う。かれは首まで憤怒に赤黒く染まり、瞳に殺意を燃やしていた――自分もあのような目をしていることにペレウスは疑いを入れなかった。
「きさま!」
吠えるような大音声を発し、右手をふりあげてセレウコスが殴りかかってくる。
とっさにペレウスは左手をあげ、その力まかせの打撃を正確につかんだ。しかし予想以上のセレウコスの膂力は、受け止めたペレウスを後ろに押しやった。たたらを踏んで足がすべり、とっさに自分から転がって受け身をとる。蹴りつけてくるセレウコスを避けて食卓の下に転げ入り、向こう側まで抜けてからはねおきた。
「逃げるな、臆病者め!」怒鳴るセレウコスが食卓をひっくり返した。宙に舞った銀の皿や食べ残しの骨をよけながら、ペレウスはじんじんとしびれた手のひらを握った。
(やっぱり正面からの殴り合いでは不利だ、でも……)
セレウコスはペレウスより三歳の年長である。そのうえかれの身長と肩幅は、同年齢の少年たちは言うに及ばず、平均的な大人をゆうに超えつつある。いま見たその突進とこぶしは、肥満体であり、ふだんからろくに体も動かしていなかったことを思えば速いほうであろう。
だが、ペレウスが間近で見たことのある本職の戦士たちと比べれば――速度に優れたジン族を除外しても――ヒキガエル並みののろさでしかなかった。ましてその戦闘技術は体格にたよったお粗末きわまるもので、殴り方すら初動が見え見えの大振りである。ヘラスの若者の教育には拳闘術が組み込まれているが、セレウコスはそれを真面目に学んではこなかったようだった。
(技術ならぼくのほうがましだ、まだしも)
故郷の宮廷での教育方針上、ペレウスもヘラス式の拳闘術は知らない。だがファールス式の徒手格闘ならばここしばらくクタルムシュに教わってきたのである。
しかし、
「こいつを押さえこめ、アッタロス、ハグノン、マカルタトス!」
セレウコスは天幕の隅へと首をねじ曲げてあっさりと仲間を呼んだ。
「この野郎はおれに手をあげた、こいつの骨をへし折るのを手伝え! はやくしろ!」
呼びつけられてとっさにアッタロスとマカルタトスがあわてて立ち上がりかけた。
だが、都市テスピアのハグノンは動かなかった。
ペレウスの覚えているかぎりイスファハーンではセレウコスとつねに行動を共にしていたにきび面の少年は、ふてくされた顔をしてむっつりと坐したままだった。
アッタロスとマカルタトスもそれを見て、たがいにぎこちなく顔を見合わせ、そろそろと座り直した。
だれの目にも明らかだった。セレウコスのかつての取り巻きたちの面にあるのは、追従笑いに代わって白けきった侮蔑であり、アテーナイへの怖れよりも不信と不満の色が勝っていた。
「なにをぼんやりしている、愚図ども! はやく来いと言っているだろう! ナビス、レオニス、プリアム、おまえらもだ! なにをもたもたやってるんだ、奴隷市で足萎えになりやがったのか!?」
息巻くセレウコスだけがなにも見えていなかった。
王政都市の少年たちが神経質な笑いを響かせはじめた。黙りこんでいた民主政都市の少年たちのだれかがぼそりと言った。「ひとりでやれよ」と。
セレウコスは最初、理解できないという顔をした……その目がぎりぎりと吊り上がり、「屑どもめ。裏切ったな」と吐き捨ててから、かれは大またでペレウスに肉薄してきた。
「殺してやる。きさまが来たとたんこうだ、きさまが裏切りを呼んだんだな」
散乱した食物と食器の残骸をふみこえて、セレウコスがこぶしを振るってくる。ペレウスは今度は受けとめずに腕ではねあげ、空いた脾腹を打った。肝臓をえぐるような突きのあとは即座に跳びすさる。歩法を使って横に回りこみ、ふりまわされるセレウコスの丸太のような腕をかいくぐり、打撃を与えて跳びのく。
(ファリザードのように)
彼女の戦い方を意識し、ペレウスはセレウコス相手にそれをなぞるつもりだった。野牛を狙う狼のように側面や背面に回りこみ、徹底して急所を狙い、一撃与えて離れることを繰りかえすやり方である。体格の勝る相手にとる戦法としては接近戦よりましなはずだった。
だがペレウスはファリザードほど素早くはなかったし、素手では武器の戦いほど決定的な攻撃は加えられなかった。四、五発ペレウスはこぶしを相手に当てたが、とびすさるのが遅れた瞬間に襟首をつかまれた。
「があッ!」セレウコスがおめき、つかまえたペレウスを押しまくる……転倒だけはまぬがれたもののペレウスは入り口の横の木枠に押しつけられた。
獣の目となったアテーナイの使節は、ペレウスの顔を何発か激しく殴った。それから、ペレウスの首に両手をかけてぐいぐいと絞めはじめた。
「死ね。おれの血を流したな。死ね!」
呼吸と血流を阻害されてもがきながらも、ペレウスは見て取った。正面を向いた相手の股が大きく開き、蹴り上げるには最適の間合いにあることを。
セレウコスは反撃を浴びずにすむための攻撃作法すら体得していなかった……かれがそこにうといのは、決して暴力と縁遠かったからではない。これまではアテーナイ有力者の子息というかれの身分がいたぶられる者から反撃の意思を削いでいたのだろう。
あいにく、ペレウスは反撃する型の人間だった。いじめを受けていたときセレウコスに触れられなかったのは、セレウコスがつねに取り巻き数名を従えていたからである。先刻のやり取りをみるかぎり、その取り巻きたちがセレウコスの呼び声に応えることは二度とありそうになかった。
(自分の血を流すのがそんなに嫌いか、セレウコス?
それなら、もっと流させてやる)
ペレウスの足が敵の股間を蹴りあげた。ひるんで前かがみになったセレウコスの鼻にこぶしが突き刺さる。
体重など乗せようもない体勢からの殴打だったが、二度目の顔への攻撃は止まりかけていたセレウコスの鼻血を新たにあふれさせた。
鼻への痛撃は反射的に目を閉じさせ涙をにじませて視界を奪う。覚悟をしていなければ一瞬動きすら止まる。
セレウコスはまったく殴られ慣れていなかった。かれは熊のようにうなりながらとっさに片手をペレウスの首から外し、涙と鼻血をぬぐおうとした。その隙を見逃してまた首を絞められだすまで待ってやる義理はペレウスにはなかった。
渾身の力で喉輪にかかった敵の片腕をふりもぎ・そのままセレウコスの手首を抱えこみ・関節を極めると同時に腰を回転させて敵の体重を崩す――
極めと投げを同時に行う技は、クタルムシュに教わったものだった。
セレウコスは激痛に口を大きくあけ、その場にふんばって鉤状に極められた手首をふりほどこうとした。だが手首への関節技はかけられる者がかかり慣れていないほど効果が増す。手首から破壊の音が響き、悲鳴をあげてセレウコスの上体がかしぎ、泳ぎ、肩から入り口の垂れ幕へと突っ込み……けっきょく、かれはきりきり舞いして入り口から外へと派手に投げ出された。勢い余ってどすんと、天幕を載せた車台から地面へ転がり落ちた音がした。
外から届く唯一神教徒たちの怒号が消える。
「ペレウス」
外に出ようとしていたペレウスに、声がかかった。
見れば王政都市の比較的年長の少年、ポセイドニオス、エウマイオス、ヒエロンの三人が立ち尽くしていた。都市アルゴスの王子ポセイドニオスは銀の皿を手につかんでいる。どうやら首を絞められているペレウスを助けようと接近していたらしかった。
「痛くないのか? 耳から血が出ているが」
「痛いけれどそれだけだ」
たしかに傍目にはひどい有様だろう。殴られた右耳は聞こえなくなっており、頬や右目の上は熱く腫れはじめ、奥歯はぐらぐらして、口内は切れて血が溜まりはじめている。だが動けなくなるような怪我はなく、視界がぐらついたりもしていない。痛みについては、竜に食われるときの何十分の一のぬるさでしかない。
垂れ幕をまくりあげてペレウスは自分も外の地面に降り立った。
静まりかえった大衆がかれを出迎えた。いきり立っていた暴徒たちも、それを多勢に無勢で押しとどめようとしていた白羊族とヘラス人の傭兵二十名も、何が起きているのかわからず戸惑っていた。
ペレウスは地面でもがいているセレウコスを指さして声をあげた。数百人もの唯一神教徒に向けて、朗々とファールス語で。
「唯一神の信徒たち。あなたがたの信仰を侮辱したのはこの者だ」
たちまち怒りを再燃させた群衆のざわめき――それにかぶせるようにペレウスは叫んだ。
「あなたがたの神聖な誓約を破った者が同じヘラス人から出たことについては申し訳なく思う。
だが、かれがあなたがたの教えに改宗し、直後に棄教した経緯については、けっして他のヘラス人使節たちの関与するところではなかった。
この恥知らずな行為はけっしてぼくらの総意ではない」
「だまされるな、異教徒の嘘だ。そいつらみんな神を冒涜しているぞ」群衆のうちから周りを煽動するような野次が飛んだ。「棄教者は都市アテーナイの使節だそうだな、おまえらの代表者じゃないか」
ペレウスは即座に相手の言葉を否定した。
「代表などではない! こいつ自身がそうふるまったことがあったとしても、断じてこいつはぼくらの代表者などではない。
その証にヘラス人自身でけじめをつける。この恥知らずをいまから叩きのめすことで」
(セレウコス、貴様がこの事態に責任をとるつもりがないのなら、強制的にとらせてやる。
命だけは助かるよう試みてやる、だがもし失敗しても知ったことか)
暴動を起こしそうな唯一神教徒をなだめるために必要なことは、これだった。
教徒たちの前で、その原因であるセレウコスをヘラス人みずからが制裁するという儀式が。当のセレウコスが真摯に悔悛を示せばもっとよかったが、かれはそれを拒んだのである。
眼前で棄教者が手ひどくこらしめられれば、唯一神教徒たちはおおいに溜飲を下げるだろう。あわよくばセレウコス本人に対してさえ、それ以上の罰を与える気をなくすかもしれない。もっとも、その点だけは目論見が外れてもペレウスはまったく心が痛みそうになかった。
宣言の直後に、群衆をかきわけて武装した一隊が現れた。サマルカンド公ティムール直属のジン兵たち。様子をうかがっていたのであろうかれらは、ペレウスの宣言を願ってもない落としどころと判断したようだった。
「よかろう。思うにそれが最善だ」かれらはペレウスにうなずき、群衆に念を押した。「おまえたち、それで満足しろ。ほかのヘラス人どもには累を及ぼすな」
その命令にあがった不満の声は少ないわけではなかったが、それは徐々に消えていった。
とくに白羊族がペレウスに武器――前もって用意を頼んでいた片手盾に刃をつぶした三日月刀――を渡してからは、群衆の視線には好奇の色が強まりはじめた。それは見世物に対する強い期待だった。
「セレウコス、雇った傭兵たちに武器を貸してもらうがいい」
冷ややかにうながす。先ほどの渡り合いを思いかえせば、残念ながら素手でやるには少々体重が違いすぎた。なるべく急所に命中させたにもかかわらず、顔面への二発以外、ペレウスの殴打が相手にこたえた様子はなかったのである。
けれども刀と盾を持つかぎりは、負ける気はまるでしなかった。
(貴様はただのけだものだ)
呼吸をととのえて、ペレウスは敵手が立ち上がるのを待った。しかしセレウコスは地面に手をついたところでうつぶせに倒れこみ、わめきはじめた。
「畜生、手首、おれの手が」右手首を押さえてかれは身を震わせていた。「ふざけるな、痛いぞ、折れた、手首が折れた、戦えるわけがあるか!」
舌打ちしかけた。戦意喪失した相手を自分の手で打ちすえなければならないと思うと苦い気分になった、たとえセレウコス相手であっても。
しかし、どのみち制裁は必要なのだ。
「それなら、そこで寝たまま報いを受けろ」
ペレウスが通告すると、セレウコスの目にはじめて恐怖が浮かんだ。
「やめろ、おい、この手だぞ! 決闘などできるか。きさま怪我人相手になにをする気だ」
「報いと言ったぞ、セレウコス。決闘だなどといつ言った?
決闘の形をとろうとしたのはぼくの自己満足にすぎない。ぼくらすべての身の安全のため、貴様の流血は必要だ」
容赦なくペレウスが進み出ると、セレウコスは今度は、自分の連れてきたヘラス人の傭兵たちに向けて必死に命じはじめた。
「ディカイアルコス! おまえの義務を果たせ、こいつを殺せ、おれを守れ! おれに指一本触れさせるな!」
呼びかけられた初老の傭兵隊長は、あからさまに厄介事を聞かされた顔つきになった。兜と灰色の眉の下からセレウコスを見下ろすかれのうんざりした目には、温かみが残っていなかった。
「この蛮族どもの群れがこれでやっと納得しそうな雰囲気なのに、その前で露骨に貴君をかばいだてしろと?
それは賢明な道ではない。思うに、ほどほどに仕置きされてやり過ごすのが貴君にとっても最善だな」
「な……なにを……契約はどうした! それがおまえの存在理由だろうが! わかっているのか、働かなければ報酬はなしだ、栄光あるアテーナイの市民権が惜しくないのか!」
「命よりは惜しくない。一等市民どころか、執政官や王の地位を約束されてもお断りだ。魂が地下に吹っ飛んでから現世の身分をもらってなんの役に立つ?
貴君の口車に乗り、ここまで付き合ったのが愚かだった。愛想も忍耐も尽き果てた。安寧な老後という欲のために部下の命を危険にさらした自分を悔いるのみだ。
同胞を大切にしない者にはついていけない」
捨て台詞を残し、ヘラス人の傭兵隊長はきびすを返して部下ともどもセレウコスから距離をとった。
話が終わったとみてペレウスがまた距離をつめようとしたときだった。
「待ってもらいたい、ペレウス」
天幕から、使節たちがぞろぞろと出てきた。ポセイドニオスがセレウコスを冷えきった目で見つめながら、抑揚のない声で提案した。
「ファールス語はあまりわからないがつまり、こういうことなのだろう? 唯一神教徒たちの怒りを和らげるために、元凶のそいつを見せしめに痛めつけると。
それなら僕らが全員参加したほうが効果が大きいのではないか? 君はもうじゅうぶん取り分を持っていった、残りは僕らにやらせてくれ」
………………………………
………………
……
兵たちのはやしたてる残酷な声が聞こえる。
ペレウスは少年たちの振るう暴力を無感動に見ていた。車台の端に座って、白羊族から手当を受けながら。
怒りでわあわあわめいているセレウコスを少年たちは輪になって囲み、立ち上がろうとするたびに蹴倒していた。王政都市の少年たちよりも、以前の取り巻きだった民主政都市の少年たちの攻撃のほうがずっと容赦無かった。
かつて自分もよく受けた集団暴力の光景はけっして好きになれなかったが、制止する気は起きなかった。かれらが行きすぎてセレウコスを殺してしまいそうにならないかぎりは。
(あそこまで恨まれたのはあいつの自業自得だ)
奴隷市で取り残されたあげく切り捨てられた使節たちがどのような辛酸をなめたかは知らない。ただ、よほどに鬱積した感情がなければ、かれらがこうまでセレウコスへの「制裁」に熱心となるはずはなかった。
「今日のことをきさまらは後悔するぞ、アテーナイの力を見くびっているのか!」顔を青黒く二倍にも腫れ上がらせ、セレウコスはまだ罵っていた。その目が蹴倒してくる者たちを離れてペレウスを見た、ありったけの憎悪をこめて。「かならず絶望させてやるぞ。なにも知らない、きさまはなにも知らないんだ!」
その叫びに、ペレウスの脳裏を疑念がかすめた。今のたわごとはなにか意味があるのだろうか? 聞き出す暇はなく、セレウコスの顔は少年たちのサンダルの下に沈んだ。
どれだけ時間が経ったものか、観衆の半ばが飽きたように去り始めていた。しだいに王政都市の使節たちが蹴りつかれて輪を抜けていき、飽きもせず黙々と蹴っているのは民主政都市の使節たちだけになった。
そろそろ止めるべきかとペレウスが思案しだしたころ、ポセイドニオスが横にきて、汗をぬぐいながら深々と息を吐いた。
「もっと早くこうできていればよかったよ。
ようやく気づいたかなんて言わないでくれ、ペレウス。みなずっとこの日を願っていたのだから」
すっきりした表情のポセイドニオスに、ペレウスは尋ねた。
「なぜ、しなかったんだ? あいつの責任を問うことくらいだれかがとっくにやっていると思っていた」
真剣に不思議だった。奴隷市場に取り残されたときはともかく、ここに運ばれる途中ずっと、使節たちはセレウコスと一緒の天幕のなかにいたのだ。機会はいつでもあったはずである。
ポセイドニオスは苦い表情となってかぶりを振った。
「できなかった。妙なことを言うなと怒られそうだが……セレウコスに威圧されると足がすくんだのだよ。王政都市の使節たちはみな、一度は民主政都市の使節たちに囲まれて、使節団のなかでのセレウコスの優位を認めさせられている」
「ぼくは一度も認めてないぞ」
「だからセレウコスは君を目の敵にしていたのだよ、疑いなく。あいにく、誰もが君ほど折れない意志に恵まれたわけじゃない。かわいそうに幼いイオンなど、最初拒否したばかりに、セレウコスへの服従を誓うまで殴られたそうだよ。
……いや、待ってくれ。そのことであの連中に怒りを抱くには及ばない。
実はもう和解は成ったも同然だといったら驚くだろうか」
そこまで言ってポセイドニオスは「ああ、セレウコスだけは別だが」と訂正した。
「あいつだけは絶対に許さないし、まず歩み寄れそうもない。しかし、そのほかの民主政都市の連中は、話がまったく通じないわけではなかったのだよ。奴隷市で苦境を耐え忍ぶうちに、同病相哀れむでわれわれは接近した。セレウコスの取り巻きたちの話によれば、かれらも最初は似たような経緯であいつの下僕にされたらしい。
なにを言いたいかというと、先ほどの話の要点もそこなんだ。われわれはみなセレウコスへの恐怖を心にすりこまれていたのだ。
だから同じ天幕のなかに入れられても、何もできなかった。罪悪感を感じる様子もなくこちらが従うと疑いもしないセレウコスの傲慢さに接すると、憎しみよりも植えつけられた恐怖が上回って……あいつは愚か者だが、人を支配する一種の才能があるようだ」
「あいつにそんな才能があるとはついぞ思わなかったな」
そんなものをまるでセレウコスに感じてこなかったペレウスは、とうてい信じられずうさんくさげに眉を寄せた。
ポセイドニオスはなおも言いつのった。「真実だ。君が先鞭をつけてくれなければ、みなであいつを裁くことはできなかったかもしれない。一番暴力をふるわれてきた君がまるで萎縮しておらず、天幕に入ってくるなりセレウコスを糾弾したのを見て、僕らははじめてあいつの呪縛を解くことができたんだよ」と。
そのときだった。「あった!」はしゃいだ声が響いたのは。
半殺しにされてあおむけにのびたセレウコスのかたわらで、民主政都市ヘルミオーンのマカルタトスが、小さな何かをかかげていた。
「やはり身に着けていたぞ、印璽だ!」
ポセイドニオスの顔色が見る間に変わり、「まずい! あ……あれは今度こそ王政都市派が持たなければ」と口走る。(あれ? 和解は成ったも同然じゃなかったのか?)とペレウスは困惑せざるをえない。
すでに向こうではマカルタトスに向けて、都市シフノスの王族エウマイオスが手を出していた。
「それが使節団の正式な報告書を作成するための印璽だな? こっちに渡すんだ」
「渡せだと? おまえら、なんのつもりだ」マカルタトスは警戒で顔をゆがめたが、
「君ら民主政側が指導者として選んだのはセレウコスだったじゃないか。こんな手ひどい過ちを犯しておいて、そちらがまだそれを持つ資格があると思っているのか?」王政都市の六人の少年たちは、自信に満ちて民主政都市の八人に向き合った。「印璽はペレウスが持つべきだ。かれが王政都市派の盟主だからな」
争いの場に自分の名前を出され、柄にもなく仲裁の言葉を考えていたペレウスは目を点にした。そういえば故パウサニアスが、王政都市同盟の指導者としてかれが選ばれたという話をしたが……
民主政都市の少年たちは絶句して王政都市の少年たちをにらみつけていた。かれらはやがて視線を、座っているペレウスに移してきた。かつてセレウコスの指示でペレウスをいたぶる「遊び」に参加してきたかれらは、ペレウスに見返されると、戦々恐々と顔をそらした。
“復讐されるかもしれない”とかれらが考えているのだと気づき、ペレウスは急に息苦しくなった。
(そりゃ恨んでいたけど、徒党を組んでいびろうとは思わないぞ。第二のセレウコスが出現したみたいな態度はやめてくれ)
派閥争いどころじゃないだろう――そう言おうとしたとき、幸か不幸か、その場からかれを引き離す者があらわれた。
黒髪の少女が、険悪にずかずかと天幕前に踏みこんできたのである。ゾバイダは怒気を抑えようとしているようだったが、明らかに隠しきれていなかった。
「来て」
――……他の少年たちが目を丸くする前で、ペレウスは腕をつかまれて連れ去られ、昨日のように小さな天幕のひとつに押し込まれた。
人目から離れたとたん、ゾバイダは地団駄をふんで怒りを解き放った。
「なんて余計なことしてくれたのよ? 連絡を待ちなさいと言ったのに!」
突然の激怒にペレウスはわけがわからずたじろぐ。平手打ちくらいは飛ばしかねない剣幕でゾバイダは続けた。
「あの騒ぎはどんどん大きくなり、日暮れまでには数千人が集まっていたはずだった。武器をもって天幕を囲んだあの信徒たちのなかに、わたしは自前で用意した兵をたくさんまぎれこませていた。
日没が来るか、ティムールが本格的な介入に踏み切ったら、『棄教者をかばうティムール公こそ信徒の敵だ』と煽動して一気に反乱に巻きこむ手はずだったのに! なにを勝手に首突っこんで、しかも解決してくれているのよ!?」
冷や汗がペレウスの腫れた頬に伝わった。
自分の行動は、反乱計画の助けになるはずだった怒れる信徒たちを満足させ、飽きさせ、円満に解散させてしまったわけである。仕込んだ策をまるまるひとつ消滅させられたゾバイダが怒り狂うのはわからなくもなかった。きまり悪くなって内心でぼやく。
(そんなこと言ったって、その計画がうまくいっていたら使節たちが犠牲になっていたかもしれないじゃないか)
それにしてもセレウコスの棄教を利用したこの策をどの時点から仕込んでいたのだろう? ペレウスが疑問に思う前で、ゾバイダは親指の爪を噛んだ。苦渋の声で彼女は言う。
「こうなったら食屍鬼兵を急造して補うしかないわ」
ぎろりとそこで彼女はペレウスをにらんだ。
「材料をろくに選べず調教の時間もない以上、制御することが難しい質の悪いグールしか造れない。
あなたには予定通り働いてもらうけど夕闇のなかの『味方』には気をつけることね、グールというのは子供の肉が大好きなんだから」
人名録の要望があったので活動報告のほうに載せました。
ネタバレを避けて淡々とした情報しか書いておりませんが。