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3-10.海の文明の使節たち〈上〉

ゾバイダからの連絡を待たされるペレウス、仲間の窮地に首を突っ込むこと

 早朝、天幕から出ると原野の冷気が強く肌を刺してきた。いまのペレウスには気にもならない……つい先刻までの“竜の伽”では肌どころか臓物まで引き裂かれていたので。

 眠りから醒めたあと外に出たのは、大声が聞こえたためだった。


「矢の仕上がりが遅いぞ、犬ども」


 暁の光のなか、離れた丘で黒羊族の兵が立っている。その前に並んでいる歳老いた者たちが見えた。


「黒い羊の鳴き声をあそこで聞かされているのは、複数の捕虜部族の代表だ」


 気がつくとペレウスの隣に白羊族の兵ひとりがいて、同じ方向を見ながら教えてくれた。「鳴き声」がまたも響く。


「もっとだ、もっと、もっと矢を造れ! 一万本そこらでは一回の戦のぶんにも足りないのだぞ。遅い職人には、そいつの親類縁者をひとりずつ奴隷市場に売ると伝えろ。もしくは犬らしく的に使ってやる」


 白羊族の見張り兵が、ぺっと唾を吐いた。


「毎日毎日、朝っぱらからうるせえこった」


 その面に浮かんだ苦々しい色は必ずしも安眠を妨害されたためだけではないようだった。

『あんたを逃してやれないことをわかってくれ』失意の声がよみがえる。昨晩、白羊族の兵たちに聞かされた白羊族の実情である。


『あんたを逃せば、罰として俺たちも黒い羊に妻子ごと与えられかねない。

 すでにティムール公の命令で、白羊族の大部分がこの遠征に伴わされている。女も幼児も老人も。かろうじて奴隷や捕虜の扱いじゃないというだけで、扱いは使いぱしり同然の惨めなものだ。昔からだがな』


『……なぜ? 白羊族の立場がそこまで弱いというのは……』


『親愛なる皮剥ぎ公の呪いのおかげでジン兵に立ち向かえないからさ、当然だろ。

 ジンの貴族どもはもとより、そのせいで白羊族はまわりの騎馬部族からも一段劣る境遇を強いられてきた。

 馬の乗り方や弓矢の腕では、俺たちは赤駱駝族だろうと青狼族だろうと、他の遊牧民(グッズ人)諸族に決して劣りやしない。だが、奴らがジン兵を味方につけてやってくれば、こっちは逃げるしかないんだ。

 そして、黒い羊は最悪だ。

 今回のあいつらはがっちりサマルカンド公家と結びついている。俺たち白い羊が逆らえるものじゃない』


 黒羊族についても聞いた。かれらはもともとサマルカンド公子ラーディーと同盟を結んだ部族だったのだという。

 しかし今回、有力家門出のクルズルク――顔に十字傷のある残酷な男――の一派がラーディーを裏切り、ティムールについてかれに勝利をもたらした。

 その結果が、黒羊族が大量の奴隷を所有する現状ということだった。ティムールは屈服させたいくつかの部族を、クルズルクの求めるままに投げ与えたのである。厳重な監視のもと、捕虜たちは背骨がゆがむほどの労役を課されているという噂だった。


(ゾバイダ、きみはどうやって、この日の出の勢いのティムールや黒羊族を引きずり下ろすつもりなんだ?)


 ペレウスは彼女から反乱計画の細部をいっさい聞いていなかった。「明日の夜を待ちなさい。手を貸してもらわねばならないことはその時が来たら説明するわ」としか言われていないのだ。不安だけがつのっていく。

 なにしろ、また一夜過ぎたのだ。

 心臓を捧げる刻限は残り三日にまで迫った。このまま冬至の日没が来たら、魂は竜に取られ、苦痛に満ちた夜々が永遠に引き伸ばされて続くことになるだろう。


(それまでに“鍵”の短刀をふたたびこの手につかまなければぼくはおしまいだ。

 あれはアークスンクルに取られたけれど、かれが現在どこにいるのかわからない。その生死すらも)


 早く“鍵”を探しに行きたかったが、いま逃げてもすぐ連れ戻されるだろう。

 やはりティムールへの反乱が起きるのを待って、混乱に乗じるのがよさそうだった。

 それに……唇を噛む。

 サマルカンド公ティムールはファリザードに苦悩を強いる存在である。その野心は是が非でも砕いておきたかった。


(それでも、一日とはいえただ待つのは耐えられないな。なにかやることはないだろうか)


 そこで思い至ったことがあった。

 ペレウス自身以外のヘラス人使節たちのことである。奴隷市に売り払われていたかれらはティムールによって買い上げられたという。


(この陣に集められているのならば会うことができるかもしれない)


 ペレウスの構想は、使節たちをなるべく集めてヘラス本国への請願書を出すというものだった。かれ自身が試練にしくじって退場することになっても、ほかの使節にそれを話しておけばだれかが遺志を継いでくれるかもしれない。

 しかし、使節たちに会いに行きたいと告げたとき、白羊族の兵は複雑な顔をした。


「ああ、ほかのヘラス人どもね……連中を乗せた移動天幕は今日にもこの本陣に追いついてくるだろう。

 だが近づくのはやめたほうがいい。危険だからな」


 あまつさえそう言われ、「なぜ!?」とペレウスは仰天した。危険?


「事情はやつらが来ればわかるさ。昼頃になるだろう」と兵は肩をすくめた。


………………………………

………………

……


 ティムールのものほどではないが巨大な移動式の天幕は、まだ車台から下ろされてもいなかった。それを牽かされてきた数十頭の牛が、それぞれの前に置かれた飼い葉桶に首を突っこんでのどを鳴らしている。

 松明の燃えさしをふりまわして、護衛兵たちが怒鳴り散らしていた――遠巻きに車台を包囲した、殺気立ったおびただしい兵たちに向けて。


「散れ、散れ!」


 緊迫した空気を払いのけようとファールス語で声を枯らすその護衛兵たちは、長槍、剣、円形の盾といったヘラス式の武装を身につけた部隊だった。馬の毛のついた突起をにょきと立てた特徴的な(かぶと)は故郷の地で見慣れたものである。

 ヘラス人の傭兵たちは声を枯らして警告した。


「貴様ら、よく考えろ――この少年たちの身柄は、貴様らの主君であるサマルカンド公の保護下にあるのだぞ!」


 それに対して、包囲側の冷ややかな空気は突如として熱い怒号に一変した。


「公家の威をかる気か、異教徒ばらめ!」


「サマルカンド公家がそんな奴らを守るはずがあるか。ティムール公はそいつらを裁くために呼んだに違いない」


「もし本当にティムール公が背教行為に出るならば、唯一神はかれを見離すだろうさ」


「神に唾を吐いた呪われた犬どもを渡せ」


「ヘラス人どもを全員裁きにかけてやる!」


 続けて口汚く罵りたおす者あり、黙りこくって目を光らせる者あり、はてはこれみよがしに刃を抜き放ってかかげてみせる者さえいた。ペレウスは群衆の剣幕にたじろぎながらも瞠目する。包囲側の兵たちの顔ぶれはサマルカンド公家軍の縮図だった――部族ごとに微妙に違う服装、訛り、肌や目の色……だがこの雑多な集団は、ふだんの公家軍よりもよほど意思が統一されていた。ヘラス人への敵意という一点で。


 なんとなくではあるがペレウスは悟った。この包囲側の兵たちに共通する一点を。かたわらの白羊族の兵がかれの直感を裏付けるようにつぶやいた。


「これはまずい……サマルカンド公家軍ではさまざまな神が奉じられているが、信徒がもっとも多いのはやはり唯一神の教えだ。この騒ぎは拡大するぞ」


(やっぱり、この兵たちは全員が唯一神教徒なんだ)


「そろそろ事情を教えてもらえる? なんでこの人たちはここまでヘラス人に怒っているのかを」


 ペレウスに問いかけられた白羊族は、天幕に視線をそそぎながら教えてくれた。


「われわれがあの小僧どもを都市ヘカトンピュロスで買い上げたとき、かれらは全員が唯一神の教えに改宗していた。

 まあ、その選択は無理もない、そうすれば奴隷商に受ける待遇は格段にましなものになるのだから。上等な奴隷をあつかう市場に出され、比較的まともな客に売られるという程度だが。

 しかし……かれらは改宗したにも関わらず、都市所有の奴隷に落とされていた。それも特に労役のきつい場所で作業する最底辺の扱いだ」


「どうしてそんなことに?」かれらが奴隷に身を落とした理由が理由だからだろうか――とペレウスは考えたのだが、


「最初に改宗し、最初に客に買われていった一人が、ほかの者が自由になる前に“棄教”を宣言した。なにがまずいかわかるな?」


 ペレウスは一瞬にして青ざめた。もちろん、理解できる。


「その最初に改宗した者を買ったのは、あそこにいるヘラス人の傭兵隊だったようだ。

 どんな餌で釣ったのか知らないが、そいつは傭兵どもに自分の身柄を買わせ、護衛の契約を結ぶことにも成功した。とたんにそいつは公言したのさ、『自分の入信は単なる方便だ』『蛮族の教えになど本心から入るわけがないだろう』とね」


「だれだ、そんな愚行をやったのは!?」肺から出るようなうめきをペレウスはしぼり出した。やりそうな者に見当はついていたが。


 ……たしかにヘラスにおいては、意に沿わない誓約を無効とみなして破棄してもよい場合がある。生命を脅かされたり人質を取られたりの他に選びようのない状況で、他者に強制された誓約がそれである。

 ――しかし、ペレウスは帝国の宗教事情もいまではあるていど理解していた。


 唯一神教において棄教は最悪の行いである。ただ異教徒であるよりもはるかにまずいのだ。異教徒であるということは、いまだ真の教えに目覚めていないだけだと見なされる。しかし、いったん唯一神の教えを受け入れながらそれを撤回するのは、神に対する裏切りであり、まぎれもない邪悪の所業となるのだ。


 ペレウスがなかなか唯一神教に入らないのはそれが理由でもある。あとから撤回するくらいなら、最初から一貫して拒むほうが双方にとってまだしも道義にかなった道なのだ。


「唯一神教徒たちは当然、かんかんだ。

 棄教を宣言した者はヘラス傭兵に守られて無事ですんでいたが、まだ奴隷市場に残っていた他の使節たちがとばっちりを受けた。

 俺たちは棄教したやつをふくめて使節すべてを確保して、ここに至る天幕に押しこんだがね……見ての通り、この話が広まるにつれ、護送車の周りには教えに熱心な一部の兵たちが群がってきたよ」


 群衆の数を目で数えながらペレウスは白羊族に質問した。


「……それで、護衛についた人数は?」


「二十人といったところだな。

 参考までに、サマルカンド公家軍のうち半数ほどの兵が唯一神教徒だ……対応を誤ると大変なことになるぞ」


「全軍の半数だなんて脅さなくとも、ここに集まった人たちだけで脅威だよ!

 護衛がたった二十人? なぜそれだけしかいないんだ? ティムール公はなぜ兵を増やさないんだ」


 集まっている信徒の数は、現時点でどう見ても五百人はくだらない。護衛兵もろとも使節たち全員を八つ裂きにするにはじゅうぶんすぎる数だ。

 白羊族の兵は声を低めて答えた。


「今朝まで俺の仲間たちも護衛についていたようだが……見ろよ、いま天幕の周りにいるのはヘラス人傭兵ばかりだ。ティムール公の命令で、俺たちはいったん目立たないように引っ込まされたのさ。

 手の内にした使節がまさか棄教なんてやらかしていたとは、ティムール公にとっても誤算だったんだろう。棄教者の身を積極的に守っているだなどと見られれば、ティムール公は自軍の半分から反感を買うことになりかねない」


 どうもティムールは自軍を掌握しきれているわけではないらしかった。その基盤は思ったより脆弱のようである。


「たぶんティムール公がまもなく使節たちを御前に呼び出してなんとかするだろう。だが、……あんたにやったように毒で言うことを聞かせるにしろ、何人かすっぱり首をはねて見せしめにするにしろ、公としては生ぬるい対応はできないだろうさ」


 それを聞いてペレウスは決意した――黙ってティムールに対応を任せるよりは、解決のためやれそうなことを自分そして使節たちでまずやってみようと。


………………………………

………………

……


 天幕を包囲した群衆は、そこから出てくる者がいれば押し寄せかねない荒ぶりようだった。しかし自分たちの側に混じっていたペレウスには注目せず、かれが白羊族数名とともに包囲側を出て天幕へ近づいてから、ようやくけげんな視線を背中に当ててきた。


「そこで止まれ! おまえはなんだ」


 群衆と同じくらいに殺気立ったヘラス人の傭兵に押しとどめられる。ペレウスの服装が帝国風のものだったこともあり、ヘラス人だと気付かれなかったようだった。


「この子もヘラスからの使節だ。中のやつらに危険はないから通してやれ」


 かれらと顔見知りの白羊族が告げる。ヘラス人傭兵たちの張り詰めた雰囲気はゆるんだが、「ばかなことを。注目されていなかったなら息をひそめていればよかったのに」とヘラス語でつぶやいて嘆息した。

 天幕はともすれば車台からはみ出しそうなほど大きい。ペレウスが車台によじ登ると入り口は一歩のところにあった。

 戸のかわりに垂れ幕でおおわれた入り口をくぐる。


(みんないた)


 そこに集まっていた顔ぶれを見回して、ペレウスは安堵の息をついた。使節たちの大半がそこに集っていた。自分と、先に出会っていたクラテロスとリュシマコスを合わせれば全員が揃う。


 王政都市の使節七名。スカルフェアのアレクサンドロス、イオルコスのイオン、デルフォイのアドメトス、アルゴスのポセイドニオス、アブデーラのフィロペメン、シフノスのエウマイオス、シュラクサのヒエロン。

 民主政都市の使節九名。コリントスのアッタロス、ナウプリアのレオニス、エレウシスのテオグニス、メガラのプリアム、レスボスのナビス、ネメアのホスチス、ヘルミオーンのマカルタトス、テスピアのハグノン……


 そして、アテーナイのセレウコス。


 ペレウスは異様な光景を見た思いがした。

 ほとんどの使節たちは隅に座りこんでいた。外からの罵声の嵐にある者は耳をふさいでおびえ、ある者は陰鬱にうなだれて。

 だが、ただ一人、セレウコスだけはかれらから離れ、中央にある食卓について平然と羊の骨つき肉に食いついていた。咀嚼のたびにその頑丈なあごが肉汁を皿にしたたらせた。

 ややあってセレウコスは顔を上げ、ペレウスと目を合わせてきた。


「はん、だれが来たかと思えば」かれは銀の皿に骨を投げ出すと、脂に光る太い唇を歪めた。馬鹿にするような、ふてぶてしい薄ら笑いがその満面に広がった。「小便王子じゃあないか。つまり死なずにいたわけか?」


 のっけからの不快な物言い――そのあだ名で久々に呼ばれたな、と思いながらペレウスはかれの顔を正面から観察する。短髪、目は落ちくぼんで小さいが鼻と唇は大きく、あごはがっしりとして、セレウコスの顔立ちはよく言えば精力的な面がまえである。整ってはいないが極端に悪くもない。

 肉がつきすぎてさえいなければ。

 まだ十六歳そこらの若年であるにもかかわらずセレウコスの頬は牛の喉袋のようにたるみ、あごは二重にくびれていた。かれがげっぷをして背もたれに体重をあずけると椅子がきしんだ。

 ペレウスは疑問を口にした。


「前より太ったな、セレウコス。奴隷の身だったわりには不思議なことだ」


 セレウコスは明らかにいらついた表情になった。かれは鼻にしわを寄せ、食卓の上に組んだ足をなげやりに載せた。


「知ったふうな口をきくな、運動不足だとこうもなるってもんだ。

 奴隷の身分からはさっさと抜けだしてやったが、ヘカトンピュロスじゃ館から外出させてもらえなかったんだ……蛮族どもはいまいましいほど攻撃的だし、おれの護衛どもはびびってこっちに街を歩くことを禁じやがった」


 乾いた声でペレウスは確認した。


「最初に改宗を言い出した使節というのはやっぱりあんただったんだな、セレウコス。

 そして、ヘラス人の傭兵に買い取ってもらって保護されたところで『棄教する』と言い出したのも」


 セレウコスはにやりとして腕を広げた。


「おお、だれから聞いた? そのとおり、おれは見事に蛮人どもをだましてやったってわけだ。あいつらが連日、館の前に集まって馬鹿面ならべて怒鳴り散らすのは実に胸のすく光景だった」


 そこで舌打ちして、


「しかしおれにも誤算があった。傭兵連中の無能さだ。あいつら、おれをアテーナイまで送るどころか街から脱出させることもできなかった。あげくサマルカンド公家が使いをよこしたら簡単に抵抗を断念するんだから、牛馬の糞以下の役立たずどもだ。

 いつでもこうだ。能力のある人間は足を引っ張るやつらに囲まれてるんだ」


 ペレウスは不快な驚きを覚えた。セレウコスは本心から、周囲の無能さに愚痴を垂れているようだった。

 同時に、天幕の隅で聞いていたヘラス人使節たちの身じろぎが目に入る。それまでおびえて無気力にうずくまっていたかれらはこのとき、全員が口元を震わせてセレウコスを見つめていた。王政都市も民主政都市も区別なく、セレウコスの取り巻きだった者たちまで、瞳に憎しみを燃やしていた。

 その視線に気づかず、あるいは故意に無視してセレウコスは声を張り上げた。


「おい、小便王子、おまえどうやってここに来た? あのファリザードがおれを買い取るために金を出したんだな? うん、それは当然だ――あんな餓鬼でも本心ではおれの価値をちゃんとわきまえているだろうからな」


 答えず、ペレウスは問いかけた。


「一人で逃げるつもりだったのか」


「あん?」


「他のみんなが改宗を迷っているあいだにあんたは改宗を言い出し、一人だけ高級な奴隷が売られる市場へと回してもらったそうだな。そしてあんたはヘラス人傭兵たちに買われるや、唯一神教を放り捨ててファールス人たちを怒らせた。

 まだ奴隷市場にいるみんながそれによってどんな扱いを受けるか、考えもしなかったのか?

 ヘラスへは自分だけ帰るつもりだったのか?」


 詰問に、セレウコスは「黙れ」と舌打ちした。


「おまえはやっぱりものの道理がわからない馬鹿だな。そこの隅にいる他の奴らと同じように」


 信じがたいことにセレウコスの声にも表情にも、当然の道理を説くいらだちこそあれ、悪びれの色はなかった、ほんのかけらも。


「いいか、おれがいればじゅうぶんなんだ。考えたらわかるだろう。

 アテーナイはヘラスの半分を直接握る盟主で、ヘラス諸都市中の最強の都市だ。ミュケナイだの、テーバイだの、使節がここに来てもいないがスパルタだの、おまえらの都市は全部アテーナイにくらべたら取るに足りないネズミの巣でしかないんだ。帝国だって、条約を結ぶべき相手は当然紺碧の海の支配者アテーナイだと考えるだろう。つまりこの使節団ではおれが帝国と条約を結ぶことになるんだから、おれの無事が最優先されるべきなんだ。

 重要なのはおれの命だ。おれの無事こそが公益なんだ」


「その理屈で、あんたが原因で奴隷の境遇に落ちこんだ使節たちを見捨て、この地におけるヘラス人の名誉を傷つけてくれたってわけか?」


「他の馬鹿どもがおれみたいにうまく蛮人どもをだませなかったからといって、なぜおれが気に病む必要があるんだ? あいつらの能力の問題だろうが」


 際限のない論理の飛躍と、そこから導きだされる徹底した自己正当化――ペレウスは、こみあげる激怒とは別に慄然たるものを感じた。


(これまでこいつを下劣な愚か者にすぎないと侮っていたかもしれない)


 ペレウスの目の前にいる少年は、まともな人間なら当然備えていてしかるべき廉恥心や責任感をまるで欠如させていた。

 理解させられた。セレウコスにとっての神はある意味で自分自身なのだ。アテーナイの使節であるかれの言うことに他の使節たちが従順に従い、かれだけは最大限に欲求を満たし、かれだけは非難されることがなく、かれだけは助かる、それがセレウコスにとっての当然の正義なのだ。


(ぼくがどう言ってもこいつは自分の非を認めない――いいや、非があると認識すらしないだろう)


 会話は明らかに無駄だった。とはいえ、この問題はすぐにも解決せねばならなかった。

 ペレウスは興奮をできるだけ鎮め、声を抑えて言った。最後に一回は説得を試みるつもりだった……こんな奴にも道理を飲みこむいちおうの機会は与えられるべきだと思ったから。


「セレウコス、とにかく棄教は撤回しろ。あんたは唯一神教にやってはいけない最悪のことをやったんだ。それが帝国人にどれだけ悪印象を与えたか、ここを囲む人々を見れば一目瞭然じゃないか。

 あんたは謝罪を外の人たちに伝え、真摯に悔いるところを見せるしかない。そうでなければみんな、巻き添えで殺されるかもしれないんだぞ。サマルカンド公がぼくらを必ず守ってくれるとは限らないんだ、かれは自軍の兵の半ばから敵意を向けられる危険を冒すことになってしまうから……」


 立ち上がったセレウコスの吐いた唾が、かれのまぶたの上にかかった。


「何様のつもりだ、おまえのような娼婦の息子がおれに説教する資格があると思っているのか? 調べたぞ、古い王家だなどと言いながら、きさまの母親は体を売る淫売だったそうじゃないか。なぜだ、なぜそんな汚い血でおまえは臆面もなくおれに反抗してきたんだ? 栄光あるアテーナイの一級市民として生まれたおれがそんなにも妬ましいのか?」


 ペレウスの胸ぐらをつかみあげてがくがくと揺さぶり、セレウコスは猛然と罵倒してきた。その声は天幕の内部にわんわんと響き渡った。


「撤回しろだなどとよくも命令したな、売国奴め。きさまはヘラス人の誇りを忘れて蛮族の肩を持ち、このおれに野蛮な教えにどうあっても入れと説くのだな。しかもいま、蛮人がおれを殺すかもしれないなどと脅迫したな。このことは次の報告書で本国に伝えてやる。息子が蛮習に染まりきったと聞けば、ミュケナイの王位にあるきさまの親父はさぞ悲嘆にくれるだろう。ぜったいにそうしてやるぞ――」


 黙ってペレウスは顔をぬぐい、

 相手の鼻面にこぶしを叩きこんだ。



一挙二話投稿の一話目。

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