3-9.悪の華〈下〉
ペレウス、唯一神への改宗を迫られること
大天幕をかこむ馬防柵の内側は、ジンの楽士の奏でる洗練された笛や竪琴や六弦琴の音に満ちている。柵の外側からは相変わらず遊牧民たちの鳴らす太鼓の打音が届いてきており、ジンと人双方の楽の音は混淆して独特の調和をなしていた。
ジンたちが座る色とりどりのじゅうたんは、漆黒、金襴、五色、七色、格子、唐草紋。彩なす布だけでもじゅうぶんに王者の天幕の周辺は飾り立てられていた。ティムールの手にした象牙の杯には豹が彫られている。豹の斑点は象嵌された黒真珠、豹の瞳は翡翠であった。
鮮血の臭いのたちのぼる鉄板の上にサマルカンド公は座している。かれの目は、鉄板の下を見つめてあごを食いしばっているペレウスを観察していた。唇を薄く開けてのこぎり歯をのぞかせ、かれは言った。
「おまえの処遇をあらためて決めねばならんな。
ミュケナイの使節ペレウスよ、おまえはもうわれらが教えに帰依したか、それともまだヘラスの偽りの神々を信じているのか?」
故郷の神々を侮辱されて――ティムールには侮辱の意図すらなかったであろうが――ペレウスはむかっ腹を立てた。が、視線を落としたまま不承不承答える。
「唯一神の教えに入ってはおりません」
「それはよくない。大変よくないな」ティムールはぶどう酒を舐めるようにちびりと飲んで言った。
「『邪教と疫病は根絶されねばならない』初代サマルカンド公であり、余と同じ名を持つティムール公はかく言われた。悪しき教えは永遠の地獄の火に焼かれる熱病であり、不信仰の徒は哀れにも侵された病人のようなものだ。
ちょうどいい、都市ミュケナイの使節よ。わが前において改宗せよ。真の神に仕える手順を済ませて、信徒としての新しい生を歩み出せ。おまえの新しき名を余みずから考えてやろう」
(なんという余計なお世話だ)
もし内乱が起きなければペレウスは、ファリザードと結婚するにあたってどのみち改宗を選んだだろう。だが、ファリザードのために自分で覚悟して改宗するのと、ティムールに強いられて改宗させられるのとでは違いすぎた。
言葉につまったふりをして地面を見ながら、いかにして改宗を免れるかをペレウスは必死に考えはじめた。頭をひねったとき、朝や先刻に見たサマルカンド公家軍の陣容が脳裏に浮かんだ。“炎と光輝の神”をはじめ、遊牧各部族が信じるいくつもの神々の像や紋章旗……
「……あなたの兵たちは、必ずしも唯一神に帰依していないように見えましたが」
この程度の口答えですら、たぶん極度に礼を失することだったのだろう。周囲のジンの目が非難と蔑みをこめて自身に集中するのをペレウスは感じた。
ティムール自身は、久々に反抗する者を見たとばかりに目を軽く見開き、むしろ面白そうに答えた。
「いかにも、サマルカンド公領の民には異教徒もまた多い。そこの白羊族のようにな。
かれらは己の信仰をなかなか捨てようとしないのだよ。もし余がかれらにその古来からの信仰を急に捨てさせようとすれば、かれらのうちいくらかは反旗をひるがえすだろう。しかたないのでゆっくりやるさ……
だがおまえは話が別だ、すぐにでも改宗せよ。心配せずともおまえだけということはない。おまえの同胞たちもじきにそうなるのだ」
(ぼくが「反旗をひるがえす」ことがないとでも思っているのか?)
だが反駁するより先に、
「……『同胞たちも』?」
その一点を聞きとがめて、思わずペレウスは繰り返した。それに対して、
「ああ。余が都市ヘカトンピュロスより奴隷の身から買い上げてやったヘラス人使節たちもことごとく、真の教えに帰依させてやるつもりだ。確保してこちらに移送してきている途中だが、すでに何人かは揺れているらしいぞ。
かれらは明日には着く。おまえが先に改宗しておけば、かれらも目覚めやすくなるだろう」
「これは……不法な行いです!」
今度こそペレウスははっきりと抗議を口にしていた。
「ぼくを含め、ヘラス人使節はイスファハーン公家に客分として預けられた立場です。いかに同じ五公家とはいえ、イスファハーン公家の同意なくして使節たちの身柄を奪い、宗教選択の自由を侵す権利がサマルカンド公家にあるのでしょうか」
「イスファハーン公家? 大領主たる力を失った家などを、いったいだれが問題にするのだ?」ティムールの物言いはあまりにも率直で、むき出しのあざけりがこもっていた。
「世の中が見えるか? 見ているか? その目はただの水晶玉か、ミュケナイの使節? 違うならば、直視しろ。薔薇の公家はいまや無力だ。薔薇公もその跡継ぎの男子たちも死に絶えて、残ったのはファリザードという小さなつぼみだけ。公家としての影響力をおよぼせる範囲も縮小し、以前の数分の一にすぎない。北部諸侯にこれ以上離反されないようつなぎとめるだけで必死だろうよ。
混沌と化したイスファハーン公領から、他国の使節を『保護』するためにサマルカンド公家が介入して悪いわけがあろうか? 現に使節どもは奴隷市場で売られていたではないか」
痛いところを突かれてペレウスは言葉に詰まった。ティムールはほとんど憫笑に近い笑いで声帯を震わせる。
「それにファリザードは余がどうしようと、どのような行動をとろうとなにもできまい。この野営地はあまりにもテヘラーンに近い……近すぎるほどに近いのだぞ。それでもイスファハーン公家の連中はかしこまって余の訪れをおとなしく待つか、せいぜい書簡か使節で抗議してくるかだ。軍によって抗議してくることはまずあるまい。
それも当然だな。なにしろ、余がこの戦でどちらの陣営に味方してやるかに、イスファハーン公家の命運がかかっているのだから。かれらが余を怒らせられるわけがない。
いまや余が、この内乱の帰趨を決める鍵なのだ」
「ではティムール公、あなたは場合によっては〈剣〉と結ぶつもりだと?」
腹を据えて、ペレウスは語気鋭く訊いた。
「噂では、あなたは〈剣〉と結ぶときにヘラス人使節たちを贈り物として渡すつもりがあると聞きました。将来において〈剣〉がぼくらを傀儡となし、ぼくらの身分を利用してヘラスを侵略するときに役立つだろうからと。
かれの機嫌をとるため、ぼくらを改宗させる手間を省いておいてやろうというつもりですか?
ホラーサーン側につくのなら、ファリザードへの求婚はどういうつもりの……あなたはファリザードに求婚したという話がありましたが、あれはなんだったのですか?
あなたはけっきょく、どちらの陣営につくつもりなのですか?」
そのまっすぐな問い詰めに、
「そろそろ飽きたな」
とつぜん、まったく興味を失ったようにティムールは醒めた声を漏らした。
「ミュケナイの使節よ、余はおまえと論議し、おまえの疑問を残らず解消してやるために呼んだのではない。おまえをわが意に従わせるべく拾い上げたのだ。だから、黙って従え。改宗しろ。せぬのなら、ジン族が残酷と呼ばれるゆえんをその身に教えこんでやろう」
かっと激情が燃えた。
ティムールが再度押しつけてきた頭ごなしの命令は、増大する一方だったペレウスの反感に火をつけたのである。実際、ここまでの記憶において、サマルカンド公家に好感を抱ける要素はなにも見つからなかった……カースィムやアーミナの夫を殺した黒羊族の残忍性も、鞠打ちの場に埋められて頭を砕かれる捕虜たちの光景も、眼前の鉄板の下からにじみ出て流れる血の川も、ティムールの尊大きわまる命令も、なにもかもが忌まわしかった。
そしてこれである。ヘラスの神々を捨てさせられ、唯一神の教えを強制されるという。自由を尊ぶヘラスの感覚からすればそれは言語道断の蛮行であり、けっして容認できるものではなかった。
顔を上げる。少年の強いまなざしに、ティムールの近習たちがぴくりと武器を持つ手を動かした。
(人質にした他国の王族を「故国の王位につけてやるため」と称して、軍を出して他国に介入するのは、ありふれた侵略のはじめ方だと聞いたことがある。
ぼくらが改宗したのち〈剣〉に引き渡されれば、まさにそうなってもおかしくない。〈剣〉の侵略の口実に使われても不思議じゃない。
ヘラスの文明と民をふみにじる片棒をかつがされるくらいなら、拒んで死ぬ自由を選んだほうがましだ)
「脅迫されての改宗などするつもりはありません! ぼくを鉄板の下に敷き殺すなら……」
敷き殺したらいいでしょう、と啖呵をきりかけて、すんでのところでペレウスは理性を取り戻した。横にいるアーミナや赤子のアーレのことを思い出したのである。
(しまった。ぼくが殺されても彼女らは安全でいられるか?)
……ティムールが彼女らを放っておいてくれるだろうという無邪気な楽観はとてもできない。ひとまず自重するしかなかった。
ちょっと遅かったかもしれなかったが。
「だれが殺すといった。そのちっぽけな命の保証だけはしてやる」
ティムールの細められた赤目が酷薄な光をたたえた。
「余はおまえのことを調べさせた。砂糖菓子のような子供に見えて、中身は焼きすぎた練り粉のように固く強情なやつだという話だった。だが、それがどうした? 強情な男など、余が壊したジンにも人にも無数にいたぞ。
おまえの固い心を折るために拷問吏に引き渡してもよいし、そこの女と赤子をおまえの見ている前で黒羊族に与えてもよい……だが、余は今回はもう少し洗練されたやり方をとることにする。
ちょうどかれが来た。〈霊薬王〉、この子供に一刺しくれてやれ」
ティムールのその呼びかけは、馬防柵の落とし戸が開くと同時のものだった。〈霊薬王〉の名にペレウスははっと反応した。
(――あいつが来たのか?)
この数日、その名だけは聞かされてきた。
〈霊薬王〉。カースィムやサードの毒の師。大陸屈指の医師にして毒使い。炎と光輝の神に仕える第一の精霊たる“善思”の加護を受ける者――
好奇心が猛烈につのり、ペレウスは反射的に振り向いた。
直後に、振り向いたことを後悔した。
奇妙きわまる悪夢から這い出てきたとしか思えない姿がそこにあった。
(……なんだこれは。雪だるま? 案山子?)
ジンか人かわからないどころではない。それはまるで、布の人形を巨大化したような姿だった。針仕事を覚えたばかりの幼子に作らせた人形でも、こうまで不恰好にはならないだろうけれども。
つぎはぎだらけの白布に覆われた全身。頭部も胴体も四肢ももこもことふくらんでいる。布は汚れて、ところどころに内側からにじみでたらしき赤黒い血のしみがある。滑稽でありながら醜悪で恐怖を感じさせる姿形――呪術に使われる形代だと言われたら納得していただろう。
それが動いてさえいなければ。
ぐぶ、ごぼ、と奇ッ怪な声。目と口のあたりのみ布が薄くなっており、そこからものを見、声を放つようだった。
「おぶぐぐぐぐぐえあああああををををを」
それは瀝青の底なし沼に黒い泡がぼこぼこ浮かび上がるときの音、もしくは溺死する者が発する断末魔に似ていた。
着ぐるみの怪物はペレウス目指して足をずりずりと引きずるようにしてやってきた。いかなる現象か、かれの踏みつけた草が一瞬にして黒ずんでしおれるのをペレウスは見た。
〈霊薬王〉とペレウスのあいだに座っていたジンたちが、ざざっと波が引くように道を空けた。平伏していたアーミナが赤子を抱きしめ、気絶寸前の蒼白な表情でじりじり距離をとる。背後にいた白羊族の兵もそそくさと離れる気配――取り残されたペレウスは顔をひきつらせながら(無理もない)と思った。自分も逃げられるものならすみやかに遠ざかっていただろう。
だが〈霊薬王〉のあとからついて現れた、もろもろの医療器具を載せた薬盆をささげもった女をみたとき、恐怖は驚愕に移り変わった。
奴隷の格好をした黒髪の若い女。ペレウスの知っている……姿形だけはよく見知った少女。
(ゾバイダ)
“涸渇”のゾバイダ、暗黒の六卵の一人。
ペレウスの脳裏をいくつもの疑問がかすめ去った。なぜここに? なんで〈霊薬王〉とともに現れる? 光の六卵である〈霊薬王〉となんのつながりが?
ゾバイダはペレウスに目を向けることもなく盆を置き、ティムールにうやうやしく平伏した。
「ティムール公、師は申しております。“毒と薬とどちらを望むか”と」
「師!?」
仰天のあまり口走ったペレウスを、はじめてゾバイダは一瞥した。軽蔑的なまなざしで。黙れと視線に叱咤され、やむなくペレウスはこの場での追求をあきらめた。
(どういうことだ。ここにいる彼女はどうやら〈霊薬王〉の通訳を兼ねた弟子であるらしいけれど。
待てよ。“虚偽”が言っていた助けとは彼女のことなんだろうか? それなら希望があるかもしれない)
「望むのは毒だ」
ティムールが答えると、「ぐぶぎぎい、ごぶっ、ぐぶぶぶ」〈霊薬王〉がさらにおめき、ゾバイダがかしこまって通訳する。
「ティムール公、師は申しております。“いかなる毒を?”と。
すぐ心臓を停止させますか、数日をかけて体を溶かしますか、数年かけて骨を腐らせますか、声を奪いますか、手足不随の身としますか、思考のできない肉の人形に変えますか? あなた様の意向に沿う毒をこちらで選ばせていただきます」
「望むのは、おまえがいまあげたうちの最後の毒だ。
そこの子供が改宗を受け入れないのならば、精神を壊して廃人とする。
聞いたな、ミュケナイの使節? 思い直すなら早くするのだな」
ティムールはあごでペレウスを示しながら言った。精神を壊す毒と聞いて、少年の身の毛がぞわっとよだつ。自由と尊厳を奪うという一点において、それは拷問の末に殺されるよりももっとおぞましい仕打ちだった。思わずうなってゾバイダに目を向ける。
(助けじゃないのか、きみは!?)
「どれだけ強靭な意思であっても、根本から壊されれば反抗のしようもあるまい。
どうせ傀儡にするなら使節たちの人格など、〈剣〉には必要ではないだろう。ひとりふたりくらいならなおさらな。
もちろん余にも必要ない」
「わかりました。弟君のように処置するのですわね」
笑みを含んでゾバイダが言ったとたん、ティムールの声がとつぜん冷え冷えと低まった。
「いらぬ話に言及しろと余がいつ命じた、人族の女?」
ゾバイダの表情がこわばる。
「……お許しを」
「〈霊薬王〉に免じて一度のみ許してやろう。黒い羊どもに与えられなかったことを師によく感謝するがいい」
冷然と吐いたティムールに平伏し、ゾバイダは師の陰に隠れるようにあとじさった。
その一幕を無視して、〈霊薬王〉はペレウスの前についに立った。薬臭さと血の生臭さが混じった臭いが、どこからかぷんと鼻をついた。
どうすればいい、とペレウスは唇を噛む。ゾバイダが助けの手を差し伸べてくれない以上、かれに逃げ場はなかった。
どうやるのか知らないが、この怪物の毒が本当にこちらを廃人にすることができるのだとすれば……そのあと〈剣〉に引き渡されれば、反逆すらもできず王子の身分を利用されるだけになるのだ。
(なんてことだ。ひとまず改宗を受け入れて人格を保つのが一番ましかもしれないだなんて)
立って〈霊薬王〉と対峙し、ペレウスはあとじさる。ティムールの赤い目がひたと横から見つめてきているのを感じ……その瞬間、竜との試練のことを思い出し、脳裏に閃きがはしった。
「猶予がほしい!」
横を向いて、ティムールに怒鳴った。
「父祖からの神々を捨てるんだぞ、すぐには決心などつくものか! 準備だってあるし……数日考えさせてもらいたい」
「数日? 準備? 具体的に言え」
サマルカンド公が無表情でうながしてくる。
すっと息を吸って、「数日というのはつまり……冬至の夜までには」とペレウスは約束した。
「ミュケナイでは、ヘラスのものではない神々を信仰するには祈りによって許しを得なければならない。
ましてぼくは神官も兼ねてきたミュケナイ王家の人間だ。ヘラスの神々を奉じる義務を永久に手放すからには、真摯なる祈りが必要だ。
だから冬至の日が落ちるまで……最低でも三日以上は時間がほしい」
口からでまかせもいいところだった。
こんなことを言い出したのはもちろん、時間稼ぎのためである。
(忘れるところだった。冬至の夜には竜との賭けの刻限が来る。
だったらティムールへの返事をそれ以降まで引き延ばしてやればいい。それならどう転ぼうがこいつらの毒を盛られることはなくなる……どうせ冬至までに助けが来るか、助けが間に合わず竜に魂を食われるかなんだから)
言葉の真偽をはかろうとするかのようにティムールは凝視してきていたが、やがて吹き出した。
「なるほど。思ったより利口なやつだな、おまえは。
そうだな、やむなく受け入れたのだと後から弁解するためには、『よく考えてみる』時間が必要だな」
周囲のジンが一斉に笑った。侮蔑のこもった失笑にとりまかれ、ペレウスは理解した。
(ぼくが自分の体面を守るためにもったいぶってみせたと思っているんだな)
いまここで、ティムールを盛大にあざ笑い返してやれたならという誘惑が胸をくすぐった。もちろんそれを実行して台無しにするわけにはいかない……ティムールのその勘違いはきわめて好都合なのだから。
(ぼくを屈服させたと信じていろ、ティムール公。冬至が過ぎて、こけにされたと気づくまで)
しかし、相手を読み切れなかったのはティムールだけではなくペレウスも同様であった。
ティムールが杯を置いて指を鳴らす。
「時間と、ついでに、毒に侵されたのだからやむを得なかったという言い訳も与えてやろう。〈霊薬王〉、やはりそいつを刺せ。ただし毒の効果はすぐには出ないようにせよ。
そいつがこの先、余に永遠の忠誠を誓わざるを得ないようにせよ」
ティムールの命令一下、〈霊薬王〉の左手が尋常ではない素早さで伸び、ペレウスが逃れる間もなくその肩をぽんと叩いた。
たったそれだけで、ペレウスの腰から下の力が抜けた。再度ひざを地につきつつ、愕然として少年は肩を見た。銀の長い針が肩に突き立っている。痛みすらないが、その針は人体の致命的な要所をおさえているのだと理解できた。
(この針……毒が塗られていたら最悪だ)
あの着ぐるみには指すらないのに、どうやって針を操っているんだ――そんな疑問さえどうでもよかった。やられた、という思いがぐるぐる頭を駆け巡った。
しかし、それで終わりではなかった。
ゾバイダが革の長手袋をはめ、〈霊薬王〉の着ぐるみの左腕部分を慎重にまくりあげはじめていた。とたん、ぼとぼとと肉片がいくつも地面に落ち、あわててゾバイダがそれを拾う。
〈霊薬王〉の着ぐるみの下には、腕をくるんで守るように、何かの肉がみっちりと詰められていた。
恐怖のさざめきがジンたちにまで広がる中、目を見開いて固まっているペレウスの前で、着ぐるみが左肘まで剥かれる。
〈霊薬王〉の左腕がずるりと露出した。
皮膚のない、筋肉が剥き出しの腕。
(まさか、腕だけでなく全身の皮が無いんじゃあるまいな)
「尊師、蛭剣はここに」
それは長いミミズのような形状だった。ゾバイダが薬箱からとりだしてうやうやしく差し出したのは、折りたたまれた肉色の紐のような……伸ばせばさながら一本の長く細い触手のような魔具であった。長さ半ガズ、肉色のその鞭状の魔具は、独立した生き物さながらに震えてのたうっていた。
〈霊薬王〉が皮膚のない手を伸ばしてそれの柄をつかむと、蛭剣はぐにぐにとよじれた。ぶるぶるわなないてぴんと伸び、先端が小さな口を開けて……ペレウスめがけて鎌首をもたげた。
あっと少年は叫んだが、ヤツメウナギのように蛭剣はペレウスの首筋に吸いついた。ちくりとしたとたん、奇妙にも熱い爽快感が首筋から全身に流れ、ペレウスを当惑させる。ゾバイダが咳払いしてペレウスに忠告した。
「動いてはだめ。尊師はあなたにご自身の血液をたまわっておられるのよ。魔を退け、毒も呪いも浄化して、あらゆる傷を癒す霊薬を。
一滴でもとりこぼすのは宝石を投げ捨てるに同じ……ヘラスやヴァンダルではこの薬を、エリクシールと呼んでいるそうね。聞き覚えはないかしら?」
「エリクシール……」
その伝説の万能薬の名ならば故国の書物で見た気がした。アル・イクシールの語が変化したものだったのか、とペレウスはようやく悟った。その言い伝えはおそらく帝国を源流とする伝承だったのであろう。
しかし……霊薬の正体が、眼前の化物の血だというのは信じたくない話だった。
「血は魔術の媒、あるいは魔術そのもの」
ゾバイダがつぶやいた瞬間、ペレウスの首筋に吸いついていた蛭剣が離れ、肩の針がさっと抜き取られた。
足に力をこめてみてペレウスは舌を巻いた。針を刺された瞬間に抜けていた体の力が完全に戻っている。
と、ペレウスの目をのぞきこむように〈霊薬王〉が顔を近づけてきた。ぎぎぎぎぎい、と間近で虫の鳴くような不快な声が連続した。
「“体内に注いだ霊薬が針の毒を抑えこむ。だが与えた霊薬はわずかな量にすぎず、毒を消すにはいたらない。もって五日で霊薬の効き目は失せ、毒が思考の力を蝕んでゆく”
そう尊師はおっしゃっておられるわ、ヘラスの子供。
……これでよろしいでしょうか、ティムール公」
「上出来だ」
ティムールはぶどう酒を新しく小姓に注がせ、一息にあおってペレウスに言い渡した。
「おまえの望みどおりに、改宗の決心を固めるための数日間の猶予をやる。余に寛容のかけらもなかったとは言わせぬぞ。
ただしその後、やはり拒むか、もしくは返答をよこさないのであれば……毒の発作をおさえこむ霊薬を今後ももらえるとは期待するなよ」
………………………………
………………
……
ティムールへの不快きわまりない謁見が終わったのち、ペレウスはひとまず寝所として天幕を与えられた。
毒に浸したことで逃亡の怖れはないと判断したからか、意外なほどに警戒はゆるかった。一例として、つけられた護衛――兼、逃走阻止のための見張り――たちは、ペレウスと縁のある白羊族に任せられたのである。アーミナとアーレをかれらに預けることもできて、ひとまずペレウスはその点だけは肩の力を抜くことができた。
「ところで、ファリザード姫というのはやっぱり評判通りの美しさか。貴殿も間近で見たのだろう」
天幕のなかでペレウスを囲んで座る白羊族の兵士たちは、都市テヘラーンにいる同族たちの近況を根掘り葉掘り訊いたのち、唐突にそんな話題をもちだしてきた。
人の輪の中央に座らされたペレウスは、目を白黒させてから、ぶっきらぼうに答える。
「誇張があるような……彼女は子供で、そういうのをうんぬんする歳じゃないと思います。ジンの基準どころか人の基準でさえも」
このときペレウスは、自分がファリザードより数ヶ月歳下であることは無視している。夜食に支給されたビスケットが、とつぜんひどくまずく感じられた。
「なにをいう。彼女はもう十三歳であろう? 人族ならそろそろ嫁入りの話が出るころだ。
現にティムール公は彼女を妻に所望している」
「……ふうん」
砕けたビスケットがのどにつまるような心地がして、ペレウスは革袋の液体を乱暴にあおった。それが水ではなく馬乳酒だと気づいたときにはすでに遅く、少年のむせこむ音が天幕の内側に反響し、兵士たちが「おかしな小僧だな」と笑いながらも水を渡してきた。
妙に人なつこいその態度は、まぎれもなくペレウスの接してきた白羊族と同じであった。
「ティムール公の求婚の基準は美しさとは関係あるまい。かれは女の容色より権力に執着する男だ」
比較的落ち着いた年かさの兵がそう述べたとき、天幕の外から見張りと押し問答する声が聞こえた。
一同が入り口にそろって顔を向けたとき、その少女は見張りを言い負かしたらしく堂々と入ってきた。
“涸渇”のゾバイダは、あ然としている白羊族とペレウスを前に肩をそびやかして命じた。
「尊師からのことづけがあるわ。他の者に聞かせるつもりはないから、出ていって」
――……白羊族が追い出されたのち、ふたりきりとなった天幕のなかでペレウスは警戒しながら訊いた。
「何の用だ? 〈霊薬王〉がなにを?」
「いまのは兵たちを追い払う方便よ。この陣中ではあの男の名を出すと便利なの」
「では、なぜ来た? きみは“虚偽”のよこした助けなのか?」
ゾバイダに詰めより、ペレウスは余裕なくその腕をつかんだ。冷淡に彼女はかれの手をふりほどいた。
「あなたを助けに来ているのではないわ。でも、結果的にはそうなるかもしれない」
彼女の答えの前半で落胆を、後半で希望と疑念を抱き、ペレウスは切り出した。
「すべて説明してくれないか。きみがサマルカンド公家軍の陣にいて〈霊薬王〉を師と呼んでいる理由を。
〈霊薬王〉が光の神の使徒なら、なぜきみはかれを師と仰ぐ?」
くすくすと、ゾバイダが忍びやかに笑いだした。「なんて単純なのかしら。報復戦争時代じゃあるまいし、光と闇の相克だなんて、いったいいつの話をしているの?」それは決して好意的な笑いではなかった。
「あなたが決めつけるように敵味方がはっきり分けられるなら、世の中はもっと簡単でしょうね。
〈霊薬王〉を師と仰ぐ理由? かれの知識と技術は、わたしにとって身につけておいて損のないものだからよ」
かつて暗黒の地下でルカイヤを昏倒させたゾバイダの技をペレウスは思い出した。
彼女が触れるだけでルカイヤは気を失ったように見えたが……もしかしたらあれは〈霊薬王〉がかれの身にやったように、針を相手の体に埋めこんで四肢を麻痺させる技術だったのかもしれない。
「ついでだからはっきり言っておきますけど、わたし個人としてはあなたの生死も“虚偽”の思惑も知ったことじゃないのよ」
ゾバイダは腕を組んで、ペレウスをねめつけてきた……そこにこもったじっとりとした憎しみに、ペレウスは戸惑いを感じた。
(ぼくは彼女に恨まれるようなことをなにかしただろうか?)
「……竜の試練はわたしが受けられるはずだったのに、あなたと“虚偽”はわたしからその機会を奪った。“虚偽”の気まぐれの一環で」
恨みがましくゾバイダはつぶやき、首を振った。
「でも、それは過ぎたことになってしまった。
いいわ、本題に入りましょう。この計画がうまくいけば、あなたにとっても悪い話ではないわ。
――わたしたちは明後日、ティムールをサマルカンド公の座から引きずり落とす。そうなったらあなたは勝手に逃げ出しなさい。ただし、逃げる前にやってもらいたいことがある。あなたには混乱に乗じて、この陣中に閉じこめられた新イスファハーン公エラムを助けてもらいたいのよ。どう?」
風もないのに炉の火が揺らめき、炎の明かりが弱まった。
少しして、ペレウスはこぶしを握りしめていたことに気づき、ゆっくりと開いた。てのひらが緊張の汗でぬるぬるしていた。
(明後日だと?)
(帝国五公家のひとりを失脚させる……?)
(エラム? ファリザードの兄? 囚われているのか、なぜサマルカンド公家陣に? それをぼくが助けるだって?)
「あなたなら断るはずはないとわたしは思っている。どうなの?」
ペレウスは即答できなかった。ティムールへの好意など心の底の底までさらってもひとかけらも見当たらないし、またファリザードの兄を助けられるなら助けてやりたかったが……それにしても、これはあまりにも突拍子もない話であった。
(うかつに乗るのは危険すぎる。それになぜぼくにそんな大役を?)
疑念を強めたペレウスの目に気づき、ゾバイダは少し考える様子のあとで言った。
「信じなさい。エラム公が山の民に捕まったのはたしかよ。そして山の王シールクーは、サマルカンド公家と手を結んでいると教えておくわ。
それと……あなたはティムールの思惑を知りたくないかしら? かれが昨日、イスファハーン公家の使者につきつけた恫喝を」
「なに? そんな使者が来ているのか」
驚くペレウスに、「あわてて帰ったけどね」とゾバイダはうなずく。
ファリザードがよこしたのであろう使者は、今日この陣についたペレウスとはほとんど行き違いであったことになる。接近しているサマルカンド公家軍に対してファリザードがなんの手も打たないはずがないし、それ自体は不思議ではなかったが……
「恫喝とはどういうことだ」
「悪の華たるサマルカンド公家の家風を色濃く受け継ぐティムールは、他者の弱みを見逃すジンではけっしてないのよ」
ゾバイダは炉の火を見下ろして語りはじめた。
● ● ● ● ●
「イスファハーン公家の大使はティムールのあの鉄板の玉座の前で切々と訴えていたわ。
『帝位簒奪者に対するために、あなたさまの力がわれらには要るのです』
最後にそう結んだ大使に、それまで黙っていたティムールは、
『帝位簒奪者アーディルか』
嘲笑を吐き出したわ。そして続けた。
『だが、あちらはあちらでおまえたちの姫君をこう言うだろう。ファリザードはホラーサーン公位僭称者にすぎないと。
おや、驚くのか、なにゆえだ? 余が昨日の、ファリザード姫の城壁上の演説のことをすでに知っているからか? 笑わせてくれる、余の耳目となる者はどこにでもいるのだぞ。
戦の話だがな……帝位簒奪者と公位僭称者。イスファハーン公家とホラーサーン公家は、今後、互いに相手をそう罵るだろう。勝ち残ったほうがみずからを正当化することに成功するだろう。
だがなあ、薔薇が剣を打ち負かすなどとどうやって信じられる?』
『……お言葉ながら、われらが主は剣の血が入った薔薇でございます。われらみな、望みを捨ててはおりませぬ』
『それを考慮しても新ホラーサーン女公はたったの十三の赤子だ。
問答は不要だ、テヘラーンからの大使よ。現に薔薇は負け続きであろう。ファリザード姫に必要なのは一に現実を認識することで、二に庇護者だよ』
『……庇護者ですか。それは貴公のことだとおっしゃりたいのでしょうか』
『いいや。おそらくそうはなるまいな。適正な見返りがないかぎり、余は〈剣〉の側につくつもりでいるからな』
離れたところからでも、大使が怒りに震えたのは見てとれたわ。
『適正? ファリザード様かダマスカス公家のライラ姫のどちらかを貴君の奥方として差し出すべしというあの申し出のことでしょうか。
少し……率直に言って、あなたさまはわれらの戦いに付け込もうとしているように感じられますが。
そうまでして、這いつくばるようにして乞い願わねば、イスファハーン公家に味方していただけないというのですか!』
大使が語気を荒げると、ティムールは大げさに肩をすくめてみせて、
『その条件……最初は、必ずしも本気ではなかったのだ。対ホラーサーン公家同盟に加わってやるのはかまわんが、まずふっかけて、なるべく取り分を多く確保しておこうと思って言ったことだった。
しかしなあ――バグダードが陥落し、ライラ姫が〈剣〉に捕まったいまでは、考えが変わったのだよ。薔薇姫くらいもらわなければ、とうてい戦ってはやれんな。〈剣〉はちょっと強すぎる。余はよほどの好条件を差し出されないかぎりホラーサーン軍と対峙する気は起きない。
というわけで、貴公らがサマルカンド公家軍の戦力が欲しければ、あらためて条件がある。“新ホラーサーン女公”たるファリザード姫は余に臣従の誓いを述べろ――余の後宮に入って子を産むための妻妾のひとりとなり、そして、終戦後の来たる帝選会議で女公の立場で余に票を入れると誓え。イスファハーン公家当主としての票も、ホラーサーン公家当主としての票もどちらもだ。
つまるところ、次の二点だ。薔薇姫はイスファハーン公領を持参金として余に嫁げ。余が上帝位を確保するためにも協力せよ』
『そんな言葉を持って帰れと……われらだけでそんな重大事を決められるはずがありますまい! われらはファリザード様を支えることになんのためらいもありませんが、イスファハーン公家の正式な当主はエラム様ですぞ!』
『ははは、じゃあエラムにうかがいを立てればよかろう。で、やつはどこで何をしている?』
『それは……』
『余を馬鹿だと思っているのか? エラムがイルバルスによって山に追いこまれた情報も入ってきている。おおかたあの坊っちゃんはとっくに死んでいるだろう。ファリザード姫がイスファハーン公も兼ね、二票を持っておいてなんの不都合がある?
余は本気だぞ。月が変わるまでに答えを出せ。
ファリザードは自分を含め、差し出せるかぎりのものを差し出せ。この条件が呑めなければ、サマルカンド公家はホラーサーン公家と同盟を組む。〈剣〉への手土産として、まずはヘラス人使節どもをあやつに引渡してやろう。いや、それよりもいっそ、ここに来た全軍をもってこのままテヘラーンを囲み、イスファハーン公領を蹂躙し、すべてを〈剣〉より先に踏みにじってやるのもよいな』」
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……――ゾバイダが語り終えたとき、ペレウスは完全に無言だった。ゾバイダが煽るように言葉を添えてくる。
「『エラムはどこで何をしている』とは、なんて悪辣な言い方だと思わない? さっきも言ったけどティムールは山の民の協力を得て先にエラム公を確保しているわ。エラム公が表に出てくることはないと知っているから、かれはこのように言えた……そう、エラム公はだれかによって助けだされでもしないかぎり、二度と陽の目を見ないわよ?
そしてこのままティムールに足元を見られ続ければ、遠からずファリザード姫もイスファハーン公領も、食い物にされて搾り尽くされるでしょうね」
溶けたタールのかたまりを飲んだように、重く、熱く、黒い感情が胸の奥に溜まっていた。少年の内側でぐるぐると熱は渦巻き、ひとつの決意へとゆっくり変じていった。
「話に乗る」
サマルカンド公ティムールを排除してやる。