3-8.悪の華〈上〉
新サマルカンド公ティムールへの謁見のこと
ときおり感じる遠雷のような地響きは、何万頭もの馬が大地を踏む音かもしれなかった。川のほとりの原野にロープがはられ、軍馬を収容するための即席の馬場がいくつもできている。
西にかたむきかけた冬の陽の光を反射し、丘には刀や槍の刃がきらめいていた。馬場に沿うようにしておびただしい数の天幕が、砂漠と草原の入り交じる原野を覆っていた。
一ファルサングの距離のところに、行軍を止めたサマルカンド公家軍の本陣があるのだ。
(着いた)
ペレウスはあごに伝った汗をぬぐう。可能な限り急いだのだ。死骸――女の夫と四人の兵、そしてカースィムのもの――を葬らずに放置してまで。
後ろを振り返った。アーミナという名の若い女は、馬上で赤ん坊をしっかり抱きしめて不安そうにしている。ところどころ引き裂かれた服の上から、兵士のマントを体に巻きつけて肌を隠していた。
「サマルカンド公のひととなりについて聞いておきたい」
ペレウスがうながすと、アーミナはかぼそい声で語り始めた。
「……先代のサマルカンド公は数十日前、倒れました。ティムール様……その長子ティムールによって殺されたとの噂でした」
「それで、ティムールとやらがいまはサマルカンド公を名乗っているわけか」
「はい……以前からご先代がティムール様に幽閉されていたのはだれもが知っていました……けれどまさか、父殺しにまで手を染めるとは」
憔悴した表情のアーミナは唇を震わせる。
彼女の話をまとめると以下のような経緯であった。
〈剣〉の乱が勃発してすぐ、サマルカンド公が変死した。長子ティムールが父を殺したのだという噂がささやかれ、他の公子たちが手を結んで兄を問い詰めようとした矢先のこと――ティムールはためらうことなく先手を打った。
“新サマルカンド公の名において命ず。わが兄弟たちを討ち果たせ”と公領に檄を飛ばし、同時にみずから兵を出して、片っ端から他の公子たちの勢力を滅ぼしてまわったのである。
驚くべきことに他の公子たちの家臣や従属部族の一部は、あっさりとティムールに寝返って先刻までの友軍を襲い、城門を開いた。以前から周到な根回しがなされていたのは明らかであり、これこそティムールが計画的にサマルカンド公位を乗っ取った証であった。あまりにも速やかな勝利であったため、一連の争いが起こったことをまだ知らぬ者さえいるという。
「半月にもならないうちに、ティムール様は七人のご兄弟たちのうち三人を討ってのけ、一人を捕らえました。破滅した四人全員が、直前までの味方に裏切られてそうなりました」
もちろん、ティムールの下に屈さずかれを新サマルカンド公と認めていない勢力もまだ残っている。が、当面、ティムールが最大の勝者であることは疑いなかった。
ところが、なにを考えてか、ティムールは自公領内の完全統一をすすめるより先に、急にイスファハーン公領をめざして西進を命じたのである。
「私たち夫婦は公子ラーディー様にお仕えしていましたが」アーミナは細々と長いため息をついた。
「一番最初にティムール様の襲撃を受けたのはラーディー様でした。あとのことは若殿様も知ってのとおり、ラーディー様の召し使いであった私たちは、ティムール様に従う各部族に分配されました。……ティムール様は情け深いお方では決してありません。その……とてもサマルカンド公家的と申しますか」
「聞くほどにろくな家風じゃなさそうだ」
感想をつぶやきながらも、ペレウスはあらためて腹をくくる必要を感じた。
やっぱり背を向けて逃げるべきだったかもしれない、という執拗に湧きあがる後悔を噛みつぶすためである。
(後悔は一片の価値もない。あの時点で、ぼくらにはこれが最善だった)
カースィムの死のあと、ペレウスはまず馬を死んだ兵たちのものと換えた。おのれの“庇護”の下に入った女と赤子を連れて、テヘラーン目指して逃げようとしたのである。しかし逃走の選択肢が現実に目の前にひらけたとき、その道を選べば即座に立ちはだかるであろう危険のことも、脳裏に輪郭をはっきり結んだのだった。
ペレウスたちはすでに、多くの騎馬部族によってなるサマルカンド公家軍の広大な哨戒圏内にいるのだ。原野を遊弋する騎兵たちは簡単にこちらを見つけるだろうし、そうなればペレウスたちが逃れる望みはまずない。
とくにカースィムに致命傷を追わせたあの傷の兵士の部族は、速やかな追手をかけてくるであろう。たしか部族名は黒羊族――ペレウスは苦い思いを抱いた。
(白羊族と部族名が似ていたけれど、とんでもなく残酷で下劣な奴らだった)
自分と女と赤子の命を守りたくば、ふたたび顔を合わせるべきではなかった。特に、黒羊族が暴力を振るうになんの邪魔も入らないであろう、人影薄き原野のただ中では。うかつに逃げれば、その最悪の運命に追いこまれる危険があった。
“虚偽”の言っていた「助け」がこちらに向かっていることに期待しようにも、敵に追いつかれる前に味方に会えると確信するのは虫がよすぎた。
自分だけなら無謀と知りつつ逃げることに賭けただろう……だが、女と赤子がいた。ペレウスは庇護した二人の命に責任をもたねばならなかった。
最終的にペレウスが選んだのは、開き直って進むことだったのである。
(サマルカンド公ティムールとやらに会う。いちかばちかかれと交渉し、ぼくらを保護させて、黒羊族やその他の騎馬部族が手出ししてこないようにする。
逃げて捕まるより、自分から出向くほうがましな扱いを受けるはずだ)
アーミナがふいに怯えた声を出したのはそのときだった。
「来ました、若殿様。騎兵です」
いつのまに囲まれたのか、騎馬の兵たちがペレウスたちを取り囲み、包囲の輪を縮めてきていた。
かれらは白い兵衣を着て、後ろに垂らした髪を一本の太い三つ編みにしている。
(格好が白羊族に似ているな)
そんなことを考えつつペレウスはかれらが近づくのを待ってから、カースィムの死骸のふところから抜き取ってきた通行手形を見せた。
「サマルカンド公に会いたい」
兵たちはなにも言わなかった。無表情でペレウスを見るばかりだった。
はったりで乗り切るしかない――焦りと萎縮を心の片隅におしやり、ペレウスは胸を張って堂々と言い切った。
「ぼくは使節だ。イスファハーン公家ゆかりの者で、テヘラーンから来た」
ペレウスは嘘をついてはいない。もともと帝国への使節であったし、今回、テヘラーン方面から来たのも本当のことだ。
もちろん、相手が取り違えることを願ってはいた。自分たちがファリザードから派遣されてきたイスファハーン公家の使節なのだと、ペレウスはそう思わせたかった。そうすればまともな扱いを受けるはずだから。
惨めな格好の女と乳飲み子だけを随従にした、異国人の子供の自称を、騎兵たちがわずかなりと気に留めてくれるならばだが。
(だけどぼくらには通行手形がある。なぜ持っているかを怪しまれるにしても、問答無用でいきなり殺されたりはしないはずだ)
初めて、兵のひとりが口を開いた。
「馬を下りろ」
……結果から言うと、かれらはペレウスたちを本陣へと導いてくれた。馬も刀も取り上げ、前後を武装した兵で固めてではあるが。
緊張に口元をひきしめながらも、ペレウスは好奇心をおさえられず周囲をうかがった。夕時を迎えようとしているいま、ドーム型の天幕が間隔をあけて無数に設営され、即席のパン焼きかまどが組み立てられて煙をあげていた。天幕のまわりに砂塵に汚れた兵たちが座りこみ、矢に矢尻を巻いたり、馬に水をあたえたり、馬のひづめの様子を見たりしていた……どこから集まってきたのか売春婦や食料商人が歩きまわっていて、兵と値段の交渉をしていた。
あらゆるところに、“白い塔”のサマルカンド公家の紋章旗がかかげられていた。
進んでいくととつぜん、視界がひらけた。
柵と綱で区切られたひとつの馬場の内部で、騎馬部族の兵たちが乗った馬を駆けさせていた。見物の兵たちが柵によりかかってしゃべりながら観戦している。
(馬に乗っての鞠打ち遊びだな)
騎兵たちは長めの湾曲した槌を持ち、それで地面にある鞠を打って遊んでいる。それが騎兵の多いファールス帝国ではよく見られる遊びだと、ペレウスも知識として知ってはいた。
打たれた鞠がぽおんと宙に上がり――なんの気なしにその落ちゆく様を見ていたペレウスは目をしばたたいた。
(なんだ?)
鞠の落ちた先の地面に、いくつも連なって妙なものが生えていたのである。
遠目にはそれは布の球に見えた。粗末な鞠がいくつも転がされているのかとペレウスは最初思ったが……遠目ながら、その球が動いている気がした。
もっとよく見ようとペレウスが目を凝らしたときだった。馬で駆け寄った競技者のひとりが、手にした槌を思いきりふるって鞠を打つ。そのついでのように馬蹄でわざわざ布の球のひとつを踏みつけ――そしてペレウスはその正体を悟った。
メロンのようにぐしゃっと潰れたその球はじわりと赤いものをにじませたのである。
ペレウスのうなじの毛が残らず逆立った。アーミナは震えながら赤子を抱きしめて顔を伏せている。
(あれは……肩まで埋められた人々の、地上に出た頭を布でおおったものだ!)
馬場では、首から下を埋められた別の者が、布の内側から恐怖に満ちた声で叫びはじめていた。立ち去りかけていた競技者がうるさそうに立ちどまる。手にした槌をふりあげ、叫ぶ頭を無造作に砕いた。
ペレウスが気づけば、馬場のそこかしこに似たような光景があった。二十個以上のスイカのように並んだ頭、頭、頭……ことごとくすでに割られており、赤い果汁を布に染み出させていた。
「あまり見るなよ。気分のいいものじゃないだろう」
表情を硬化させたペレウスの視線をたどって、案内していた兵のひとりが忠告した。
その兵はペレウスが説明を求める目をむけると、肩をすくめて話した。先刻よりはるかに気さくな態度で。
「処刑だよ。裁かれているのは羚羊族の主だった者たちだ。連中の宿敵だった灰色牛族が処刑人役をつとめている。
羚羊族は今回、ひどくしくじった。あいつらは、サマルカンド公子たちの公位をめぐる争いで、支持する相手を致命的に間違えた。ティムール公に敵対した結果、あのざまだ」
「あ……遊ぶような殺し方は、むごすぎないか」
言葉が見つからず、ペレウスはやっとそれだけ言った。兵はしょうがないと言いたげに首をふる。
「因果応報でもあるからな。
むかし、羚羊族の者たちは灰色牛族と戦をして負かしたのち、捕らえた長老たちをあのやり方で殺戮した。鞠打ち遊びの場に転がした捕虜たちを騎兵に踏み砕かせてな。
その復讐というわけで、灰色牛族の希望によりまったく同じ処刑法が採用された」
「もういい。早く行こう」
不快感をこらえ、ペレウスは馬場から顔をそむけた。事情を聞くかぎり、しょせんよそ者には関わりのない争いである――それに埋められた者たちを助けようにも、手遅れだった。いま頭を砕かれた者が最後の生存者であったようだから。
ぐっと腕をつかまれた。
気さくな態度で話していた兵が、ペレウスを強い力で止めていた。
「いまのを見ただろ? それならわかってくれるな。われらはサマルカンド公家の主の機嫌を損ねられないんだ。
特にティムール公は、自分についた部族への恩賞の一環として、敵対した部族からなにもかも奪うことを許している。白羊族にだって敵がいないわけじゃないし、ジンに立ち向かえないから立場が弱い……サマルカンド公の敵と名指されたらおしまいなんだ。
聞くところによるとあんたはイスファハーン公領に行ったままのうちの族長と昵懇にしているらしいな。だがこっちは、残った者の命を守るために、ティムール公の命令に従わないわけにはいかないんだ。
そういうわけで、あんたを逃がしてやらなかったからといって、裏切りだと責めないでくれよ」
ペレウスは金縛りになったように動きを止めていたが、ゆっくりとかれの顔を見上げた。
「あなたたちの部族名は……白羊族なのか」
沈黙が答えだった。
(白羊族に似ているどころじゃない。まさに本物だった。
『イスファハーン公領にいたのは出稼ぎにすぎず、女子供を含む大部分の白羊族はサマルカンド公領に残っている』とユルドゥズさんから聞いていたのに、失念していた。)
ペレウスはめまいを感じた……相手の言葉で理解させられたことは、かれらの出自だけではなかった。
(サマルカンド公はぼくの訪れを知っていた。だから白羊族を迎えによこしたのか。その忠誠を確かめるために)
(もっと重要なことは、サマルカンド公がぼくとユルドゥズさんたちのつながりを知っていることだ。そんな些細な情報までどうやって? かれからは遠いイスファハーン公領で起きたことのはずだ。
……決まってる、間諜がいたんだ)
いったいどうして味方のはずのイスファハーン公家に間諜をもぐりこませる必要があるんだ、と一瞬考えたのは、おそらく自分が甘いのだろう。
それに、
『ティムールは〈剣〉に味方するときの手土産として、貴様らヘラス人使節どもに利用価値を見出している』
カースィムの言葉が思い出され、ペレウスは奥歯をぎりっと鳴らした。もはやサマルカンド公領が味方であるという前提そのものが揺らいでいるのだ。
白羊族の兵が、おのれの罪悪感をごまかすように急いで言い添えた。
「だいじょうぶだ。おそらくあんたが殺されるようなことはない。
この陣にはほかのヘラス人の使節たちも集められる……あんたもかれらも、ティムール公にお目通りしたあとは安全なはずだ」
いちいち驚くのも疲れていたが、ペレウスにとってそれはやはり聞き過ごせない情報だった。
「ほかの使節たちがいるのか!?」
以前に入った情報では、かれらはヘカトンピュロスというハザール海の沿岸の都市で奴隷になっていたはずである。
「都市ヘカトンピュロスはここから遠くないからな。われわれ白羊族の仲間が使い走りとなって食料とともにかれらを買いつけさせられているよ。まもなく移送されてくるだろう」
………………………………
………………
……
太鼓の音が鳴っていた。
ひときわ巨大な天幕と、それをぐるりと囲む木製の馬防柵がかなたに見えている。周辺の地面にはいくつもじゅうたんが広げられ、大皿に盛られた果物や肉や馬乳酒が並んでいた。じゅうたんの合間をぬって大天幕のほうへと連れていかれながら、ペレウスは居心地の悪い思いを味わった。人族の遊牧民の兵士たちが値踏みの視線を投げてくるのである。声もいくつか飛んできた。
「白い羊ども、新しい稚児の献上でもするのか。悪くない器量ではあるな」
「ジンが人の稚児など受けつけるはずがあるまい。なんならその子供は後でおれにくれ」
「われらは赤子を抱いたそちらの女が欲しい。族長の子についた乳母が死んだので、代わりがちょうど必要なところだった」
「おい、勝手に女をもらえるものと決めるなよ。若い女の乳を吸いたいやつは満ちあふれているんだ」
野卑な冗談に笑いがそこかしこで弾ける。明るく陽気に残酷に。
白羊族のひとりがそれに応えて不機嫌な舌打ちをした。
「ひっこんでいるがいい、狼ども。おまえらのための肉ではないぞ。
坊や、そこにいるのが、敵の首をとって髑髏の盃を造ることで有名な白帽子族だ」
〈剣〉のように敵の皮を剥いで、その皮でマントや革靴を作るという赤駱駝族。新生児には馬乳酒に馬の血を混ぜたものを飲ませ、吐き戻せば戦士の資質なしとして狼に食わせるという青狼族。年頃に達した男は敵の女をさらって童貞を捨てなければ一人前とはみなされないという黄鶏族……
それぞれが違った風習を持つが、いずれも馬を駆る危険な戦士たちということだった。
白羊族の兵たちはペレウスに各部族の紹介をしながらじゅうたんの合間を通り過ぎていく。やましさを感じているのか妙に懇切丁寧である。
息をつめてペレウスは各部族を見回していたが、黒羊族らしき人々が見当たらないことにほっとして、つい口にした。
「黒羊族にはどんな風習が?」
「黒い羊は人肉を食う」
……沈黙して歩くうち、大天幕を囲む馬防柵についに突き当たった。柵周辺の地面には先をとがらせた長い杭がおびただしく埋めこまれ、近づく者を威嚇するがごとくである。小さな空堀まで掘られており、即席のものとは信じられないほどの造りこみである。
まるで味方の遊牧民たちを警戒しているかのように、それは堅牢な防備だった。
柵の一箇所に落とし戸があり、門番をつとめるジン兵が角笛を吹くや戸が引き上げられた。くぐると、大天幕が目の前にあり、ジンたちがそこらに座っていた。サマルカンド公家の系譜に連なるジン族の名士たち。
ほとんどのジンはペレウスたちが近づいても無視していたが、なかに露骨に敵意のまなざしを注いでくる数名がいた。ペレウスは白羊族の兵の袖を引く。
「……あっちの一角のジンたちがにらんできているけど」
「見るな。サンジャル氏族だ。あの氏族の期待の星だったクタルムシュ卿がうちの族長とくっついて以来、白羊族は憎まれている。
そんなことより、着いたぞ。ひざまずけ」
大天幕が目の前にあった。風に吹かれて“白い塔”の旗がひるがえっている。
赤子を抱くアーミナが震えながら地に伏した。ひざまずけと言われてペレウスの心にはわずかに反発が生まれていたが、かれもおとなしく両ひざを地についた。
(小国の王より格式の高い、帝国五公の当主のひとりに対するんだ。儀礼と思えばひざをつくくらいなんてことはない)
自尊心に言い聞かせる一方で、ペレウスはこっそり相手を観察した。
(変わったものに座ってるな。鉄板?)
直径が五ガズはありそうな巨大な円い鉄の板――巨人の盾さながらで、小高い丘のように中央部分がふくらみ、重量も相当なものと知れた。地面と鉄板のあいだには隙間があるような気がした。
その鉄の小丘の頂点にじゅうたんとクッションを敷き、あぐらをかいて坐すジンの男がいた。そいつは手にした杯ごしにペレウスを見てから、背後に直立していた者に向けて笑いを放った。
「賭けは余の勝ちだな、クルズルク。この小僧は逃げずにここに来たぞ」
ペレウスはにわかに危機感がふくれあがるのを感じた。クルズルクと呼びかけられた相手は、カースィムを襲った顔に傷のある兵だった。
(黒羊族……カースィムに握りつぶされた足が治っている)
傷の男――クルズルクは、ペレウスに悪意煮えたぎる視線を向け、狼のように喉奥でうなった。鉄の上に坐すジンは対照的に、機嫌よさそうに笑う。
「残念だが賭けは賭けだからな。こやつの引き渡しうんぬんの話はここで終わりだ。殺したいなら別の肉を見つくろって存分に射てくるがいい、クルズルク。こやつらは余が引き取る。
怒るなよ、おまえの足を〈霊薬王〉に治させてやっただろう」
「……聖恩には深く謝しております、大可汗」
黒羊族のクルズルクはペレウスにすさまじい視線を投げつけたまま、それだけ言う。「よし。さがっていいぞ」とぞんざいに手を振られ、憤然と落とし戸の外へ消えていった。
「さて……蛮勇でましな待遇をつかみとったな、都市ミュケナイの使節」
そのジンの口内に見えた歯はぎざぎざだった。ターバンからこぼれる髪は雪のような純白。まとった五色染めの豪奢な長着には、“塔”の紋章が縫い付けられている。
「おまえたちがもしあの原野で逃げることを選んでいれば、余は追手を放ち、クルズルクの求めるまま黒羊族に与えていただろう。
逃げずにわが前にみずからやって来た勇気に免じて、女と赤子の身柄はくれてやる。ただし、おまえの身柄は余のものだ。ほかのヘラス人の小僧どもと同じようにな」
「あなたは……」
「余は鉄だ」やすりをかけて尖らせたのであろう、のこぎりのごとき歯列ががちんと鳴らされた。「敵を圧する鉄だ」
その台詞に、電流のような直感が脊髄を駆けくだった。ペレウスはゆっくりと視線を下げる。鉄板と地面の隙間から、指がはみだしていた。
耳をすませばおぞましい小音も聞こえた。圧迫で絶命寸前の呻吟が――ペレウスは悟り、蒼白になりながら唇を噛んだ。
(鉄板の下に何人かいる。
こいつ……捕虜だか奴隷だかの上に鉄板を置かせて、その上に座って……)
ティムールの瞳は暗い赤だった。手にした玻璃の杯のなかにあるぶどう酒のように。
「酒の肴にするならば、敵の断末魔に勝るものはない」血の色の瞳が笑みに歪み、かれは杯をかかげた。