3-7.“塔”の家の軍〈下〉
ペレウス敵の命を断つこと
放牧された馬を見張っていた兵はくちゃくちゃ干し肉を噛んでいた。「馬をよこせ」とカースィムが命じると、肩をすくめてかれは二頭を牽いてきた。
二頭とも体は大きかったが動きがのろのろとしており、明らかに年老いた馬だった。馬を見るなりカースィムの声が険悪となる。
「なんだこの、目が見えているかも疑わしい老いた馬は。無駄にでかい図体だがどこの農耕馬だ。
ふざけるな、別の馬に替えろ。貴様らが乗ってきたようなまともな馬をよこせ」
が、なまりのひどいファールス語でその遊牧民は言い返した。
「すぐに使える軍馬は一頭たりとも無駄にできねえ。ただ乗ってくだけならそいつらに乗れ。どうせ味方のいるほうに行くんだからその馬たちでじゅうぶんだろう。
こっちはこれでも、あんたが通行手形を持っていたから便宜をはかってやってるつもりなんだぜ。文句があるなら歩いていけ」
押し問答の末に、罵りながらカースィムがあてがわれた二頭を引き取ってくる。
二人は東へと進んだ。原野には小規模の騎兵隊が――各部族が独自に出しているのであろう斥候たちがそこらに徘徊していた。かれらはペレウスたちを発見すると馬を飛ばして近寄り、誰何の声をかけてきたが、カースィムが通行手形のようなものを見せると弓を下げて通した。
カースィムとともに馬を進めつつ、ペレウスは脱走の機をうかがっている。
(何がなんでも逃げてやる。
サマルカンド公家軍が妙なことを目論んでいる、〈剣〉につくかもしれない――そのことをファリザードに教えなければ)
何度目かの斥候たちとの邂逅のあと、周囲から騎影が無くなってからの決心である。
(サマルカンド公家の本隊についてしまったら手遅れになる。逃げるならいまのうちだ。
その前にカースィムを攻撃して、追ってこれないようにしてしまおう)
不意をついて反撃しよう、とペレウスはカースィムの左腕を見ながら思った。相手は大力の呪印を持つジンだが、隻腕であり、その一本きりの腕は現在は馬の手綱をとっている。
しかも現在は両足を馬のあぶみに突っ込んでいる……ジンの脅威である俊敏性はじゅうぶんには発揮できないはずだった。
ペレウスが自分を危険な目で観察しているなどと思いもよらないのか、手綱をつかむカースィムは眠そうにあくびまで披露していた。
(前から思っていたがカースィムのやつ、人族を侮りすぎだ。ぼくらだって借りを返す生き物だぞ。
ぼくが子供だから何もできないと舐めているのか? あるいは武器がこっちにないと思って油断しているのか?)
徐々にこみあげる武者震いをなるべく鎮めながら、手綱をぐっと握りしめる。
たしかに、ペレウスの手には一本の短刀もない。だが馬に乗っているのだ。
(そうだ、馬は武器だ。
サー・ウィリアムも白羊族のみんなも、馬で敵兵を押したおして踏みつぶす話を聞かせてくれた……それは戦場では珍しくもない戦い方なのだと。
後悔させてやる、カースィム。反撃されたくなければぼくをリュシマコスたちみたいに鎖でひったてていけばよかったんだ)
こちらの馬を急に走らせ、カースィムの腕がない右側から体当たりしようとペレウスは決めた。
(こいつが落馬すれば、間を置かず馬でのしかかって踏みつけよう。追ってこれなくなるような深手を負わせればいい。
不意打ちだけど、目には目をだ。先にそうしてきたのはこいつなんだから)
ペレウスは機をうかがい続ける。次にカースィムがあくびをするなり、なにかに気をとられるなりすれば、その瞬間にななめ後ろから突進するつもりだった。
しかし、その機会が与えられることはなかった。
走る人影二つと騎影五つ。
右手の丘陵の陰からとびだしてきた者たちの数である。後から現れた騎馬の五人は明らかに、徒歩で走る二人を追っていた。
「狩りか」
その様相を尻目にしてカースィムは行こうとする。思わずペレウスは訊いていた。
「狩りってどういうことだ」
「見ればわかるだろう、追物射だ。犬追いでも狼追いでもなく、人追いというだけのことだ。
奴隷や捕虜を放してわざと逃げさせてから、追いかけて射抜く。ごろつきのような一部の兵がやる戯れとしては珍しくもない」
そう言ってからカースィムは眉をひそめた。
「近づいてくる、面倒だな。さっさと離れるぞ。
……幼獣、いちいち助けようなどと思うなよ。罪人への処刑という線も大きいのだぞ」
ペレウスは絶句していた。ぐるぐると思考がめぐる――まず問答無用で“助けなければ”という思いが湧いた。だが、この状況で自分にどんなことができるだろう? 暗黒の神の神殿でルカイヤやナスリーンの命乞いをしたときよりさらに状況は悪い。追う者とも追われている者たちとも顔見知りですらなく、交渉材料は無にひとしい。
けっきょく、ひどく現実的な意見が心中でとって代わった。
(会う者会う者助けるわけにはいかない。カースィムのいうとおり、これは極悪人への処罰かもしれないんだ。アークスンクルだって言っていたじゃないか、いろいろな文化があると……)
良心の呵責に耳をふさぎ、ペレウスは感情を殺して馬を進めた。
それなのに、残酷な狩りはどんどん近づいてきていた。騎兵たちはときとして、走る者の周りをぐるぐる回ったりして戯れている。それでいながら明らかにペレウスたちのほうへと追いこんできていた。カースィムの舌打ちが聞こえる。
「追っているやつらは馬鹿か? 見せびらかしてなんのつもりだ。
幼獣、なにをしている。馬の足を止めるなと言ったはずだ」
近づくほどによく見えてくる――なぶる者もなぶられる者も、いずれも若かった。馬に乗っているのは捕り竿や弓矢を持った青年兵士たちであり、逃げる二人は上等な服を着た若い夫婦であった。まだ二十そこそこの青年である夫のほうはよく見れば赤子を抱いていて……
夫のひざの裏を矢が貫いた。
転倒した夫のそばに叫ぶ妻がすがる。夫は妻の腕のなかに赤子を押しこみ、行けと示しながら突き飛ばした。妻は泣きながら向きを変え、赤子をかかえて横手に走りだす。
だが、彼女が逃げ切る望みなどどこにもなかった。
騎兵たちはひづめで夫の背を踏みにじると、獲物としての対象をすぐに妻に切り替えたようだった。捕り竿を手にした三騎が妻に追いすがって楽々と追いついていく。弓矢を持つ二騎のみが、ペレウスたちのほうを見てその場に留まった。
指揮官らしき騎兵の顔には、眉間で交差する大きな二本の傷がついている。そいつはわざわざ挑発するようにペレウスたちへ笑いかけると、これみよがしに弓を下へ向け、倒れた夫の背を射抜いた。
「あやつは……」カースィムがなにかに気づいたようにその兵の顔を見るのと、ペレウスが馬を駆って走りだしたのは同時だった。
(赤子が罪を犯したということはありえない)
激怒で脳裏を真っ白にしたまま、ペレウスは馬を疾走させた。
しかし、すぐさま追いついてきたカースィムの馬が隣に並び、手を伸ばしてペレウスの馬の手綱をつかんだ。見込み違いにペレウスはほぞを噛んだ。たとえ隻腕でもジンの怪力をもってすれば、両足で馬の腹をはさんで操ることが楽にできるのだろう。
速度が徐々に収まっていく。倒れた夫のそばで馬は完全に止まった。
「ジンの力と身の軽さをなめるなよ。貴様がどこへ馬を走らせようと私の馬は必ず追いつけるのだ」カースィムは、腕が二本そろっていたらこの場で扼殺してやるのにと言わんばかりの目付きになっていた。「幼獣、貴様を縛っておくべきだった。さっそく面倒に首をつっこみおって」
「下衆め!」
ペレウスは怒声を張り上げた。
(なにが各民族の文化だ、アークスンクル。これは議論の余地のない蛮行だ)
「この兵どもは下衆だ、あんたもそうだ!」
「犬が射られようが人が射られようが、私にとってはおなじことだ。貴様らは獣にすぎん」
カースィムが罵り返したとき、とうとう妻の至近に騎兵が追いついた。
輪縄を先端につけた獣を捕らえるための捕り竿――騎兵三人がそれを息を切らした女の体にかぶせ、大地に引き倒す。
獣欲に目をぎらつかせて意気揚々と馬から下りた兵たちが、暴れる女を押さえつけた。足でその腹を踏みつけ、泣く赤子を彼女の腕からむしり取って砂の上に投げ捨てる。
あまりの狼藉にペレウスはふたたび憤慨の極みに達し、馬から飛び降りてでも駆けつけようとした。が、
「……獣どもが盛りおる。胸が悪くなる光景、目に入れたくもないから通りすぎようとしたのに」
唐突なカースィムの嫌悪の声に意外さを感じ、ペレウスは止まってかれを凝視した。
女の上にのしかかった兵士たちを見るカースィムの顔には、決して偽りではない深刻な憎しみが満ちていた。はたとペレウスはかつて聞かされた話を思い出した――カースィムの亡き妻の無残な話を。
弓矢の騎兵二人は悠々と、輪姦にとりかかった仲間たちのほうへと歩き出していた。
顔に傷のある騎兵が、去る前に近くにいたペレウスたちのほうに視線を投げた。
「茶々を入れようとなど思うなよ、きれいな顔の小僧。でなきゃお前もやってやるぜ。これは故郷を遠く離れた俺たちかわいそうな戦士たちの、ささやかな慰めなのさ」
笑い、傷の兵士はそれからカースィムのほうをものすごい目で見た。
「遠くから見て直感していたが……やっぱりてめえだったな、くそジンめ。
ほらほら、前みたいに俺たちの楽しみを邪魔できると思うならやってみろよ。新しいサマルカンド公みずから、多少のお楽しみなら許すとお墨付きを与えてくれているんだからな。手を出したら遠慮なくてめえを殺してやれるってものだぜ」
「吠えるな、汚れた狂犬め。山羊にでも突っこんで股間の小蛇を腐らせればよいものを」
「言ってろよ……てめえにはいずれこの傷のお返しをしてやるぜ」
カースィムと罵倒を応酬し、傷の兵士は通りすぎていった。
ペレウスはカースィムを見上げた。どういう顔をつくればいいのかわからなくなっていた。
「あんた、前に女性を助けてあの兵士たちを追い払ったことがあるのか?」
「雄犬が寄ってたかって無理やり女を押さえつける光景は反吐が出る。相手が雌犬であろうと。
それだけだ」
「じゃあもう一度そうしてくれれば!」
「勘違いして頼みごとなどするなよ、幼獣。
統制のとれていない兵士どもは、暇ができるとこのようなことをひんぱんに起こす。私が奴に傷をつけたのは行きがかり上の気まぐれだ。虫唾が走ったから狂犬を蹴飛ばしたにすぎない……
そのときとは状況が変わっている。いまや新しいサマルカンド公が犬どもに許しを出したようだ。またも同じ犬を蹴飛ばせば私が咎められるだろう。
それに、なぜ貴様の頼みなど聞かねばならん?」
せせら笑い――ただし、これまでとは別種のいらだちがカースィムの面に浮かんでいる。
……小さな声が、馬の足元から聞こえた。
「ジンの殿様」
馬蹄で踏みにじられ、背と足に矢を受けて気息奄々の若い夫が這いずってきていた。
矢が腹側に突きぬけているようで、地面の這った痕には赤い線がべっとり引かれている。伸ばした手で砂を掻きながら、夫は助けを求めてきた。
「どうか“庇護”を。妻と息子を助けてください」
絶体絶命におちいった弱者が、寺院や市場で貴人に保護を求める――帝国におけるその伝統のことはペレウスもファリザードに聞いて知っていた。
が、訴えかけられたカースィムは笑止とばかりに鼻を鳴らした。
「ここは寺院でも市場でもない。私は王侯ではなく、もはや貴族でもない。庇護を求めるなら場所も相手も間違えているな。
同族に食われようとしている獣を保護する義務などない」
「カースィム、あんたに頼んだって無駄だってことはよくわかった」ペレウスは細めた瞳をぎらぎらさせて言った。「だったらぼくがやる。ぼくは異国人だが王族で、この人たちを庇護する資格を満たしている。だから手綱を放してぼくを行かせろ」
「偽善も堂に入ったものだな、幼獣。丸腰でどうやって武装した兵五人の邪魔立てをするつもりか、少し考えてからものを言ってみろ」
言い争うふたりの馬の足元で、夫があえぎながら乞いつづけている。
「お願いします……ジンのお方……わたしは主人のもとを訪れたあなたを存じ上げております……」
「主人?」カースィムは顔をしかめた。「主人とやらはだれだ」
「わたしはサマルカンド公子ラーディー様の侍従でした……
先日、別のサマルカンド公子ティムール様が……父であるサマルカンド公を殺し、新しいサマルカンド公を名乗りました……その後でティムール様が最初にやったことは、ラーディー様をはじめご自身の兄弟がたを攻めることでした。
ラーディー様に仕えていたわれわれは、ティムール様に従う遊牧民たちに奴隷として分配されました……わたしたち一家は、よりによってあの残酷な黒羊族に与えられ……助けてください、どうか」
「……なるほど、失脚したラーディー殿に飼われていたのか。
しかし死にかけの獣よ、サマルカンド公領ではよくあることだろう。それに私は人族が大嫌いだ、よって貴様らの頼みは聞かん。わかったらあきらめて静かに息絶えろ」
カースィムは無情に言い捨てたが、
「慈悲を……一片の哀れみを」
力の失せてゆく手で砂を掻きつつ、夫は命のかぎりと訴えた。
「奴隷の運命はもうあきらめます、けれどこんな殺され方は……せめて家族の命……妻と息子だけは、アーミナとアーレだけは……」
もう無視してカースィムは馬首を返そうとしていたが、夫が言った名を聞いたとき動きを止めた。その目の下が痙攣した。
「アーミナ?」
押さえつけられて服を剥ぎ取られている最中の女を見やる。かろうじて、のしかかっている男たちの腰はまだ振られていない。「アーミナだと? 貴様の連れ合いはアーミナという名前なのか?」カースィムは倒れた夫に何度も確かめた。
瀕死の夫が朦朧とうなずく。
肌寒い風が砂を巻き上げて吹きぬけていった。
ぎりぎりという異様な音を、ペレウスは聞いた。カースィムが顔色を蒼白にして歯ぎしりする音を。
「……人族に、ジン族と同じ名などおこがましい」
ぶつぶつとカースィムは呪詛する。懊悩と怨念がまじって、面に常軌を逸した色が宿っていた。
「名がかぶったときにはろくなことにならない、前に失敗したときもそうだった。獣どもめ、この忌まわしい下劣な者どもめ。なんで私が、わが妻アーミナと名前が同じというだけで貴様の妻などを助けると……」
赤子の泣き声にかぶせるように、若い妻がかん高い悲鳴を上げた。
「助けて、あなた」
その瞬間に、雷に打たれたようにカースィムはわなないた。かれは握っていたペレウスの手綱を放して馬から飛び降り、新しく腰に佩いていた三日月刀を抜くや悲鳴のほうへと飛びこんだ。
すべては数瞬の出来事だった。
とびのいた五人の兵士たちの真ん中で斬撃が奔る。ズボンをずり下げていたために逃げおくれた兵が頭を削がれて絶命する。カースィムが手首を返すと、狼狽して刀を抜きかけた別の一人の首が飛んだ。
だが他の三人は……捕り竿をまだ持っていた一人と、馬から下りもしていなかった二騎は、明らかに待ちかまえていた。
捕り竿の兵が、長いそれを槍のように突きだしてカースィムの足にひっかける。俊敏な動きを阻害されてたたらを踏んだカースィムへと、
「いよう、待ってたぜ!」
顔に傷のある騎兵が矢を射放った。
致命的な一射――それは斜め上から胴体を貫いた。くぐもったうめきを漏らしてよろめいたカースィムへともう一騎が馬で突進し、のしかかって押し倒した。ひづめに蹴飛ばされて三日月刀がカースィムの手からすっ飛ぶ。
大腿骨や肋骨を踏み砕かれたジンの苦痛の声が響いた。
捕り竿を放りだした兵が歓声をあげて踊りかかり、短剣をカースィムのわき腹に突きたてた。残忍な笑顔を浮かべたのもつかの間、その兵士の胸ぐらを引きよせたカースィムがのどに歯を突きたてた。悲鳴をあげる前に声帯ごとのどが食いちぎられる。
騎兵二人が、二射、三射、四射と、地面のカースィムへと容赦なく射ち下ろしはじめた。まだ仲間の死体が獲物のジンと密着していることなど無視して。至近距離から矢が命中するたびに、びくんびくんとカースィムの手足が痙攣する。
顔に傷のある騎兵が、極度の興奮で狂笑しながら、もうひとりの騎兵にむけて喚いた。
「ジン殺しの称号は俺のものだ! おまえはもう引っ込んで見ていろ――」
言葉が途中で途切れたのは、その目の前でもうひとりの騎兵にペレウスが突っこんだからだった。
カースィムが戦っているあいだに、ペレウスは赤子と妻を引きずるようにして闘いの場から離していた。そしてふたたび馬にしがみつき、よじ登り、騎兵たちに体当たりしたのだった。
ペレウスの乗った老いた大きな馬は、意外なほどに力強かった。しかも、どういうわけかぶちかましに慣れていた。明らかに突撃の調教を受けた馬である。
(この馬、重騎兵の軍馬だ!)
農耕民の畑でなければ採れない専用の餌で巨大化した軍馬――その体格は、遊牧民の小柄な馬を力比べで圧倒した。その上にいた騎兵ごと横倒しにするほどに。
しかし倒れながらとっさに手を伸ばした騎兵がペレウスの服をつかむ。あぶみから足がすっぽぬけて少年はもろともに落馬させられた。
――横倒しになった騎兵が自分の馬と地面にはさまれていなければ、手の届くところにカースィムの落とした三日月刀がなければ、ペレウスは絞め殺されるか殴り殺されていただろう。
しかし、いちはやく刀に手を伸ばしたのはペレウスであり、少年はためらいなく敵兵の首に切先を突きとおした。
「餓鬼め、邪魔したらやってやると言ったはずだぜ」
最後に残った顔に傷のある騎兵が、怒声とともに矢先をペレウスに向けた。
「てめえの体の穴を増やしてそこからやってやるよ!」
だがその足元、執念で上体を起こしたカースィムの手が、傷の騎兵の革長靴をつかんだ。
片手とはいえジンの大力である。ばきばきと足首の骨が砕ける音がして、傷の騎兵は悲鳴をほとばしらせた。その手から放たれた矢はペレウスから体ひとつぶん離れたところを通り過ぎた。
苦痛で兵士は馬上に突っ伏す。その背負った矢筒の矢が残らずばらばらと地に落ちた。
ぐお、おお、と獣のようなうめきが上がる。
握りつぶされた足首がひょうたんのようにくびれていた。下半身をひどく損傷すれば馬上での踏ん張りがきかなくなり、騎兵の戦闘力は減じる。
矢も血の気も失って、傷の騎兵は馬にしがみつき、ペレウスたちから遠ざかっていった。
………………………………
惨烈な戦闘が終わってから、ペレウスは瀕死のカースィムのそばにそっと片ひざをついた。
「あの夫婦はあんたに感謝するだろう、カースィム」
ペレウスは言った。屍となった夫の胸に手を置いて嗚咽している妻と、その胸に抱かれた赤子を横目で見つつ。
「人族からの感謝なぞいるか」カースィムは激しくつっぱねた。「私が助けようとしたのは人ではない……アーミナという名の女だ……」
ごぼごぼと血がジンののどから鳴る。
「幼獣、貴様はやはり疫病神だ。〈霊薬〉さえ残っていれば助かったのに貴様に使ってしまった。あるいはここで立ち止まらなければ、女の名を聞かされなければ……」
「……〈霊薬〉があれば助かるのか? あんたを鞍に乗せて、あんたの毒の師とやらのところへ連れていけばいいのか。サマルカンド公家軍の本陣にいるんだろう」
ペレウスの確認に、カースィムは目を見開き、ついで嘲りを満面にたたえた。
「つくづく愚かだな……そこに行き着く余裕など、わが生に残っておらん……見ればわかるだろうが……
腹のなかが矢でずたずただし、折れた肋骨はたぶん肺に刺さっている……昼過ぎまでももたん」
「そうか」とだけ沈痛にペレウスは言った。ジンの生命力が強かろうとたしかにこれでは助からないだろう。
どういうわけか、悲しかった。
ペレウスを見上げるカースィムの表情が、少しずつ嘲笑から、無念とひがみを含んだものに移っていく。
「貴様が憎い……あの決闘でファリザード姫の前に貴様が立ったときから、貴様という存在が憎くてたまらない」死にかけのジンは吐露した。「貴様のような者が……弱いくせに、他者のために生命を賭けたお節介を焼くような者が、もしも人の大半だったなら……私の妻はあんな……死の前に辱められるようなことには……」
「……言い残すことはないか。してほしいことは」
「ない……ははは、聞いてどうする。笑わせるな、わが復讐を引き継いでくれるとでもいうつもりか」
そこから少し言葉を切って、
「いや……やはり、ある。私にとどめを刺せ。わが心臓をそこに転がった短剣で貫け。この苦痛に満ちた無駄な時間をさっさと終わらせろ」
ペレウスのためらいは短かった。どのみち助からないのである。本人が望む以上、苦しみを短縮してやるにこしたことはなかった。
兵士の落とした短剣を拾い、カースィムの指示に従って、その心臓の真上に擬す。
「わが敵よ、貴様に生涯の呪いをくれてやる」
最後に、カースィムは血まみれの口元で笑った。これまでのような陰惨な笑顔ではなく、全てを吹っ切ったような安らかな笑みだった。
「これで貴様はジン殺しだ。
古い称号だ……古代ファールスの人族の戦士にとっては栄誉だった。あの狂犬よりは貴様にくれてやるほうがまだましだ……だが、〈剣〉はジンを殺した人族については必ず裁くぞ……貴様は〈剣〉に降伏することはできなくなる。
その覚悟があるなら、さあ、やれ」
――……カースィムの鼓動を止めたあと、ペレウスは血に染まった短剣を投げ出した。虚脱しそうな精神を、赤子の泣き声が現実につなぎとめた。
ペレウスはかなたの地平を見やって奥歯を噛み締める。
すぐやるべきことがいろいろあった。急いでこの場を離れないと、さっきの兵士が新たな仲間を連れて戻ってくるだろう。保護した母子を安全なところへ連れて行く必要もある。それからアークスンクルと合流し、こんどは“鍵”で自分の心臓を貫かなければ……
(それにしても、これがサマルカンド公家軍の実態なのか?)