3-6.“塔”の家の軍〈上〉
サマルカンド公家軍のこと
拉致されていようがどこにいようが、竜の夜伽からは逃げられないようだった。
夜のとばりが下りるやいなや、ペレウスの意識は責め苦のただ中へと引き戻された。
鞍の後ろに荷物のようにくくりつけられて運ばれる途中、ぷつりと意識が断ち切られてあの神殿へと移されたのである。
怪物たちの歯やくちばしで体を一寸刻みにされる痛み――いやに明瞭なその感覚は一晩を一年にも感じさせる。思考を寸断する苦痛のなかで、ペレウスは必死に試みていた。
朝が来ても忘れないようにする、ということを。ここに来るたび気づく真実を。
「貫くべき心臓」の在処を、いまのペレウスは知っているのだ。完全に。
(手にしたこの真実を手放したらだめだ、忘れたら)
骨を割られ髄をすすられ、ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら、本当の答えを意識に刻もうとする。その努力を嘲笑うのは、腹を食い破った竜だった。
“必ずや忘れる、朝が来れば汝は忘却する”
血の中にくねりながら、小蛇の姿の竜がささやく。
“星が太陽に代わるたび、汝は忘れ去る”
“ふたたび太陽が星に代わり、夜が訪れるまでは”
● ● ● ● ●
馬のいななきを聞いた気がした。
周囲に気配を感じ、ペレウスは目を覚ました。
頭が重い。悪夢を見たあとはいつも最悪の気分である。
なにか忘れているような気もするが、苦痛に満ちた夢のことなどは思い出したくもない。
(やっと朝だ)
薄目を開けて見上げた空はすでに白んでいた。伸びをしてあくびをひとつ――そこで横腹に突き刺すような衝撃が走った。ただ覚醒をうながすにしては鋭すぎる一撃である。
「優雅な目覚めだな、幼獣」
とっさにわけがわからず丸まったペレウスに低い声を投げつけてきたのはカースィムであった。
返事する間もなく少年の腹部がまたもつま先で蹴り上げられる。重くはないが突き刺さる打撃に、ペレウスはうめいて怒りを燃やした。
(この悪党、朝一番から手荒に扱ってくれるじゃないか)
が、奇妙なことに、カースィムはペレウスに劣らず気分を害しているようだった。
「夜通し怯えておればまだ可愛げもあるものを、運ばれながらぐっすりと眠りこけおって。麻痺毒が効きすぎて呼吸器まで弛緩したかと、〈霊薬〉を貴様の喉奥に垂らして解毒してやったのだぞ。それが……単に神経が鈍いだけとはな。よくも貴重な霊薬を無駄づかいさせてくれたな」
吐き捨てられてペレウスのほうは、「眠りこんだのも起きなかったのもぼくのせいじゃないぞ」と言い返す誘惑にかられだしている。
(いや、真実を言うわけにもいかないし、荒ぶっている相手を刺激してもまずい)とぐっとこらえて無表情を通したが、それもカースィムの怒声を続けて聞かされるまでだった。
「余裕たっぷりの寝息を鞍の後ろから垂れ流しおって。
私が何度、その呼吸音を永久に止めて貴様を砂漠に捨てていく誘惑にかられたことか。怒鳴ろうが打とうが馬がへたばって地面に投げ出されようが起きないとは、いっそたいした寝ぼすけぶりだ。よほどいい夢でも見ていたのか、貴様?」
「そうだな、めったに見られない夢だった。どうせならあんたにも分けてやりたかったな」
地面からついつい皮肉っぽく返したあとですぐ後悔する。
(ああもう、やってしまった。この状況で挑発してもなんの益もないのに)
ペレウスは苦り切る――ふと首をかしげた。我がことながら違和感を感じたのである。
(夢の中のぼくは決して静かではない。あの苦痛はあごを嫌でもこじあけ、喚き声を出させるんだから。
あれだけひどい夢なんだから、眠りながら呻きや身じろぎくらい絶対していると思っていたのに)
だがよくよく考えてみる時間は与えられなかった。
挑発の報いがすぐに来て、腹にまたもカースィムの蹴りが突き刺さる。悶絶するペレウスの上から、霜よりも冷えた声が降ってきた。
「小生意気な態度でいられるのもいまのうちだ。周りを見てみろ」
身を起こし、ペレウスはまぶたをしばたたいた。それは必ずしも朝の光のためだけではなかった。
目に入ったのはまばらに草のある広大な原野――しかしそこに、昨日は見なかった光景が広がっていた。近くに小川があり、少し離れたなだらかな丘では、多くの羊、山羊、ラクダ、そして二千頭はいるのではないかと思うほどのたくさんの馬の群れが放牧されていた。丘の斜面に生える枯れ草色の植物を食みながら、獣たちは歩きまわっている。山羊毛織の移動式天幕がそこかしこに張られ、馬に乗った男たちが家畜を追い立てていた。
「騎馬遊牧民……」
(ここはかれらの集落なのか? それにしても、こんなにたくさん集まるものなんだろうか)
もっとも近くにいる五十人ほどの遊牧民たちは羊毛織の外套とズボン、縁のない帽子になめし革の長靴を身につけていた。だがその向こうにいる別の一団は肌がやけに白く、髪は金色で目は青く、鹿皮の上着を着て狼皮の帽子をかぶっていた。さらにその向こうの者たちは、白羊族がやるように髪を三つ編みにして太い一本のおさげを背中に垂らしていた。
目前の天幕群の前には、炎と光輝の神の「翼ある日輪」の紋様をかたどった旗がひるがえっていた。
離れて設営された別の天幕群では、旗の代わりなのか、獣の頭蓋骨が地面に立てられた棒にかぶせられていた。遠くにかたまった天幕群は大きな鳥が彫られた柱を立てており……
(そうか。かれらは複数の部族の集まりなんだ)
共通したところもあった。
たとえば目につく全員が青壮の男性である。矢筒と弓入れと湾曲した刀という装備も大筋では同じだった。
装備といえば天幕のひとつに長槍が立てかけられている。鎧については見渡してみてもこの場で着ている者はいなかったが、一部は確実に持っているだろう。
(集落じゃない! これは軍だ。雑多な寄せ集めだけれど、遊牧部族が集まってできた軍なんだ。ぼくらはその野営地のなかにいる)
「さあ立て、幼獣」
頭ごなしにカースィムが命令してくる。
「みずからの足であの丘の上に行き、朝日の方向に見えるものを見るがいい」
ペレウスはカースィムをにらみながらよろめいて立った。夜通し馬で運ばれてきた四肢や胴体の節々はひどく痛んだが、幸い骨はどこも折れていないようだった。
丘の頂上へ向けて少年は歩く。獣のにおいが風にのってただようなかを、朝の炊事の煙が立ち上るなかを、幾多の好奇の視線のなかを。遊牧民たちはペレウスをじろじろと見つめたが、近寄ってこようとはしなかった。
高所に至る道には見張りをつとめる騎兵が何人もいて、ペレウスが近づくと心得たように脇にどいた。
(カースィムはこの兵たちに話をつけているんだな)
頂上に立って東を遠望したとき、最初はなにも見えなかった。だが目をこらすうち徐々に、地平線がかすかに波打っている気がしはじめた……それが馬蹄によって乾いた砂塵が舞い上がっている光景なのだと気づくまではいくらもかからなかった。
「砂漠を踏破して波のように本隊が押し寄せてくる」カースィムが言った。「ここにいるのは先行した一部の部族にすぎぬ。拠点を築き、続々集結しているところだろう」
ペレウスは呆然とつぶやいた。
「これはサマルカンド公家軍……なのか?」
遊牧民の兵が大部分を占めるという、内陸部の大領主の軍。
「いま気づいたのか、愚か者め」
ペレウスの動揺を見てカースィムは満足気に笑声を漏らした。
「楽しみにしているがいい、私は貴様をあそこへと連れて行ってやろう。貴様にサマルカンド公家のジンたちを見せてやる。私などよりずっと毒虫じみたあの一族をな」
(ちょっと待て)
地平を凝視しながら、ペレウスはにわかに汗ばんだ手のひらを握りしめた。警鐘が猛烈な勢いで胸奥に響く。
(カースィムは明確にイスファハーン公家の敵だ。〈剣〉の乱に乗じてみずからも反乱を起こした裏切り者だ。
それがなぜ……サマルカンド公家はなぜ、こんなやつとつながりがある?)
「新サマルカンド公を名乗ったティムールというジンがこの軍の主だ。やつは〈剣〉に味方するときの手土産として、貴様らヘラス人使節どもに利用価値を見出している。
現在は、ヘラス人使節どもを集め、唯一神の教えに改宗させようとしているらしい。
最終的には貴様らは、海のかなたのヘラスに攻めこむときに、先頭に立たされるそうだぞ」
心を読んだかのように、カースィムはペレウスに伝えた――尋常ではない衝撃をともなう話を、たてつづけに三つも。心の底から嬉しげに。
「幼獣よ、どうせ貴様はその話を断るのだろう? はは、貴様のような者にとっては改宗も故国攻めに参加するのも苦痛だろうからな。
私としては貴様がどちらを選ぼうがかまわんと思い始めている。貴様がティムールの命令を拒むならば、その身柄を私に下げ渡してもらうつもりだ」