3-4.蟲使い〈上〉
ペレウス敵の罠にはまり
助けの存在に思いを馳せること
「ジンの復讐を甘く見たな、幼獣め」
義腕を外してカースィムは、倒れているペレウスへと大股で歩み寄ってきた。かれを蹴りつけて高笑いする。
「貴様のような偽善者は、同国人とみれば立ち止まって助けようとせずにはいられないだろうと当たりをつけていたぞ。まさか顔見知りとまでは思いもしなかったがな、あははは!」
カースィムに踏みにじられ、哄笑を聞きながらペレウスは今さらながらに思い当たった。
(わざわざクラテロスとリュシマコスを連れてきたのは、交渉のふりをしてぼくらに毒が回るまでの時間稼ぎをするためだったんだな)
そのクラテロスとリュシマコスは、縮み上がった様子でじりじりと後ろにさがっている。カースィム以外で五体満足に動ける者はかれら二人だけであったが、助けにはなりそうもなかった。
カースィムの口から漏れる笑声は、毒々しいふくみ笑いに移行している。
「アーガーへの復讐を邪魔した者はすべて殺してやる。
楽に死ねると思うなよ。まずは両腕を切り落としてやろう」
佩いていた三日月刀をカースィムは革の鞘から抜いた。ペレウスはそれが、前回カースィムに持ち去られていたファリザードの愛刀〈七彩〉であることを認めた。
(今度という今度ばかりは駄目そうだ。
あの子の刀で殺されるなんて)
刃の輝きを見上げながら、ペレウスは奥歯を噛み締めた……毒の息を吸ったせいでてんで力は入らなかったが。
「手始めに貴様から。ここにいる山の民どもも。そして最後はアーガーを殺す」カースィムが刀を振り上げた。「むろん、貴様の飼い主のファリザードにも借りを返してやる」
その言葉はペレウスの顔をゆがませ、反射的に獣が牙を剥くような表情をとらせた。急に殺意のこもったペレウスの眼光に、カースィムがふと手を止め、つぶやいた。
「無念だろう。だが、われわれのちっぽけな思惑に関係なく、死は愛するものを奪っていく。
絶命するまでの間、血を大地に垂れ流しながらおのれの無力を噛み締めろ」
今度こそ三日月刀が落ちかかった――しかし結局、刃が少年の腕を胴体から切り離すことはなかった。
「やめな、し、師兄」
横から伸びた手が、カースィムの隻腕をつかんで押しとどめていた。制止したのは吃音気味のジン族の男だった。髪を伸ばし放題のぼさぼさの頭、乞食僧のごときみすぼらしい身なりである。
「し、新サマルカンド公は、ヘラス人使節を生かして連れてこいとめ、命じていた。この子供の身柄は、あの方に献上せねばならん」
このジンどこから出てきたんだ? とペレウスはあっけにとられたが、男の足元に落ちている手綱や鞍などの馬具を見てはたと悟った。
(カースィムの乗ってきた馬だ……ジンの変化した姿だったんだ)
「引っこんでいろ、サード」
尖った声でカースィムが応じる。
「尊師は私の復讐にかける熱意を汲んでこの役目を与えてくれたのだ。私はどうでもこやつらを殺さねば気がすまん。新サマルカンド公だと? あのティムールのぎざぎざ歯野郎など知ったことか。貴様は馬の姿で、わが足の役目だけ務めておればよいのだ」
「ちがうね。そ、尊師は師兄をあ、憐れみたもうたのさ」
サードと呼ばれたジンはカースィムを煽るようににやにやしながら言った。
「だが、師兄がやり過ぎないようにとも、は、配慮しておられた。このサードはあんたの目付役だよ、し、師兄よ。サマルカンド公家とわが一門の間柄を壊す真似はよせよ。
それとも、俺とた、戦ってでも我意を押しとおすつもりかね?
か、片腕になったあんたじゃ勝てないよ……俺の可愛い子たちの毒で悶え死にしたくなきゃ、言うことを聞きな」
ペレウスはおぞけだった。サードの乱れに乱れた黒髪の内から、巨大なムカデが現れたのである。胴回りの太さが大人の足の親指ほどもあるその蟲は、飼い主の顔面をうぞうぞと這いまわった。総じてジンは端正な顔立ちであるが、それだからこそいっそう際立つおぞましさであった。
カースィムが憤怒と嫌悪をこめて師弟の手をふりはらい、吐き捨てた。
「いつの日か貴様のその愛玩虫に噛まれてくたばるがいい、サード」
「そんなことにはな、ならないよ。
あんたはテヘラーンでど、毒虫などと呼ばれたようだが、俺はその毒虫を“使役”するんだから」
最後にサードは大きく口を開けて舌をだらりと出した。穴をあけて銀の輪をいくつも通した舌――ムカデが赤いじゅうたんを踏むように舌に乗ってのどへと這いこんでいく。サードの表情はどこか恍惚としている。
ペレウスと同じくカースィムが吐き気をもよおした表情になって顔をそむけたところで、
「〈霊薬王〉の門人方よ」
声を発したのは、その場にあぐらで座りこんでいたアークスンクルだった。顔色は悪いがかれの右手には長鞭が握られており、その鞭は地面で生きた蛇のように小刻みに震え、うねりを見せていた。
カースィムが不思議そうにかれを見つめる。
「動ける山犬がいるな。毒気の効き目が薄かったか?」
「昔からなぜか毒には強くてね」
苦笑するアークスンクルの言い分に、二人のジンは興味を示したように目を光らせた。
「個人差……で片付けられる範囲ではないな」
「面白いねえ。そ、尊師とある程度同じ体質かもしれない、こいつ」
「犬よ、若い山犬よ」カースィムがアークスンクルに問いかける。「貴様、よもや解毒や治癒の力のある魔具を持っていたりはすまいな?」
「さあて。どうだろうな」
アークスンクルがうそぶく。転がって話を聞いているペレウスには思い当たることがあった。『王の手と呼ぶ奴もいる』――今日アークスンクルに見せられた治癒の力のことだった。
(あの力が毒への耐性と関係あるんだ、たぶん)
「教えてやってもいいが、先にこっちが訊きたい」とアークスンクルが取り引きのように声を低めて切り出した。「〈霊薬王〉が……いや、その上にいるサマルカンド公家がなぜ、ヘラス人使節を集めようとしているのか教えちゃくれないか? 情報交換といこう」
「……別にその必要はないな。魔具があるかどうかは貴様の死骸を探ればわかる。
だいぶ虚勢を張っているようだな。さすがに立ち歩きはできないのだろう」
「おいおい、おまえらの目的はそこのペレウスという小僧だろう。俺たちはついでで殺されるわけか。死んでも死にきれんな」
「安心しろ、余計なことを知らなくとも死ぬときは死ぬ。死になんの違いもない」
冷たく笑ったカースィムが七彩を手にかれを殺すべく歩き出した。
アークスンクルが右手に持った鞭がその瞬間にうなりを上げた。ぎょっとしたカースィムがのけぞった瞬間、鞭先が空気とともに服の前身頃を切り裂く。それだけにとどまらず、アークスンクルが手首を返すと鞭先はうねって舞い戻った。
足首にからみつきかけた鞭をあわやというところでかわし、カースィムが三日月刀で地面を薙ぐ。鞭を半ばから断たんとする斬撃――だが鞭は、蛇が鎌首をもたげるに似た変化を見せて刀刃を避ける。そして飛びかかるコブラのような速さでふたたび伸び、カースィムの手にした七彩の柄に巻きついた。
このときアークスンクルは左手でふところに入れていた匕首を抜いている。見ていたペレウスにははっきりと一瞬先の展開が読めた。
“大力”の呪印があっても、ジンの体重は人の半分である。踏ん張ることもできない不安定な姿勢で綱引きさせられれば、「軽」が「重」のほうへ引きずられるのは自明の理だった。いま姿勢を崩したカースィムが七彩を手放さなければ、アークスンクルに引き寄せられて匕首にぐさりと貫かれるだろう。
案の定、カースィムは鞭に巻き取られた三日月刀を手放して逃げる道を選んだ。罵声を吐きながらペレウスの背をつかみあげ、後ろに飛びすさる。
重なる舌打ち――手合わせで遅れを取ったカースィムと、相手を仕留めそこねたアークスンクルの双方が顔面を蒼白にしている。もっとも前者は怒りのため、後者は毒の苦痛のためが大きいであろうが。
呼吸を早めたアークスンクルが、ふいに首を回した。
「そこのヘラス人の二人。動けるなら俺の仲間たちを集めて、俺の後ろに引きずってこい」
ヘラス語で命令されたクラテロスとリュシマコスが、顔をおののきに歪めて首を振る。
鎖で鞍につながれていたかれらは、サードが鞍を脱ぎ捨てたとき鎖をたぐってそれを回収し、鎖を外してどうにか自由の身になっていた。カースィムもサードもかれらの行動に、もはや毛ほどの関心も払わなかったのである。
ただし、目立てば殺されるだろうことは明らかだった。ふたりが拒否するのはその意味では無理もなかった……が、アークスンクルに「そうすればおまえらも守ってやる」と言われて、二人は震えながら足を踏み出した。
「犬め、腸を引きずり出してやる!」
鞭の届かないところにペレウスを放り捨てたカースィムが、身を低めて飛びかかろうとした――その突進を凌駕する速度で長鞭がかれの足先の大地を叩き、出鼻をくじいた。
「わが腸はやらんが、代わりにわが鞭をくれてやる。どっちも長いからな。
先端に鉛を入れてあるから、当たったら悲惨なことになると忠告しておくぞ」
脂汗を流しながらも笑って応酬したアークスンクルが、「ふっ」と鋭く息を吐いた。
鞭が乱舞し、虚空を埋める。びゅんびゅん鳴り響く風切り音が一瞬ごとに勢いを増す。
それは刀の斬撃をもってする“籠目”の技と同じく、絶え間ない攻撃が生みだす無敵圏――ただし鞭によるそれははるかに範囲が広く、はるかに変幻自在だった。乱れ連なる鞭撃の嵐が、動けない山の民たちとかれらを引きずるリュシマコスたちをすっぽりと覆って守っている。
側面に回りこんで攻めようとしていたカースィムの顔に鞭がかすり、かれはあわてて引き下がることになった。鉛で重くなった先端がまともに当たれば顔面の皮膚を肉ごともっていかれたであろう。
(すごい。軟らかい長鞭をあそこまで精妙に……仲間の体に決して当てないようにしながら打撃の結界を築いてる)
敵に捕まったわが身のことも忘れて、ペレウスはその鞭を扱う技量に瞠目した。手数でジンの速度を封じているのだ。
「おやおや、こいつはつ、強いな。人族にしてはそこそこ手ごわそうだ」
サードが口笛を吹き、ペレウスと同じような評価を下す。
鞭の間合いに踏みこむことすらできなくなっているカースィムが、眉間に縦じわを刻んで怒鳴る。
「サード! なにを呑気にかまえている、こやつを始末しろ!」
「声を張り上げなくとも聞こえてるよ、師兄。お、落ち着きな」
悠揚迫らぬサードを見て、カースィムの態度が、激した調子から懐柔するような慎重なものに変わった。
「……そうだな。貴様にこの場を任せてかまわないか。
この幼獣は私みずから尊師に献上したい。ティムールのやつがやはりヘラス人に用はないと判断したときに、尊師に願って身柄を下げ渡してもらいたいからな」
「へえ、いいのかい? こいつらを自分でこ、殺さなくて」
「この幼獣のほうが山の犬どもより憎い。そやつらはそこで死ねばそれでいい。
それに腹立たしいが、いまの私ではその鞭の男を仕留めるには時間がかかる。
貴様なら私がいようがいまいが問題ない。任せておけば確実に殺してくれるだろう」
「俺をおだてて使おうとしているねえ。だがわかっていても、わ、悪くない気分だ。まあいいだろうさ……俺もそろそろ、た、楽しみたいところだったからな」
舌を出してサードはにたりと淫蕩に笑う。ムカデの頭が舌に乗ってちらりとのぞいた。
「……では、向こうの砂丘の陰につないだ替えの馬は持って行くぞ。犬どもを片付けたら後から来い、サード」
肩にペレウスをかつぎあげ、カースィムは対峙の場に背を向けた。
ペレウスは肩の上で抵抗を試みたが、無駄と確認しただけの結果に終わった。毒の効果が切れないとどうにもならないと観念し、体の力を完全に抜いて運ばれるままに任せる。
(クラテロスとリュシマコスの二人は、アークスンクルに任せるしかない。
ぼくはとにかく早急に自由を回復することを考えなくてはならない)
事態打開のためには慌ててもしかたなかった。ペレウスは、得た情報をじっくり脳裏で咀嚼する。
(ぼくは〈霊薬王〉とやらの前に連れて行かれるみたいだ。あるいは、サマルカンド公家の当主の前へと。
すぐ殺されないなら望みはある。“虚偽”が呼んだ助けが来る……でも、それってだれのことだろう?)
心当たりは、なくもない。