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3-3.再会

ペレウス予期せぬところで因縁ある者たちに出会うこと


 王政都市オリュンピアの代表リュシマコスは十五歳。がっしりした体格ではないが背は高く、性格は物静かで学者肌である。ただ、その揉め事を嫌う傾向ゆえか、王政都市中の最年長でありながらさほど頼りにならないと陰口されていた記憶がある。

 陰口に参加こそしていないがペレウスも内心では同感だった。ペレウスが民主政都市アテーナイの代表セレウコスにいじめを受けているとき、かれが何かしてくれたことは一度もなかったのだから。


 民主政都市テーバイの代表クラテロスとなると、もっと悪かった。

 セレウコスの取り巻きの一人であるかれは嬉々としてペレウスに嫌がらせし、集団で暴力をふるうときは数人でかれを押さえつけ、率先して蹴りつけるような人間だった。年齢は十四歳、小柄で背丈は年下のペレウスとそう変わらない。


(結束のため、かれらを許そうとは思っていたけれども)


 だが、聖者ならばいざ知らず、恨みを捨てるというのはやはりそう簡単なものではない。

 なにしろ、クラテロスには顔に羊の糞を塗られたことさえあったのだ。


(でも……)


 眼前の二人の姿は、衝撃を受けざるをえないようなものだった。

 木の手枷をはめられて馬の鞍に鎖でつながれた二人は、離れていてもわかるほどの悪臭を放っている。家畜小屋の雑巾でもまとわされているのかと思うような汚いボロ切れを着て、髪は伸び放題、憔悴した顔には垢と泥がこびりついていた。靴を履かせてもらえていない素足は砂漠の地表に露出した塩でひびわれ、植物の刺が突き立ち、古い血と新しい血で赤黒いまだらとなっていた。


「ぼくだ。二人とも、ぼくがわかるか。ミュケナイ使節のペレウスだ」


 黙っていられず、ペレウスはロバの鞍の上から声をかけた。ヘラス人使節である二人の少年は汚れはてた顔を上げた。死にかけの羊の目のようにすべてを諦めておぼろげだった視線がぼんやりと焦点を結び、ペレウスを認めて目を見開き、そして、


「助けてくれえ!」


 まずクラテロスが絶叫した。かれは駆け寄るべく飛び出してきたが、


「馬の前へ出るな、豚め」


 騎馬の男に、鎖で容赦なく引き倒された。


「よせ! 何をする」


 思わずファールス語で怒鳴り、ここまで二人を引きずってきた存在にペレウスは敵意のまなざしを向けた――黒布の覆面で顔を隠している謎の相手へと。

 その男もペレウスを見つめ返してきた。

 一拍、二拍、黙って両者は視線をぶつけ合う。謎の男の覆面からのぞく目には、人をたじろがせる激しい感情の色があった。


(やたら攻撃的な相手だな)


 ペレウスがけげんに思ったとき、謎の男は突如として商談をもちかけてきた。


「この奴隷二人、買うつもりがあるか」


 面食らったペレウスが何か言う前に、アークスンクルの部下シャープールが警戒心むきだしに応対した。


「押し売りにしても礼儀作法を知らない奴隷商だな。顔くらい見せろ」


「よかろう」


 答えて謎の男がみずからの覆面をとる――誰もが言葉を失った。不敵なアークスンクルでさえも目を瞠っている。

 生肉を貼りつけたような、名状しがたい醜怪な顔がそこにはあった。


「病で皮膚を失い、肉が腐りかけている。あまり見ないでもらいたい」


 ただれた顔面の怪人の言葉に、目をそらしながらシャープールがかろうじて応答する。


「と、とにかくそんなぼろぼろの奴隷などいらん。どこかへ行け」


 その発言はペレウスを慌てさせた。

 リュシマコスはまだしも、クラテロスはけっして友人ではなかったが、なんとしても助けねばならなかった。


「ちょっ、ちょっと! その二人はぼくの知り合い……」


 場の視線がいっせいにペレウスに集まる。ペレウスは続ける言葉に詰まった。現在の自分の身分を思い出したのである。


(そうだ、ぼくも捕虜だった)


 それは置くとしても、現金を持ち合わせていない。

 こうなったらこの場はアークスンクルに融通してもらうしかないだろう。


(気は進まないがほかに手がない)


 が、台詞の途中で口ごもった態度を誤解したらしく、いきなりリュシマコスがひざまずいた。かれは手枷を見せつけるように差し出し、死にものぐるいで懇願してきた。


「ペレウス、お願いだ、金を払って僕の身柄を請け出してくれ! 僕はクラテロスとは無関係だ、彼のように君に何かしたことはなかっただろう?」


 クラテロスはこのとき砂が口に入ったのか苦しげにぺっぺっと唾を吐いていたが、リュシマコスに切り捨てられかけていることに気づき、顔色を激変させた。

 かれはペレウスの顔を見上げ、動揺に目をきょろつかせ、それから怒鳴り気味に声をはりあげた。


「おい、仲間だろう! 見捨てるつもりか、助けろよ!」


 その台詞に、ペレウスのこめかみに血管の筋が浮き上がった。


「仲間と言ったか、クラテロス?」


 なにも言われなければペレウスは黙って、助けるべく全力を尽くすだけだったろう。だが、厚かましくも仲間と呼びかけられたことで、怒りを燃やさずにはいられなかった。クラテロスの態度は、気まずさと怯えからくる虚勢であろうとわかってはいたのだが。


「羊の糞を顔になすりつけるのは仲間に対するきみなりの尊重だったというわけか? セレウコスやきみを仲間だなどと思ったことはないぞ、昔も今もだ」


 ペレウスの激しい言葉に、クラテロスの顔色は蒼白になった。

 その猫目がペレウスをにらみ、にらみ続けようとして、ややあって眼光が弱まってゆき……やがて、うなだれてクラテロスは「悪かった」とぼそぼそ洩らした。


「おれが悪かった。謝るから助けてくれ。この境遇から拾い上げてくれたらどんな償いでもする」


 無言のペレウスに、クラテロスは重ねて弱々しく訴える。背後の怪人をちらちらと怯えた目で見ながら、そいつにわからないようにヘラス語で。


「もうごめんだ、この化け物に連れ回されるのは。

 どれだけ寒くても服はこれだけだし、履き物なんてもらえない……塩まじりの砂が足裏をひび割れさせて、そうなると傷にますます塩がしみて一歩ごとに足が燃えるんだ。

 この鎖を見てくれ、夜寝るときにまでこいつを首を巻きつけられるんだ。逃げようと身動きすれば鎖がジャラジャラ鳴っちまうし、そしたら肉が裂けて骨が露出しそうなほど鞭打たれる。ここ数日血まみれで眠ってるんだよ。

 奴隷としても最悪の扱いだ。このままじゃ遠からず殺されちまう。こんな異郷で死にたくないよ」


 げっそりとつぶやく少年の惨めな様子に、ペレウスは凝り固まった憎しみが徐々に哀れみに置き換わっていくのを感じた。長々とため息をつく。


(ヘラスのためだ。どのみち好悪の念で判断することじゃない。

 公人としてのぼくには、かれらが自由を回復するよう力を尽くす義務がある)


 ペレウスはアークスンクルに目をやった。幸いなことにその山の民の貴公子は心得たようにうなずいて部下の名を呼んだ。


「カーウース、シャープール。この奴隷二人を買え」


 かれの部下たちがぶつぶつ言いながらも貨幣を入れた袋を取り出し、離れたところへ怪人をひっぱっていく。ほどなく「いくらだ?」「ふざけるな、高すぎるだろう」「もっと安くしろ」怒鳴り気味の交渉が聞こえてきた。


「やれやれ、欲深なならず者のようだ。脱走奴隷を捕まえてはみたが面倒だからさっさと金に換えたいという手合いだな」アークスンクルは肩をすくめ、「さて、交渉のあいだ、なぜ奴隷の境遇に落ちたのかちょっとそいつらに聞いてみろ、ペレウスよ。興味が湧いた」


………………………………

………………

……


「話のまえに水をくれ。あの怪人は僕らに水だけは飲ませてくれるが、ものすごくけちるんだ」


 都市オリュンピアのリュシマコスは水を要求し、与えられるとむさぼるように飲み干した。

 それから、とつとつと語りだす。


「イスファハーンが灰燼に帰したあと、僕らは話し合った……僕らにできることはなにもない。留まっているのは危険すぎる。全員でヘラスに戻るべきだと」


(全員? ぼくはそこにいなかったが)


 若干面白くなかったが、ペレウスは話はさえぎらず黙っていた。


「僕らは帰路について議論した。ヘラスに帰るのだから反対側である東方に用はない。だが西にまっすぐ行けばホラーサーン軍と出くわす。南の港に出て海路で帰ろうという意見もあったが、南部にもまたホラーサーン軍の手が伸びてきていた。

 残された道は北だった。

 砂漠と草原と山脈を突っ切って北上し、黒海を目指すべきだとセレウコスが言ったんだ。黒海の沿岸にはヘラスとは伝統的にうまくやってきたイムレッティ侯国がある。または都市アテーナイの植民市がいくつか。そのどちらにしても、僕らがヘラスに帰る船を提供してくれるはずだと。

 富裕な都市の代表たちが、全員分の路銀を貸してくれた。僕らはその金で傭兵の一団を護衛として雇い、北を目指した……

 そこまではうまく行ってたんだ」


「失敗した理由は?」ペレウスの問いに、


「護衛の傭兵の裏切りだ!」横から口を出し、クラテロスが憤懣やるかたなしとばかりに歯噛みした。「あの契約を踏みにじる蛮族(バルバロイ)どものせいだ。それがなければ、おれたちは無事にヘラスに帰り着くはずだったんだ……それが……それが……小さな揉め事があって……」


 最後で口ごもったかれに向けて、リュシマコスがふっと冷笑を漏らした。


「クラテロス、なぜ誤魔化そうとするのか? 君たちのせいでもあるだろう」


「おれのせいじゃないぞ!」


「ではセレウコスのせいだ。

 ペレウス、我々は地元民から日々の糧を買いながら北上し、ここのようなグッズ人たちの生活圏に入っていた。もう数日進めば安全な土地に入っていただろう。

 ところが、我々が休むために足を止めたグッズ人の集落の郊外に、あの忌々しい小川があったのさ」


「小川?」


「夕刻にそこで、集落の少女たちが沐浴をしていたらしい。

 最初にそれを見つけたのは、外を出歩いてなんでも探りたがる都市コリントスのアッタロスだった。かれは足早に戻ってきて、見つけた光景を民主政都市の仲間に伝えた。

 するとセレウコスがにやにやしながら腰を上げた……僕らをもてなしていたグッズ人たちの歓待の宴の途中でだ。

『ここの蛮人どもは女まで馬に乗る。だから尻も(もも)もたぶん硬くて色気にとぼしいだろうが、まあ見ちゃいられん裸ってほどでもなかろう。案外、服を着ていないところを確認すれば印象も変わるかもしれんな』と言いながら。

 周囲のグッズ人たちがヘラス語を解さないことが救いだったよ」


 沈黙が三人をつつんだ。クラテロスはさすがに恥じ入ってか下を向いていた。

 ペレウスは後ろをちらと見て、聞いていたアークスンクルの口元に侮蔑の笑いがかすかに浮いているのを確認し、頬が燃えるような思いを味わった。アークスンクルはヘラス語を解するのである。


(なんというヘラス人の恥さらしだ)


「信じられない。リュシマコス、なぜ止めなかった?」


「止めた。だがあのセレウコスだぞ、僕らの言うことを聞くと思うか?

『こいつらの出す羊の肉やヨーグルトや、不味い乳の酒にはもう飽き飽きだ。俺たちをもてなしたいようだから、こいつらの娘で退屈を紛らわせてもらっても別にかまいやしないだろう。なに、蛮人を眺めるくらいアテーナイの奴隷市じゃ誰でもしょっちゅうやってるさ』と、こうだ」


「断言するがあいつはヘラス有数の愚か者だ。

 その愚か者にきみたちはなぜ強く出られなかったんだ?

 都市クレイトールのパウサニアスの話では、王政都市は民主政都市に対抗しようとしていたそうだが」


 ペレウスの声は強烈な苛立ちを含んだが、むっとした顔のクラテロスのみならず、今度はリュシマコスさえ重苦しく首を振った。


「アテーナイがヘラスでいちばん力がある都市だということを差し引いても、ペレウス……僕らが故郷へ帰り着くまでの路銀を用立てたのはセレウコスだ。それだけでなく、黒海の沿岸の諸都市にはアテーナイの影響が大きい。帰りの船を提供してくれるのはかれらになるはずだった。

 置き去りにされたくなければ、セレウコスに逆らったりはできなかったんだ」


「たいしたものだな、海の覇者アテーナイの威光は。もっとも、草原の遊牧の民には効果がなかったようだけれど」


「やめてくれ、そういう言い方は。どうしようもなかったんだ、わかるだろう?」


 弁明するリュシマコスからペレウスは顔をそらし、やるせなさのこもった息を深く吐いた。


「……ぼくは白羊族という遊牧民を知っている。かれらはグッズ人の系統らしい。きみたちの出会ったその人々がかれらと同じならば、誇り高い人々だろうと予想がつく。そこまで聞けば、きみたちがどうして奴隷にされたかはわかったよ、リュシマコス」


「そうだろうとも。けれどいちおう最後まで続けるよ。

 宴の庭から出ていったセレウコスと取り巻きたち数名はすぐに連行されて戻ってきた。我々が雇った護衛兵たちみずからによってだ。

 護衛兵たちもグッズ人だったんだよ。もっと悪いことに、その隊長の妻が、我々の泊めてもらおうとした集落出身ということだった。覗かれた少女たちのうちの一人が隊長の義理の妹だったらしい。

 護衛兵たちは僕らとの契約を破棄すると一方的に告げ、それまでの親切が嘘のように、残酷な盗賊、監視者に早変わりしたんだ。

 僕らは金銭はもちろんすべての荷を奪われて見張りのもとに置かれた。集落の長老たちは集まって僕らの処遇を話し合っていた。殺してしまうか奴隷にするかを決めるために」


「……最終的に決定されたのは後者だったわけだ」


「そうでなければこうして話してすらいないからね。

 あのときは心底ほっとしたよ。奴隷になったとしても、生きたまま矢の練習台にされたり、二本の木にくくりつけられて股から裂かれる刑を味わうよりはよかった。生きてさえいれば、運命が好転する日がきっと来るのだから。

 その後、僕らはいまや奴隷商人に変わった元護衛たちによって、さらに北へ進んだところにある都市ヘカトンピュロスに運ばれ、売られたんだ。あの奴隷市場として悪名高い街に。

 そこからまた、僕とクラテロスだけが買い取られた……こちらの股ぐらをまさぐりながら奴隷商人と値段交渉するような、少年趣味の遊牧民の老人にだよ……」


 そのときの感触を思い出したかのようにリュシマコスは身震いした。黙ったかれに代わり、クラテロスが話を引き取る。


「だが、最初の救いがそのとき訪れた。

 おれたち二人がにやけたじじいに鎖を引かれて奴隷市場を出てすぐのことだ。通りがかった道端に一頭のラクダがつながれていた。そいつがたまたま、打ちひしがれているおれたちの目の前で放尿を始めた。血のような赤茶色の小便だった」


 ラクダの尿の色はペレウスも知っている。体内の水分をけっして無駄にしないラクダは、尿に体内の汚れのありったけを溶かして排出するのだ。その尿を飲めば発狂すると伝わるくらいの濃さである。

 しかしなぜラクダの尿が救いなんだ? とペレウスは一瞬きょとんとし、それから気づいた。


(ぼくがセレウコスに犯されるのを回避したときと同じなんだ)


 クラテロスの話の続きはその直感の正しさを証明した。


「おれたちは頭から突っ込み、ラクダの小便を全身に浴びた。汚物にまみれさえすれば、おれたちを買ったじじいが、おれたちをすぐ天幕に連れ込む気をなくすだろうとわかっていたからな。

 じじいは激怒しておれたちを半死半生になるまで棒で殴り、失神させてから、裸にして川に漬け込んで臭いを取ろうとしたようだ。

 だがおれたちは冬の水の冷たさで目を覚ました……そして次の幸運がめぐってきたことを悟ったんだ。『おれたちは泳げる。だが遊牧民はほとんどが泳げない。だから、仮におれたちが水に潜って対岸へ行ってしまえば、このじじいは追ってこれないだろう。脱走の機会は今しかないのだ』と」


 ペレウスは二人の顔をじっと見た。

 リュシマコスの短い黒髪と彫りの深い顔立ちは、ペレウスとは違う型のヘラス的美男子の模範といっていい。猫目で童顔のクラテロスにしても、顔立ちは使節たちのなかでは整っているほうだった。だからこそ少年愛好家の買い手に目を付けられたのだろう。

 歯の根のあわない状態から回復したリュシマコスがふたたび話しだす。


「かくして、僕らは泳いで逃げることに成功した。

 ――ところが脱走して原野をさまよううちに、新しい『ご主人様』に捕まってしまったというわけさ。

 それがあいつだ。君も見た、僕たちを引きずってきた、ただれた顔の化け物だ。

 言葉が通じないからこちらの身分も伝わらないし交渉のしようもないんだ!

 ああまったく、ペレウス、君は本当についていたよ。ヘラス語を解するファリザード様といっしょにいたんだから、蛮人との意思疎通などに悩む必要もなかっただろうね」


 リュシマコスの言葉に嫉妬のとげを感じ、ペレウスは眉を逆立てた。


「もともとぼくは通訳がいらない程度にはファールス語を話せる。きみたちがぼくを置いて行かなきゃ役立ってやれたかもしれないのに」


 痛烈な逆撃をくらってリュシマコスは黙りこみ、ややあって、取りつくろうようにぎこちない笑みを浮かべた。


「ペレウス。そのことは後悔している、許してくれ。

 できれば同じヘラス人を憐れんでくれないだろうか。誰でもいいからこの苦痛から救い出してくれ、さもなくば速やかで楽な死を与えてくれと、そんなことを願ってしまうような苦境に僕らはいたんだよ。

 ヘラスの神々よありがとうございます、その願いは叶えられた。こうして今日、救い主である君とついに巡り会ったんだ! やっとこの手枷を外してもらえる」


 そこでアークスンクルが片手を挙げ、にこやかにヘラス語で会話に割りこんだ。


「さっきから聞いていたが誤解があるようだ。

 俺はイスファハーン公家の下についちゃいないし、お前たちと同じくそのペレウスも捕虜だよ。今日捕まえてきたところだ。

 お前たちは三人そろってわが捕虜になった」


 望みを打ち砕かれた者があげる絶望の奇声を発して、二人が地面に突っ伏した。

 ペレウスはふりむいてアークスンクルをにらみ、ヘラス語で釘を刺した。


「いたずらはやめてくれ。この二人は過酷な旅で心身をすり減らしていて、あんたの冗談には付き合えないようだ。

 あんた先刻、ぼくとは友好的な関係を望むって言ってくれたじゃないか」


「お前が俺にナスリーンの情報を渡してくれるならばだ。まだ返事を聞いていないな。

 もちろん承諾してもらえれば、この素行のよろしくなさそうなお前のお仲間たちも客人扱いするが?」


「いいだろう、どうせ承諾するつもりらっら……」


(あれ?)


 ペレウスはうなずいて言葉を吐き――最後で舌が回らなかったことに気づいて、口元に手を当てた。

 当てたはずが、手が上がらなかった。

 ぐらりと体がよろめいて鞍から落ちる。ペレウスを「おっと!」と受け止めたアークスンクルが、自らもよろめいて驚きの表情になっていた。


(何が起きたんだ、しびれて動けない)


 周囲で山の民たちがめまいを起こしたようにふらつき、尻もちをつき、動けなくなっていく。

 ペレウスはもがいたが、手足に力が入らなかった。かたわらでは唖然としてクラテロスとリュシマコスが見守っている。かれら二人には何の異常もないようだった。

 その混乱のなかで――


「わざわざ来てもらって悪いねえ」


 熊ひげのロスタムだけが悠然として、あの怪人に話しかけていた。


「さすが〈霊薬王〉(アル・イクシール)の一門、見事な手並みだった」


「礼には及ばん。及ばぬぞ……」怪人がぶつぶつと答えた。


 ペレウスはひざをついたアークスンクルが表情を急速に硬化させるのを見た。いまや明らかだった、これがかれにとっても完全に予想外の事態であることは。

 それでもアークスンクルは震える足を踏みしめるようにして立ち、ロスタムに向けて呼びかけた。


「なるほど! ここで裏切るわけだな? ロスタム殿。

 毒使いを呼びこんで待ち伏せさせるとはな。いったいどのような手段で毒を盛られたか見当がつかぬが、その御仁がかの〈霊薬王〉ならば納得もいくぞ」


「正統な山の王を先に裏切ったのはどちらですかね、アークスンクル殿」


 ロスタムの冷ややかな視線が返ってくる。アークスンクルは鼻で笑ったが、その鼻の頭に大粒の汗が浮いていた。


「ロスタムよ、叔父上も情けないことだな。俺をだまし討ちするためにサマルカンド公家と結び、悪名高い〈霊薬王〉のような化け物を貸し出してもらうとは」


「口には気をつけたほうがいいですぜ。楽に死にたきゃあな。

 こちらの御仁があんたの始末をつけてくださる。あんたもいちおうは先王の子で、俺自身が手を下すには気が引けるが、よそ者に始末させるくらいなら屁でもねえ」


 言い争う山の民たちの横で、怪人がぶつぶつと洩らした。


「尊師が貴様らごときにみずからお出ましになるものか! 私は〈霊薬王〉の弟子だ」


 ペレウスは誰かに事情を尋ねたくてたまらなかったが、舌が動かない状態ではどうしようもなかった。

 混乱に拍車をかけるように、頭蓋に慣れた声が響いた。


〔助けを呼んで戻ってきてみればまた新しい横槍が入ったの? ……どうしてあなたって、こうも難儀な運勢なのかしらね〕


 “虚偽”、消えたと思ったら湧いて出てくるこの女狐、どういうことだこれはいったい――! 舌が動かず身をよじるばかりのペレウスに、呆れ声の思念がかけられる。


〔あなたねえ、竜として活動もしないうちから光の六卵の手の者に付け狙われているんじゃ先が思いやられるわよ〕


(光の六卵?)


〔〈霊薬王〉は、“善思”(ウォフ・マナフ)。当代随一の毒使いで、サマルカンド公家に雇われてるわ。

 あなたかれに何かしたの?

 あの〈霊薬王〉の弟子という男があなたを見る目、恨みがましいものを感じるわよ〕


 覚えなどない。〈霊薬王〉に会ったどころか名さえも初耳だというのに、ましてその弟子に恨まれる機会などあったはずがない。

 そのときロスタムが歩み寄ってきて、ペレウスを肩に担ぎあげた。


「この坊やはもらっていくぜ、アークスンクル殿。きちんともてなしてナスリーン様の居所はしゃべってもらうから安心しな。

 それじゃあさよならだ、永久にな」


 言いながらロスタムはロバのほうへ向けて歩みだし――


 転倒した。


 地面へ投げ出されてペレウスは痛みにうめいたが、それよりも成り行きの意外さのほうに気を取られた。見れば、うつぶせに倒れ伏したロスタムの表情は、衝撃で凍りついている。

 怪人の声が聞こえた――身の毛がよだつような笑い声を含んで。


「礼には及ばぬと言ったであろう。

 くくく、貴様だけ除外したと思っていたのか。毒の効き目には個人差がある。たまたま、貴様が一番毒が回るのが遅かったにすぎぬ」


(どうなっているんだ、これは?)


 ペレウスの疑問を無視して、無慈悲に“虚偽”が思念を打ち切った。


〔じゃ、あとは自分で最善を尽くして試練を完成させてね。

 今回は外部からの横槍だから助けを呼んであげたけど、もう面倒は見ないわよ。死んだら普通に試練失格になるから〕


 まずは助けとやらが来るまで生き延びろということか、とペレウスは渋面になった。


(……できるのだろうか)


 不安を抱いて怪人を見た――心臓がはねる。

 〈霊薬王〉の弟子というその怪人は、自分の醜怪な顔の皮を剥ぎはじめていた。

 戦慄したが、ペレウスはすぐに理解した。


(本物の顔じゃない。よくできた仮面だったんだ)


 自分の顔面に左手をかけ、肉の仮面を少しずつ剥ぎながら、怪人は笑い声を漏らし続けている。どういうわけかペレウスに憎悪の目を向けながら。


「ははは、こうも図に当たるとは。

 尊師が私に授けたもうたこの『バジリスクの面』は、邪竜の肉でできており、装着者の吐く息を無臭の毒気に変える仮面状の魔具。

 一定時間以上そばにいる相手をことごとく倒す……尊師が授けてくれた霊薬を飲んでいた者以外をな」


(クラテロスやリュシマコスが無事なのは、その霊薬を飲まされたからか)


 怪人は片手でめりめりと肉面を剥がしていく。面の内側におさえこまれていたジンの耳がぴんと立った。


「まったく、手間がかかったぞ。私自身とわが馬だけでなく、貴様を油断させる道具である奴隷二人にまで、貴重な霊薬を水に溶いて与えねばならなかった。

 だがその甲斐はあったというものだ」


 言いながら怪人が完全に肉面を脱ぎ捨てたとき、


(あ。やばい)


 顔から一瞬で血の気が引くのをペレウスは感じた。転がっているロスタムもひくひくと表情をひきつらせている。

 ……考えてみれば、その男はずっと右手を動かしていなかった。おそらくは義腕だろう。かれは以前に右腕を自分で斬り落としたのだから。

 ペレウスたちが見知ったジンの男がそこにいた。


「会いたかったぞ、幼獣と山の犬どもよ」


 かつて都市テヘラーンで反逆したジン、カースィムの面はやつれて痩せこけていた。ただ両眼だけが異様な光をぎらぎらと帯びてペレウスを見つめている。

 それは復讐の喜悦の光だった。


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