3-1.拉致
第三章開幕。
千七百年前
報復戦争時代終末期 都市バービリム
咳きこむと痛みが胸の内側で炸裂した。
立っていられず塔の階段に座り、口に当てた手にべっとりついた血をレンガになすりつけてぬぐう。ジン王バール・アキシュは肺が溶ける痛みをつとめてやりすごそうとした。
「早く竜を殺せ、アルプ・アルスラーン」
先行している百歳にもならない若い将へ向けてうわごとのように言い、繰りかえし吐血する。竜が大気中に満たした毒の霧は、地表近くでは炎が焼き尽くしてくれたが、烈しい熱気はこれはこれで瀕死の身には耐えがたい。
(もうすぐだ。もうすぐ終わるのだ)
バール・アキシュは偉大なるスライマーン王に直接仕えたジンとして高名な存在だった。いわゆる「スライマーンの七十二ジン」の一人ではなかったが、近衛隊の隊長であった。スライマーンが死してのちは、みずからシリアの地の王を名乗り、報復戦争期を通じて強大な独立勢力となっていた。
そのかれは現在、スライマーンが死してのちはじめて、他の者に自身の運命をゆだねている。
アルプ・アルスラーンら六人の、炎と光輝の神の使徒たちに。
もっともそれはバール・アキシュに限らない。
あらゆる種族が竜を殺すために手を結んでいた――ジンも人も白のジンも、それまで憎悪をもって敵対してきた者たちが。
竜に対する切り札であるアルプ・アルスラーン、およびその仲間五人を中核として集ったのだ。
そうせねばならなかった。
比喩でなく、世界が滅びる間際であった。殺戮の能力に特化した邪竜という魔具……暗黒神の魂の一部が入った、魔具にして魔王たる存在によって。
「本当に迷惑きわまりない魔具を遺してくれたものだ、わが主よ」
バール・アキシュは数百年前に死んだスライマーン王に向けて愚痴をこぼした。
スライマーンの御代から建っていた、バービリムの高い塔を見上げる。長い巻貝を垂直に立てたような形をした巨大な塔を。
塔がそびえる空は暗い。竜の吐いた暗黒の霧が全天を覆い、日月の光を殺している。
それに対抗して地上では溶岩がこの呪われた都市をとりまき、炎の結界を織り成していた。ようやく追いつめた邪竜――「竜人」なる存在を逃さないように。
(もう逃してたまるものか)
世界中が二年も竜を追い続け、そして土壇場で逃げられてきた。邪竜の能力のひとつである、闇から闇への空間移動によってである。
……竜が持ち合わせている力が、そのような、逃げまどうだけの能力のみであればどんなにかよかったであろう。
(ここで逃せば次の戦力はない。……次は、ない)
バール・アキシュ麾下もそうでない軍も含め、諸国同盟軍は壊滅の惨状にあった。竜のしもべたちの殲滅と引き換えにではあるが。
常軌を逸した刺し違え戦の結果、最後の最後でぎりぎりこちらが優勢。それが現在の状態なのだ。
だがバール・アキシュにはわかっている。もはや数百年そこらでは回復不能な痛手を負った自分たちとは違い、竜の戦力は笑えるほど速やかに復活するであろうことを。ここで仕留めきれねば、グールの兵は来月にはふたたび地に満ちるであろう。そして疫病も……
激しく咳してバール・アキシュは血を吐いた。黒ずんで溶けた肺のかけらが血のなかに混じっている。苦しさのあまり階段を数段ずり落ちたのにも気づかぬまま咳きこみ、鎧の胸元を血まみれにしていく。
バール・アキシュがまだ生きているのは奇跡、というより執念のたまものだった。気力で生命の火を燃やし続けながら、ようやく発作のおさまったバール・アキシュは震える手で口元をぬぐった。
(次の新月に流行する病は、この肺病よりもっと怖ろしいものとなるだろう)
――邪竜の災いが解き放たれたのは七年前のことになる。
最初は、天然痘の流行だった。
災厄ではあるが疫病の発生はしばしば起きることだ――戦い合うだれもが不審には思わなかった。
だが、続けて次の年には発疹と咳の病が流行した。
三年目には麻疹の大流行が――そして、三年目からはもう「年ごとに」とはいえなかった。新たな病の流行がはじまるまでの間隔は半年、数ヶ月、二ヶ月とどんどん縮まっていったのだ。最終的には新月がくるごとに病が流れるようになった。
各地の水場で、水を飲んだ者に赤痢が発生した。
赤痢を逃れた民を重い流行性感冒が襲った。どうにか耐え切った者たちを黒い死が殺した。黒い死は大気に満ちてまたたく間に広まった。
冗談のように多くの人族が死に、その屍体は冬であっても速やかに腐った。蚊や蝿やイナゴが空を覆うほどに大発生し、夏にはあらゆる熱病が蚊によって僻地まで届けられた。
朝に千人、夕に千人が死んだ。
万、十万、三十万、百万と、死者の数は飛躍的に増えていく。五年目には多くの地域が、文明を保つことが可能な人口を大きく割り込んでいた。
というよりも、無人となるまで殲滅されていた。病が何度も流行したあとには必ず、グールをはじめとする魔物たちがどこからともなく現れて、わずかな生存者を食い殺していた。
人族よりはるかに病に強いはずのジン族さえも甚大な被害を出し……しかも新たな流行のごとに、病に倒れるジンの数は増えていった。
そして、天然痘がもう一度広がりはじめたとき、生き残った者たちは恐怖の奈落に突き落とされた。
それは過去の罹患歴の有無に関係ない流行であったのだ。
一度天然痘や麻疹にかかったのち回復すれば、その者はもう二度と同じ病気にかかることはない。それが古来より知られ、医師たちが見解を等しくする事実であった。
にもかかわらず、その事実が覆された。異常がここに極まった。
急きょ戦争が中止され、それぞれの神への祈願のかたわら、生き残った者たちによって病の調査が始まった。名医たちが王たちに向けて断言する。この天然痘の病状は先の流行のときとはわずかながら違うと。これは新種の天然痘としか思えないと。
ここに至っては、もはや疑いなかった。
疫病や魔物を解き放って人々を殺戮している存在がいる。
それだけでもじゅうぶんに戦慄すべき能力だが、加えてその何者かは、病を次々強化して短期間に新しい病を作りだせるのだ。
その存在を消さねば、遠からず地上のすべての文明が絶滅することは確実だった。
それまで戦ってきた国や種族が、最優先すべき敵はその存在であると意見を一致させた。かれらが病の根源である何者かを探し始めたとき、それは向こうから登場した。
バービリムの地に瘴気がたちこめ、グールの群れ……軍といっていいほどの大規模な群れが現れた。黒衣をまとった五人の魔術師がグールを増やしており、その五人の上には、肩から二匹の大蛇を生やした者がいるという情報がもたらされたのだ。
まったく同じとき、ジンと人よりなる六人の、白布をまとった者たちが諸国の宮廷を訪問しはじめた。
“火炎の書”をたずさえて、炎と光輝の神に選ばれたと自称するその者たちは、災いの正体を明確に言い切ってみせた。『あれこそは暗黒神の分霊たる邪竜です』と。『生命を奪えば奪うほど竜の力は増してゆくのです。もはや国々が互いに争い合いながら倒せる相手ではなくなりました』とも。
邪竜と呼ばれる存在は過去にも現れたことがあったが、『魂強きものと同化して竜人となった存在は、ただの竜型よりも怖ろしい魔獣です』とかれらは断言した。
戦いが始まった――竜を追い詰めて討伐することを目的とした戦いが。
それは通常の戦争とはまったく違う様相の死闘となった。
各地の王が個別に派遣した討伐軍はことごとく全滅した。
最初はそんなにも苦戦するとはだれも思っていなかった。たしかにその魔獣は直接の戦闘能力も高いとはいえ、各国にも名だたるジンの戦士たちが揃っていたのである。バール・アキシュの王国にも、自身をはじめ、スライマーンの御代から生きながらえてきた古老たちがわずかとはいえ残っていた。
正面から戦えば必ず討ち果たせただろう。
それがわかっているからであろう。邪竜とその五人の仲間は、最初は逃げに専念した。グールを惜しげもなく捨て石に使い、黒い毒気を煙幕のように振りまき、水場のことごとくを塩水に変え、闇から闇へと移動しつつ逃げた。
邪竜にとっては、必死に追ってくる戦士たちが毒と病と衰弱に蝕まれて倒れるまで逃げきればよかったのである。
『竜は生命を奪うほど強くなってゆきます』というのが光の神の使徒たちの予言であった。
その言葉を実証するかのように、竜の流す疫病はますますおぞましく進化してゆく。
汚染された水場の水はもはや単なる塩水ではない。飲めないのは当然、傷口にかかれば破傷風に似た症状を発し、苦痛とともに狂死に追い込まれる毒水と化していた。百もの大河が死の流れとなった。
ただよわせる毒気は、濃密な黒霧となって空をおおい、太陽や月の光をさまたげた。みずからつくりあげた闇の環境のなかを、竜はもはや昼も夜もなく自由に空間移動してのけた。
グールの数は、殺しても殺してもいつのまにか、元通りかそれ以上に回復していた。
気がつけば直接の戦闘でも、竜に勝てなくなっていた。
……光の六卵と名乗る使徒たちのみが、疫病と毒の被害をはねのけつつ邪竜を追い続けていた。
かれらは人々の病を癒し、邪竜のあらゆる毒と呪いを浄化した。竜のもたらす大被害のなかでは救えるものは微々たる規模であったが、かれらの存在はいつしか大陸の希望となっていった。
『闇が濃くなるほどその中にあって輝きはまばゆいものとなります。竜は命を奪うことで力を増しますが、我らは竜が強大になるほど力を増すのです』
それが暗黒神と対となる光輝神の使徒たちの言葉であった。
バール・アキシュは決断した。残った全軍をかれらの援護として使うことを。他の諸勢力を説いてその方針に同意させることを。
諸国間の休戦条約は、大同盟へと発展した。あらゆる恩讐を越えて、すべての勢力が手を組んで軍を動かした。……戦える力を残した勢力はほんのひとにぎりだったが。
方針は誤っていなかった。光の六卵を中核とした諸勢力の同盟軍は、ついに竜の喉元まで迫ったのである。
グールの大軍は掃討された。暗黒神の使徒である闇の六卵のうち邪竜となった者以外の五人は討たれた。バール・アキシュたちは邪竜をついに包囲して、空間移動をはばむ火の結界の中で光輝の神の使徒たちと対峙させることに成功した。
引き換えに、こちらの軍も複数の疫病と毒で殺戮されたが――
「竜を殺せ、殺してくれ、アルプ・アルスラーン。そうでなければ余はとても眠れぬ。この戦いに死んでいった者たちは報われぬ」
懇願混じりにつぶやいたとき、塔と大気が震えた。
炎風の逆巻く虚空に、濃い闇の球形が現出した。
空間移動用の“扉”。
(おお、まさか……)
目を見開き、階段に後ろ手をついてよろよろと身を起こしたかれの眼前で、闇は渦巻き、広がり、収束し……階段に女がひとり残されていた。
ぼろぼろの亜麻布をまとった、中年の奴隷女だった。
うつむき気味のその虚ろな顔に、奴隷の焼き印がくっきり押されている。
どこの都市でも見るような奴隷――その両肩に大蛇が生えていることを除けば。
虐殺者がそこにいた。
バール・アキシュは脊椎が氷柱と化したかのような寒気を味わった。
よもやアルプ・アルスラーンたちが返り討ちにあったのではないかと考えたのである。だが、そうならば炎の結界も消え失せているはずだと気がついて胸をなでおろした。
(直接の戦闘であれば、わずかに炎が闇に勝るという話であったな)
「どうやら光の使徒たちに押されて逃げてきたようだな」挑発の言葉をかける。「この炎の結界は、じわじわと収斂するそうだ。飛ぶこともできぬ。貴様の逃げ場所はないぞ」
女は、かれの言葉を聞いていなかった。
ぶつぶつとなにかを洩らしている――バール・アキシュは女のつぶやきを耳にして顔をゆがめた。
「私は試練に勝ったのに」「守りたかっただけなのに」「私の愛しい子供たち」「力があれば守れると思ったのに」「たった一度だけと思ったのに」「一度だけ力を使っただけなのに」「バービルムを包囲した軍を追い払おうと思っただけなのに」
(本当に言っているのだな)
竜に接近したことのある亡き部下たちが報告していた。邪竜を宿した女は、ある後悔の言葉を飽きもせず口にし続けていると。
その内容を聞いたときから、どうしても竜に確かめたいことがあった。
バール・アキシュはぐらつく足元を踏みしめ、訊ねた。
「その話……
バービルムを包囲した軍に使ったというのは……天然痘だな? 最初に流行った病だな」
問いかけた直後、
――おおおおおおおおお。
突然、女ががくんと頭を後ろにのけぞらせ、身の毛がよだつような悲嘆と狂気の声をほとばしらせた。
「天然痘、そう、天然痘だった。ただ一度、ただ一度、市を包囲した敵軍へ使っただけだったのに」天を仰ぐ女ののどから痛哭が響く。「おおおお、死んでしまった、殺してしまった、愛しい子供たち、五人みんな、みんなみんな私の放った病で死んでしまった。どうして、どうして、どうしてよ、天然痘なのに。子供にはそこまで重くない病なのに。そのはずだったのに」
女の嘆きに、バール・アキシュは笑いの発作がこみあげるのを感じた。(やはりそうだった)笑声のかわりに咳と血が噴いた。
(余の戦だ。余の軍がこの地に攻め入ってバービルムを包囲した戦だ。軍中にも都市にも天然痘が流行って兵を引かざるをえなかった、七年前のあの遠征だ)
「女、女よ……あの……戦……あのとき貴様と貴様の子らが……都市の中にいた、だと。それが始まりだっただと?
わが軍の包囲がなければ貴様は、ずっと竜の力を振るうつもりはなかったというつもりか。暗黒神に見こまれて竜人となりながら、それまでその力を抑えていたのか」
女がかつて望んだことをバール・アキシュは正確に理解した。都市陥落後の兵たちの狂躁から子供らを守ろうとしたのだろう。そのために天然痘を包囲軍に向けて解き放ったのだ。
しかし、市壁の外に放ったはずの疫病は内でもはびこり……
「……そして子らが貴様の放った疫病のために死んだから、貴様はすべてを滅ぼしはじめたというのか。
おう、貴様、疫病が都合よく犠牲者を選んでくれると思っていたのか。暗黒の神は裏切りと虚偽の神ではないか。むしろ、貴様を絶望させるよう手を尽くすに決まっていただろうが」
おかしすぎて、血を吐きながら笑うしかなかった。
この竜はバール・アキシュにとってどれだけ憎んでも飽きたらない怨敵である。報復戦争などという愚かしい時代を、それでも勝ち残るべく戦ってきたのに、この竜のためにすべての戦いが意味のないものにされてしまった。
それなのに、大地を覆った惨劇の始まりには自分も責任があったと突きつけられれば……
「竜の宿主たる女、人族の女よ……余らのこの有り様は、それでは因果応報なのか?
余は大地を統一して平和をもたらすつもりだった。ほかの王にはくだらぬ理由で惨禍を民に押しつける愚王もいたろうが、余は、この戦乱の時代を早く終わらせるつもりで戦っていたのだぞ! あの包囲戦もそのための戦の一環で……この、大局というものを理解できない愚かな女め。小さき視野しか持たぬ人族の奴隷ふぜいが……子らの死くらいで、こんな、この世を滅ぼす愚挙に出るなど……」
バール・アキシュの激情はたちまち冷え、乾いた砂のように崩れて散っていった。
しばししてから、虚無感をこめてかれはぽつりと言った。
「そうだな。余ら支配者たちとこの世界を怨む理由が、貴様にはたしかにあるのだろうな。
貴様は殺す。だが、余らがもっと早く戦を終わらせられなかったことだけは詫びよう。貴様を含めたすべての民に」
報復戦争ではどの陣営も、全土に平和をもたらすほどの決定的な勝利を収められなかった。いっとき優勢となった陣営も勝ちきれない、そんな情勢がずるずると続いた。さりとて複雑にもつれた相互の憎悪と不信ゆえに、手をとりあっての恒久和平など望むべくもなかった。
その結果、長きにわたる戦乱が、あまたの怨嗟と嘆きを、屍と奴隷を量産したのである。
ならばまさしく、竜とは愚かな世界への報いであった。この邪竜は流れる血を糧として生まれたのだし、竜の宿主となったこの奴隷女は、明らかに残酷な時代の犠牲者なのだから。
「ふん……慰めになるかわからんがな、女よ。報復戦争はもう終焉するぞ。
おまえが終わらせたのだ――憎み合うどの陣営も殺し尽くしたことでな。
どれだけ死んだと思う? 大陸全土のジンの五割、人族にいたっては九割だ。わずか七年でそれだけの数をおまえの力は殺してしまった。どうだ、望みどおりか?」
女はバール・アキシュに答えず、ふたたび頭を垂れていた。ぶつぶつと死んだ子供たちのものらしき名をつぶやき、「たった一度だけだったのに」と繰り返していた。
(人格はとうに壊れているか)
嘆息し、狂女の息の根を止めるべくバール・アキシュは剣の柄を握りしめて階段を下りようとした。
“残りもすべて殺さねば”
唐突に、女がそれまでとまったく違う声音を出し、ぎくりとしてバール・アキシュはかすむ目をこらした。
まず、女の肩の二匹の蛇がかれを見つめる。ついで女がぐるりと向き直り、狂った笑みを満面に浮かべ、両腕を胸の前で交差した。
“我、怨霊を率わん”
女の口に牙が生える。顔面に黒い鱗と、逆茂木のようなごつごつした幾本ものとげが浮かび、みるみる竜頭に変わってゆく。巨大な翼が背中から広がって、ぎしぎしと鱗の軋る音をたてながら胴体が膨張しはじめた。
同時に、黒塗り窓のような“扉”が、魔方陣となって幾十も宙に刻まれる。竜の身をぐるりと取り巻くように。
怪物たちが続々と、次元の扉から溢れでた。毒蛇たち、角の生えた小さな竜、翼を持った巨大ひきがえる、大サソリ、グール――召喚された竜の眷属。
“汝も我の兵となり”
“炎の神と戦うべし”
邪竜はいまや完全に人型から竜型へと変じていた。
バービルムの巨塔の外側に彫られた階段は、大人が二十人並んで通れるほどの横幅をもっていたが、魔獣の巨躯はそこに収まりきらず、壁に取り付いてみしみしと塔を揺るがした。
バール・アキシュは生命力の熾火をかきたて、血まみれの笑いを浮かべた。
「そうか、命を奪えば奪うほど強さを増すのだったな……だから、結界内の生命の臭いを嗅ぎつけてここに来たわけか。
だが、余一人の命をいまさら吸収しても大した差ではあるまいが。この呪われた蜥蜴めが」
止まっていた足を進めだす。死へ向けて。
「まあ、いいだろう。竜の中にいる女よ、貴様と余とには因縁がある。アルプ・アルスラーンが駆けつけるまで、命の限り相手してやる。
最終戦を楽しもうではないか。この戦乱の時代のな」
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現代
イスファハーン公領北部の街道
ペレウスは猿ぐつわをかみしめていた。
縛り上げられ、猿ぐつわをかまされて数刻――あたりは血なまぐさい闇である。それは夜になったということではない。昼も夜もわからなかった。
内臓のないらくだの腹の中につめこまれ、荷馬車で運ばれているのだ。臓物を抜いた腹腔内はいちおう軽く洗ってはいるらしいが、残る血や臓物の臭いやらべっとり感やら、気色悪いことこの上ない。
(なんだってこんなことに)
“虚偽”に訊きたい。このひどいめぐり合わせはおまえの差し金かと。
痛恨の念とともに朝方のことを思い返す。
それが起きたのは“鍵”を自らの胸に突きたてようとした瞬間だった。
窓の外から鈎のついた縄が鞭のようにふるわれ、ペレウスの手のなかの刃を正確に弾き飛ばしたのだ。
同時に窓より侵入者――侵入というより頭から飛びこむ勢いで突入してきた。ごろごろ転がって床で受け身をとったその細身の男は、貧しい荷かつぎ人夫の格好をして、顔に覆面をしていた。
目を点にし、ペレウスは対応を間違えた。
とっさにファリザードから贈られたほうの刃を手で探ったのはいいが、叫んで助けを呼ぶのが遅れたのである。
口も利けないほどの動転こそは、不意打ちをかけた侵入者にとっては望みどおりであったろう。
侵入者は手にした鈎縄を今度は投げ縄のように使い、やすやすとペレウスの体を巻きとった。寝台から引き倒し、抱きとめるなり布の猿ぐつわを噛ませてぐるぐる縛り上げてくる。
床に落ちていた二振りの短刀をも無造作に拾い上げて、侵入者は窓枠に鈎をひっかけて下りた。小脇にペレウスを抱えながらである。下りたあとは縄に波を伝えるように揺らして、器用に回収してしまう。
門のところではホジャたちが見張っているはずである。そこにペレウスは望みをかけたが、鈎縄を持っている相手が門に向かうわけもなかった。
男は塀の際で猫の鳴きまねをした。カラスの鳴き声が返ってくると男はうなずいて鈎縄を向こう側に投げあげ、ペレウスを抱えたまま縄にしっかり片手で取り付いた。ペレウスは、待機していた侵入者の仲間たちによって男もろとも向こう側に引っぱり上げられ、裏路地に下ろされた。
そして、荷馬車に積まれたらくだの死体の腹の中につめこまれた。
夜明け前のこととて裏路地に人目はなく、拉致は迅速に行われたのだった。
現在に至るまで、二頭のロバが牽く馬車の揺れは止んでいない。どれだけ運ばれたものやら想像がつかなかった。
ペレウスにはわけがわからない。
行き先も怒りを向けるべき相手の正体も、その目的も皆目不明である。しかしひとつ確かなことがあった。
(窓から入ってきたあの男、あの瞬間に突入してきたのは偶然じゃない。
入ってくる機をうかがっていたんだ)
なんのために?
(ただの盗賊とも思えない。まさか、試練を邪魔するため? あるいは“鍵”の短刀が欲しかった?)
沈思するペレウスの耳に、声が届いた。
「動かなくなっているぞ。そろそろ出してもよかろう」
若い男の声だった。らくだの死骸のそばにかがみこんでこちらの様子をうかがっていたらしい。
それに対して、しわがれた壮年の声が異を唱えた。丁重な口ぶりではあったが。
「まだでしょう。もっとテヘラーンを離れてから偽装を解くほうが安全ですぜ。日が暮れるまではこうしておいたほうが」
「まだ子供だぞ、そろそろ元気も残っていまい。気が変になられても困る。一度出すんだ」
若い男が重ねて命じる。
(目的はぼく自身だったのか)
意外に思いつつも、ペレウスはふんと鼻から息を抜いた。
(それにしても、問答無用の拉致犯のくせに親切ぶるじゃないか)
あいにく精神は平常である。闇の中で血臭に浸されていても気が狂いそうになるということはない。幸いにして――幸いといえるのかどうか――濃厚な血の臭いには慣れているのだ。夜毎の竜の伽では自分の血臭を嗅がされているのだから当然であった。もちろんこの状況が快適なはずはないが、はるかに不快な環境を知っているからには我慢もきくというものだった。
怒り狂ってはいたが。
が、若い男の口ぶりでは、いちおうこちらを気遣って出してくれるらしい。それに免じてとりあえず暴れないでおこうとペレウスは思ったが、若い男は気の毒げな口ぶりで言った。
「もともと狂気の片鱗がある子供らしい。
短刀にぶつぶつ話しかけていたかと思ったら、何があったのかいきなり自死しようとした。鉤縄を投げねば眼前で惨事が起きるところだったぞ」
(部屋に飛び込んできてぼくを拉致した荷かつぎ人夫はおまえかあ!)
わずかに冷却しかけていた怒りがたちまち沸騰する。
それに、周囲に命令する口調であるところを見ると、どうやらこの男は実行犯というだけでなく一団の首領格らしい。
そういうわけでペレウスは引き出されて陽の目を見るや、元気がないどころか縛られたままエビのようにばたばたはねる姿を誘拐犯たちに見せることになった。
「暴れるな、この餓鬼が」
罵りながら乱暴な手つきでペレウスを荷馬車横の地面に押さえつけるのは、隊商に扮した五人ほどの誘拐犯たちだった。
ペレウスは唸りながら周囲を見た。道沿いに木が植えられた街道……彼方には森と砂漠の丘が見える。
(太陽の高度からして南中、となると昼頃だ)
(南があっちだから、荷馬車の向きからして……東に向かっているところだ!)
気がつくと、あの荷かつぎ人夫が真上から興味深げにペレウスをのぞきこんでいた。
薄く笑って、
「なんだ、活きがいいじゃないか」
大胆にも覆面をとって顔をさらしているかれは、痩せたのっぽの青年だった。細いあごの先にすっきりと形をととのえた三角形のひげがついている。
青年は押さえつけられたペレウスを見下ろしながら息を吐いた。
「なにがあったか知らんが若い身空で自死など選ぶものではないな。おのれでさしまねく必要もなく死はそこらに満ち溢れているのだぞ……
と、型通りの説教でもしてやろうかと思ったが、おまえは死にたくてどうしようもない奴には見えないなあ」
いいからぼくを解き放て、“鍵”の短刀を返せ――ペレウスは睨みあげながら身をよじり、むーむー猿ぐつわの隙間からうなった。
もちろん死ぬつもりなど毛頭ない。“鍵”で胸を刺そうとしたのは試練の答え合わせなのだから。
(あの短刀をどこへやった!?)
あれを紛失したまま冬至になって期限切れを迎えるなど、しゃれにならない。
「捧げるべき心臓は自分のものである」という謎解きの答えに絶対の確信はない。が、何もしなければ不戦敗となることは確かだ。
正解したところでどんな種類の力を押しつけられるのかわかったものではないが、負けた場合の境遇よりははるかにましなはずである。
どのみち竜卵と同化してしまった時点で後戻りはきかないのだ。
(冬至まであと五日なんだぞ。それまでに“鍵”をぼく自身の胸に突き立てないとならないのに)
屈する意思をみじんも見せないペレウスの様子に、のっぽの青年は考えこんだ。ややあって、「その子の手を俺の前に出せ」と男たちに命じる。
「体は押さえつけておけ。腕の縄だけ切って手をこちらに突き出させろ」
不可解な命令をのっぽの青年は出した。
不可解だったのは一瞬だけである。かがみこんだ青年は腰に佩いていた剣を抜き、ペレウスの手首に刃を押し当てたのだ。
動脈の上に食いこむ刃の冷たさにペレウスはひやりとした。
「なぜ俺たちがこうしたかわかるか、ミュケナイの王子様?」
友人間で話をするかのように、のっぽの青年はにこやかに言った。ペレウスは目を剥きそうになる――この男たちは自分のことを調べあげている。
「まあ、想像はついていると思うが」
(つかないよ!)
猿ぐつわのなかで叫ぶ――ふと、手首に押し当てられた剣に目が行った。
見覚えのある、短め両刃の肉厚の剣だった。
電撃のように記憶がよみがえり、ペレウスはくぐもったうなり声をもらした。
(山岳民だな、おまえらは)
山の王女ナスリーンにさらわれかけたのは記憶に新しかった。
山の民の子供たちが失踪している事件の解決を、かれらは求めてペレウスを人質にしようとしていたのである。
(ぼくは馬鹿だ。こうなることは予見できたのに)
ペレウスは猿ぐつわの中にうめきをもらした。山岳民に付け狙われていたことはだれにも話していなかった。話のつながりで竜の試練のことが露見するのを恐れたためだが、結果としてこのような事態を招いてしまった。
まるきり警戒もしていなかった。山の王女ナスリーンの命を助けたのだから、かれらも今後は多少遠慮してくれるだろうと思いこんでいたのだ。山岳民のふるまいと自分の甘さへの怒りがふくれあがる。
(竜に憑かれまでしてナスリーンという娘を助けたのにこの扱いか)
ことさら恩に着せるつもりはなかったが、さすがに仇で返されると不愉快さはどうしようもない。ペレウスは満腔の怒気をこめてのっぽの青年を見上げたが、青年は真顔となってひとつうなずき、
「ナスリーンという少女の行方を教えてもらいたいのだよ」
予想だにしなかったことを言った。
ペレウスは固まった。猿ぐつわを外されたが、叫ぶどころではない。汗が噴き出す。
「か……彼女は帰っていないのか?」
「とぼけられるのは嫌いだな」
言いながら青年は、殺気立った周囲の男たちを片手を上げて鎮めた。しかし、その細めた瞳の奥にはだれよりも滾った熱があった。
「異国の王子よ。俺は熟考の末の選択を悔いるということはしない主義だ。
だが、今度ばかりは後悔しかけている。やはりナスリーンを、おまえのもとに行かせるべきではなかったかもしれぬとな。
怖いなあ。俺はおまえの話を聞けば後悔してしまうかもしれない。それでも聞かずにはいられない。そして約束するが、おまえが話を出し渋ったり、話に嘘を交えたりすれば、おまえは俺に先立ってたっぷり後悔することになるだろう。
つまり、知っていることをすべて話せということだ」
ペレウスは腹のなかで“虚偽”を罵り倒す。
(“虚偽”のやつ! 彼女を助けると約束したくせに!)
ナスリーンの行方が不明ならば、山の民がかれを引き続き狙うのは当然であった。
そうとわかってはいたが、
(どうする? すべて話せと言われても、試練に関係することはぜったいに明かせない)
他者に知られたらまずいことになるわよと“虚偽”に脅されている。あえてそれを無視すれば最悪、試練が中断されて竜がさっさとかれの魂を呑みにかかるだろう。
迷うペレウスの様子にあと一押しと見たか、のっぽの青年はさらなる脅しをかけてきた。
「子供を尋問するのはろくでもない行為だがね。こっちはなりふりかまっていられないのだ。
おまえは良い子か、悪い子か? すなおに教えてくれる良い子なら命は保証する。悪い子の手は切ってしまうことにする」
ペレウスの皮膚に刃が食い入り、ぷつりと裂けて血が流れた。
しかしながら、青年は過ちを犯したといえるだろう。ペレウスの嫌いなものは他者に自由を侵され、行動を強要されることである。
相手の出した条件を吟味するより先に、少年はむかっと来た。
「……彼女はぼくが見たときは生きていた。だが、誓って、ぼくはその後のあの娘の行方を知らない」
「詳しく話せ」
「一身上の都合で、前後の事情には話せない部分がある。それでよければ」
「おお、つまりおまえは悪い子ということかな?」
「好きにすればいいだろう」歯を食いしばってペレウスは啖呵を切った。「礼儀ある扱いを受けていたならともかく、こんな野蛮なやり方をする輩になど!」
しんと辺りが静まった。
ほう、とのっぽの青年が感嘆の声を上げた。
「これは失礼。子供ではなく気概あるいっぱしの男だったか。
年齢で甘く見たことは詫びよう。これはその証に」
青年は短剣を引き、代わってペレウスの傷口に手で触れた。
ペレウスは驚きをもって起こったことを見つめた。どう見ても人族である青年の手の甲に、ジン族の呪印が浮いたのだ。続いて、ペレウスの手首の傷がみるみる消えていった。まるで治癒石を当てたときのような現象だった。
「先祖にジンの血が入っていてね。俺は先祖返りでささやかな能力がある。王の手だと呼ぶ奴もいるな」
癒しの技を見せた青年は、ペレウスに微笑んだ。変わらず危険な眼光をちらつかせて。
「この能力があれば、相手を死なせることなくほぼ無限に拷問ができるわけだ。
山の王の御前で、堂々たる男が受けるにふさわしい本格的な尋問に移ろうか」
とんでもないことを言われ、ペレウスは眉を寄せた。勘弁してほしかった。
(ものすごく痛いのは竜に食べられる夢だけでじゅうぶんなんだけど)
最近苦痛に慣れているせいで、嫌そうにしながらも怯えが薄いペレウスの様子に、のっぽの青年は片眉を上げた。
「ほんとうに度胸が据わっているのだな。
まずい、おまえを友達にしたくなってきた。
どちらにとっても残念なことに、本当に手段を選んでいられないのだよ。ナスリーンはわが従妹にして許嫁なのだ」