2-32.薔薇と剣〈中〉
深淵のこと
玉座の間には奇妙な光景が現出していた。
「アーディル公、あなたが帝になれる法的根拠などないわ」
いつからそうしていたのか〈剣〉ことアーディルは、立って玉座に向かい合っている。
十歩離れたところからその背に槍の穂先を向け、ライラが声高に非難していた。
「上帝となるためには五公家の当主のうち三人の推挙が必要なはず。簒奪者アーディル、あなたが正当性を主張するなら、あなたの戴冠に賛同した自身以外の三人の当主の名を挙げてみなさい。
挙げられるはずもないでしょうね、あなたは法によらずして暴力で帝座を奪ったのだから! もう一度言ってあげます、あなたは真の帝ではない。大逆罪を犯した以上、ホラーサーン公の身分も剥奪されたわ。
あなたはただの逆徒にすぎない! 今日ここで、わたくしがこの手で成敗してあげましょう」
左右に並んだ廷臣たちが、ひきつった表情で戦々恐々とこの一幕を見ている。
〈剣〉は無言でライラに背を向け、微動だにせず玉座に視線をそそいでいた。骨組みは神を称える言葉が彫られた黄金。座面と背もたれは、五公家の紋章が金糸で刺繍された紫のビロード張り。花崗岩の台座には埋めこんだ宝石群で帝国図が描かれている、地上の至尊者の椅子を。
焦れたように、ライラが叫ぶ。
「なにか言ってみなさい、簒奪者! 盗んだ玉座が見惚れるほど美しいの?
背中を貫くわよ。……こちらを向きなさい!」
● ● ● ● ●
イブン・ムラードが駆けつけたのは、まさにこのときだった。
大広間の扉を押し開けたかれは、廷臣たちの視線を浴びながら肩で息をし、ライラを憤怒をこめて見据えた。いくつもの罵声が脳裏に浮かぶ。
(なんてことを。早く槍を引っこめなさい)
(この考えるということをしない小娘め)
(先帝と私が落城前にどれだけ語ったと思うのだ)
(敵の足に一時的に口づけしてでも、確実に〈剣〉を滅ぼす機会を待つという約束を交わしていたのだぞ)
口にできるものもそうでないものも……すべて口にはしなかったけれど。
代わりに、イブン・ムラードはライラと〈剣〉の間に割って入り、彼女を背にかばっていた。私はなぜここに来ている、と疑問が頭をかすめた。
ライラが暴発した報が入ったとき、『見捨てなさい。あなたが生きて永く忠義を尽くすべき先帝の子らは他にもいます』と宮内長官はかれの腕をつかんで言っていた。いま〈剣〉に睨まれないためにはそれが正しいと。
イブン・ムラードは、自分がライラに愛を感じてはいるとは思わない。熟考するかれと感性で動くライラとは気質が違いすぎて、もともと交流はないに等しかったし、婚約は純粋に政治的なものだった。婚約者となってからは多少話したが、打ち解けあうには時間は足りなさすぎた。けれど……
恐怖がにわかに心臓をつかんだ。
〈剣〉が振り向いて、かれをじっと見ていた。
金色の深淵のようなその瞳で。
「イブン・ムラード、おまえは昨日わしを上帝と認め、永遠の忠誠を誓ったな。
試みに訊く。宮廷において帝に刃を向けた者がいれば、どう裁きをつける」
ささやくような声がぼそぼそとつむがれ、イブン・ムラードの背をたちまち汗で濡らした。それでもかれはこわばる舌を動かして弁じた。
「アーディル様、この女は現在、精神を少々患っております。卑臣は願いたてまつります、どうか狂者には寛仁の心を」
「いいのです、イブン・ムラード様。来ていただいてライラは嬉しゅうございますけれど、裁きを下すのはかれではなくわたくしです」
ライラが後ろから敢然と声をあげた。「黙っていてください!」小声で叱りつけても聞く耳持たず、彼女は槍の石突をとんと床について、
「簒奪者アーディル、ようやくこちらを向きましたね。後ろから刺すのは気が進まなかったけれど、これで心置きなく殺せます」
イブン・ムラードの肩越しにゆっくりと〈剣〉の視線が彼女に向く。ライラがわずかに怯む気配があったのち、
「――大丈夫です、イブン・ムラード様。
征服時代におけるアーディル公の強さはまことしやかに語られておりますが、現在のかれはまったく無敵の存在ではありません。
かれは力のほとんどを失っております。去る大昔、白羊族なる人の一部族に反乱を起こされ、魔具によって能力のほとんどを封じられたようです。この秘密は歴代の上帝が伝えてきました……本人は隠そうとしていたようですけれど」
ライラは気力を奮い立たせるように声をいちだんと高め、イブン・ムラードの前に進みでた。
〈剣〉は無言である。
「人族の反乱などに手を焼いたところからして、力を失う前のかれでさえ、伝えられるほどには恐ろしいものではありません。
まして、これがあるかぎり、かれはわたくしを斬り殺すことはできないのです」
ライラは胸に手を当てる。革の乳当てのはざまに緑の宝石が輝いていた。
「ダマスカス公家の天使石か」わずかに興味をそそられたように〈剣〉がつぶやく。かれは右腰に佩いた三日月刀を抜こうとした。刀が鞘から抜けないことを確かめて、首をかしげた。
「存在は知っていても力は知らなかった? これはわがダマスカス公家の持つ七つの強力な魔石のひとつ、“ジブリールの守護”よ。
この魔石の持ち主には、対面した敵はいかなる刃も向けることはできないわ。……カーヴルトのやつには漁網などを被せられて捕まえられたから効力を発揮する間もなかったけれど、あの屈辱もいまになってみれば唯一神の導きというもの。おかげでこの石の力に気付かれなかったのだから。
観念したらどうかしら、アーディル公? その腰の二振りの刀は役に立たなくなったわよ、鞘から抜けてもわたくしに向けられはしないわ。
――聞いたとおりです、あなた達!」
ライラはぐるりと視線を広間にめぐらせた。三十人ほどの廷臣のひとりひとりを促すように。
「わたくしがいる限りかれは丸腰同然。そして身の回りに味方なく孤立しています。千載一遇の好機とはこのこと――奸悪を除き帝国に安寧をもたらして、千年ののちまで名を残しなさい!」
イブン・ムラードは思う。
暗殺の計画とは、時間をかけて綿密に練るよりも、案外このように機会を捉えて単純に行うほうが成功するものなのかもしれないと。であれば、熟考のあげく自縄自縛となってなかなか動けなかった自分より、感性で動いたライラのほうが正解に近い。
なにしろ廷臣たちが眼の色を変えている。先帝の娘の言葉に火をつけられ、足を一歩一歩踏みだし始めている。大力の呪印を浮かび上がらせる者あり、大型肉食獣の姿に変ずる者あり、抑えてきた〈剣〉への敵意を燃え上がらせている。
なのにどうして。
なのにどうして、自分の本能が告げる〈剣〉への警鐘はまったく薄れないのだろう?
「全員がか? わしに服従を誓ったおまえたちの」
〈剣〉の声は、どこか揺らめく響きを帯びていた。不快でもなく怒りでもなく、強いていうなら不思議そうな、面白がるような……
「然り。卑怯と言われようと、〈剣〉よ、我々は全員であなたを討ちます。歴史もそれを肯んじるでしょう」廷臣のだれかが答える。
「帝位簒奪者、覚悟しなさい」
ライラの槍先がくるくると小さな円を描いた。
(もう是非もない)イブン・ムラードは止まらぬ恐怖の汗にまみれながらも決意する。ここで戦って殺す。それしかなくなった。
「そうか。全員か」〈剣〉はうなずき、何のためらいもなく、腰の双刀を床に放った。そして声をかけた。「ジャハーンギール、ジャハーンシャー、外で待て」
床の双刀が震え、トカゲのような鋼の足が柄から四本突き出した。がちがちと鳴り刀身を引きずりながら扉の外へと自分で這いずっていく。多くの廷臣が唖然としてそれを邪魔せず見送った。
〈剣〉は他の者には目もくれず、イブン・ムラードのみをひたと見ていた。
「わが一の甥よ。おまえの呪印の能力――」
その首を刎ねた。
“大力”を使って地を蹴り爆発したような勢いで間合いを詰めて。肘から先のみ巨大な刀に“変化”した腕で。
鮮血を噴いてごろごろと〈剣〉の首が転がってゆく。
だれもが息を呑む中を、イブン・ムラードはまだ直立した伯父の体にめった斬りに斬りつけた。犬歯をむき出し目が吊り上がった悪鬼の相となって、返り血など無視し、首のない胴体を狂ったように叩き刻む。イブン・ムラードの腕が変じた刃に新たな呪印が浮き、“妖火”がまつわる。胸を貫く。ダマスカス鋼糸を織りまぜた服ではないらしく、その服は簡単に刃を通した。炎を送りこみ、心臓を焼き、内側から火が噴き出すまで焼き続けた。
「あの……イブン・ムラード様、もう死んでおりますわ」
ライラのおののき混じりの声。
答えず刀を焼けた肉から抜いて、悪鬼の表情のままばっと振り向いた。
「頭部はどこだ!?」
「は……柱の陰に」
歩みよって今度は全身を“変化”させる――黒い大熊――大槌のような前足をふりあげ、ためらわず〈剣〉の首を叩き潰した。目玉が一個、視神経を引きずってぐちゅりと転がった。
大熊は動きを止め、首を叩き潰している前足のみを残してイブン・ムラードの姿に戻った。
沈黙ののち、周囲で凍りついたように見ていた廷臣たちが、ようやくのことで笑みを浮かべる。どの顔も若干ひきつっていたけれども。
「素晴らしいお手並、しかと拝見したぞ、イスファハーン公。われらの出る幕がまったく無かったではないか」
「『いくつもの姿』が薔薇の公家の特徴と聞きましたが、なるほど、複数の呪印をこうも見事に操るとは。
薔薇が柔弱などという話、これからは綺麗さっぱり無くなりましょうな」
阿諛の混じったさざめきなど意識にも入らない。イブン・ムラードは血の気の引いた顔で唇を震わせている。
跳びかかったあの瞬間、爆発したものは戦意ではなく恐怖だった。
それは今も、
……熊の前足を持ち上げてなにかがその下でふくらむ感触。
飛び散っていた血や脳漿、眼球が、前足の下に吸いこまれていく。
元通りに復元された首がころころと前足の下から転がり出て、ころころ、ころころ、時間を巻き戻すように胴体のほうへ帰っていく。
さすがに廷臣たちもみなが気がついた。笑い声が一瞬で消え失せる。
イブン・ムラードの体や床のじゅうたんについていたはずの血痕も跡形もない。
黒焦げになっていたはずの首無しの胴体にも、火傷など微塵もない。半裸の胴体が手をついて起き上がり、首がふわりと浮いてくっついた。
イブン・ムラードはもう一度首を刎ねた。
今度は、血の一滴も飛ばなかった。
宙に首が舞うなり、首無し胴体は手を伸ばしてぱしっとそれを受け止め、手ずからくっつけた。
金色の深淵がイブン・ムラードを間近で見つめていた……その瞳には、深い深い失望があった。
『それがすべてなのか、おまえの呪印は』怪物の瞳はそう語っている。
廷臣のだれかが絶叫し、〈剣〉への攻撃に加わった。恐怖からくる凶暴性が伝染し、すべての廷臣たちが〈剣〉のまわりに殺到する――爪で、手で、寄ってたかって引き裂きにかかる。
それでも血は流れなかった。
イブン・ムラードが狂熱から遠ざかるようにひとりよろよろと後ろに退がったとき、廷臣たちの動きがぎちり、と止まった。
止まっただけではない。ぎりぎりと、からくり仕掛けの歯車が逆に回るように、廷臣たちが元いた場所へと後ろむきに歩いていく。戦慄と驚愕を顔に貼りつけながら。
イブン・ムラードも足が動かないことに気がついた。恐怖からくる金縛りではない。
(なにかの力を使われている)
〈剣〉の傷ひとつない肌からわずかに浮いて、宙に無数の赤い光紋が点滅している。
それはジンの女の下腹に浮かぶ子宮錠と同じ紋様。正三角形と逆三角形を重ねた六芒の星。
世にスライマーンの封印呪と呼ばれるもの。
「ライラ、槍を捨ててここへ来い」
〈剣〉に声をかけられ、ライラが槍を床に落とした。彼女自身がいちばん驚いた顔をしている。その次に、〈剣〉のもとへ向けて歩き始めたときは最大限に怯える表情になった。
(やめろ)
イブン・ムラードは必死になって前へ駆けつけようとする――“大力”を使っても泥濘にひざまでつかっているような重さが足にあったが、抗えなくはなかった。
「天使石を渡せ」
〈剣〉の命令に、ライラの指が震えながら“ジブリールの守護”を乳当てから外した。それをつまみあげ、〈剣〉は上を向いて口に放りこんだ。音をたてて噛み砕き、ごくんと嚥下する。
「あなた……あなたは、」
自由を回復したライラが後退りながらわなないた。最初の威勢を完全に失い、衝撃と恐怖をまなじりにたたえて。
「ジンでは……ない!」
「間違っている」
ゆっくりとライラを見返す〈剣〉の揺るぎなく静かな瞳に、六芒星が点滅した。
「わしこそが本来のジンなのだ。スライマーン王によってわが種族が弱められる以前の、至純なるジンの王の血だ。
不死を見た程度で何を騒ぐ。
このような力は神々の玩具にすぎぬ。そして古の神々はわが奴隷にすぎぬ」
イブン・ムラードは渾身の力で足を引きずり、ライラと〈剣〉のもとに向かう。
〈剣〉の小さな声が、悪夢のように耳を打っている。
「天使石のおかげで余裕ができた。その礼として教えよう。
ライラよ、おまえの言うとおりだ。かつて白羊族と、四つの公家がひそかにやつらに渡した魔具によって、わが力は毀たれた。わが父より受け継いだ七百七十七の封印呪を強化され、力はもはや見る影もなく減じた。
思いどおりに燥いでくれた礼もしよう。おまえをわが敵として遇しよう。四つの公家の陰謀の結果たる、現在のわしの無様な呪印を見せてやろう。
周りの裏切り者どもには、地獄よ、在れ」
● ● ● ● ●
地鳴りのごとき轟音と激震が金門宮全体に走った。
それはホラーサーン将アルプ・アルスラーンが、玉座の間の近くの空いた一室で瞑想していたときのことだった。同じ部屋の隅に座る背のまがった小男のジン――ホラーサーン将ザイヤーンが「愚か者がだれぞ罠に引っかかったようだ」とつぶやく。
「行くか」
アルプ・アルスラーンは立ち上がり、玉座の広間を目指す。
広間は惨憺たるものであった。玉座はひしゃげて壁の隅に寄り、大理石の列柱は折れ、壁のモザイク画はぼろぼろに欠け、アラベスク紋の美しい天井は崩落寸前となっていた。内側からなにかが瞬間的に膨れ上がり、圧壊したかのような光景であった。
かれの主である〈剣〉は裸となって、人影のない広間の中央にあぐらをかいていた。
「廷臣たちはどこに消えました?」
ザイヤーンの問いに、〈剣〉は自身を指した。その細身の体の内側から、肉と骨を砕く音と複数の断末魔が漏れ聞こえてくる。
「おや。どうしてそんなことになりましたか」
頬杖をついて、〈剣〉は答えた。
「ライラを使って裏切り者をあぶりだしてみたら、玉座の間にいた全員だった」
「諧謔じみた状況ですな」ザイヤーンが笑う。アルプ・アルスラーンはマントを外して主の体にかけた。
〈剣〉はそれをはおりながら立ち上がり、淡々と命じた。
「占領地の行政があまりとどこおっても困る。官吏のうちから適当な者を次の大臣に抜擢しろ。
掃除しすぎたが、これで次の連中はさすがに愚かなことは考えまい」
アルプ・アルスラーンは眉をひそめ、苦言を呈する。
「アーディル様……ご自身を餌に使って敵や逆徒を釣りあげようと試みるのは、ほどほどになさるようお願い申し上げます。
塵芥がごとき雑魚共ではなく、スライマーンの魔具を持つような手合いであれば、アーディル様といえど万が一ということもありうるのですぞ。昔の白羊族の例がそうではありませんか」
「魔具には注意するようにしている。
それよりも、やはり玉座の下のようだ。台座を穿て、アルプ・アルスラーン」
「御意」
花崗岩の台座にアルプ・アルスラーンは指を挿しこむ。岩がバターであるかのように。
ずぶずぶと肘まで入れ、指先に力の塊を感じ――それを一気に引き裂いた。
とたん、〈剣〉の肌近くに封印呪が一斉に浮き……点滅を繰り返しながら、その光がわずかながら薄れた。〈剣〉は無表情でうなずいた。
「当たりだった」
「おめでとうございます」
アルプ・アルスラーンはわがことのように会心の笑みを浮かべた。ようやく、肌の封印紋と連動して主の力を抑えこんでいる、大地にある五つの封印の一つを解放できた。
これで、三十二分の一から十六分の一へ……これまでの倍の力が主に戻るのだ。まだ一割にも満たないが。
「それにしても、これがここに隠されていたということはかの白羊族の乱、やはり当時の上帝が関わっていましたか。それにおそらく四公家のすべても」
冷笑し、アルプ・アルスラーンは壁際にちらりと目を向けた。先の上帝の娘――ライラが、気を失って崩れた壁のきわにいた。
ライラの体に、大熊に変化したイブン・ムラードが覆いかぶさって守っていた。壁に叩きつけられた勢いで致命傷を負い、毛皮から骨が飛び出ていた。
〈剣〉が、二人のもとに歩いていく。
熊からジンの姿に戻ったイブン・ムラードが、血反吐を吐いて床にくずおれる。
瀕死のかれの目がかろうじて、見下ろす〈剣〉に向いた。
「伯父上……ライラ様は……あなたを裏切ったのではない……この方はあなたに最初から降っていなかったのだから……」
「だからライラを助けろと言いたいか、イブン・ムラード」
「あなたはサマルカンド公家の者ではない、背信帝ムタワッキルでもない……裏切り者に垂れる慈悲は持たずとも、敵に……敗者に対する情けはあるはずだ……」
「敵は敵でしかない」
「頼む……」
壁のモザイクが剥がれてぽろぽろと落ちる音が響いていた。
やがて、〈剣〉は口を開いた。
「イブン・ムラード、わしを殺そうとした気概やよし。だがいったん頭を垂れたのち背くやり方をわしは容れておらぬ。そうと知りつつあえてその挙に出たからには、相応の報いは覚悟しておろう。
一罰をもって百戒となす。アルプ・アルスラーン、こやつの皮を剥いでバグダード市内に晒せ」
アルプ・アルスラーンはかがみこんでイブン・ムラードをつかみあげ……気がついた。意識がないままのライラの手がイブン・ムラードの指を握りしめている。
「アーディル様、ライラ姫はいかがいたしましょうか」
「治療し、以降は行動を制限せよ。人質として遇する」
「感謝する……」イブン・ムラードがいまわの息の下で苦笑した。
● ● ● ● ●
即位式の日。
金門宮の正面の広大な閲兵場には整然とホラーサーン兵が並んでいる。
「かれはミスル、アビシニア、ヒジャーズ、ナジュドを」「シリア、ヤマーマ、ヤマン、オマーンを」「バフライン、サワード、ジャズィーラ、アゼルバイジャン、アルメニアを」「ジバール、ホーズィスタン、ファールス、タバリスタンを」「キルマーン、ムクラーン、スィジスタン、クーヒスタンを……」広大なファールス帝国を構成する地名が延々と続き、「……ホラーサーン、フワーリズム、マー・ワラー・アンナフルを領するものなり」
「かれはヒジャーズ人の、ミスル人の、アルメニア人の、イスラーイール人の、アーリア人の、マグリブ人の、グルジア人の、ペチェネグ人の、キプチャク人の、ハザール人の、グッズ人の、タージーク人の、クシャーン人の、パターン人の、ソグド人の、アビシニア人の、これらジン族人族の、ひしめく民の王の上の王なり」
「諸王の王なり」
「草原と砂漠の可汗なり」
「至高なる唯一神の恩寵厚き上帝なり」
「日輪と月輪の加護を受け、在す玉座に光あれ」
「讃えられてあれスルターン・アーディル、御代に永遠なる栄えあれ!」
あらたな大宰相の声に、宮内長官などの要職者、それに下級官吏たちが一斉に追随する。だが民衆からの歓呼はほとんどなかった。新帝が顔をさらす日にもかかわらず、家々から出て集まった市民はほとんどいなかったのだ。
依然、不満のこもった沈黙が帝都を覆っている。「スルターン・アーディル」または「アーディル・シャー」と、わずかにいる一部の市民たちの声がぽつぽつと聞こえるのみであった。
ホラーサーン軍の兵士が非常に秩序だった行動をとっているにもかかわらず、新帝がバグダード市民に愛されていないことは明白だった。
ではあるが、アルプ・アルスラーンの主は気にしなかった。一切問題にしなかった。
そして、合図役の兵が軍鼓を叩いた瞬間、
「スルターン・アーディル」
それまで不動の沈黙を保っていた全軍が、一斉に吼えた。
それまでの理性と規律の鎖を引きちぎり、猛々しさを剥き出すような咆哮だった。雷鳴のような呼号が天を高らかに衝き、バグダードは圧倒された。
「スルターン・アーディル」
「スルターン」
「アーディル・シャー!」
自軍の歓呼を浴びながら、新帝はぼそぼそといつもの小声で尋ねる。
「アルプ・アルスラーン。出立の準備は整っているか」
「仰せのとおりに手はずを整えました。アーディル様、このバグダードに留まるおつもりはないのですか」
「わしはこの都に当面もう用はない。再征服せねばならぬ帝国領がまだ半分以上残っている。
ホラーサーンから追加の軍が来るまでもう少しかかる。寡兵で一箇所に留まると戦の主導権を失う」
アルプ・アルスラーンは主に頭を下げた。帝となってもなにも変わらぬ方だ、と感じながら。
主の言うとおりではある。敵が四方に湧いている。富裕なるヒジャーズ公領がある。狡猾なサマルカンド公家軍がいる。ダマスカス公家軍も西に健在であり、イスファハーン公家の力すら壊滅してはいない。ならば主は行くだろう、古い帝国の息の根を止めるために。
アルプ・アルスラーンは深い満足を覚えた。
この主は、即位式の完全なることなどより戦場の事情を優先させる。それでいっこうに問題ない。
美々しき幾つもの称号も無用――〈剣〉のただひとつで事足りる。いっそ皮剥ぎ公の悪名でもかまわない。
権威は実績と実力がおのずと備えるからだ。新しい帝ではあるが、いまさら儀式や仰々しい名で綺羅綺羅しく飾られる必要などどこにもないからだ。とっくのとうにこの六百年で、英名もしくは悪名が大陸に轟き渡っているからだ。
民に愛される必要もない。
戦えば勝ち、背く者は滅ぼすからだ。その力量への信頼と恐怖だけで、民をひざまずかせるに足るからだ。ホラーサーン公領ですでにそうであるように、以降は生きた戦神として君臨するだけでいい。
新しい国の形がここに示されている。軍の前に立つ主の姿が示している。
これよりは、ファールス帝国の貴族も奴隷も一般の民衆も、みなある意味では平等なのだと。
天下万民ことごとく、帝一人の奴僕なりと。
(玉座は鞍上にあり、宮廷は軍営にある。この方はそのような帝となるだろう)
そこなわれた残りの力を回復したあかつきには、手足である軍すら要らなくなるかもしれないが。
「出征の鐘を鳴らせ!」
鐘楼へと大声で命じてマントをひるがえし、アルプ・アルスラーンは鎧を鳴らして階段を下りる。
「市内の鐘もすべて鳴らせ。天上地上をどよもすように。
この世の果てまで比類なき、われらが帝の御代が正式に開幕したのだからな」
● ● ● ● ●
比類なき……?