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2-30.結婚式場で

ペレウス結婚式でファリザードと腹を割って話すこと

 管弦の調べが結婚式場となった広間をせせらぎのように流れ、クッションに座った新郎新婦と参列客の笑顔のあいだをたゆたっている。

 ペレウスは笛吹きたちに入り混じり、持たされた竪琴で明るい曲を奏でながら、宴に供された料理の山をちらと眺めた。


 丸ごとの仔山羊を鍋のスープで煮込んだもの、らくだの後ろ脚の香草焼き、渡り鳥の焼き串、揚げられた大きなマスの一種、革袋に入った山羊のチーズと新鮮なバター、ぶどうのジャム、甘い香りのする円盤状の焼きたてのパン、レモンと黒イチゴとザクロの三種の果汁が入った氷水、デザートには数種類の果物とぜいたくにも麝香(じゃこう)竜涎香(りゅうぜんこう)で風味をつけた砂糖菓子などが揃えられている。

 床に並べられたそれらの皿を間近にして、昼食をよこせとさっきからの腹の虫がせっついていた。


(慣れって怖いな。竜に憑かれた翌日は食欲なんてなかったのに、ほんの数日でこれだ)


 竪琴の調べで腹の音をごまかしながら、ペレウスは料理の山を前に耐える。

 引き受けたからには手を抜くわけにはいかない。立ってよいと言われもしないからには弾き続けなければならなかった。


(でも本当は、こんなことに付き合っている場合じゃないのに。使節たちのこと、試練のことだってあるし……それに)


 広間のすみのファリザードに視線を投げると、彼女は彼女で忙しいようだった。ユルドゥズほか婦人たちといっしょに、布と針を手にちくちくやっている。新婦に贈る服に結婚祝いの刺繍をほどこしているらしかった。


(ファリザードの婚約の話、もっと早いうちに訊いておけばよかったな)


 クタルムシュが気を利かせて自分たちに話す機会を用意してくれたのはわかっていたが、こうなってしまってはどうしようもない。

 この現状の責任の一端はペレウスにあった。

 塔から街中に出て兵舎に入る直前で、「いたぞ、あそこの少年だ!」と叫ぶ声が響き、突如として興奮した男たちに囲まれたのである。クタルムシュがいるからには怖れる必要はなかったが、それでもペレウスは警戒してかれらをにらみつけた。

 しかし晴れ着らしき衣装を身につけた男たちの目に必死さはあっても敵意はなく、


(「結婚式の竪琴弾きがめまいで倒れて演奏できなくなったから代わりに弾いてくれ」だなんて、なんて間の悪い)


 しばらく竪琴弾きとして街角で活動していたせいで、ペレウスは完全に腕のいい楽士として市民に覚えられてしまったようだった。

 断っても食い下がられて長引き、そのあげく、外に出てきたユルドゥズが「いいじゃないか。宴席に出ればあたしらもごちそう食えそうだし」と乗り気になってしまったのである。

 かくて現在の状況であった。


 肩を叩かれた。隣で笛を吹いていたクタルムシュが料理を指し示して目配せしてきていた。かれはつけ(ひげ)で顔を覆ってジンだとばれないようにしている。


「いまのうちに少し食べておいたらいい」


 見れば楽士たちは交代で順繰りに休憩をとっているようであった。ほっとしてペレウスはパンを取りに行く。

 女性陣の近くで手早く食事を済ませる。その間、自然とファリザードたちの様子に注意が向いていた。


「こんなものか」せっせと針を使って刺繍していたファリザードが一息つく。クタルムシュと同じく彼女は、頭にかぶり輪で締めた布の内側に、ジンの特徴的な耳をうまく隠している。おかげで騒がれてはいない……間近で針仕事しているほかの女たちはちらちらと目をやって美貌の少女を気にしているようだったけれども。

 ファリザードの手元を隣のユルドゥズがのぞきこんで、「へえ、花か」と眉を上げた。


「祝福をこめて一刺しするだけでも、お祝いしたって名目はたつんだけどねえ。

 前に編み物したときは素人だったのに、いつ手芸の腕をあげたんだい。それとも刺繍だけ前から上手かったのかい?」


「刺繍の技が上達せざるをえない状況がちょっと生じてな」


「なんだそりゃ。どんな状況だい」


「それはそのうち話す……話せるかもしれない」答えにくそうにファリザードは口ごもる。ユルドゥズは気を悪くしたふうもなく、肩をすくめ「ま、どんな理由にしろ役に立つ芸を身につけるにこしたことはないね。小さいながらこの花はよくできてるよ」とまとめた。

 珍しくもユルドゥズに褒められたファリザードが、目を輝かせて嬉しそうに口元をむずむずさせながら「ふっ」胸を張った。


「わたしを誰だと思っている。集中すればこの程度造作もないことだ」


 しまった調子に乗りやがった、とばかりにユルドゥズが渋い顔になる。


「……ま、そこそこって意味でね」


「照れずにもっと細部まで褒めていいのだぞ。この金糸縫いの部分なんか傑作だと自負できる出来だ。さあ、ほら」


「あ、よく見てみるとやっぱり花の形がいびつな気がしてきた。針運びにもむらがあるね。しょせん小娘の腕だったか……年寄りの目だとぱっと見では正当な評価が下せなくて困るよ」


「こ、こらっ、ユルドゥズ、なんだその無茶苦茶な前言のひるがえしっぷりは!」


「よく考えたらあれだね。針に糸通せるかすら怪しいと危ぶんでたじゃじゃ馬が予想に反して人並みに近い仕事したので、感動して批評眼が曇っちまったんだろうねえ」


「この……! 言っとくがわたしは決して不器用な女じゃないからな! 前にやった編み物だってすぐ上達してただろ!」


 むきになるファリザードを、ユルドゥズが邪悪なにやつきを面にたたえてあしらう。

 しばし少女は老女と不毛な言い合いをしたのち、


「よし、わたしがとても器用であることを証明してやる。見てろ」


 宣言するやなぜかファリザードはぽいぽいと靴を脱いでまたたく間に素足になった。

 面白そうに眺めるユルドゥズと遠目で見ているペレウスの前で、彼女は壁に寄せかけたクッションにちょこんと腰かける。果物かごから一個のオレンジを取って両足の裏にはさむ。

 そして可憐な素足でむきむきと皮を剥きはじめた。


 同時に軸のついたさくらんぼ二個を取って口に放りこむ。「んむっ……んっ……」口をくちゅくちゅさせた後、んぺっと舌を出すとそこには二本の軸がそれぞれ結ばれて輪になっている。足では休まずオレンジを剥きつつ、満面の笑みでファリザードは自分の舌を指さす。


ほうは(どうだ)ひゅほいはほ(すごいだろ)!」


 得意げな少女のひたいに向けて反射的にユルドゥズが裏拳を叩きこもうとし当たる寸前で呪いにより手首が裂け血がぶしゅっと噴き「ぐああっ」「ユ、ユルドゥズ!? なんだいったい!?」

 余興の寸劇とでも思われたのか見ていた参列客が拍手している。そのなかで自分の手首を止血しつつユルドゥズが呆然とつぶやいた。


「想像を超えたはしたなさに動転しちまったよ……おしとやかと言われたこともないこのあたしに教導の鉄拳出させるとは、たしかにたいした子だねあんたは。

 いいか嬢ちゃん、その芸二度と人前でやるんじゃない」


「え、はしたないのはたしかだけどそんなにか、これ?」


「なんの技能かわかってんのかい……いやいい、知らないなら訊くな。なんだってそんな技をガキが身につけてんのさ」


「だってこれ、エラム兄がむかし、将来きっと役立つから練習すべきだって」


「ひとを疑え、阿呆娘」


「ち、違うぞ、だまされてないっ! さくらんぼのほうはエラム自身も十年くらいずっと修行してるし! あの兄はさくらんぼの軸を三つ口のなかで結び合わせるぞ」


「おいやめとくれ。あんたの末の兄貴まで妹とどっこいの馬鹿野郎だという戦慄すべき疑惑を浮上させないでほしいね」


「エラムはたしかに残念な兄だがわたしは阿呆でも馬鹿でもないっ」


 頭の悪い会話が流れてくる。

 呆れながらも、ペレウスはすこしほっとした。ユルドゥズはファリザードの神経を自然とほぐしてくれる。しばらくユルドゥズに任せておいたほうがいいのだろう。今日のように、ファリザードと自分が微妙にぎくしゃくしているようなときには。


(……婚約のこと、今日は無理に訊くこともないか。問い詰められるような立場じゃないし)


 訊いておくべきだったと一瞬前まで考えていたはずなのに、ふとしたはずみに臆病心がきざして逆の結論になってしまうペレウスだった。


………………………………

………………

……


 あいにく彼女のほうがかれを放っておかなかった。

 倒れていた本来の竪琴役がどうにか復帰してペレウスがお役御免になったのち、ふたりのあいだの微妙な気まずさにもかかわらず、ファリザードはかれと正面から向きあおうとしたのである。

 呼び出されたのは階段を上がった二階の廊下であった。手すりごしに広間を見下ろせるその回廊にはほかの者の姿がない。


「ところで、この数日で何かあったのか?」先に階段を上がったファリザードはくるりとかれのほうを向くや、いぶかしげに「うまく言えないがペレウス、いつものおまえとちょっと違う気がするぞ」


 わかるのか、とペレウスはびっくりした。

 しかし、良くないものに憑かれているんだよと本当のところを言えるわけもない。現在の苦境を感づかれるわけにはいかない。ファリザードを巻き込むつもりはないのである。


「そういえばルカイヤ……わたしの乳母も数日前からなんだか変なんだ。昼間は気分が悪いと言ってずっと部屋で休んでる。夜には顔を見せるんだけど。少しのあいだだけ」


「そうなんだ。それが?」


 助けた相手がその後も不調であることを知らされて気にはなったが、この場ではごまかすほうが優先であった。必死に平常をよそおってとぼける。

 ファリザードは首をかしげている。


「気のせいかもしれないけれど、おまえとルカイヤからどことなく似た匂いがしているような……もしかしてふたりで会いでもしたのか?」


 たまに鋭い子だなと汗が止まらぬ心地になりながら、ペレウスは言い訳をひねりだし「そういえばどこかですれ違ったような覚えがあるな。同じ場所を訪れたからそこの匂いじゃないかな」かつ、「それより用ってなにさ」話を即座にそらした。


「あ、うん」


 まだ釈然としない表情ながら、ファリザードはふところから短刀を取りだし、ペレウスに柄を差し出してきた。


「おまえに次会ったら渡そうと思っていたんだ」彼女は胸の治癒石を示した。「この贈り物の礼として」


 戸惑いつつもペレウスはそれに手を伸ばす。なめし革の鞘に入った短刀は、少し抜いてみると氷のごとき冷気を放った。緑色の宝石が象嵌されたダマスカス鋼の刀身は薄く鋭く美しく、少年に固唾を呑ませた。指の腹で刃に触れるとたちまち皮が切れて赤い線が走る。ファリザードがこの前まで持っていた宝刀七彩(ハフト・ラング)――その刀はカースィムが自分の腕を落とすのに使い、そのまま持ち去った――に劣らない業物であると知れた。


(どう見ても治癒石なんかと釣り合うものじゃないだろ、これ)


 かれの贈った治癒石が百個あろうとも、この刀の値段に並ぶとは思えない。

 けれど、値段すら問題ではなかった。ファリザードが次に明かした事実に比べれば。


「母上が父上に嫁いできたとき持参した品のひとつらしい。財産分与書の記すところではわたしの取り分だ」


「……もらえないよ」軽いダマスカス鋼の短刀が、急に手の中で重みを増した気がしてペレウスはうめいた。これは彼女の両親の形見の品なのだ。


「できれば受け取ってほしい」


 ファリザードは顔をそむけ、手すりに寄って階下の結婚式を見下ろした。ぽそりと、「この先、どうなるかわからないことだし。いまのうちに渡したかった」


 その憂愁をたたえたつぶやきに、ペレウスはぴくりと反応した。


(太子と結婚しなければならないかもと言いたいんだろうか)


 にわかに胸にまた黒い熱が沸いた。頬杖をついた彼女の物憂げな横顔を前にペレウスが立ち尽くしたときだった。

 階下の広間からカーディ(法官)の声が響いた。


「この輝かしき日の喜びをもたらしたもう唯一なる至高者よ、讃えられてあれ。

 汝らこれにて夫婦(めおと)となれり。

 終生、誠実たらんことを神と互いに誓うべし」


 見てみれば法官の前には新郎と新婦が向い合って立っている。

 正面から両手を重ねて指をからめあわせ、肘までをぴったりくっつけた若い花婿花嫁は、くすくす笑いを交わしたのち、朗々と声を合わせた。


「薔薇と剣にかけて誓います」「魔石と塔にかけて誓います」「日輪と月輪にかけて、誓います」


 誓い終わった瞬間にどっと参列者が沸く。

 一部始終を二階から見とどけたペレウスはつぶやいた。


「……これは?」


「誓約の儀式だ。五つの公家にかけて誓われる」手すりに頬杖をついたままファリザードが答えた。


「ずいぶんと簡単な婚礼なんだね。誓いは一瞬で済むんだ」


「え? ああ、それはちょっと違うぞ」


 ファリザードが顔を上げ、ペレウスの勘違いを正す。


「地味だがいちばん大切な契約式(アグト)が先にあって、すでにそこで契約の大部分は終わっているからな。結婚式は華々しい宴にすぎない。いまの誓約の儀式は宴のときの余興みたいなものだ」


「契約式って、どういうことをするの?」


「ええと……それは」


 ファリザードは、説明の順序を頭のなかでまとめているのか少し口ごもったのち、


「『|シーリーンタル・バーシェ《甘美たれ》!』と叫びながら新婦に砂糖をふりかけたり、親族みんなで『お姑さんの舌を縫おう』と歌いながら新婦の頭の上で布を縫ったり、細かいならわしはいろいろある。

 でももっとも肝心な儀式は、新郎が新婦の側に呼びかけるんだ。『結婚に同意してくれますか』って。

 新婦はそれに『(いや)』と答える」


「え?」ペレウスは思わず聞き返した。


「新郎はそれにめげず三度まで呼びかけることになっている。

 たとえこれ以上の相手なんかいないって場合でも、女は古式にのっとって必ず男の求婚を二度は断るんだ。三度乞われてはじめて『(はい)』と言う、そういうしきたりだ」


「なんでまたそんなまわりくどい手順なんだろう?」


「求婚にすぐ飛びついたら待ち焦がれてたみたいではしたないじゃないか」ファリザードの顔がやや赤らみを帯びた。「恋人と結婚するジンのなかにはたまに、気がはやって一度目で思わず『はい』と答えてしまう花嫁がいるが、それをしてしまうと一生笑い話の種にされるんだからな」


 説明しているうちにファリザードの瞳に、いつのまにか熱っぽい色が戻ってきていた。階下に視線を戻した彼女の「やっぱり、いいなあ」とため息まじりのつぶやきをペレウスは聞いた。


(いいって何が? 婚礼にあこがれているんだろうか。太子とそのうち行う儀式を思って?)


 胸の内がくすぶっていく。嫉妬なんかしていないと自分に言い聞かせるのも馬鹿らしくなるほどに。


「契約式は結婚式より先に行われるんだ……

 じゃあ、その儀式、きみは」


「ん?」


「きみはもう上帝の太子と済ませたのか? それなら言ってくれればお祝いしたのに」口にしたとたん、押しとどめていた黒い熱が一気に噴き出した。刀を持ち上げてペレウスは言った。「きみは友達なんだから、こんな過分なものくれなくたってそのくらいするよ」


 何気なさをよそおったつもりだったが、いまいましいことに声が震えた。しかし、かれの心の乱れなどは、言葉を投げつけられた少女の反応に比べれば大したものではなかった。

 とつぜん蹴飛ばされた子犬のように硬直したファリザードの様子に、ペレウスは瞬時に後悔を味わった。


「あ、ご……ごめん」


「っ……いまのは……ひどいぞ」


 かすれた、傷ついた声でファリザードは涙ぐんだ。


「太子セリムとの契約式はまだ行われていないし、将来それが行われることをわたしは決して望まない。婚約のことをいままで打ち明けなかったのは悪かったけれど、宝物でおまえをごまかそうとしたわけじゃない。母上の形見を渡したのは……わたしの心がだれを向いているか、(あかし)のつもりで……

 祝うだなんて言うなよぉ……」


「ごめん」ちりちりと胸に疼くのは罪悪感と恥じ入る気持ちと、最低なことに嬉しさだった。


………………………………

………………

……


 階下では宴が続いている。

 だれかに見られないように柱の陰にひっこみ、隣り合って座っていた。肩が触れるか触れないか、ほんの少しあいだを開けて。

 ファリザードからすべてをペレウスは聞いた。まもなくダマスカス公家軍、サマルカンド公家軍が〈剣〉に対する戦の場に到着すること。

 テヘラーンに集ったイスファハーン公家軍も南下すること。


「戦はようやくこれで五分五分だろうとわたしは思っている。

 ……わたしは直接の指揮には関わらないけれど、兵の士気のために同行する。

 けれどペレウス、他国の使節であるおまえをわざわざ危険に晒す意味はない。この北部で待っていてもらわなければならない」


 告げるべきことを告げる静謐な声だった。


「……そう」のどを押し上がってきた抗議の言葉をペレウスはぐっと飲みこんだ。彼女の判断は至極もっともなのである。


 それから、婚約のことが詳しく伝えられた。

 太子との婚約は彼女のいちばん上の兄が決めたものであること。家長となったかれの決定に逆らうのは難しいこと、ましてや戦時ゆえに……


「でも、うまくいけば結婚はしなくてすむと思う」ファリザードはひざをかかえてぽつりと言った。


「この内戦のあいだは、わたしたち兄妹はイスファハーン公家軍の中核とならねばならない。幻滅されて諸侯の支持を失うまねをするわけにはいかない。兄上の決定に話を合わせるふりをするしかないんだ。

 でも戦に勝つという義務さえ終わったら、わたしは自分の心に従うことにする。クタルムシュ卿のように……おまえがよければ、なんだけど」


 最後の方はほとんど聞き取れないほどの小さな声だったが、ペレウスはたしかに聞いた。自分の顔が熱くなるのを感じる。

 くいくいと服の袖を引かれてぎこちなくファリザードのほうを見た。


「あのだな、お、おまえ」


 片手を伸ばしてペレウスの服をつかんだファリザードは、怒ったようなすねるような表情をしていた。火照った顔を抱いたひざに半分埋め、微妙に据わった目で少年をにらんできている。


「なんだかずっとわたしにばかりこういうこと、言わせてないか。

 おまえの気持ちがいまはどうなのか、わたしは一度も聞いてないんだぞ。どうしたらいいか右往左往したってしょうがないだろっ」


 恥ずかしさが限界を突破して開き直った様子だった。

 ペレウスは一言もない――考えてみればそのとおりだ。これでは不誠実のそしりはまぬがれまい。そろそろ彼女の想いと向き合い、はっきりした答えを出さねばならない。


(けれどいまは)


 竜の試練のことを思い出し、顔の火照りが一気に冷えた。

 自分は冬至のあと戻ってこられなくなるかもしれないのに、いま何を約束できるだろう?


「ファリザード、もう少しだけ待っていて。冬至が終わるまで。その次に会ったときこそ、きちんと答えを出す。

 いまはそれしか言えない」


「……わかった。待つ」


 内心は焦れてどうしようもないのだろうが、ファリザードは真剣な面持ちでうなずいてくれた。

 が、そこで何かに気づいた表情となり、


「そうか……わたしが兄上に逆らって一族の後ろ盾をなくしたあとでわたしを引きとっても、おまえの国になんの利益もないものな……おまえが迷うのは当然だよな……打算抜きと言ってくれたけどまったく考えないわけにはいかないだろうし」


 魂が出ていきかけているのではないかというほど顔色を悪くして、ぶつぶつつぶやき始めた。ひざをいっそう抱き込んで身を縮めた彼女の頭上に、どよどよと黒い雲が垂れ込めはじめているのが見える気がする。


(そのことで迷ってるなんて言ってないじゃないか)


 申し訳ないやら腹が立つやら、ペレウスはなにか言おうとして、ふと手のなかの短刀に目を落とした。


(……母親か)


「きみに聞いてほしいことがある、ファリザード」


 心を決めて話し出していた。


「ぼくの母は神娼だ」


「なんだ、それ?」きょとんとファリザードが訊き返す。


「神殿に仕える娼婦だよ」


 窓の外では乾いた風が吹いている。


「ミュケナイ王国はヘラス最古の国だ。古いしきたりとして、王は他国の者と通婚するのでなければ神殿の巫女を(めと)る。

 母は……父が妻に迎えた幼馴染の巫女は、酒と快楽と狂気の神バッカスに仕えていた。その神の巫女は神への奉仕として春を売る。きみたち唯一神の教えを信じる者には想像もつかないかもしれないけれど、そういう信仰形態があるんだ。

 ……ファリザード、退()いた?」


 なんとも言いがたい表情になっているファリザードに顔を向け、ペレウスは訊いた。彼女が狼狽して目を泳がせる。


「そ、そういうわけじゃないけど」


「いいよ。異文化のことは理解しにくくても無理ないんだと今のぼくにはわかる。ヘラスのほかの都市でさえミュケナイのこの古俗はなかなか理解してもらえないんだ。

 それに……誰よりぼく自身が母を嫌悪した」


 抑揚なくペレウスはとつとつと語り、ファリザードを沈黙させた。


「母はある意味で真面目な信仰者だった。父と結婚しても神への奉仕はやめなかった。高級娼婦としての彼女の名はヘラスじゅうに響きわたっている。

 王宮にいないときの母の周りにはいつも見知らぬ男がいた。母に会うたび、いつも新しく代わっている傍らの男たちはだれなのだろうと子供心に不思議に思っていたものだ。幼子ではなくなってすべてを残らず理解したときに、自然に湧き上がってくる感情としてぼくは彼女を汚らわしいと感じた……母だからこそかもしれないけれど」


 かれ自身が母から受け継いだのは竪琴の才と美貌である。

 竪琴はそこまで嫌悪感を呼ばない――奏でる音はあくまで自分のものだから。

 けれど母似のこの顔は、鏡を遠ざけたくなるほどいとわしくなるときがあった。ならばあごをきつく食いしばるしかない。つねに淫蕩な笑みをたたえたあの女の顔からは遠ざかるように、厳しく意固地な表情をつくっておくしかない。

 少年の気難しい一面は、そうして形作られたのだった。


 いままで決してだれにも話すことはなかった。

 最後には父と自分を捨てて去った母のことは口の端にのぼせたくもなかったからだ。それでいてもうひとつの理由には、他人に母のことを侮蔑されるのが嫌だということもあった。彼女に愛されていなかったとは言えなかったから。ひざの上に乗せられて竪琴を手ほどきされた日々の記憶が残っていたから。思い返せば彼女の甘やかな声が響く。


 ――私の坊や、かわいい坊や。

 ――いつかあなたが大きくなって、愛しい人ができたら教えてね。

 ――その女、いじめ殺してあげるんだから。


「……」


 すさまじく微妙な記憶を掘り起こしてしまった。

 なんとも言いがたい表情になったかれをずっと見ていたファリザードが、しばしの逡巡ののち訊いてきた。


「なぜ、その話をわたしに?」


 問われてペレウスは奥歯を噛み締めた。


(竜の試練への答えはけっきょくこれなんだろうか)


 自分を偽るのも限界だった。友人であり、想いを寄せてくれているこの子を、この地にいる誰よりも大切に思っているのは認めなければならなかった。これが恋かどうかはあとからゆっくり考えるとして……


「きみには知っておいてほしかったから。ぼくという人間の成り立ちを。

 それと……いま話したように、ぼくの実家はもともと結婚関連では、奇矯な選択をする王家だって周りから思われてる。だからきみがもし戦後にぼくのところへ来ることになったとしても、安心したらいい。うちの両親ほどの迷惑であるもんか」


 ペレウスの言葉に息を呑んだのち、不安と期待に上ずる声でファリザードが確かめてくる。


「……前向きに考えてくれているって解釈してもいいのか?」


 ややためらいつつも、ペレウスは彼女の瞳に視線を合わせてうなずこうとした。

 それができなかったのは、


〔あはははは――ああおかしい〕


 笑い声が、脳裏に鳴り響いたからだった。

 顔がひきつるのを隠してペレウスはとっさにファリザードから面を背けた。「ペレウス?」少女の戸惑いを背後に聞きながら(出てくるなよ!)と心中で怒鳴り返す。


〔だってねえ。その子の見通しが甘すぎて笑ってしまいそう。

 これで戦が五分五分だなんて。勝ちを前提として戦後のことを語れるなんて〕


 “虚偽”の揶揄の思念に、ペレウスは強く苛立った。


(うるさいな。馬鹿にしたようなことを言うな)


〔あらあら、これでもわたしはファリザードを心配しているのよ。わたしの友達でもあるのだから……その子が生まれたときに宣告を下して以来、わたしはその子を気にかけているのだもの。あなたより古い友情を感じているわ、一方的なものだけどね。

 彼女は間違っているわ。いますぐ南下しても手遅れよ。もう別の道を選ぶしかない〕


(なにを言ってるんだ)


〔彼女は自分と自軍の何もかもを変えるしかない。あなたは竜を従ねばならない。あなたたちの陣営が勝ちを拾いたければね。

 来るわよ、ほら〕


 “虚偽”の思念が告げたとき、式場の正面扉が大きく開け放たれた。

 音楽が止み、視線が集まる。入ってきたのは一群のジン兵たちであった。クタルムシュがつけ髭をとってかれらに相対し、そしてふたりのいる階上を示した。あわててペレウスとファリザードが離れたとき、はやジン兵たちは階段を駆け上がってきていた。

 テヘラーンの衛兵隊長カイスがファリザードの前にかしこまり、切迫した表情で告げた。


「ご無礼をお許しください、ファリザード様。ですが館にいますぐ戻っていただくようにとアーガー様より命じられております」


「……何があったのだ?」


 ななめ後方で聞いているペレウスの背筋に総毛立つ感覚――極めつけの凶報を聞くときの感覚。あのときのような。

 初めて〈剣〉の挙兵を知ったときのような。

 はたしてカイスはごくりと喉を鳴らし、


「帝都バグダードが陥落しました」


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