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2-27.冥き太古の悪霊との

ペレウス呻吟しながらそれと対面すること

 終夜(よもすがら)、ペレウスの意識を占めるのは苦痛だった。

 呪わしい文様が部屋中に刻まれた暗黒の神殿――床中央の水盤に溜まった竜水に、湯舟に横たわるように漬けこまれ、怪物たちに群がられていた。

 はさみで少しずつこちらの体をちぎってくるサソリ、傷口からもぐりこんでくる蚯蚓(みみず)のような小蛇、ばりばりと噛み砕く大トカゲ、毒牙を立てて肉を溶かし吸い上げてくる大蜘蛛。

 あらゆる方法で生きながら食われる感覚をつぶさに味わい続けた。


 鼓膜を(つんざ)くのは絶叫で、それは自分のあげているものだった。口からは血のあぶくがこぼれる。食いしばっていた奥歯はとっくにすべて砕け、叫び続けたのどの奥は裂けていた。

 胴体が横たわっていた水盤の中に徐々にずりおち、あごまで竜水に浸される。あえぐ口にそのおぞましい液体が流れこみ、必死にもがいて溺れまいと体を押し上げた。

 手足は最初に食われていたので、胴体のくねりだけでどうにかせねばならなかった。


 腹の中を食われるのが耐え難かった。

 肉を裂かれる激甚なる痛み――眼球の毛細血管が破裂するほどの――はもちろんだが、それ以外の感覚がふとまぎれこむのだ。それは救いでは決して無かった。

 口から腐臭を放つワニのような獣が、かれの腹の皮を食い破って腸を貪ったときは、ある一定の境を超えると痛みがかえって薄れた。代わりに臓器を失ってゆく喪失感ですすり泣きそうになる。

 次に、白蟻のような小虫が大量に腹腔の中で蠢いて食い荒らすときは、痛いというより猛烈に(かゆ)くなった。掻きむしりたいほどわが身の内がむず痒く、そうかと思うとやはり痛みが閃いて神経を切り苛んだ。ちくちくと、ずきずきと痛痒がかけめぐって次第にくすぐったくさえなってくる。自分の口からいつのまにかほとばしっている笑い声に気づき、狂わないために舌先を噛みきった。

 砕けた奥歯をさらに噛み締め、唇も舌も前歯で細かく刻みつづけた。他者から与えられる苦痛を、自らが自らに与える苦痛で少しでも塗りつぶし、それによって自我を保ち続けた。


 血の味、血の臭い、血の粘度を宿した竜水――目に映るのは自分を食らう獣たち。

 赤黒い苦痛がすべてを塗りつぶしていた。


 楽になる道などない。通常の拷問には目的があるが、竜の試練でのこれにそんなものはないようだった。しいていうなら苦痛を贄人に与え続けることが目的なのだろう。

 そのような種類の拷問に耐えるということは、闇夜の泥濘を歩くような長い道のりだとペレウスはいまや理解させられていた。

 出口があるとも思えない苦痛という闇の中を、泥に足をとられて疲弊しながら延々と歩き続ける。どれだけ苦しんだかも、どれだけ歩いたかも問題にならない。目的地など示してもらえず、ただ生きているかぎりいつまでも必死で歩かねばならない、それだけだ。


 最低なことに、決して死なせてもらえそうにない。

 貪られる端から体が再生させられているのがわかった。失った臓器が戻り、傷口がふさがろうとするのだ。そこをまた食いちぎられ、押し広げられる。


 怪物たちのなかから一匹の小蛇がするするとかれの胸を這い上がってきて、ペレウスの顔を覗きこんだ。その蛇には三つの頭があって、それぞれが赤い目を持つ小さな人間の顔へと変化した。顔のひとつは苦悶に、ひとつは憤怒に、ひとつは卑しい笑みにと歪んでいた。三つの舌が一斉にささやいた。


(にえ)よ”と。


“我が花婿よ、背の君よ……” 苦悶の顔がペレウスの頬へと赤い涙を滴らせた。“我が花嫁よ、我が(いも)よ……”卑しい喜悦の顔が笑み崩れた。あえぎながら目をつぶったペレウスのまぶたを憤怒の顔が食いちぎり、かれが暗黒と対面せざるをえないようにした。

 憤怒の顔の口からのぞいた長い長い舌が、血まみれで剥き出されたペレウスの眼球に這い、やがて眼球と肉の隙間に深くもぐりこんで、頭の中を進みだした。錐をねじこまれるような新たな激痛にびくんびくんとペレウスの肉体がはねた。


神殿(みあらか)の王子……異神の血……”(くら)いその存在の舌が脳に深く達してうごめいたとき唐突に視界が切り替わった。故国ミュケナイの、海神の像が手をかかげた玉座の間の情景が浮かんだ。“ジン族の伴侶……娼婦の子……”着飾ったファリザードの得意げに胸をそらす姿が、竪琴を抱えた母親の無邪気で残酷な笑みが次々浮かんだ。


“おまえは差し出す……その未来と過去を、肉と魂を、誇りと愛するすべてのものを……”


“見返りにおまえは支配者の一部となる……我が肉の器となって王の座につく……”


“この世の半分、夜を統べる王……”


“冬と暗黒を、疫病と飢渇を……”


“腐敗と荒廃を、悪念と災害を統べる……”


“もろもろの悪(きわ)まりて、やがては我が翼が世界を覆う……受け入れるがよい、小さき者……”


 ――絶対にごめんだ。


 痛みで細切れになった意識のかけらを使い、ペレウスは怒鳴った。

 頭の内部を侵されているためかそれはどんな言語にもならず、意味不明の音として口から出てきただけであったが。

 冥きものは、かれの抵抗を相手にしなかった。


“汝の苦痛は我が恩寵、不死の命の証”


 それは会話しようとしなかった。愚鈍と思えるほどにおのれの意思を押し付けるだけであった。高みから押しつぶすように一方的に囁くだけだった。


“汝は我なり我がものなり”


“我らは(つい)には一者なり”


 ――笑わせるんじゃない。


 ペレウスは――裂けた喉と刻んだ唇から血の息吹を飛び散らせ、嘲り笑った。挑戦の意志をそこに満たして。

 相手が何者であるかすでにペレウスは理解していた。

 それは竜であり、それは意思を持った暗黒の一端であり、それはたしかにひとつの真理をつかさどる神のかけらだった。


 ――あんたは、


 それでもペレウスは抗った。相手がどのような者であれ、抗いぬくことだけがこの苦痛の底で精神を保つ術だった。

 この神には決して屈してやらない。ささやかな目的をそこに見出して、苦痛の泥濘を歩き続けてやる。


 ――あんたは〈剣〉に負けたじゃないか。征服時代にこの地のほかの神とともにあんたの信仰はほぼ壊滅したじゃないか。ジンにさえも勝てない神が、世界の支配者だなんて笑止だろう。


 その名に、暗黒が始めて応えた。

 どす黒い思念の波動が神殿を揺るがした。触手がざわめき、怪物たちが吠えた。


“あれは滅ぼされねばならぬ……あれは世界の理を乱す……”


 ――〈剣〉が何の理を乱すと?


“万物の諸相は巡る……巡りながら強まり弱まる……それでも最後には必ず死へと還る……砕けぬものの何やある……滅びぬものの何やある……それこそがこの世の理なり……”


“死ぬ、死ぬ、死ぬ、大地でさえも必ず死ぬ……時の車の輪は軋り、星の炎は燃え弾け……ものみな終には塵芥(ちりあくた)……いずれも宿命負う身にして、我が支配の元に還るものなり……その時我は現世の半分ではなく、すべてを支配する者となる……ひとつの時代に我が信徒がいくら殺され、我が教えがいくら衰微しようとそんなことは問題にならぬ”


“されどあのジンは我が教えを、究極の真理を否定する……言葉でなく存在をもって否定する……滅びの時を遅らせて、世界の生と死を掌握しようとする……スライマーン以来の許されざる力の者であり、スライマーンと違っていかなる神を尊重することもない……彼奴は除かれねばならぬ”


“彼奴を世界の王(ジャハーンシャー)にしてはならぬ”


“ゆえに、”


 三つの声が重なった。


“さあ(くら)わせよ、贄の子よ……彼奴を除くために我にすべてを捧げよ”


 とうとう顔を食らわれ始めた。


………………………………

………………

……


 ファールス帝国では寝具は、じゅうたんの上に敷き布団(マトラフ)を広げ、枕を置き、毛織の布や綿入りの掛け布団をかけて寝るのが一般的である。

 しかしペレウスが泊まる兵舎の部屋には、寝台が付けられていた。といっても貴族御用達の天蓋までつけて贅をこらした豪奢なものではない。二段仕組みで、空間を少しでも活用しようとする造りのものである。兵舎のほかには奴隷の部屋や、金のない旅人が利用する最低級の隊商宿にあるたぐいの寝台だ。

 ペレウスは、この二段となった寝台の上のほうを使っている。


 兵舎の窓から入る朝の光にペレウスが目を覚ますと、部屋の床に水の張ったたらいが置かれていた。毛布をのけてよろよろと起き、床に下りる。

 ペレウスはたらいに張った水に映るおのれの顔をむっつりと見つめた。

 顔は無傷。いつもどおりの母親似の整った容貌のままである。


(……あんな夢を見ているのに、体はずいぶんと楽だな)


 精神的な憔悴が瞳に浮かんでいるのはともかく、どういうわけか顔色は悪くない。むしろ快眠直後を示して血色がよいくらいだ。

 夜のあいだのあれだけの苦痛が、陽を浴びた薄雪よりも綺麗に消えてまったく名残をとどめていない。

 そこがかえって不気味だった。


〔おはよう、王子さま。昨夜も耐えぬいたわね。

 あなたはやはり天稟といっていいほどの苦痛への耐性があるわね。あなたを見つけてきたことが誇らしくなってくるわ〕


 “虚偽”の声が今朝も朗らかに響き、「黙れ」ペレウスは思わずうなりを漏らした。おはようと返してやるほどの心の余裕はない。


〔ご機嫌斜めね〕


「……良くなる理由がどこにある」


 痛覚を伴った悪夢を見た直後に機嫌がいい者がいたら、頭がいかれているに違いない。

 逆にいえば、喜ばしくもまだ自分は正常というわけだ。

 もっとも、記憶に残る悪夢の輪郭は、朝日を浴びたいまは奇妙にぼやけてしまっていたが。麻薬を飲まされたように記憶は幻めいてはっきりしない。試練の最初に竜に寄生されたときと同じだった。


(鮮明に思い出したくもないけれど)


 苦痛、苦痛、苦痛――ひたすらその繰り返しであるだけなのだから。


〔苦痛は真実〕


 “虚偽”が口をはさんできた。


〔その苦しみの夢にはあなたの真実があるわ〕


 やはり思考を読まれているのかもしれない。拳を石のように固く握りつつ、ペレウスはいちおう疑問をぶつけてみた。


「真実とはどういうことだ」


 “虚偽”は沈黙し、それには答えなかった。ペレウスは質問を変える。


「夢に三つの頭のある怪物が出てきて、ぼくを花婿、花嫁と呼んだ。あれは何なんだ」


〔贄人の魂は最終的に竜のそれと結び付けられる。古代の孵化の儀式では、それを竜との結婚になぞらえていたわ。肉を貪る夜の儀式は(とぎ)とも呼ばれていた。

 よかったわ、竜はあなたを気に入っているようね。間違いなくあと七夜、冬至の夜まで毎夜御召しがあるでしょうね〕


「冬至が来る前に生きる意欲が尽きそうだ」


 どんよりとしながらもペレウスは焦りを覚えた。七夜。裏を返せば、呪いを解く期限まではもうそれしかないのだ。

 すぐに“虚偽”がそのことにも言及した。


〔でも、唯一の心臓を探すほうも忘れちゃだめよ〕


「わかってる」歯ぎしりしながら言う――幸い、あの夢で砕けた歯は今はすべてそろっている。


(でも、誰を選べというんだ……ぼくにとって身近で、たったひとりの相手だなんて)


 クタルムシュとユルドゥズの夫妻のどちらかだろうか。あの二人との縁は浅くはない。


(ずっと世話になってきた。ユルドゥズさんにはぼくらが危なかったときに一貫して面倒を見てもらった。クタルムシュさんも同様で、それに彼には武芸を教えてもらっているし)


 武芸を教えてもらった――“背信”(タローマティ)ことサー・ウィリアムはどうだろう? 始めての師であったのだし、いまでもまったく情が湧かないわけではない。少なくとも頭の中に居座った“虚偽”に比べればよほど。


(でも、彼がいまどこにいるかはわからない……常にそばにいるというのが条件のはずだ。いや、それを探せということなのだろうか?)


 ……助けたジンの女ルカイヤと、同じく助けた山の民の姫ナスリーンはどうだろうか。ある意味で特別な縁があると言い切れなくもない。こうして試練を受けているのはもともとあの二人を助けるためであったのだから。ナスリーンのほうはおそらく山に帰っただろうが、ルカイヤはテヘラーンの宮中にいるはずである。


(けれど、暗黒神は彼女の心臓を要求するのだろうか? それだとぼくが試練を受けたことは完全な茶番になる。そのくらいはやりかねない最悪の神とはいえ)


 どれだけ考えてみても、決定的といえるほどの存在はあげた者たちのうちにはいなかった。


(いっそもっとたくさんの人ともっと親しくしておけばよかった)


 そんなことを悔やんでいる自分に気がついてペレウスは苦しげに顔を歪め、たらいの縁に爪を立てた。

 なんでそんな考えが浮かんできたのかは明らかだった。ある一人の名前だけ思い浮かべることを避けていたからだ。その友人であるジンの少女こそおそらくもっとも候補に近い存在だった。


(ぼくは彼女以外が答えであったらいいと思っているんだ……ぼくが心臓を貫かねばならない者が彼女でなければと)


 自分の醜さを痛感してペレウスは恥じ入るあまりに顔を伏せた。


(それでも……たとえばぼくにとって嫌なやつが答えならぼくは安堵さえするだろう)


 そうだ。敵というのも、ある意味で誰にも代わらない存在とも言えるのではないだろうか?

 まずはと〈剣〉のことを考えて、ペレウスは即座に打ち消した。仮に〈剣〉が答えだとして、どうやってその心臓を貫けるというのか? それに彼は遠くにいて帝都を軍で包囲している。

 そうなると、いきなり規模が極端にみみっちくなるが、アテーナイのセレウコスがまず筆頭にくる。いま思い返してもかつてのいじめられていた記憶は不愉快そのものだ。……竜にはらわたを食いちぎられる夜々に比べればなんということもなかったが。


(でも、あいつ含めほかのヘラス人がどこにいるかはまだ探索中だし)


 ジオルジロスやプレスター……六卵のうちでも特に悪質な二人であり、パウサニアスが死ぬ原因となったあいつらにはまったく好感を持ちえない。


(こちらもそばにいるかは判断できない……

 とにかく、まずは外出して情報を集めながら考えてみるか)


 息を吐き、悪夢の記憶を脳裏から締め出すべくペレウスはたらいの水で顔を洗った。

 と、同室に寝泊まりして二段寝台の下を使っているホジャが勢い良く入室してきた。


「殿下、ちょっと外にあんたを訪ねてきたやつが――あ。

 えっと、ところで、そのたらいは俺が昨晩寝る前に足を洗ったやつでして」


 顔を両手で覆い、鼻先から水を滴らせた状態でペレウスは固まった。


〔使ったらすぐに片付けろとその青年にはよおく言っておいてね〕心なしか“虚偽”の思念の声が不快げである。


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