2-26.寄生者たち
ペレウス忌むべき試練の内容に茫然自失すること
夕べのテヘラーンの街路、石畳に腰を下ろした少年の姿がある。
建物の壁にもたれ、麻薬を吸った直後のように気だるげな面持ちだった。
その隣で、羊皮の外套をまとった体を縮め、白羊族の若者ホジャが震えながら洟をすすっている。
「殿下、ペレウス殿下」
「……なんですか」
「晩飯ですけど今日はちっと豪華だそうですよ。鴨と羊の炊き込みご飯を庭を借りて作ってるそうです。
こいつは羊を玉ねぎと香草と一緒に煮込んで柔らかくして、そのスープで米を炊くんです。鴨は肉片をいっぺん串に刺して、甘い脂がぽたぽたしたたるまで炙ったもんを使います。肉に揚げた干しエンドウと干しぶどうを加え、バターと胡椒とシナモンとクローブとカルダモンで風味をつけて炊き上げるんです。
ほかに揚げ玉ねぎを混ぜたオムレツと、数種類の香草とメロンのサラダ、芥子とアーモンドを混ぜたパンもありますよ。
何を言いたいかっていうと、さっさと帰ってこういうご馳走を食べましょうよってことなんですがね」
ペレウスは陰気にのろのろと首を振った。四肢の先はとうに冷えていたが、温かい炊き込みご飯にもオムレツにも興味は湧かなかった。
食欲そのものがまったくない。
「一人でいたいんです。先に帰っていてください、ホジャさん」
昼にもかかわらず日差しは弱く、街路樹は葉を落としている。
裸の枝でカラスが不吉に鳴き、曇りがちの空を列なして渡ってゆく水鳥たちをうかがっている。地上では、吹きすさぶ木枯らしが刃となって通行人の肌に斬りつけてくる。
「どういうわけですかい。昨日も夜になるまで帰らなかったし、まさかその年で悪い遊びおぼえたんじゃないでしょうね。よしてくださいよ、俺らが悪影響の源だって族長からどやされちまわあ……
おお、寒っ、ちょっと前まで暖かったのにいきなり風が冷たくなりやがって」
例年より一月近くも遅れた冬がついに来ていた。極端なほどの急激な冷え込みという形で。外套の前をかきあわせるホジャが「これだから冬は嫌なんだ、冬至も近いし気分が沈んでくるぜ」とぼやくのを聞いて、ペレウスはぴくりと反応した。
「冬至は嫌ですか」
「うん? ああ、内輪の話ですよ。俺たちの部族ではもともと冬至は忌むべきものなんです」
「どうして?」
真顔で尋ねるペレウスに対し、ホジャは「それは……つまり、ほら、冬至は一年でいちばん夜が長いでしょ」と身振りを加えて言った。
「冬はそれだけ古代の暗黒の神の支配が強まる季節です。とくに冬至の夜はその神が一年のうちで最大の力を持つ時とされてるんで、冬はうちの部族じゃ嫌われてますよ。白羊族は古代に暗黒の神の対の存在である“炎と光輝の神”を崇めてたんですから。
いやさ、伝統を守って炎と光輝の神を崇めてるのは白羊族の半分くらいで、もう半分はとうに唯一神に帰依してるんですがね。それでもなんとなく冬を忌む空気ってやつが全体的に残ってるんですよ……
……深刻な顔してどうしました?」
(冬至の夜は暗黒の神の力が強まる時)
胸中でホジャの言葉を繰り返し、ペレウスは思いつめた目をしてひざを抱えこんだ。
当惑した様子のホジャが頭をかき、何度目かに誘ってきた。
「こんな話聞いても滅入ってくるだけでしょうに。帰って料理で腹をあっためましょうや」一拍置いて、「何かあったならここで話してみちゃどうです」
ためらいのこもった声には不器用な温かみがこもっていなくもなかった。ペレウスは白羊族の青年の角ばった顔を見上げた。
(この人はぼくにとって“唯一無二の相手”といえるだろうか)
――明らかに否だった。
四肢と同じく冷え切った意識で判断する。かれに決して悪い感情を抱いてはいないが、特別と言えるほどの深いつきあいではない。
かれのために、それは喜ぶべきことだった。ホジャのことは候補から躊躇なく外せる。
「何もありません……先に帰ってください。お願いします」
事情を話すわけにはいかない。課せられた理不尽きわまる試練の存在は。
他者に知られて邪魔される事態になれば、そこで試練を中断すると“虚偽”はペレウスに告げていた。それはあなたにとって良い事態にはならないとの脅しを添えて。
………………………………
………………
……
渋るホジャを説得するのは骨が折れた。「護衛だから一人で帰るわけには」と言うかれの背を押し、ようやくかれを先に帰らせたのち、ペレウスは周囲を見回し、視線がないかどうかすばやく確かめた。
そして、
「出てこい、“虚偽”」
限界に達した苛立ちで声を低く震わせ、己のこめかみを拳の側面で叩いた。
〔呼んだかしら〕
彼女がようやく返事する。
頭の中で。
「ふざけるな、ずっと呼び続けていただろう。無視しつづけたくせに」――ペレウスは拳を握りしめた。
こちらからも念じるだけで会話が成立するのかもしれないが、確証はなかった。おそらく黙殺されていたのであろうが、どれだけ彼女に思考で呼びかけようと返事は一切なかったのだ。
ペレウスはなにもかもに憤怒を覚えていた。だまされた、という思いが強かった。たぶんぼくは度し難いほどの愚か者なのだろう。わずかの間でも“虚偽”をふたたび信じるというあやまちを犯したのだから。
「このろくでもない話を聞かされた明け方から、ずっとおまえを呼んでいたじゃないか」
〔うふふ、もしかしていまさら文句があるの? 『竜と贄人』の試練を受けることは自分で選んだのでしょうに〕
「こんな内容だと前もって聞かされはしなかった!」
〔あら、とても単純明快な内容じゃない? 今回の試練はこんな簡単なものでいいのかしらってわたし迷ってしまったくらいなのに。
確認しておきましょうか〕
ペレウスは顔をこわばらせた――というのは正確ではない。唐突に、まばたきすらできなくなっていたからだ。
体がまるで言うことを聞かない。手がかれの意思の制御を離れ、腹帯の内に隠してあった一本の短剣をつかみ出していた。
これは“虚偽”の声が響くようになってからたびたび起こる笑えない現象のひとつだった。
(やめろ、ぼくの体を乗っ取るな)
かれは意識で抗議したが“虚偽”の思念はそれを無視し、笑いの波動を含ませて、
〔あなたが悩める時間はあと八夜。そして第九夜目、冬至の日没とともに、贄人であるあなたの魂は、孵化した竜に肉体ごと完全にむさぼり食われる。そうなれば竜の勝ち。
そしてあなたが勝つ条件は〕
鞘を払われた黒々とした刃が眼前に掲げられる。よく見ろというように。
〔あなたに持たせたこれは“悪思の鍵”。竜卵……悪思の扉と本来は一組であったこの魔具で、竜に心臓を捧げなさい。
あなたにとって唯一無二なる者の心臓を〕
(無茶苦茶だ――)
〔あなたにとって誰にも代わらぬただ一人。その者を探し、見つけ、冬至の日没までにその心臓を貫きなさい。心配しなくていいわ。それが答えである正しい心臓ならば、“鍵”に貫かれてもその者は死なないから。
でも、あなたに与えられた機会は一回だけ。
もし正解ではない心臓を貫けば、その時点で冬至を待たず竜は孵化する。間違って殺された者の魂はあなたと共に竜の餌となるでしょう〕
「ぼくに竜を寄生させたあとで隠していた条件を言うのは卑劣だろう!」
ようやく体の支配権を戻され、ペレウスは顔を紅潮させて怒りを爆発させた。
かれは“虚偽”の申し出た賭けに応じた。それは確かだ。最悪でもかれひとりが死ぬだけだと考えて。
だが、“虚偽”のやり方はどう考えても公正とは言いがたかった。すべてを説明しきらぬうちに、彼女はペレウスを後戻りできなくさせたのだ。
――かれを暗黒神の神殿に連れていき、最初に器に満たした妖しい薬を飲ませ、
――朦朧としたかれを竜水をたたえた水盤の前にひざまずかせ、その前で水盤に“悪思の扉”を放りこみ、
――かれの手首を傷つけて血を搾り、それを水盤にぽたぽた垂らした……
すべては闇の中で粛然と行われた。にもかかわらず、ペレウスには妖しい薬を飲んだそのときからすべてが克明に見えていた。
血が注がれたとき“扉”が融け、おぞましい幾筋もの触手が黒水の内でうねりざわめいた。それは目のない小蛇の大群であり、水盤から溢れてかれのひざ元へと群がって……
あとのわずかな記憶は、苦痛と厭悪に塗りつぶされていた。麻薬も入っているに違いないあの薬は、犠牲者が苦痛で狂わぬように先んじて大部分の正気を剥ぎとっていてくれたが、感覚はかえって鋭敏にした節があった。
肌を食い破った無数の小蛇たちが血管や皮の下や内臓の隙間にずるずるともぐりこんでくる感触は生涯忘れられそうにない。
「……この大嘘つきめ。
竜のもたらす苦しみに耐えぬくのが試練だと、おまえは最初に言ったじゃないか」
〔まるきりの嘘じゃないわ。だってあれは冬至の夜まで毎晩あなたを囓るのよ。さっそく昨夜も味わったでしょ?〕
「なんて楽しい話だろうか」
あの夢を今夜も見ると思うと、毒づきながらも絶望に目が据わらざるをえなかった。
昨夜、地上にどうやって帰されたのかペレウスははっきりと憶えていない。地下道をくぐりぬけた記憶はすっぽり抜け落ち、どうやって兵舎に帰りついたかすらあやふやだった。なぜ自分が無傷でいるのかさえどうでもよく、ただ疲労困憊しきって近くにあるテヘラーンの門を目指していた。
何があったのか門前の野営地は混乱しきって人声に満ちていた。深夜にもかかわらず野営にも市壁の塔にも煌々と明かりがついていた。門につくと、かれが白羊族の関連の者と名乗るまでもなく門番がかれの顔を憶えていて、追い払うように通行許可を出した。
……わずらわしい過程をいくつも経たのち、かれはようやくのことで寝室に戻って倒れこむように眠りについた。
ところが、夢でふたたびあの神殿にいた。蛇に群がられる忌まわしい夢で、それは寄生されたときの苦痛を再度繰り返すものだった。夢は途中で醒めてはくれず、朝方までペレウスは四肢の肉や腹の内側を蛇たちに少しずつ食いちぎられる疼痛を味わいつづけた。
悪夢の直後、朝になって目覚めてすぐに“虚偽”の声が頭蓋の内に響き、ペレウスはそこでやっと試練の内容を明かされたのである。
〔そうぴりぴりしなくていいじゃない?
あなたはすでに最初の賭けに勝ったのよ。魔術への適性があるかどうか、竜の器となる適性を秘めているかどうかという賭けに。
そう、第一関門を突破してなお生き残り、ミュケナイのペレウスは卵になった。ふたつの意味で卵となることができた〕
凱歌を歌うように“虚偽”は思念でささやいた。
〔これで六卵ぜんぶ揃ったわ。悪思、虚偽、無秩序、背信、涸渇そして熱!
“タルウィ”、“タルウィ”、あなたは“熱”。竜卵と同化して、数百年ぶりに試練に挑む贄人となるからには、先にわたしたち六卵の一個となっておかなくちゃね〕
「冗談じゃない! ぼくはおまえらの仲間になんか――よくも勝手にっ」
罵りをひとしきり連ねると、“虚偽”がすねるような響きの思念を返してきた。
〔あなたが六卵となったから、わたしはこうしてあなたととても近いところでお話できるのに。仲間としかできないのよ、一つの肉体に二つ意識を宿すこの術は。
わたしたち昔なじみなんだし、距離が縮まったことをもう少し喜んでくれないかしら〕
おまえがいきなりぼくの頭に割り込んでくるようになったのはそのせいか。ペレウスはさらにがなりかけたが、ふとあることに気づいた。
(こいつの本性の悪辣さ、どこかで接したように感じていたが、母上と似てるんだ)
怒りが急にしぼんで虚無感にとって代わった。ペレウスは深々と息を吐いた。
「なぜぼくを選んだ?」
それは悲嘆ではなく純粋な疑問として浮かび上がってきたのである。
かれは古い国の王子という出自以外に特別なところはない。ジンではなく人であり、ファールス人ではなくヘラス人であり、大人ではなく子供であり、この地の魔術に関して実績などはなにもない。竜卵とやらを植えつけるに適当な人物であるはずがない。
そうペレウスは自分では認識していた。
だが“虚偽”は、
〔あなたが竜の器となれたことは、けっして偶然ではないわ。
わたしは確信していたんですもの。あなたに竜と同化する適性があることを。
ジオルジロスに襲われたとき、あなたは“悪思の扉”を展開させたというじゃない。まがりなりにもそれができるなら、適性があったということよ。
それにあなたには、自分でどれだけ否定しようとも“熱”の霊名にふさわしい資質がある。だからこそイスファハーン公の館でわたしはあなたを見初めたのよ。あなたに言葉を教え、師を与え、縁をより深く結びあわせておいたのは意味のない行為ではないわ〕
この告白は、著しくペレウスを困惑させるにはじゅうぶんだった。
「……ぼくがおまえらの妖術と相性がいいだって?」
泣けてくる。
〔竜を宿したことで証明されてるじゃない。
光栄に思って欲しいのだけど無理かしら。暗黒の神の宗教はこれでも伝統があるのよ。ヘラスで最も古いというあなたの国の歴史よりさらに古いわ。そしてその竜は、掛け値なしに偉大な力よ。なにしろ世界を滅ぼせるほどだもの〕
「大仰だな」ペレウスは失笑しそうになったが、
〔信じようと信じまいとどちらでもいいけれど、いまの言葉に誇張はかけらもないわよ。
あなたが試練に勝ったら教えてあげる。それでは頑張って探してね〕
別れを告げられて、かれは慌てて「待て!」と叫んだ。
「なぜこんなことが必要なんだ。ぼくにとっての唯一無二の者を探して、その心臓を貫けだなんて……意味不明だ。あまりに説明が不十分すぎる。
それに、その者がもしここから九日では行き着けないほど遠く離れたところにいたとしたら……たとえばぼくの故国ミュケナイの誰かだとすれば……こんな試練成り立つもんか!」
見た目には一人でまくしたてているかれを、道を通りかかったらくだ曳きが狂人を哀れむ目で見ている。が、それはどうでもよかった。
「だいたい、貫かれた者はどうなるんだ! 死にはしないといわれたって安心できるものか!」
憤懣をぶちまけたときペレウスは、どういうわけか、ひとりのジンの少女の姿を頭に思い浮かべていた――泣き虫で子供っぽく、意外に恥ずかしがりでときに大人びる少女を。
一瞬後にその姿を意識から抹消した。可能性すら考えたくもなかった。
脳裏で隣り合った思念が、撞かれた大鐘のように震えて笑った。
〔その者はあなたから遠くないところにいる。
あなたはその者のことを知っている。
あなたは常に答えの間近にいる。
さしあたって出せる助け舟はこれで終わり。あなたがもしも勝ったなら、この試練に関するあなたの疑問に答えてあげる。さあ探しなさい、贄の子よ。すでに一日を無駄にしてしまったのだから急いだほうがいいわ。
そうそう――もし負けてもあなたは死ねはしないわよ。昨夜知ったでしょう、あなたは竜に囓られている、囓られるほどにあなたは竜と同化する。竜の不死性が毒のように染みわたる。肉塊となって竜の中でいつまでも囓られるの。膚を筋を、脈を臠を、臓腑を髄を食われる苦痛を、竜がつぎに滅ぼされて宝玉に還るときまで永遠に味わい続けるのよ〕