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2-25.庇護

ペレウス危険な賭けに手を出すこと

「未来は炎の(かたち)のよう」


 地下道の息詰まるような空気を、春風に乗るような甘やかな声がいんいんと震わせる。


「わずかのうちに揺らめいて移り変わり、とても読みにくい。

 あなたがここに訪れる姿がわたしには見えていたけれど、それがいつになるかはわからなかった。まさかその日のうちに来るとはね」


 “虚偽”の指がペレウスののどを鎖骨からつつっとなぞりあげ、おとがいを上げさせてくる。淫靡な感触に、ぞわっとうなじの毛が逆立つ。

 母親のことをペレウスに思い出させる触れ方だった。


「あなたの魂の象はとてもとても面白いわ。

 あなたの先をもっと見せて、王子さま」


 ゾバイダの顔をとった“虚偽”は微笑を浮かべながらペレウスの目をのぞきこむ。かれの瞳の奥に浮かぶ混乱、悲痛、反発心のすべてをこの上ない甘露として味わうように。

 本物のゾバイダの叱声が横合いから聞こえた。


「“虚偽”」


「なあに、“涸渇”」


「わたしの姿でいやらしいことをするのはやめていただけませんか」


「ちょっとくらいいいじゃない」


「いいわけがないでしょう、金輪際しないでください」


 本物と偽物の同じ声音の掛け合いが頭蓋を通りすぎてゆく。

 混乱を痛みで振り切るために、ペレウスはいっそう下唇の端を強く噛んだ。犬歯が唇を食い破り、鉄の味がとうとうにじんだ。


「あら、血が」


 “虚偽”の姿がさらに変わり、下唇に濡れた感触がした。

 少年は目を(みは)って硬直した――“虚偽”が顔を寄せてきてうすもも色の舌でかれの下唇に触れたのである。

 ファリザードの姿に変化し直して。


 名状しがたい嫌悪が爆発した。

 女の肩を押しやるようにして一歩下がり、ペレウスは声を荒らげた。


「その子の姿をやめろ!」


 耐えがたい。ファリザードの姿で微笑む“虚偽”を見ると、違和感に吐き気がする。ゾバイダの姿をとられるよりずっと。


「きみは……おまえは、なんのためにこんなことを」


 歯ぎしりしながらペレウスは問う。三日月の形の笑みに女の唇が歪み、次いで甘くささやいた。


「わたしは可愛い女の子の姿を借りるのが趣味なの。

 可愛い子は好きよ、男の子でもね」


「そのことじゃない!」憤激をこめて吐き捨てた。「なぜぼくの前に現れたんだ。おまえのような者がイスファハーン公の館にいたんだ! この……」


 邪神の使徒め、との罵りの言葉はさすがに飲み込んだ。サー・ウィリアムのほうを我知らず見やる。かれは黙然と口をつぐんでいた。

 彼女とかれとはペレウスにとってこの国で初めて好意を抱いた相手だった。その過去がまるごと踏みにじられたいまでも、温かかった記憶は完全には消え失せてくれなかった。


「あの館にいたわけが知りたいの? そうねえ、いくつか理由があるけれど、ひとつだけ明かすなら」


 “虚偽”はペレウスの怒りに接してもまったく悠然たる態度を崩さず、ぴんと人差し指を立てた。生徒に学問を教える教師のように。


「そばで見とどけたかったから、かしら。

 十三年前下した宣告(ホクム)の行く先を。くすぶっていた火種が燃え上がる瞬間を」


「十三年前……宣告?」


 どこかで聞いた覚えがあった。

 しかしペレウスより先に反応して声を漏らしたのは、石床に倒れ伏していたルカイヤだった。


「そうか、貴様は……」


 グールに噛み裂かれて傷ついた肢体がもがくと、引き裂かれた軍衣がにじみ出る血に染まった。どうにか膝をついて上体を起こし、ルカイヤは“虚偽”をにらみつけた。


「かつてイスファハーン公のもとを訪れ、宣告を下したという古老だな」


 ペレウスもそれではっとした。ファリザードが生まれる以前にイスファハーン公のもとを訪れて宣告を下したという古老の話は、以前に聞いていた。


「だけどそれなら、イスファハーン公の館の者たちはなんでおまえを普通の奴隷として扱って……」


 言葉半ばで悟ってペレウスは黙った。もちろん館の者らがこの女の正体に気づくわけがない。この女は好きなように姿を変え、他者の目を欺くことができるのだから。

 ファリザードの姿から栗色の髪の少女の姿に戻っていく“虚偽”が「ふふ、そんなに驚かなくたっていいじゃない?」と言った。


「“変化”なんてジンの呪印ではありふれた部類なんだから」


「大嘘だ」ルカイヤが“虚偽”に皮肉のまじった敵意の目を向ける。「人化、それも複数の姿を取るだと……獣や鳥に化けるならともかく、貴様のような変化の能力をもったジンなどいない。呪わしい古老め」


「あら、昔はいっぱいいたのよ、片腕のお嬢さん。スライマーン王の御代以前にはね。現在ではすこしばかり珍しくなってしまっただけ」


 スライマーン王の名にルカイヤはせせら笑いかけて失敗した。まさかとばかりの愕然とした表情に向けて、“虚偽”は「あら、あなた勘違いしているわね」と眉を上げた。


「さすがに偉大なるスライマーン・ベン・ダーウドを見た世代ではないわよ。その少し後、千八百年前の報復戦争期に生まれたのがわたし。

 人族も白のジン(エルフ)族も敵に回し、なによりお互い同士で殺しあったあの時期に上古の世代のジンは全滅し、わたしの世代のジンすらもほぼ絶えてしまったけれど、わたしのように生き残れた者もわずかながらいるのよ。

 さて、王子さま」


 “虚偽”はくるりと回ってペレウスに向き直り、


「そろそろ事情を説明しておくわね。あなたたちが踏みこんだのは暗黒の神の神殿なの」


「……やっぱり、さっきのあの出口のない部屋はアンラ・マンユの」


「そうよ。わが神は悪因悪果悪思の神、六つの腐った卵を産む神。その卵からは破滅をもたらす六柱の神が生まれてくる。

 わたしたちはひとりひとりがその霊名を授かっているわ。

 わたしが“虚偽”(ドゥルジュ)

 こちらの女の子が“涸渇”(ザリチュ)のゾバイダ。あなたに武芸を教えたのが“背信”(タローマティ)のウィリアム、あなたたちが捕らえたジンが“悪思”(アカ・マナフ)のジオルジロス。そしてここにはいないけれど、あなたが砂漠で出会ったヴァンダル人が“無秩序”(サルワ)のプレスター」


「ちょっと、しゃべりすぎていませんか」ゾバイダが不機嫌そうに制止する。


「あら、この子はどうせわたしたち全員を知っているのよ」


「少なからずあなたが画策したせいでしょうに。

 ……まあ、どうせ綺麗さっぱり始末してしまうのだから同じ事ですけれど」


 ゾバイダの目が不穏な光を帯びてペレウスに注がれた。ジオルジロスが嬉々として口をはさんだ。


「わたしの希望を言わせてもらうが、この小僧を神殿の竜水に浸けるのはどうだ。

 あの地下牢はじつに湿っぽかった。一ヶ月も湿り気に浸されたお返しとして、こいつもちょっと濡らしてやりたいところだ」


(あの部屋にあった水盤の液体だろうか)


 どんな効果があるか知らないがぜったいにごめんである。ぞっとしたペレウスだが、サー・ウィリアムがそこで強硬な反対の意志を示してくれた。


「こいつに手をかけるなと言ったはずだぞ」


 ゾバイダが悪意たっぷりに言い返した。


「貴重なグールたちを殺したからには誰かに償ってもらうわ。“背信”、あなたでなければその子たちにね。それが筋というものでしょう? それとも裏切るの?」


「ありそうなことだ。こやつの背負った霊名は、われらをも裏切れとささやいているかもしれないからな」


 ジオルジロスがいさかいを楽しむように同調する。

 二人に対するサー・ウィリアムの声も剣呑に低まっていた。


「これまで貴様らを裏切ったことはない。

 だが、急にそうしたくてたまらなくなってきたぞ。あまり誘惑しないでくれ」


 言い合いをペレウスは複雑な心境で眺めていた。もちろん複雑なのはサー・ウィリアムに対する思いである。


 かれは非道な賊の仲間であった。

 邪悪な古代神の使徒の一人だった。

 しかし、かつての交情は嘘ではなく、かれはいまペレウスを助けてくれようとしている。

 幻滅と嬉しさが交互に湧き上がり、心が次々上書きされていく。


 ルカイヤが苦痛にうめきながらも、「小僧、おまえ、あんなやつらとどんな縁があるのだ」と揶揄と興味を半ばさせた声で問いかけてきた。答えようがなく、ペレウスは万感をこめて嘆息する。

 “虚偽”が音をたてて両掌を打ちあわせ、視線を集めた。


「はい、そこまで。喧嘩しないでね。

 それと、この子を殺すのはわたしが禁じます。これは決定事項よ」


 その言動は多くの者の意表をついた。ペレウスは思わずルカイヤと戸惑いの目を見交わしてしまった。ゾバイダは怒りの眼差しを“虚偽”に向ける。「ふむ」とうなったのはジオルジロスで、真意を探るように“虚偽”をひたと見据えていた。サー・ウィリアムのみが、なぜか苦々しげにそっぽを向いていた。


「なにを考えているんですか、“虚偽”! 神域に踏み込んだ者を生かしておくなんて――」


「決めたと言ったのよ、可愛いゾバイダ」


 抗議の声をあげようとしたゾバイダが、“虚偽”の微笑を向けられて凍りついた。悔しげに顔を歪め、彼女は口を閉じて引き下がった。

 続いて“虚偽”は「ジオルジロス」と呼びかけた。


「念を押しておくけど、あなたもこの子に勝手に手を出さないでね。この子のことは以後、わたしが責任を持つから。

 わたしはあなたを助けてあげた。あなたの救援を乞う狼煙に応じた。グールに新たな地下道を一本掘らせ、あなたの牢を壁の裏から破らせた。あなたの失敗で奪われたこの宝をも、テヘラーンの地下倉庫から取り返してあげた」


 “虚偽”がきびすを返して歩み去る……かと思えば、火明りの届かない闇の中に置かれていた黒い大きな球形の物体を軽々と持ち上げた。グールたちが運んできていたらしき物体。

 それはジオルジロスによって“悪思の扉”と呼ばれていた魔具だった。ペレウスはにわかに新たなおののきを感じた。


(その玉はものすごく重いはずだぞ)


 実際、“虚偽”が放るように手を離すと、それは岩にひびを入れる勢いで落ち、地響きに地下道を揺るがした。こともなげに手についた塵を払って“虚偽”は続けた。


「だから、ジオルジロス、あなたに代価を求めるわ。

 この子の身柄はわたしのものよ」


「いいだろう」ジオルジロスが肩をすくめ、あっさりと応じた。「おまえの好きなようにするがいい」


 なおも不満気なゾバイダが「グールを直接使役したのはわたしじゃないの」と小声でむくれていたが、“虚偽”は気にした風もなくペレウスにうながした。


「そういうことで、王子さま、ひとまず地上にお帰りなさいな。名残惜しいけれどあなたを置いていたら喧嘩の種になりそうだし。この地下道をしばらく進むと出口があるわ」


 “虚偽”は地下通路の一方を指さした。行きなさいとばかりに。

 戸惑いの奥から安堵の思いがどっとこみあげ、それに情けなさを感じてペレウスはあわてて気を引き締める。どうする、と自問した。


(これは罠かもしれない。きっと罠だ)


 だが自分はすでにかれらの手に落ちているのだ。わざわざ罠にかける意味がない。

 と、ルカイヤがかすれた声をはりあげた。失血ゆえか地に突いた腕を震わせながら。


「逃がしてくれるとでもいう気か。誰が信じるか」


「あら、ただでとは言っていないし、全員でもないわ。見逃すのはこの子一人だけ」


 “虚偽”の瞳が猫のようにきらきらと光った。


「こちらの王子さまはわたしの友達、それにこちらのウィリアムの友達なの。友達にはほんの少しだけ甘いのよ、わたしは。

 あなたたち二人のためには手っ取り早い贖罪の方法を用意しているわ。わたしたちの神域に押し入るだけならまだしも、貴重なグールを殺した報いは誰かに受けてもらわないとね」


 その言葉に、サー・ウィリアムがさっと青ざめた。「ちょっと待て」前へかれは進んだ。それを目で制し、“虚偽”はペレウスを「さあ」とうながした。


(ぼく一人だけ?)


 少年はごくりと固唾をのんで地上のほうを見やり、それから傷ついて地面に倒れた女二人を見た。

 ナスリーンは死んだのか失神しているのかぴくりとも動かない。ルカイヤは殺気を帯びた眼光で暗黒の神の使徒たちを睨みあげていたが、ゾバイダが歩み寄って触れた瞬間、冗談のようにくずおれて動かなくなった。

 目をつぶり、しょうがない、とまぶたの裏でつぶやいてペレウスは顔をそむけた。複数の視線を感じながら。


(彼女らにはなんの義理もない)


 たまたま行動を共にしていたが、どちらかといえば対立していた。

 ルカイヤはかれにファリザードの前から消え失せるか殺されるかを選ばせようとした。ナスリーンはかれを拉致してファリザードに対する人質にしようとした。


(助ける力はぼくにはない)


 カースィムと戦ったのは他にやむを得なかったからだ。そのとき死なずに済んだのは僥倖にくわえファリザードと共闘していたからである。

 かれは別に死にたいわけではなかった。


(勇気と単なる無謀との差をわきまえるべき時だ。

 友人のためなら命を張る価値があるかもしれないけれど、彼女らは友人ではない。悪人ではないようだけれどまるきりの善人でもなかった、少なくともぼくにとっては。

 彼女らのために死んでもいいと言えるような縁では決してない)


 ペレウスは必死に言い聞かせた――動かない自分の足に。

 どうしても立ち去れなかった。一人きりで逃げることへの恥とやましさが鉄球となって足にくくりついていた。

 考えるまいとしても、やがて思考が二人のことに引きずられていく。

 ルカイヤという名のジン。ファリザードの乳母で、あの子を大切にしている。


(彼女を失えばファリザードは悲しむだろう)


 ナスリーンという名の山の民の王女。寝言で恋人の名をつぶやいていた。なにやら複雑な背景をうかがわせる少女だった。

 ペレウスは先刻死の際にナスリーンに「逃げろ」と叫んだイシャクという年配の男を思った。

 また、地上でイルバルスに殺された山の民たちを思った。かれらはナスリーンが落ちそうになったとき、ペレウスに「手を放すな」とそろって懇願したのだ。


(死んでいった者たちは、みんなこの娘の生を願っていた)


 それなのに確実な死のなかに残していくのは、あまりにも寝覚めが悪すぎた。


「……その二人をどうする気だ」


 ペレウスは意を決して尋ねた。


「聞いてどうする。夕飯の前には少々刺激が強いと思うがね」ジオルジロスが嘲る。


 無視して、ペレウスは順繰りに視線を注いだ。蛇の嘲笑を浮かべたジオルジロスに、冷ややかな目をしたゾバイダに、恥じるように黙りこくったサー・ウィリアムに、そして、静謐な微笑を面にたたえた“虚偽”に。

 率直にペレウスは切り出した。


「できればその二人の命も助けてくれ」


 場がしんと静まる。突き刺さる視線に鼓動を速めつつ、ペレウスは言葉を探す。市場での値引き交渉を頭の片隅に思い出しながら食い下がった。


「つまり……その……禁を犯した報いをぼくも受けよう。三人等分にそこそこの罰を食らうくらいでなんとかならないだろうか」


「なるわけないでしょ」


 思わず答えたらしきゾバイダの表情が、怒りから呆れと移り変わっている。


「ぼくらは捕虜になったこいつを殺さなかった」ペレウスはジオルジロスを指さして言い募る。「現にこいつは五体満足でここにいるだろう。それに免じてもらえないものだろうか」


 “虚偽”が吹き出し、ジオルジロスが眉をしかめた。


「こやつの面の皮の厚さ、非凡なものがあるな」


「自分の命が助かったばかりで、よくもそう厚かましいことを口にできるものね。見た目に反して図太い子だこと」


 ゾバイダは呆れさえ通り越した感心の表情になっている。

 首をさらに巡らせ、ペレウスはサー・ウィリアムに目を留めた。顔を上げたその騎士と視線がかち合った。少年は、男の目に宿った暗い影にたじろぎを覚えた……だが、考える間もなく言葉が口をついて出た。


「『騎士は弱者を庇護する』」


 雷に打たれたようにサー・ウィリアムが身を震わせた気がした……ペレウスは必死に言い募った。


「『良民と捕虜を、病んだ者と傷ついた者を、幼い者と老いた者を、盲人と聾唖者と体の欠けた者たちを、すべての女性を剣をもって守る』それがアングルの国ですべての騎士が叙任されるとき宣誓する言葉だとあなたは言ったじゃないか。

 あれはぜんぶ嘘なのか? この二人は女性で、傷ついている。片方は隻手で、もう片方はまだ子供だ。そしてあなたたちの良民ではないけれど捕虜だ……サー・ウィリアム、騎士にとってこの二人は庇護に値しないのか?」


 口に出したときその言葉は、ペレウスが意図したよりはるかに痛烈な響きを帯びた。サー・ウィリアムは蒼白になって瞑目し、軋るようなつぶやきを漏らした。


「嘘ではない。真の騎士ならそうしようとするだろう」


「それなら……!」


「真の騎士は残らず死んでいなくなった。助けを求める者はたくさんいて、そいつらはそれぞれに苦難をしょいこんでる。だが、命は騎士にもひとつしかないんだよ。

 おれは真の騎士じゃないからまだ生きてる」


 陰気に、しかしこれ以上無く明快に、サー・ウィリアムは自分がペレウスに植えつけた夢を叩き壊した。ペレウスが立ち尽くしたところで“虚偽”が横から話を断ち切った。


「ウィリアムに助けを求めても無駄よ。

 王子さま、あなたを逃がすのはあくまで好意。例外なのよ。あなたたちからしたら理不尽かもしれないけれど、聖域に踏みこんだんだもの。ただで帰すわけにはいかないの。

 とはいえ、ねえ。せっかくの頼みだし、こうしましょう。

 彼女たちの命の代わりに、あなたに魂を差し出してもらいましょう。絶対に死んでもらうとは言わないけれど、一つの賭けをしてもらいます。その覚悟がないなら、去りなさい。

 あなたが賭けを承諾するなら、その二人はそろって許してあげる」


 彼女は流暢(りゅうちょう)に提案した。ペレウスの出方を予期して言葉を用意していたかのように。


「ペレウス」サー・ウィリアムがかすれた声を出した。「頼む、去るほうを選べ。全部忘れておまえの故国に帰れ」


 ペレウスはかつて師でありこの瞬間まで友人であった男を見つめた。失意の涙が視界ににじんだ。首をふり、遠ざかるように後じさって、ペレウスは“虚偽”に訊いた。


「魂を賭けろというのはどういうことだ。その賭け、ぼくに勝ち目はあるのか」


「よせ!」


 サー・ウィリアムが切迫した諫止の声を発したが、ペレウスはかれをもう見ようとしなかった。騎士への怒りがかれから冷静さを奪い、向こう見ずな行動を後押ししていた。


「勝ち目がない賭けなんて勧めないわよ。

 勝てば問題ないわ。何もかも」


 “虚偽”の言葉に、打てば響くようにペレウスは深々とうなずいた。


「それが真実ならば賭ける」


(サー・ウィリアムが助けないのなら、ぼくが助ける)


「やめろ、“虚偽”!」


 サー・ウィリアムが怒鳴ったが、“虚偽”は「もう遅いわ。かれは自ら踏みこんできたのよ」と確認させるように言った。


「そうだよ、ぜんぶ貴様が前もって見通したとおりにな! くそったれが、あんな言い方をしたらこうなるのは当然だろうが、こいつはこういう奴なんだ!」


「そうね。ウィリアム、諦めなさい。こうなることは決まっていたのよ」


 未来を見通した? 二人のやり取りにペレウスがぎょっとする間もなく、“虚偽”が少年の手をさっと取った。


「あなたは最上の素材よ、王子さま。純真無垢に近いこの魂!」この上もなく嬉しそうに。「白い紙こそが墨によく染まる。わたしたちに反発する者が、自らの意思をもって試練を受けることで初めて、孵化(ふか)の儀式は全きものとなる」


 孵化? ペレウスが困惑するうちにも“虚偽”は足元の宝玉――悪思の扉に視線を落とし、


「たっぷり血を吸わせてきたわね、ジオルジロス。孵るにはじゅうぶんだわ。

 王子さま、あなたはこれをなんだと思います? ただ泉から泉へ移動するための魔具と思ってたかしら?

 これは竜卵。(アジダハーカ)を産む魔具よ……正確には、竜はここから生まれ、死ぬときはこの宝玉となるの。スライマーン王が地上の数多の神々の一柱ごとに奉納した兵器のひとつ。

 あなたにはある剣をもって、冬至の日に孵る竜と戦ってもらいます。

 負ければ、あなたの良質の魂は、竜が育つための最初の(にえ)。報復戦争において猛威をふるい、古代ファールスで最も恐怖された魔獣が新生するでしょう。けれどあなたが勝てば」


 無数の裏を秘め置いて、甘言がつむがれる。


「あなたが竜を従えるでしょう」


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