2-24.初恋の終わり
ペレウス真実を知ること
砂漠の果ての蜃気楼、
水面に映る星の影、
虚空にかかる虹の橋。
目に快し美の虚像、されどすべては偽りなり。
心に留め置かしめよ、触れることけして能わじと。
● ● ● ● ●
「侵入経路だけ教えて。
できれば素直に話してね。話すまでずっとこの子たちに手足の末端から生きたままかじられるなんて体験、したくはないでしょう? どのみち死ぬのだから拷問なしで楽に死ぬほうがいいわよ」
冷酷な台詞をさらりとゾバイダが口にする。
彼女に「この子たち」と呼ばれた九体のグールは、最初に現れた一体こそ目がなかったが、ほかは一つ目であったり七つもの目を持っていたりと眼球の数がまちまちであった。その目がぎょろぎょろと動いて三人をねめまわした。
「邪眼をこっちに向けるな、汚れた者どもめ。
食屍鬼だと、初めて見るぞ。そんなおぞましい獣が、なぜここに」
ルカイヤの声は気丈ながらも動揺を隠せないでいる。
グール――砂漠の地に出没するといわれるその肉と骨を食む怪物の存在を、ペレウスは知っていた。市場ではグール避けのまじない札が売られているし、ファリザードや白羊族から話を聞いたことがあるからだ。ただ、その話のいずれも民話や伝承としてであり、まじない札にしてもお守りのようなものだということだったが……
(話を聞いたとき、実物を一度見てみてみたいなどと思うんじゃなかった)
命の危険を犯してまで見たいものではなかった。
いや、それよりも、初めてほのかな憧れを抱いた相手がその獣を引き連れて、殺意をこちらに向けてくるような状況に直面したくはなかった。
「……ゾバイダ……」
青ざめた頬をわななかせてペレウスは彼女を凝視していた。舌が麻痺したかのように言葉が出ない。なにがなんだか理解できない。
なぜきみがここに。
その疑問だけが頭蓋の中をぐるぐる回っている。なぜここに――それは昼間に都市内で再会したときも浮かんだ疑問であったが、この暗黒の地下にあっては、意味はまったく異なっていた。
しばらくの対峙ののち、ゾバイダがふうとため息をつく。ルカイヤは緊張と敵意を向け、ナスリーンは喪心したように虚ろな表情、ペレウスはもどかしげな色を瞳に浮かべて無言。誰一人答えようとしない面々を前に、彼女は物憂げに言った。
「結局、手間をかけさせるのね。
いいわ、聞くまでもない。どうせ地下水路から迷い込んだのでしょう。
グールたちよ、引き裂いていいわ。念のため尋問用に一人だけ残しておいて」
「ま――待って、ゾバイダ!」
ペレウスは叫んだ。剣でグールたちを指し示す。
「こいつらはなんなんだ」
首をかしげ、彼女はさらりと答えた。
「グールよ。暗黒の神のしもべ」
「なぜきみがそんな奴らを連れているんだ」指し示す剣の切先がわなないた。「きみは……本当にぼくらを殺すつもりか」
「なぜなら、わたしとグールたちは同じ暗黒の神に仕えているからよ。
生かすか殺すかについては、むろん殺すわ。侵入者を生かしておく道理がないでしょう?」
酷薄なその口ぶりに、ペレウスは唇を噛んで首を振った。とうてい信じられなかった。信じたくなかった。
「きみは……そんなひとじゃない。お願いだ、思い出してくれ。ぼくに言葉を教えてくれただろう? あのときのきみはけっして今のようなことは言わなかった……」
切れ切れにペレウスが訴えたとき、ゾバイダの面にすさまじい嘲笑とふたたびの憐憫の情がよぎった。
「あなたとはもうじゅうぶん話したわ。死にゆく者相手に無駄なことをこれ以上したくないの」
無表情に戻ってゾバイダは距離を一歩詰めた。怪物たちの歯がきちきちと鳴る。火明りが暗黒に押されたかのように揺らめき、心なしか一回り小さくなった。
やむを得ずペレウスは口をつぐむ。グールがとびかかってきたら迎撃するべく目を凝らした。ゾバイダに剣を向けることになるとしても、わけもわからぬまま殺されるわけにはいかなかった。
「ナスリーン殿、火を前方の奴らに向けて牽制を頼む。
小僧、まず後ろの一匹におれと呼吸を合わせて斬りかかれ。後顧の憂いを断ったあとは前方の敵に専念して、この通路を後退しながら戦う」
ペレウスとナスリーンの耳にだけ届くぎりぎりの大きさの声をルカイヤが発した。ペレウスはうなずき、意識を孤立した背後のグールへ向ける。
(戦いのことだけ考えよう)
ルカイヤの指示に従って戦うのがもっともよさそうであった。それまで衝撃から完全に回復していなかったナスリーンもようやく目に旺盛な敵意を取り戻し、松明となった剣をかざして敵に突きつけた。
しかし、前方のグールは最初こそ火に怯んだようにわずかに後退したものの、次の瞬間、九体すべてが殺到してきた。
戦力の出し惜しみのまったくない敵の一斉攻撃に三人は虚をつかれた。長い爪のはえた腕に松明が払われ、ナスリーンの手を離れてペレウスの近くに転がった。
「明かりが――」
ナスリーンの悲鳴が上がり、考える間もなくペレウスは火に飛びついた。明かりが消えて闇となれば味方のうち二人は視界が奪われ、わずかな生存の可能性も消え去るのだ。
「グールは暗黒神の低級の使い魔のうちでは火や日光に耐性のあるほうよ。もちろんまったく平気というわけではないけれど、多少の無理はできるわ」
乱戦の渦中にある三人にとって、腕を組んで見ているゾバイダの言葉など聞く余裕もない。
ペレウスは拾い上げた松明を後ろ手にナスリーンに渡す。通路の壁を蹴ってナスリーンが跳躍し、松明を壁の高いところにあるひびに突き入れた。松明は据え置きのランプとなって煌々と闇を照らした。
壁際でペレウスは無手となったナスリーンを背にかばい、右手の剣を振り下ろした。わずかながら太刀風が起こる。続けて手首を返し下から第二撃をはねあげる。迅速に斬り返す第三撃、第四撃、第五……斬撃を利用した防衛網だった。本来は刀術の技であり三日月刀で行うもので、両刃剣では威力が落ちるがしかたがない。
“籠目”――素人がでたらめに振り回しているかに見えて、そのじつ斬撃の順序が決まった精緻な技の型だった。一撃一撃が敵の踏み込みに即応して動脈や腱や手足末端に斬りつけられるものである。
白羊族およびクタルムシュと行動をともにして以来、ペレウスは折に触れてかれらから武芸の手ほどきを受けてきた。せいぜいまだほんの二ヶ月のことであったが、ひとまず刀術の基礎の型をなぞれるようにはなっていたのである。
少年の織りなす銀光の結界につかみかかってきたグールの指が切り落とされる。胡狼が吠えるような苦鳴をあげてそいつはとびのいた。
その間に、グールと手槍で渡り合うルカイヤが、イシャクの死骸の持つ剣を足で蹴り飛ばしてくる。
足元の床で回転しているそれをかがんだナスリーンがつかんだ。
だが最善を尽くしても、あまりにも多勢に無勢であった。ましてグールの動きはジンほどではないがけっして鈍重でもなかった。乱戦の決着はたちまちついた。
ルカイヤの手槍が一体のグールの胸を貫いたが、新たな三体がその背後から肩や足に噛み付いていた。助けるべくナスリーンが突進してそのうちの一体の背を深々とえぐったが、怪物たちの長い腕が次々伸びて彼女を拘束した。
泡をくったペレウスが二人のもとに駆けつけようと一歩踏み出したとたん、斬撃の防衛網は破綻した。これがファリザードならば話は違ったろうが、ペレウスの刀術はなにぶんにも未熟である。足を止めて型をなぞるだけならまだしも応用できるほどには習熟してはいない。二体のグールが急迫し、振りまわされる剣をかいくぐってかれを地に引き倒した。
「放せ!」
手足の自由を奪われてペレウスはもがいた。こちらを押さえつけた怪物たちは人間の顔はしていなかったが、嘲笑っているようにペレウスには思えた。先刻ゾバイダの浮かべたものと同じ表情をしていると。
一体がかれにのしかかってかぱりと口を開けた。そいつの眼球はひたいにひとつしか付いておらず、虫のようにぐりぐり動いていた。唇がない怪物の剥きだされた牙列が噛み合わされてがちがち音をたてた。唾液が幾筋も垂れて落ちてくる。
(こんな地下で食い殺されるのか)
ふいに、怒気が衝きあげた。ペレウスの体は組み伏せられていたが、内側では逆に理不尽な死への怒りが恐怖をねじ伏せていた。
噛み付いてきたらこっちからもその一ツ目に食いついてやる、死んでも離すものか――狂気すれすれの獣じみた戦意が昂ぶったときだった。
眼前に迫っていたグールの頭部が斬り飛ばされた。
顔から胸元にかけておびただしい血の熱さがびしゃびしゃ広がる。驚愕に息をのむペレウスの上で首をはねられた胴体はまだのしかかっていた。切断面から血が間欠泉のような勢いで噴出している。グールたちの憤怒の叫び響き渡るなか呆然と目を転じ、ペレウスは見た。
怪物の背後からその首をはねてかれを助けたのは、黒い襤褸をまとった者だった。手にした両手剣から血がしたたっている。
(昼間ゾバイダと一緒にいた男だ)
ゾバイダに話しかけたペレウスに対し「こいつらを見かけても近寄るな、二度とだ」と念を押した正体不明の男……
どくりと心臓が鳴った。何にだろう?
その両手剣が「ヴァンダル式」であったから?
ペレウスを押さえつけていたもう一体のグールがはねあがるようにとびかかった。だが、その男は前に出て拳をグールの口に叩きこんだ。自らの勢いまではねかえってグールの牙がぼきぼき折れ、地面に叩きつけられたところで剣を突き通されて断末魔をあげる。男の襤褸の袖からのぞく手には、鋼の篭手がはめられていた。
くるりと身を返して、襤褸をまとった男はルカイヤとナスリーンに群がっていたグールを斬り払いはじめた。
広いとは言いがたい地下通路内にあって、大きな両手剣が融通無礙に弧を描いて繰りだされる。軽々と鋼が閃くつど、冗談のようにグールの血がほとばしった。
怪物たちは男を囲み、叫び、とびかかろうとした……なのに、その敏捷さにもかかわらず、かわされあるいは斬り倒され、男のまとう襤褸に触れることもできない。骨も肉もやすやすと斬り裂かれる有り様にいたっては立ちつくす泥人形と変わらなかった。男の速くもない歩みに翻弄され、追い詰められていく。
ペレウスは気づいていた。男は剣技のみならず、武術の基礎のひとつである歩法が想像を絶して巧みなのだ。それが証拠に、男は囲まれているのに、襲ってくるグールをつねに正面から斬り捨てている。
まばたきを十も数えたころには、グールは残りわずか三体となっていた。うなりはまだ猛々しかったが、そこにはいまや色濃い恐怖も混じっているようにペレウスには思われた。
そのとき、それまで沈黙していたゾバイダが、ぞっとするような声を出した。
男に向けて。
「これはなんのつもりかしら、“背信”?」
その男の返した声音は、ペレウスに目くらみを起こさせた。
「……こいつに手をかけるな」
昼間、その男は背が曲がっており、声はしゃがれていた。だが今、かれは背をすっと伸ばし、身ごなしは明らかに若く、声はペレウスの聞き覚えのあるもので……
(まとう襤褸こそ変わっているけれど相変わらずの乞食の風体だ。昼間はわざと背をかがめて声を変えていたんだな。あなただとぼくに気付かれないために)
とうに予期してしかるべきだった。ゾバイダがいるならかれもいるだろうことに。思えばかれと最初に会ったのも、ゾバイダの手引きだったのだから。
血溜まりのなかに身を起こし、ペレウスは呆然と呼びかけた。
「あなたですか、サー・ウィリアム」
男の肩がぴくんと動き、しばしの後フードを下ろしてかれはペレウスを振り向いた。
相変わらずぼさぼさの茶色い髪とあごひげ。空色の瞳が慙愧と苦渋の色を浮かべていた。
「この女に近寄るなと警告しておいたのに無駄になったなあ、坊主」無理やりに笑い、それからサー・ウィリアムは肩を落とした。いましがたグールたちを斬り捨てたときの英姿は影もなく、そこにはただ恥じる青年がいるだけだった。「また会うこともあるだろうとは言ったが……くそったれ、おれはこんな会い方をしたくなかったよ」
「なんで……ゾバイダ、サー・ウィリアム、あなたたちはいったい……」
「なんでと? いいかげんにお気づきなさい、ミュケナイの王子。あなたは最初から弄ばれていたのよ」
ゾバイダの軽蔑的な失笑が響いた。
「それがどういう意味か教えてほしい」
忍耐強く訊きながらも、ふとペレウスは、この少女は本当にゾバイダなのだろうかという疑いを抱いた。名前も声音も姿も間違いなく一致しているけれども……かつて言葉を教わった少女と目の前の少女は、違いすぎた。話し方も、身にまとう空気も。
「そうね、いっそ教えてあげるわ」引き連れていた使い魔たちを殺されたためか、ゾバイダの声には憤懣がこもっていた。「“背信”、文句はないでしょうね? あなたはその子の前で良い人ぶりたいみたいだけれど」
サー・ウィリアムは暗い面持ちでペレウスをちらりと見て、
「好きにしろ。だがいずれにしろこいつに触れることは許さん」
ゾバイダの前に立ちふさがり、むっつりと繰り返した。ペレウスは複雑な気分ながら、内心に自然な感動がこみあげるのを感じた。ゾバイダの目に毒が宿る。
「骨の髄まで偽善者ね。いいわ、全部ぶちまけてあげる。わたしはこんな茶番はうんざりなんだから」
「あら、勝手に教えちゃだめじゃない」
地下の闇にそぐわない明るい少女の声がして、サー・ウィリアムとゾバイダが両者ともに凍りついた。通路の出口側にまたも誰かが現れたと知り、ペレウスは視線をやった。
すっと肝が冷えるのを感じた。
栗色髪の少女と並び、新たなグールたちを背に、ジオルジロスが立っている。
(ジオルジロスがどうして……地下牢に囚われているはずなのに)
向こうも目を丸くしてペレウスを見つめていた。ややあってそのジンは、冷笑の形に唇を歪めた。
「おやおや、助けだされてみれば意外なところで意外な者に出会うものだ。これは暗黒神が与えたもうた復讐の機会というやつかな」
「だめよ、ジオルジロス」
制止したのは、昼間にゾバイダやサー・ウィリアムと都市内にいた栗色髪の少女だった。
一貫してもの柔らかな、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
その笑みが戸惑うペレウスへと向く。
「宣告はさっそく成就したのね。真実、力、仲間の行方……まずは真実のひとつにたどり着いたわね、おめでとう」
「し……真実ってなんのことだ。まだ何も知らないぞ」
ゾバイダが変わってしまった理由だとするならば、それはいま教えられるところだったのだ。
栗色の巻き毛をもつ娘は、にこりと笑って、
「ねえ、わたしって何歳に見えるかしら?」
「……え?」ペレウスは困惑した。この質問にはなにか意味があるのだろうか。
「くだらん遊びを。当てられるはずがあるまいが」ジオルジロスがせせら笑った。「小僧、こいつはな、齢千歳を超すジンの古老だ」
「ちょっと、ジオルジロス、種明かししないでよ。余計な口を挟まないでくれるかしら?」
ふたりのやり取りに、ペレウスは目を剥いて栗色髪の少女を見つめた。
肌は白い。耳は丸い。顔の造作は整っているがエルフ種に備わる侵しがたい美は感じない。どう見ても人族である。
「う……嘘だ」ペレウスは思わず口走った。
「嘘はこいつの本質だ」ジオルジロスがまた笑った。
栗色髪の少女は、突然言葉遣いを変えた。
「それでは教えてあげますね、王子さま」
彼女は、ペレウスへ向けて一歩を踏み出した。
その髪の色が栗色から茶色へ変わる。
赤毛の乙女に。金色の髪の乙女に変わる。
「わたしは空の虹、はたまた幻」
目鼻の位置が動き、背の高さが縮み、歌うような声の音色が変わる。
それを目の当たりにして、ペレウスの顔色も変わっていた。
歩を進めるごとに女の姿は変わる。
「わたしは砂漠の塵、はたまた蜃気楼」
背低く痩せっぽちの娘に。背高く胸も腰も豊かな大人びた娘に。
人の娘に、ジンの娘に。
「わたしは“虚偽”」
ついにはファリザードの姿をとって微笑みながら歩み来る女を、ペレウスは頭を真っ白にして見つめていた。
真相を悟っていた。花の匂いが、鼻腔に届いていた。かつてのイスファハーン公の庭の匂い、今日の昼にも嗅いだ「彼女」の匂い……ゾバイダたちとすれ違ったとき香ったこの匂いは、目の前のこのジンが発していたのだと。
グールの血にまみれて凄惨な有り様で立ちながら、ペレウスはなぜか笑い出したくなった。かれが初めて惹かれた娘は、最初から存在していなかった。気がつくと、笑いとは逆に血が出るほど唇を噛んでいた。
(借り物の姿に、装われていた中身、いったい誰にぼくは恋したんだ?)
ファリザードに化けた女の姿が、最後の一歩でまたも変化した。黒い髪の毛、黒い目の、オリーブ色の肌の少女。横では本物のゾバイダが「勝手に人を騙って、いい迷惑だわ!」と吐き捨てていた。
「ごめんなさいね、王子さま。
うふふ――ファールス語はとても上手になりましたね」
唇が触れるほどの近くで、ゾバイダの姿をとったジンの女は妖しく笑った。
都合により次週はお休みします。