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2-23.廃墟レイ

地下の遺跡に踏み入ること


 この()は虚偽に満ちている。


   ●   ●   ●   ●   ●


 その穴を見つけたのは涸れた水路を歩き出してしばらくしたころだった。

 これまで一本道であった水路が、別の空洞と交わっていた。大きな暗い穴がぽかりと壁に空いている。


「分かれた水路……ではないな」


 つぶやいてルカイヤが手槍を脇に放った。その姿がいきなりぐにゃりと歪んだので後列の者たちは仰天する。

 隻腕のジンの女は三本足の狼へと身を変えたのである。狼は穴のふちでひとしきり臭いを嗅ぎ、ふたたびジンの姿へと戻って断言した。


「これは自然にできた穴ではない。ジンか人か、でなくば獣の掘ったものだ」


 不吉な空洞だった。黒々として、覗いてもなにも見えない。発光する(コケ)もないため完全な闇になっているのだ。


「……仮に獣の掘った穴だとするならば、ずいぶんと大きな獣ですこと。体高のみにしても人の背丈に迫るでしょうね」


 ごくりと固唾をのんでナスリーンがペレウスの肩越しに評した。ルカイヤが「信じがたいことだ」と首をふる。


「そんな大型の獣がテヘラーン近郊に潜んでいたとは。これまで一見どころか一聞すらしたことがないぞ」


「……でも、ここになにかいるのは間違いないんでしょう」


「残念なことにな。目や耳ではなく、わが鼻が確かめたところだ。この穴からはジンでも人でもない、むろん尋常の獣でもない妖物めいたにおいがする。

 これは何だ……爬虫類? 虫? 獣? 毒蛇のようなサソリのような、腐肉のような血のような……しかも混じり合っているにおいのうちのひとつは、どこかで嗅いだような気がするぞ」


 ルカイヤが鼻頭に手を当て、においの記憶を探るようにつぶやている。


「毒蛇……」


 ペレウスはふと、不吉な予感に襲われた。

 意識の奥で、きちきちと虫が鳴くようにざわめく記憶がある。

 思い出すことには言い知れない忌避の念があったが、その封印を破ってたちまち記憶は表層に飛び出してきた。


「ヴァンダルの土地には、大地の底に棲む毒蛇に似た怪物がいると聞いたことがあります」


 視線がかれに集まる。「楽しい話を聞けそうだな。参考までに話してみろ」いやそうな口ぶりでルカイヤが促してきた。


「ヘラスでいう(ドラコーン)の一種で、その名を長虫(ウュルム)もしくは地竜(ワイアーム)と。

 姿形は蛇・トカゲに似て、性質は手負いの大猪より猛悪だそうで……人畜を捕食し、口から火や毒液を吐き、巣穴に近寄る者は皆殺しにせねばおさまらない害獣だと聞きました」


 サー・ウィリアムの話をこうして思い出すのは何度目だろう、とペレウスは語りながらちらりと考えた。だが旧懐の情に浸っていられるような状況ではない。気がつけば全員がおぞけだった表情になっている。「いや、思い当たることを挙げてみただけだから」あわてたペレウスが手を振って空気を和らげようとしたとき、押し殺された声が響いた。


「……まさにそういった存在がいる、この地にも」


 最後尾についていた山の民、イシャクだった。その初老の男の肩は小刻みに震えていた。


「語り部が伝える古代の話だが、デーマヴァンド山の地下には、人の脳をむさぼり食らう邪竜(アジダハーカ)が閉じ込められていたと……」


 高峰並ぶアルボルズ山脈の山々のうちでも図抜けた威容を誇るデーマヴァンド山のことは、ペレウスも知っていた。なにしろその山は都市テヘラーンからわずか15ファルサングしか離れておらず、毎日眺望しているのだ。


(じい)、それはおとぎ話でしょう。デーマヴァンド山はわたしたちの庭みたいなものではないですか、邪竜など影も形もないでしょうに。

 いたとしてもとうに死に果てているわ」


「ナスリーン様、あれはこの世からすべての暗闇が消え去るまで死に絶えることはないと説かれているのです。暗黒神自身の強力な分霊なのですから。

 ここに邪竜の痕跡があるというのなら、いくら警戒してもしすぎることは……」


「貴様ら、もう少し希望が持てるような話はできんのか」


 ルカイヤがげんなりした様子でさえぎる。話せと言ったくせに理不尽なと思いつつも、ペレウスもイシャクも黙った。

 薄ら寒い沈黙が地下に満ちた。仮にこれが竜の巣穴だとしたら、ここにいる全員が太陽を二度と見られまい。


「……立っていてもしかたない。この穴の奥へ進もう」


 手槍を拾ったルカイヤが信じがたい発言をした。

 正気かと言わんばかりの人族三人の視線が集中するのに対し、仏頂面の彼女は説いた。


「この穴の奥から漂うにおいは悪いものばかりではない。

 さっきからおれが目指していたのは新鮮な地上の空気のにおいだ。それが涸れた水路の先ではなく、この穴の奥から漂ってくるのだから、こちらに進まざるを得まい。

 嫌なら戻って土砂を延々と掘る作業に手をつけるか。さらなる落盤の危険があるし、いつまで掘ればいいのか想像もつかんがな」


 三人が納得した顔になったのち、かちかちと音が響きだした。

 山の民ふたりが布を剣の一本に巻きつけ、火打石を取り出して打ち合わせはじめたのである。それらの火付け用具はふところに入れている小袋から取り出したものらしく、布は松脂(まつやに)のようなものをべったりこびりつかせてあった。


松明(たいまつ)をつくる気か。地下の空気は火に反応して爆発する危険があるし、良からぬ何かが煙の臭いと光に惹かれてくるかもしれんぞ」


 ルカイヤが軽くとがめたが、


「ジンの貴女はともかく、完全な暗闇では人族は見ることができません。足元の毒虫も見えないのでは困ります」


「それに伝承の邪竜は、おのれの吐く黒い火以外のすべての火を嫌うのだ。火炎は暗闇の敵だからだ」


 ナスリーンとイシャクが言い返すと、ルカイヤは吐息して手槍をまた置き「火をやるから松明の先を突き出せ」とうながした。首をかしげながらもナスリーンが従う。ルカイヤの上向けた手のひらに呪印の文様が魔方陣のごとく円となって現れ、蝋燭の火ほどの小さな青い炎がぽっと立ち昇った。

 食い入るように火を見つめるペレウスに、着火作業中のルカイヤが一瞥を投げる。


「なんだ小僧、“妖火”が珍しいか? こういう呪印だ」


「便利ですね」


「こんなときだけだがな。おれの呪印ではこのちゃちな火が最大出力だ。

 さあ、行くぞ。天井を崩さないように注意しろ、生き埋めになりかねん」


 火のともされた松明を手に、一行は黙々と足を運んでゆく。

 曲がりくねり、ときに狭くなる通路内で腰をかがめて進むのは決して楽な道のりではなかった。天井からは土がぱらぱらと落ち、落盤の恐怖は常にのどを締め付けるようにつきまとっていた。

 幸いにして、その状態はそう長くは続かなかった。ルカイヤが報告する。


「先のほうに大きな空間があるぞ」


 壁面に口を開けるようにして、穴はその空間に通じていた。

 穴を抜けて足を踏み入れたとき、一同は驚きを隠せなかった。松明に照らされたその空間は、部屋というより広間といったほうがふさわしい広さであった。

 壁も床も天井も、岩ではない謎の黒い素材で覆いつくされている。いずれも表面には、ただひたすら禍々しさを感じさせる文様が刻まれていた。幾万、幾十万の長蚯蚓(みみず)がもつれてのたくっているような、無数の曲線状の細い(みぞ)……

 ルカイヤが呆然と室内を見渡した。


「……古代ファールスのレイの遺跡か。なんのための場所だ?」


 自身も天井を見上げているうちに、ペレウスは唐突に吐き気を覚えた。この広間は、耐えられないほどとても嫌悪感を生じさせる。無数の眼球に監視されているようなおぞましさがぞわぞわと肌を這う。


「向こうを見よ。あそこにも穴が……外界に通じている出口はあの先ではなかろうか」


 イシャクが指差したのは広間の反対側の壁であった。こちら側の壁と同じく破られ、大きな穴が開いている。

 だが壁のもうひとつの穴を見つめたのち、自然とペレウスの視線は床に吸い寄せられた。

 広間中央で、あるものが存在感を示しているのだ。


(水盤?)


 広間の床の中央には、壁天井と同じ素材で直径が二ガズはある大きな水盤が置かれてある。そこに黒々とした液体が溜まっていた。

 水銀でもなく油でもなく、墨汁でもなく泥でもなく、そしてその全てに似ており……


「蛇のようなにおいのもとはそれだ」ルカイヤが鼻を押さえて言った。


 なんの液体であろうか。ペレウスは勇気を出し、歩み寄ってそろそろと水盤に手を伸ばした。調べてみるつもりである。

 指先が液体表面に触れる直前でルカイヤが「あ」といきなり驚愕の声をあげた。


「そうか、濃密すぎてかえってわからなかったがこれはカースィムめの使っていた猛毒の臭いだ。“悪しき膨れ”(ポフ・シャール)とかいう」


 ペレウスはものすごい勢いで手を引っ込めた。

 死ぬか腕を切り落とす羽目になるところであった。(危なすぎる、ここはろくでもない場所確定だ)脈拍が高まり冷や汗がだくだく流れる。『材料の稀少さと調合の難しさゆえに……』カースィムの毒について語っていたジオルジロスの言葉が脳裏によみがえる。


(材料……これは原液か。カースィムの毒の出所はこれなんだ)


 かれもここを知っていたのだろうか。現在カースィムの行方は不明となっているが、もしかしたらこのテヘラーンに近い廃墟の地下に潜んでいるのかもしれない。

 だが、それを探るのは後回しでいいとペレウスは考えた。もうここに一刻たりともいたくない。


「長居はしたくない。反対側の穴から早く出よう」


 その訴えには、全員が同意した。


………………………………

………………

……


 どのくらい進んだかはわからない。大がかりな仕掛けである水時計はもちろん、砂時計ですらだれも持ち合わせないからには、正確な時間など測りようもないのだ。


(真夜中にはなっていないと思うけれど。それにしても寒い)


 この砂漠と高山の土地では、日のさす地上は暑いのに、夜がくるたび大地は冷える。そして地下には昼夜の別なく冷たい闇がうずくまっていた。

 身ぶるいするほど寒い地下の通路は、どこまでも続くかと思われた。歩きながらペレウスはなんとはなしに故郷を思い出していた。

 故国ミュケナイの宮廷地下にある大迷宮には、魔法がかかっていると伝えられている。

 入り口の扉が見えているうちはいい。だが通路の最初の角をうっかり曲がって扉を目から離してしまえば、二度と出られなくなるという。ひきかえしても扉は消え失せているのだと。そのため死刑囚以外は、最初の角のところまでしか踏み入ることを許されないのだとも。

 寒さによるものだけではない震えが背筋に走るのを感じ、ペレウスは目をつぶって念じた。


(いま恐れることはない、ここはたかが一本道だ。ミュケナイの地下迷宮に比べれば子供だましだ。それにもう出るところじゃないか)


 どうして、こんなに寒気がするのだろう?


「外のにおいが強くなってきた。まもなく星空を見られそうだぞ」


 急ぎ足になっていたルカイヤがほっとした声をあげた時だった。


「こちらの道、人の手が入っていますね」


 松明をかかげたナスリーンがぽそりと言った。


「最初の獣穴より広く、はるかに歩きやすい。壁を見てください。石灰で固められています」


「わかっている。この穴は明らかに通路として掘られたものだ、しかも新しい」


「新しい?」ペレウスは思わずおうむ返しに訊いた。「それではこの穴を掘った者が……」


「ああ。敵がいるかもしれんな。この通路からも相変わらず良からぬにおいがするのだから。

 だが喜べ、毒蛇のようなにおいは先程の空間から離れるほど弱まるぞ。水盤に溜まっていた液体が邪竜とやらのよだれか血か知らんが、どっちみちそいつはもういない。

 この通路のにおいは獣臭く、人族のにおいと混じっている。人族とともにいるならば尋常の獣だろう。道を阻むならば戦うまでだ」


 地上を目前にして気がはやっているのか、ルカイヤは饒舌になっていた。彼女にとっては謎めいた古代の影より、実体のある敵のほうがよほどましなのだろう。

 その気分に水を差すように、陰気な声が発せられた。


「……ジンの女よ。おぬしは違和感を感じなかったか、さっきの空間」


 最後尾にいたイシャクが立ち止まっていた。誰もがけげんそうにしながら足を止めてかれを振り向く。


「違和感ですんだのか。神経が太いな、山の民よ。むしろさっきの場所のどこにまともな部分があった。あんなところに一日いて壁の文様を眺めていたら発狂するわ」


 思い出させるなとばかりにルカイヤが吐き捨てる。ペレウスも同感である。厭悪と不快以外の感情をあの広間から受け取ることはできなかった。

 が、イシャクの指摘は漠然とした印象についてではなかった。


「あの広間には扉がなかっただろう」


 聞くなりペレウスは総毛立った。ルカイヤも押し黙る。

 地下にありながら採光窓どころか扉がない、どこにも通じていなかった部屋――

 そんなもの常識的に考えて、ありうるわけがない。


「おぬしはこの穴が新しいものだという。最初の穴は獣が開けた穴だという。

 壁に穿たれた穴がなかったころは、どうやって行く広間だったのだ?」


「爺、不気味なだけの話ならやめてください。あの広間はもう通りすぎたのですよ」


 ナスリーンが顔をしかめて制止する。のろのろと彼女に向き直ったイシャクの、覆面からのぞく瞳には恐懼と諦念が映っていた。暗い深淵のように。


「ナスリーン様、おそらくあの空間は古代の神殿です……レイの民が崇めていた暗黒の神の。かの神は闇から闇へと渡り歩く力を司祭に授けていたと……

 ナスリーン様。松明を、われらの信じる光輝と火炎の神の守りを離さないでください」


「どうしたの? 爺、変よ!」


 ナスリーンの焦った問いに、イシャクは肩越しに背後に目を落とした。なにかを刺激するまいと気をつけているかのような、緩慢な動きだった。


「走って逃げてください。あの部屋から、わが影に潜りこんでついてきていたようです」


 地面に落ちかかるかれの影から赤い腕が伸び、かれの足首をつかんでいる。

 その大きな猿のような手の爪は鋭く長かった。

 あまりのことに硬直した一同の前で、腕に続いて影から上体を現した怪物が、イシャクに抱きついて延髄に食いついた。

 ナスリーンが絶叫し、松明を振り回して怪物をイシャクから遠ざけようとした――逃げろと重ねて促したのかイシャクが聞き取れない声でわめき、次いでごりごりと頚骨が噛み砕かれる音がした。


 人型の獣だった。

 前腕は長く、体の表面は赤くのっぺりしていた。皮膚のない大猿さながらに。

 しかしつるりとした顔には目も鼻もなく、ただ牙の生えた口のみが大きく裂けている。


「う……嘘……」


 忠僕を失ったナスリーンの顔は、赤々とした松明に照らされてさえも蒼白に見えた。

 手槍を構えたルカイヤが「下がれ、馬鹿者!」と叱咤する。

 戦慄しながらもペレウスがナスリーンの腕をつかみ、ルカイヤのそばへと引きずったときだった。


食屍鬼(グール)を一体残しておいて正解だったわ。

 あなたたち、どうやってここに入ったの? 死ぬ前に教えて」


 ――その静謐な声は、どんな大音声よりもペレウスの耳朶によく染み通った。

 柔らかな足音が、向かっていた出口のほうから響いた。

 闇の中から現れたのは、イシャクを殺したものと同じ姿の怪物たちと、


「……あら」


 オリーブ色の肌、奴隷のまとう亜麻布の衣服。

 食屍鬼を従えた少女は、目を見開いて立ち尽くすペレウスに視線を留める。


「昼間の子ね。“ドゥルジュ”の言うとおり本当に来たのね」


 ゾバイダは、


「“ドゥルジュ”のお遊びに巻き込まれてわたしはいい迷惑だけれど、あなたも気の毒に。

 でも、ここに来た以上生かしておくわけにもいかないの」


 憐れみをこめて淡々と言った。


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