2-22.ナスリーン
山の王女ナスリーンの事情のこと
『おまえ自身が行くのか、ナスリーン』
細面に刈り込んだあごひげ、折り目の多い白木綿の衣。ひょろりと背の高いその青年は、下山を阻むように山道に立ちふさがっていた。
現れた貴公子の姿に、肌にぴったりした黒衣をまとったナスリーンは息をのんだ。同行の郎党たちが色めき立って剣を抜こうとするのを手をふって留める。
『……アークスンクル、お久しぶりです。それで、なにか?』
様々な感情を心の奥に押し込め、彼女はそっけなく言った。
彼女の伯父の息子は山道のかなたに輝く太陽をひょいと見上げ、『もうすぐお茶の時間だな』とつぶやき、
『ふたりでちょっと話さないか、許嫁どの。
おまえがよければわが居城で茶を飲んでゆくがいい。シンド産の茶を旅人から買っている。それに朝搾りの山羊の乳を添えよう』
飄々とした気軽な口ぶりで誘ってきた。若い郎党たちの気色が険悪なものとなる。それが爆発する前にナスリーンはあわてて答えた。
『「元」許嫁でしょう。あなたが占拠した“星見の塔”になど寄りません……』しかし、少し考えて、『……みんな、先に行ってください。わたしはかれと少し話してから行くことにします』
これは大いに郎党らの不満と不安を誘ったようだった。
若いアリがナスリーンに小声でささやく。『いけません。この狐野郎とあなたがふたりきりだなんて』忠実なイシャクが『ナスリーン様、これはお父上に煮え湯を飲ませてきたこの逆賊を討つ好機です! 剣を使わせてください、ばっさり片付けてしまいましょう』
ナスリーンは吐息してなだめにかかった。
『許可できません。イシャク爺、あの従兄は狡猾です。ひとりきりに見えても、手勢を潜ませていないはずがないでしょう。
それに手ぬるい男でもない……ここでわたしを捕えるつもりがあるなら、最初から有無を言わさず奇襲してくるはずです。それがない以上、逆に安全でしょう』
なだめてから、ナスリーンはアークスンクルに刺すような視線を向けた。
『先に道を開けてこの者たちを通してください』
アークスンクルがあっさりと狭い山道の片側に寄る。かれをにらみつけながら渋々といった調子でナスリーンの父の部下たちが通りすぎてゆく。
それを見送り、アークスンクルが岩壁に背を預けるようにして彼女を見つめてきた。
『鷲ノ巣城の叔父御たちは元気でやっているかな』
『あなたを見るやいなや髪もひげも逆立てて殺しにかかるくらいには元気ですとも。
去年の小競り合いで手勢十数名を殺されてから、あなたの背骨を引っこ抜いてくれると父は三日とおかず息巻いているのですよ』
だからさっさと用件を告げて去ることですと言外に匂わせる。一方で、人目など気にせずこのまま話していられればという想いも抱かないではなかった。
目線は合わせなかった――内心を悟られたくはなかったから。
アークスンクルが長嘆して首をふる。
『あれは叔父御のあやまちだ。あちらが本気で攻めてこようとは思わなかった。こちらはほどほどにあしらってすますつもりで、人死にを出す気はなかったのだ。
ま、それは置いておこう。俺の家とおまえの家との確執など取るに足りないことだ、叔父の娘よ(※)。われらの家は根がひとつであり、俺たちの代でひとつに戻るのだからな』
かつて存在していた結婚の話を匂わされて、ナスリーンの顔と頭に血が上る。羞恥とかすかな喜悦が、照れ隠しの怒りと本気の苛立ちに混ざったのである。
『父をさんざん挑発しておいて、ずいぶん簡単に言ってくれるものね。和解が取るに足りないことだなんて大口叩いて!』
いまとなっては、結婚にこぎつけるのがどれだけ難しいか。
それを思うと少女の激情の声は、だんだんと弱まった。
『……わたし、もう十六歳になったわ』
『俺は二十二歳だ。お互い大きくなったものだ』
『とぼけたことを言わないで。お従兄さま、わかっているのですか? わたしはいつ嫁いでもおかしくない年齢なのよ。
父はわたしを可愛がってくれている。だからこれまで、急いで結婚させようとはしなかった。でも、それももう限界……わたし、配下の者のうち好ましく思う若者はいないか父に聞かれているの』
ちらりとアークスンクルの表情をうかがう。かれの嫉妬をナスリーンは見たかったのかもしれない。
嫉妬――が混じっているのかどうか、従兄は面持ちをわずかながら引き締めた表情となった。
『なるほど。それを避けるためにおまえは下山するのか?』
『いいえ。そのことはまた別。いなくなった子供たちを早く探し出したいからよ』
ナスリーンは反射的にささやかな嘘をついた。弟妹を含む子供たちをこの手で救いたいのは事実だったが、同時に父から離れていたかったのも事実なのだ。
とくん、と鼓動がまたはねる。思いついたことがあった。
『……お従兄さま。いっしょに下山しませんか。子供たちを救うために』
少しでも共にいたいからという理由だけで誘ったのではない。従兄自身が首尾よく手柄をたてれば父もかれを許すかもしれない――その計算があったが、
『割けるかぎりの俺の手勢はすでに動員した。知り得た情報は逐一叔父御に渡している。
これ以上俺ができることはない。いっしょに行けば叔父御の部下たちと揉め事が起きるだろうさ』
割けるかぎり。
それはナスリーンの父とにらみあうための兵を残して割けるかぎり、ということだ。
落胆してナスリーンは訴えかけた。
『……お従兄さま、どうしても山の王を名乗るのをやめてくれないの? 現在の一族の長がうちの父であるという事実を認めるわけにはいかないの?
もし……もしあなたが主張を取り下げれば、父はわたしたちの結婚をその場で認めてくれるかもしれない。あなたが……父の前にひざを屈して、父の立場を正統なものと認めてくれさえすれば。
和解が成れば、父はいずれはきっとあなたに長の地位を譲るわ。そうでなくとも、わたしたちに子供が産まれれば、その子は確実にアルボルズ山脈を統べる長の地位を継ぐ。ねえ、それでいいでしょう』
だが言いつのりながらも、ナスリーンは(無理ね)と絶望を感じていた。
この従兄の野心が、ただ王位に就きたいだけの凡百のものであれば、話はもっと早く片付いていたのだ。
はたしてアークスンクルはゆっくりと、だが揺ぎない意思をこめて拒否した。
『だめだ。俺は俺の父が長であったというだけで王位を主張しているわけではない。
王位主張は叔父への不服を訴える手段でしかないのだ、いまのところはな。
……叔父が長の位を継いだとき、俺の進言を呑んでさえくれていたならば、俺はかれに忠実に仕えていたろうに』
『あんな進言……父が呑めるはずがないでしょう』
『なぜだ? 俺が望んだのは平地に勢力を広げることだ。むしろ叔父はなぜそうしようとしないのだ』
青年の声は熱を帯びた。ナスリーンのそれなど比べ物にもならないほどの秘められた激しさ。焼き尽くすような野心の炎。
『いつまで平地の奴らに、征服民どもに虐げられて生きるのだ。屈従の地位に甘んじるのだ。
わが一族は古代ファールスが滅びたときに父祖の土地を奪われ、貧しい山地に追い上げられ、その上に税をむしられつつも耐えてきた。
この状況を改善しようと試みずしてなにが長だ、アルボルズ山脈の支配者だ。外へとわれらが威を及ぼすことなく、一族の内部を締め上げてさえいれば叔父は満足するのか』
激語を聞きながらナスリーンはひそかに泣き笑いの表情になった。父が従兄を評したときの苦々しげな言葉を思い出したのだ。
(アークスンクル、あなたが長になればわが一族は、栄えか死か必ずどちらかの道をたどることになるとお父様は言っていた。
雄飛するか、滅ぶかだと……だからこそ、あなたに民やわたしを委ねるわけにはいかないのだと)
彼女は雲の切れ目から下界へと目を向けた。地下水路を利用した畑が点在する大地を。
『……あなたがいましがた言ったではないですか。山地は貧しく人口は乏しいのです。わが民がいかに勇猛剽悍といえども、平地の民の大軍に勝ち目は……』
『軍で攻めることは拡張の手段のひとつにすぎないだろうに』
言ったアークスンクルをナスリーンははっと振り仰いだ。いやな予感がしたのだ。
それはたちまち的中した。かれは次いでこう言ったのだから。
『平地でわが“対称者”を探せ、ナスリーン。古来のしきたりに従い、その者はおまえが選んで連れてきたらいい』
言葉の衝撃が脳を揺らす。
(対称者ですって?)
頭蓋内でその言葉はいつまでも反響するかのようだった。
思わずナスリーンは叫んでいた。従兄の胸ぐらを拳で叩いて。
『冗談ではありません!』
あまりにもひどい。たちまち涙がにじんでくる。
従兄は自分たちの間に、そのような古代の忌まわしいしきたりを介在させるつもりなのだ。あまりに屈辱的で、やるせなかった。
『対称者だなんて、いまではめったに行われることのなくなった因習ではないですかっ……そ、それをなぜ……あなたは山の民を改革するつもりなのでしょう、どうして平地の民から蔑まれるもととなっていたあんな因習を掘り返すのです!』
だがアークスンクルが彼女の手首をつかんで告げた言葉は、さらなる驚愕をもってナスリーンの怒りを吹き飛ばした。そのあと心をより強く打ちのめしたけれども。
『これは宣告だ。星見の塔の頂きから降りてきた、な』
『な……何ですって?』星見の塔の頂上に住まう者が託宣を下した例など、遠い古代にしかないはずだった。
混乱しているうちに、もう片方の手首もつかまれて体を引き寄せられる。
『俺とおまえのどちらかが“同盟を組むに足る者を見いだすだろう”との託宣だ。
最初、俺はおまえを下山させるつもりはなかった。おまえがわが手の届くところに来たならば、連れ去ってでもわが花嫁として迎えるつもりだった。
だが、宣告があったことで気が変わった。おまえを行かせて様子を見よう』
『い……いかにかの御方の声とはいえ、宣告なんて不確かなものにすがるなんて、計算高いあなたとも思えないことを……』
『そうか? 俺が愛するのは書物だけではない、知ってのとおり賭け双六も大好きだぞ。
人知にはしょせん限りがある。ましていまは狂気が勝つ世だ。地上で〈剣〉が征服時代を再開し、その足音に、天上や地下の忘れられた神々が騒ぎだしている。賽子を振るべきときだ――賭けるべきときだ。
ナスリーン、おまえは俺にとっても叔父にとっても愛しい最大の宝だ。
そのおまえをこの神々の双六に賭ける。わが一族の命運をおまえに預けて賭ける』
のぞきこんでくる従兄の瞳の輝きは、狂いの熱を帯びていた。
アークスンクル。〈山の民の正統な王にして鷲ノ巣城の本来の城主〉を称する男。現王であるナスリーンの父に公然と楯突き、一族をふたつに割ってアルボルズ山脈の西の峰々を占領した反逆者。
かれはここ数代の山の民の歴史の中でもっとも危ない野心家か、極めつきの愚者かのどちらかであった。
(……けれど、最大の愚者とはいえない)
引き寄せられるままに従兄の胸に頬を埋めながらナスリーンはぼんやり思った。
この善人ではないひどい男をずっと思い切ることができない。そんな自分こそが、もっとも救いようがない愚か者だ、と。
………………………………
………………
……
「対称者なんか探さない……アークスンクル、見られるから早く放して……」
朦朧とつぶやいたとき、ずきりと頭が痛んだ。
(……あれ)
鈍い頭痛のなかでナスリーンは薄く目を開けた。暗い場所、冷たい岩の床に横たわっていた。
「起きたよ、この人」予定では人質にするはずだった少年の顔が眼前にある。
少年の顔だけではない。忠僕イシャクの覆面、それから隻腕のジンの女の顔が視界に入っている。三人とも、気を失って横たわる自分に覆いかぶさるようにして様子を確かめていたのだろうと、ナスリーンは気づいた。
「起きたのは見ればわかる。小娘、立てるか? 脳は揺れていないだろうな。さっきまでつぶやいていたのはうわごとか、ただの寝言か?」
隻腕のジンが問いかけてくる。ナスリーンは頭がしゃっきりしないながら赤くなった。
「すぐに移動する気か? この方を少し休ませて……」
忠実なイシャクが二人に言い立てるのを制止して、ナスリーンは上体を起こした。長い黒髪が胸へと落ちかかる。
見回せば、洞窟の中のような場所だった。青みがかった弱光がぼうと岩肌を染めている。なにかの魔法なのか、暗黒のなかで石壁そのものがところどころうっすら緑に光っているのだ。
「どうなっているのですか? まず状況を教えてください。
たしか、あのタカに変化するジンと闘っている最中に地面が崩れて……それからどうなったのです? ここは地下なの? なんで光があるのですか?」
「光っているのは苔の一種だ。ここは滅びた都市の、涸れた地下水路らしい」少年が答える。「柔らかい土砂が先に落ちていたため着地のときに大怪我はしなかったけれど、なにしろ後から後から降り注ぐものだから……あなたは降ってきた石に頭を打たれて気絶してたんだよ」
「そう……それで頭痛がするのね」
痛む頭を押さえると髪の感触に混じり、ぬるりと濡れた感触がした。
(側頭部にこぶ、それに出血……でも血はそう多くない。ちょっと切ったくらいだわ)
しかしそこで、もっと重要なことに気がついた。
(……あれ? え!?)
ひたいを触り、頬を触り、両手で顔を包んで、ナスリーンは出た血も傷口に戻るほどに血の気を引かせた。
覆面が、ない。
つまり素顔を見られている。
凍りついたナスリーンに、少年がやや気まずそうに説明した。
「覆面に血がにじんでいたもので、傷の具合を確かめるために剥ぎとらせてもらったんだ」
事情はわかったが、山の長の娘である自分の顔を見られたのはまずいとしか言いようがない。ナスリーンが顔を覆ったままどうしようと思案を巡らせはじめたところで、
「申し訳ございませぬ、ナスリーン様。わしの力が及びませず」
「ちょっと、爺、名前を……!」
このうえ名前までばれては身元が知れる可能性も――と狼狽したが、
「部下を責めるのは筋違いだな。貴様自身の寝言が、山岳民の長の娘という貴様の身分を暴露した後だぞ。
もはや貴様の名前だけを秘めても大した意味はないとこやつは判断したのだろうよ。
おれはルカイヤだ。よろしく、ナスリーン殿」
笑いもせず隻腕のジンの女が挨拶してくる。容赦なく現実を寝起きの頭に叩きこまれ、ナスリーンはもう一度気を失いたくなった。
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落ちてきた穴から再び地上へよじのぼるのは論外であった。
まず、崩落の起こった箇所が時間経過とともに通路ごと完全に潰れてしまったこと。土砂を掘り返さねば空を拝めそうになかった。
次に、イルバルスが待ち構えていないとは限らない。そうなったら全滅確実である。「この地下水路に誘いこめばあいつの飛行能力も奇怪な力も封じられるぞ」とルカイヤなどは息巻いたが、彼女もさすがにホラーサーン将ともう一度対峙したいとは思わないようだった。
結局、一同が選んだのは、脱出口を探して地下水路を奥へと進むことであった。
手槍をかかげたルカイヤが先頭に立つ。暗闇でも目が利くジン族の特性ゆえであった。
「それにしても昨今の姫というものは軒並みじゃじゃ馬なのか? もう少し女らしく育てればよかろうものを」
ぶちぶちとぼやくルカイヤに、そのすぐ後ろについたペレウスは(まったくよく言えるよ)と呆れた。
(ファリザードを育てたのはあんただし、あんた自身もおしとやかさなんてかけらもない女じゃないか)
だがペレウスも「昨今の姫というものは」の評価には同感である。
振り向けば、名をナスリーンという山の民の王女が、黒布の一部を包帯代わりに頭に巻き付けて後方を歩いているのが見える。しんがりはイシャクという男である。
素顔があらわになってみれば、山岳民に命令していた黒衣の女はまだ少女の若さだった。ゾバイダと同じくらいでペレウスより三、四歳ほど年上なだけであろう。
象牙色の肌、腰まで流れる光沢ある黒髪、茶色い瞳。美少女といえるその顔立ちは楚々として優しげ、物腰もしとやかで気品がある……たおやかなのは外側だけで、中身はとんだ山猫娘だとすでにわかってはいたが。
現にいまもその瞳は、警戒をこめて先を行くペレウスたちを見つめている。
(……こうやってお互いぎすぎす張り詰めた空気のままは嫌だな)
「あの、ルカイヤ……さん、ありがとうございます」
ペレウスはかなぐり捨てていた礼儀を取り戻し、まずは丁寧にすぐ前のルカイヤに話しかけた。
崩落のときいち早く立ち直って、砂時計の砂のように積もる土砂からペレウスたちを引っ張り出してくれたのはルカイヤであった。その礼を述べたのである。
「礼はいらん。貴様も地上で落ちそうになったあの娘の手をつかんだだろう。それと同じだ。よく考えずとっさにやってしまっただけだ」
ふんと冷たく鼻を鳴らして、それがルカイヤの返答である。
(たしかにこのひとなら、ぼくが死んでれば全部片付いたのにといまごろは後悔していそうだな)
しかし恩は恩である。それにルカイヤの裏表のなさは、一時の腹立ちが治まるとかえって好ましかった。腹のさぐりあいはせずにすむのだから。
ペレウスはひとまずの和解をもちかけた。
「……とにかく、お礼を言います。揉め事は地上に出るまで後回しにしましょう」
「何を勘違いしているといいたいところだが、よかろう。こんなところからはすぐにも出たいからな」
言われてペレウスは気づいた。ルカイヤが薄気味悪げに顔をしかめていることを。
「この地下水路、おかしなにおいと気配が充満している。何かいるぞ」
※いとこ婚が多い地域では婚約者、妻の意味をも持つ。