2-21.氷砂糖
活路思わぬところに開けること
それは幼い日の記憶だ。
竪琴をかたわらに、母のひざの上に座らされ、ペレウスは闘技場での剣闘士たちの試合を見ている。
試合は、すでに闘いとよべるようなものではなかった。
子供の目にも明らかなほど、片方の剣闘士が優勢であった。
落ち着いて剣を振るうその剣闘士に比べ、敵手はすでに全身傷だらけで、回避も攻撃も動作に切れがなくなっている。
にもかかわらず試合は長引いていた。決着がつかないというより、決着が遅らせられているのだ。
優勢な剣闘士が一撃を与えるたび、もう一方は身を削がれる。血がほとばしって肌を幾筋も伝い落ちる……苦痛の呻きをあげてひざをがくりとつけば、優勢なほうは剣を引き、敵手が立ち上がるのをわざわざ待つのだ。
観客席からは、殺せ、そいつを殺せと人々の叫びが絶えず上がる。観客は敗者の命を奪うことを望んでいた。
母の指がペレウスの眉間にそっとふれた。
声が響く。ヘラス有数の美貌と弾き語りの腕をもつ高名な母の、艶やかで妖しい声が。
――あら、坊や、こんなに顔をしかめて。男の子なのに剣闘を観るのが楽しくないのかしら?
楽しいどころか、血なまぐさい見世物にペレウスはとうに嫌悪感をもよおしていた。奥歯を噛み締めてから、かれは母につぶやくように答えた。
――強いほうが、弱いほうをあんなにいたぶる必要はないと思います。早く終わらせてあげたらいいのに。
母のおかしげな笑い声が、した。母の腕がペレウスを愛おしげに抱きしめる。罠にかかった餌を抱擁する蜘蛛のように。
――まっすぐないい子。そういうところはお父様に似たのね。でもねえ、坊や。早く終わらせてしまったら、とてももったいないじゃない?
振り仰げば、ペレウスとよく似た美しい顔には笑いが浮かんでいた。
とても明るく軽やかに、春の歌をつむぐ女神のように母は言った。
――氷砂糖を彫ったお菓子を口に入れたら、丹念に舌の上で転がしたくなるじゃない。形が溶けて角が取れるまでずうっと舐めしゃぶって……がりっと噛み砕いて飲み下すのは、最後の最後でなくてはね。あの勝っている剣闘士はよくわかっているわ。お客の楽しませ方と、そして自分の楽しみ方を……
● ● ● ● ●
黒褐色の肌の下には、破壊的な暴力が筋肉とともにみちみち詰まっている。
耳の跡に触れられて、ペレウスはびくりと肩から頬までをこわばらせた。前触れもなく伸びてきたイルバルスの手が、少年の傷跡を無造作になぞりだしている。
ペレウスを見下ろす物言わぬ戦士の瞳には、愉悦が浮かんでいた。かつて自分が耳を引き千切った少年と再会し、思い出し、愉しげに笑っている。
「触るな」と、どうにかペレウスはかすれた声でつぶやいた。
これに似た感覚を少年は知っていた。
獅子の群れに襲われたときに味わった戦慄だ。こちらを獲物とみなす捕食者と対峙したときの、本能的なおののきだ。
少年は、イルバルスの手を避けなかったのではない。気がついたときには触れられていたのだ。それは速く、さらに恐ろしいことに速いとすら感じさせないなめらかな手の動きだった。
ペレウスはあらためて確信する。
(こいつはぼくを次の瞬間にも殺せるだろう)
ざらりとした傷跡を撫で回される不快感と重なって、吐き気がこみあげた。
だが観念などしてやるものか――とペレウスがイルバルスにいっそう強い視線を返したときだった。
突如として、ルカイヤの手槍がふたりの横から繰り出された。ホラーサーン将の顔面を狙う一撃。イルバルスが首をかしげてそれを難なくかわし、興味の目をペレウスの隣のジンの女に移す。
「おれと戦え、皮剥ぎ公の鳥」
ルカイヤが牝豹のように瞳を光らせて言い放った。
「ひとりで? 無茶だ」思わず止めたペレウスに、
「おれはアーガー様の妖兵であり、イスファハーン公家の陪臣でもある。奉公の義務は尽くさねばならぬ。
ホラーサーン公家はわが敵だ」
少年を押しのけてイルバルスの前に立ちふさがり、彼女は隻腕で手槍を引きつけた。対峙したホラーサーン将に向けて構えをとる――たちまち槍がイルバルスの下腹部めがけて伸びた。
腰をひねったイルバルスがまたもかわす。
鋭く気合一声、ルカイヤは刺突を連続して送りはじめた。手槍が鋼の蛇と化す。
ちろちろと蛇が舌を出し入れするように穂先が前後するかと思えば、一直線に跳びかかるように対手の体の軸へと攻撃が伸びてゆく。猛攻にさらされたイルバルスは後退し、身を傾け、横へななめへ半歩移動して危うい所で槍撃を外してゆく。
その攻防を見ながら、ペレウスは(やはりだめだ)と考えた。
(ぼくにもわかる、彼女の技量は並じゃない……でも)
息もつかせぬ連撃は、しかしことごとくあしらわれていた。イルバルスはわざと刺突がかすめるぎりぎりのところに身をおく余裕を保っていた。まるでルカイヤと事前に打ち合わせた演武をしているかのように。
(遊ばれるくらいに力量が離れすぎている。このままだと)
イルバルスがけりをつけにかかった瞬間、彼女も骸と化すだろう。
……骸、とペレウスは気がついておのれに近いところにある山岳民の死体に目をやった。より正確には、血溜まりに浸されて転がっているはずの武器をである。
かれは駆け寄り、血が手や靴を汚すのに顔をしかめながらそのふところを探った。お目当てのものはすぐ見つかった。山岳民が使う短めの剣。
剣の柄をつかみ、立ち上がったとき、
「わたしたちの武器から手を離しなさい。それは死者のものです」
背後で黒衣の女の声がして、ひやりとした刃がペレウスの首筋に触れた。
そんな場合かと怒気が沸きかけたが、もはや憤っている余裕すらない。
振り向かず深呼吸し、声を荒げぬよう注意してペレウスは言った。不本意ながら、ジオルジロスの甘言を思い出して応用しつつ。
「ぼくにこの剣を使わせなければ、みんなそろって死者になる。
あなたたちの仲間を殺したのはあそこにいる黒い肌のジンであって、ぼくじゃない」
「黙りなさい。あのジンは仲間の仇、わたしたちが仕留めます。
あなたは捕虜です。危険にさらす気も、その剣を使わせる気もありません」
一貫して丁寧な言葉遣いではあるが、女はどうやら融通の利かない気質のようだった。
息を吐いて、ペレウスはイルバルスとルカイヤの闘いへと顔を向けた。見るがいいとうながすように。
ちょうどルカイヤが脚を狙って稲妻のように繰り出した槍の穂先を、イルバルスが踏みつけたところだった。
焦ったルカイヤが敵の足の下から槍を引き抜こうとする。力をこめた瞬間にイルバルスが足をひょいと上げると槍がすっぽ抜け、ルカイヤは後ろにたたらを踏んでよろけた。彼女は激怒して言いさした。「ふざけずまじめに戦――」
イルバルスのつま先がルカイヤのみぞおちにめりこんだ。
無造作な前蹴りを胃と横隔膜の真上に叩きこまれ、ルカイヤの顔色が変ずる。とっさに飛びすさった彼女の脚がぶるぶる震え、槍にすがるようにしてがくりとひざをついた。一撃で息が正常にできなくなったのか、唇から漏らすのはよだれと、乾いた風のようなひゅうひゅうと鳴る呼吸音だった。
「足技だけで」と山岳民の誰かがあえいだ。
追撃することもなく、イルバルスは後ろに手を組んで立ち、薄い笑みでルカイヤを見下ろしている。ルカイヤの回復を待つ態勢であった。だがそれは、正々堂々たる態度というよりは……
ペレウスは記憶が刺激されるのを感じた。母の抱擁とささやき声――
(あの男はいま、氷砂糖をじっくりしゃぶっているんだ)
固唾を飲んで、ペレウスは背後へと訊いた。幾分かの皮肉を交えて。
「あれを本気で仕留められると?」
黒衣の女は答えない。ペレウスはたたみかけた。
「仕留めるのは無理でも、全員で身を守れば生き延びられるかもしれない。
共闘しよう」
「……黙りなさいと言っているでしょう」
皮膚に押し付けられる刃の圧力がわずかに増す。しかし声音には躊躇の気配があった。加えて、黒ずくめの別の山岳民がペレウスの背後を一瞥し、「その小僧の言うことはもっともだ。いまは戦力を増やしたほうがいい」と忠告を発した。
ペレウスはそれを聞いて決心した。
(大丈夫だ、この人たちも道理を受け入れるはずだ)
恐怖を抑えこみ、首の横の刃を無視して歩き出したのである。
読みどおり、首を掻き切られはしなかった。ひそかに安堵したとき、黒衣の女がペレウスの横に並んできた。やや忌々しげに「……あなたの身柄はあとで押さえさせてもらいますからね」と念を押し、それから彼女は仲間たちに号令をかけた。
「片腕のひとのそばに!」
ルカイヤがよろよろと立ち上がるのに合わせ、ペレウスと残り五人の山岳民はそのかたわらを支えるように集まった。
おや、と言いたげにイルバルスが小首をかしげる。
まだ気息奄々のルカイヤが苦しげなかすれ声で「加勢のつもりか、おれの義務とは無縁のやつばらが。寿命を延ばしたいならさっさと散らばって逃げるのが賢明だぞ」と毒づく。
ペレウスは沈黙していた。
かれは会ったばかりのルカイヤに好感は持っていない。先刻からのやりとりを思えば、好感を持てるほうが不思議というものであろう。
それでも、友人であるジンの少女のことを考えれば、見捨てられるものではなかった。
(ここをあんたに任せて置いて行ったらファリザードの顔を直視できない)
心でそうつぶやいて、ペレウスは剣を抜く。
黒衣の女もルカイヤに「義務を果たそうとする美徳はジン特有のものではありません。仲間の仇を討つ義務がわたしたちにはあります」と啖呵を切ってから、得物を構えた。
剣六本――鈍く輝く切先が、イルバルスへと向けられる。敵へと剥き出される狼の牙の列か、堅陣を組んだ山羊群の角のように。しばしためらっていたルカイヤが手槍を添えて、七本となった。
「もしあいつが誰かを狙って突っこんできたら、最初に標的にされた者は命を諦めてください。
代わりにあいつの足をわずかでも止めてくれれば、残りの者が押し包んで手傷を負わせますから」
黒衣の女の指示は壮烈なものだったが、(そのくらいの気構えでないと討つのは無理か)とペレウスは腹をくくった。
(それにこうして防御に専念すれば容易に攻められもしないはずだ)
現にホラーサーン将は、おのれに向けられる剣尖を見ていまや笑いを消していた――ペレウスはイルバルスの表情の変化に希望を抱いた。
それがとんだ勘違いだったとすぐに気づかされるまで。
敵の笑みが消えたのは警戒からではなく、一対一に水を差されて興醒めしたがゆえだと理解させられるまで。
最初は光だった。
イルバルスの鎧の胸甲の中央で、赤光を放つものがあった。
残照の反射かと思ったが、夕陽はすでに沈んでいる。ペレウスたちがいぶかしんで目をしばたたく間にも、その光は膨れ上がっていった。
サソリ座の星のような赤い不吉な輝きが、突如目を灼き――
次の瞬間、世界が変じた。
ペレウスの足がずるりと後ろに滑った。驚愕する間もあらばこそ体重が虚空に投げ出される。刹那の間、脳裏にいくつもの認識の火花が散る。
(倒れる)
(後ろへ引き倒される)
(ちがう、だれもぼくを引っ張っていない)
(人の手はぼくに触れていない)
(引っ張っているのは落ちる力だ、これは落とし穴だ――)
(それもちがう、足元が崩れたわけではない)
(地面が縦に持ち上がっている――地平線へ向けて落ちる!)
現実を素直に認識するまで数瞬、ようやくそれができたときには、ペレウスは地面に取りすがっていた。傾斜のきつい崖と変じた大地に。
他の者達と同じく地面に刃を突き立てて。滑り落ちていく馬たち同様に叫びをあげながら。
おびただしい土砂が滝となって頭上からざあっと浴びせられる。目を開けられない砂煙の中、断末魔が骨の砕かれる音とともに間近で起こった。
(だれか死んだ!?)
変化が唐突に急停止する。崖が大地に戻る。
呆然と身を起こしてふりむいた一同の視線の先には、頚骨をへし折られてすでに絶命した山岳民――荷かつぎ人夫の格好をした者――が岩にひっかかっている。馬は三十ガズもの遠くまで滑っていて、ところどころ骨折したのか立つこともできず哀れっぽい声でいなないていた。
なんだこれは、とペレウスはあえいだ。
もはや共闘どころではない。まともに立つことすらできないのに戦術うんぬんもない。
視線を転じて見あげれば、暗い空に舞いあがるタカの影があった。いったん大地から離れたイルバルスの姿が、すぐ急降下して“変化”を解く。そのジンは岩に手をかけて自らの体を固定した。
二度目の赤い光。
またあの現象が来る、とペレウスは総毛立った。考える間もなく、敵を刺すはずだった剣を地に突きたてて伏せる。無防備なところを襲われるとわかっていても、まず墜死しないためには他にどうしようもなかった。
地面がふたたび急峻な崖となる。土砂の滝。息さえつけない。砂煙のなかでペレウスが思ったのは、
(しゃぶるのをやめさせることはできた、でも、まとめて噛み砕きにかかられてる)
すぐ隣で「ああっ!」と悲鳴が上がった。
薄目を開けてかろうじて横を見たペレウスの目に映ったものは、黒衣の女の体がずり落ちていくところだった。刺した地面が柔らかすぎたようで流砂となっており、剣が体重を支える役に立っていない。大地の傾斜はますます垂直に近くなっており、女はまもなく落下して死ぬか大怪我を負うだろう。
反射的に片手を伸ばしてペレウスは彼女の右腕をつかみ……瞬間、しまったとほぞを噛んだ。彼女が完全に落下しはじめれば自分も支えきれずいっしょに落ちるのは目に見えている。
おまけに、女が動転して左手でペレウスの腕をばしばし叩きはじめた。
「やめて、は、放しなさい! 触らないで、いますぐ放してっ」
助けようとした矢先に暴漢扱いである。本人の希望だしいっそ放そうかとほんのちょっと真剣に考えたが、
「放すな、ぜったいに放すな」
崖面にとりつく他の山岳民がペレウスへ向けて泡を食った叫びをそろえた。
「その方を落とさないでくれ!」
繰り返し懇願した山岳民の男に「落とすなったって……」ペレウスはなにか言葉を返そうとして、顔色を激変させた。警告する。
「上から来てる、逃げて!」
男たちの頭上からイルバルスが崖面を滑り落ちてくるのが見えたのだ。
黒い巨体が片手を地面について滑落の速度を落としながら手を伸ばす。ひとりの山岳民の頭がとらえられる。首がねじられてごきごきと嫌な音が響き、顔が真後ろを向いた死体がひとつ落ちていく。「貴様!」軽業師が横から蹴りを飛ばしたが、それが当たる前に自分の顔面がひじで打ち抜かれる。物言わぬ捕食者は、顔がぐしゃぐしゃになって絶息した軽業師を蹴落とした。
――ペレウスとルカイヤと山岳民ふたり、残り四人。
(ぼくの番は次か、その次か?)
ペレウスは青ざめて唇を噛んだ――が、死の翼がその場で残りの者たちを包むことはなかった。
崖となった大地が地響きを発し、突如として砕けたのである。それまでの幾倍するかわからぬほどの土砂が注ぐ。
地割れがついに起きたのは奇跡でも偶然でもなかっただろう。
驚倒しながらペレウスはルカイヤが先刻語ったことを思い出していた。
(“……ここは古代都市レイの跡だ……”“……掘ればおびただしい骨と地下水路であった空洞が……”)
イルバルスの縦横倒転の力が、地下に空洞を秘めた大地に負担をかけすぎたのだ。
ホラーサーン将もさすがに意表をつかれた顔となってタカへと変じ地上を離脱する……それと同時に万物の落下する方向も通常のごとくとなる。
すなわち舞い上がるタカの後ろ姿を見ながら、ペレウスたちは暗い地下へと落ちていったのだった。