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2-19.炎と泥

ペレウス、不可解な謎と理不尽な壁に突き当たること


 ペレウスは身を返して路上を走りだしていた。いましも道行く人々のなかに消えてしまいそうになる背を追って。

 流れる黒髪。オリーブ色の肌。

 彼女だ。ゾバイダ、ファールス語を教えてくれた人。


 あの日、都市イスファハーンの破壊された館にペレウスが戻ったとき、彼女の姿はそこにはなかった。ヘラス人の使節たちと同じようにゾバイダは消息を断ったのだ。

 ペレウスがこれまで彼女のことは探そうとしなかったのは、ゾバイダが奴隷とはいえファールス人であるからだった。どこかに身をひそめたのならば、ゾバイダはヘラス人使節たちよりはうまく立ち回っているはずだ。また、使節たちと違い、彼女にはなんの政治的な力も義務もない。先に彼女を探さねばならない理由はなかった。


 ――けれど個人的な情をいえば、ペレウスは仲間の使節たちよりもよほどゾバイダに会いたかった。民主政都市の者たちは言うにおよばず、王政の都市の少年たちに比べてもはるかに。


「ゾバイダ!」


 彼女は一人ではなく、ほか二人と連れ立って歩いているようだったが、ペレウスの目にはゾバイダしか入らなかった。追いつき、ペレウスは声をかけてゾバイダの腕をつかんだ。

 驚いた顔で少女が振り返る。

 ペレウスは息をはずませ、喜びに目を輝かせて話しかけた。


「ぼくだよ、ペレウスだ! よかった、こうして会えて。きみはなんでここに――」


 勢い良く手を振り払われた。

 笑みをこわばらせ、ペレウスは固まった。


「な……何ですか、あなた」


 後じさる少女が、ペレウスにつかまれていた腕を胸前に抱き、疑念と警戒のこもった声を出す。ペレウスは「え……」と立ち尽くすしかできない。


(まさか別人だった?)


 一瞬そう思ったが、人違いではなかった。「ゾバイダ、どうかしたの?」と口をはさんできた者がいた。栗色の長い髪をもつ肌の白い少女で、やはり奴隷の着る簡素な亜麻布の服を身につけている。彼女と連れだって歩いていた一人である。

 北方か西方系の蛮族の血らしき栗色髪の少女は、ペレウスを認めて「あら」と目を丸くした。言い方を考えるようにちょっと小首をかしげ、にっこり微笑んで、


「ゾバイダ、あなた、この子をうまく釣り上げたわね。……ほら、ちょっと前に街角で竪琴を弾いていた男の子よ」


「うまくって、なんのことですか。わたし、こんな人は知りません」


 ゾバイダが振り返って連れの少女に迷惑げに言う――ペレウスはいよいよ愕然として口を開けた。


(知らない? な――なにを言っている?)


 一歩進み出て、胸に手を当てて言いつのる。


「ゾバイダ、ぼくだってば。ミュケナイのペレウスだよ。イスファハーン公の館で、この国の言葉をきみに教わった……!」


 だが、ペレウスがどれだけ言おうと、ゾバイダはますます表情に困惑をあらわにするばかりだった。「知らないわ」首をふってさらに距離をとる。

 ペレウスが追いすがるひまもなく、栗色髪の少女がゾバイダとかれの間にさっと立ちふさがった。


「そこまでにしてね、可愛い竪琴弾きさん」


 肌や髪の色こそ違えど、ゾバイダに劣らない美しさをもつ少女だった。歳もまた十六、七と彼女と同じくらいである。豊かな巻き毛がペレウスの鼻先ではね、ふわりと香りが漂った。

 笑顔で制止する彼女を押しのけるわけにもいかず、とっさに判断に困ってペレウスは眉をひそめた。


「ぼくはゾバイダの旧知なんだ」


「そうなの。でも、彼女のほうは知らないみたいだわ」


 そんなばかな。ペレウスの瞳に狂おしい焦燥が浮かぶのを見て、何が楽しいのか少女は「うふふ」と笑った。それから、


「ねえ、ヘラス人を探していたんでしょう、あなた」


 言われて、ペレウスは「そうだ」と思いだした。自らのなさねばならないことを。ヘラス本国へ連署で公式文書を送らねばならないのだ。

 栗色髪の少女に通せんぼされながらも、その場からもどかしげにゾバイダに向けて叫ぶ。


「ゾバイダ、聞いてくれ! ぼくはヘラス人を探している。きみがぼくを知らないと言いはるならそれはいい、せめて、ぼくのほかの使節たちがどうなったのか教えてくれ!」


 だがいくら言ってもゾバイダは困りきった顔で黙るばかりであり、


「苦悩の先に答えが見つかるわ」


 代わりに、声を小さくして間近で答えたのは栗色髪の少女だった。虚をつかれてペレウスは眼前の少女をまじまじと見た。

 何を言っているのか――無視すればいいのだろうかと迷ったとき、言葉を彼女が継いだ。


「悩みなさい。そうすれば、あなたの求めるものはもうすぐちょっとずつ手に入るわ。真実も力も、同郷人たちの行方も。それが喜ばしいものをあなたにもたらすとは限らないけれど。

 そのことを、いつ伝えてあげようかと思っていたの。ふふ、いい演奏だったわ、竪琴弾きさん」


 吐息のみでささやく唇が妖しい笑みを含んでいる。ペレウスはぎりっと奥歯を噛み締めた。


「煙にまく気か? あなたの言っていることは皆目意味がわからない!」


「わからなくていいの。宣告(ホクム)はただありがたく受け取りなさいな」


 呆然としたペレウスの肩を、強い力で誰かがつかんだ。


「いつまでくっちゃべっている」


 さえぎったのは、黒い布を頭からすっぽりかぶった者だった。それはゾバイダに並んで歩いていた最後の一人であり、顔すら見えなかったが、肩をつかむ手がごつごつとしているところから、男であろうと思われた。


「小僧、この奴隷たちに近寄るな」


 押し殺した声は奇妙にくぐもり、伸ばせば高いであろう背は丸まっている。黒ずくめの男は、「今後はこいつらを見かけても話しかけるな。二度とだ!」と妙に強めに念を押し、ぐいとペレウスを押しやった。よろけるかれへと栗色髪の少女がいたずらっぽく手を振り、踵を返した。

 黒ずくめの男がゾバイダと栗色髪の少女をうながし、足早に去っていく。ペレウスの後ろからは、追いついてきたホジャの「どうしたんですか」という声が響いた。


………………………………

………………

……


 夕闇に包まれてペレウスは煙を嗅いだ。かれは白羊族の馬を借りて市壁の外に出たところであった。

 その眼前では、テヘラーン郊外に広がる野営が、暗くなりつつある空に炊事の煙を充満させている。

 各都市や農村から召集された兵は四万、それだけの数が集うとただの野営ですら壮観だった。天幕が身を寄せ合う羊の大群のように原野を覆い、あちこちに各諸侯の旗印がひるがえっている。赤々と角灯や焚き火が燃えていた。


 常ならば興味をおぼえて観察するところだが、ペレウスは馬に足を止めさせることなく天幕の前を通りすぎた。兵たちのじろじろと遠慮ない視線も気にならない。それほど少年は心をさまよわせていた。

 野営地を突っ切ってからは、人をはねる心配もないとあって存分に馬を走らせだす。


 人のいないところにペレウスは行きたかった。テヘラーン市内にはいたくなかったのだ。あの都市にはファリザードがいる。彼女のいる近くで、ゾバイダのことを考えるのはためらわれた。その理由ははっきりとはわからなかったけれども……


 やがて馬を止めた場所は、索漠とした大地を風が蕭々(しょうしょう)と走り抜ける場所だった。

 足元の砂には、おびただしい砕けたレンガのかけらや朽ちた木材が混じっている。古い町の跡かもしれない。


(ここでならゆっくり考えを巡らせられる)


 馬の背を下り、ペレウスは腰かけにちょうどいい岩に座りこんだ。


(なんだったんだ、昼間のあれは)


 表情をかげらせる。

 ゾバイダがかれに見せたあの反応は、理解しがたいものだった。

 彼女が仮に嫌悪なり恐怖なりの感情を面に浮かべていれば、それに悲しみはしても、ペレウスはここまで困惑はしなかったろう。なにかの事情があったのだろうと推察することができたからだ。

 直面しているのは、それよりはるかに不可解な事態だった。ゾバイダの顔に浮かんでいたのは、知らない相手に話しかけられたときの純粋な驚きと戸惑いだった。


「ゾバイダはぼくを記憶していない」


 ふいに言葉が口をついて出た。薄々と、いや、はっきり悟っていたことが。


(そうとしか思えない。でも、そんなことがありうるのだろうか?)


 まだしも、知らないふりをしたというほうが自然ではないだろうか。それにしては演技がうますぎたし、彼女がそうする理由も思いつかなかったが。「いくら考えたって、どうにかなりそうもない」ペレウスはつぶやく。ふと、ゾバイダのかたわらにいた栗色の髪の乙女のことに思いが及んだ。


(悩めと言ったな、あの女の人は)


 ペレウスは眉をひそめた。

 何かがひっかかっている。

 何かが――


 馬のひづめが地を踏む音が、ペレウスの思考を中断させた。

 振り向くと、たたずむ騎影がすぐそこにあった。


「貴様とはちょうど二人きりで話がしたかった、人の子」


 吹き渡る風のように冷たく刺す声だった。馬上の軍装の人影には片腕がない。よく目をこらして、相手がジン族の女性であることにペレウスは気がついた。

 一回だけその女を見た覚えがあった。


「あなたはたしか、ファリザードの……」


「乳母を務めたルカイヤだ。それより貴様、ファリザード様を気安く呼び捨てにするな」


 後をつけてきたらしき相手にのっけから頭ごなしに言われ、ペレウスはむかっとした。


「友人の名を口にしてはならないんですか?」


「友人か」ルカイヤは奇妙な目をしてまじまじとペレウスを見やった。


「真に友情を抱いているのならば、貴様はファリザード様の名を呼ぶべきではない。今後一切あの子に近づくべきではない。貴様の存在はイスファハーン公家にとって迷惑だ」


 一方的な物言いだった。

 ぽかんとしてから、勃然と怒りが胸を突き上げ、ペレウスは言い返した。


「迷惑かそうでないかは、ファリザードが決めることでしょう。なぜあなたが口を突っこんでくるんですか」


 一瞬、ルカイヤの切れ長の目に憎悪に近い激情が燃えた。

 ペレウスははっとして身を引く。ルカイヤは馬から飛び降りると、鞍に手を伸ばし、前部に結わえつけてあった手槍をつかみとったのである。


「小僧、ジンの愛がどんなものか知らぬのか。

 あの子が貴様をはねつけることはない、それを知っていながらその言を吐いたのではあるまいな。そうなら貴様は恥知らずだ」


 ルカイヤの詰問に、ペレウスは言葉につまった。

 たしかにそれはそうだ。ジンの愛がかつてユルドゥズに説明されたとおりの代物ならば、ファリザードに選択させろというペレウスの言い方は、相手に卑劣と受け取られてもおかしくはない。本人の自由意思による決定を尊重するのはヘラス式だが、ジンとは文化どころか種族特性が違うのだ。

 槍先をかれに向けてルカイヤが言った。


「あの子をどうやってたぶらかしたか知らないが……起こってしまったことは取り返しがつかん。そのことで貴様を処断するつもりはない。

 だが、貴様の存在がファリザード様の体面に傷をつけることは受け入れがたい。誓え。あの子に別れを告げ、二度と近づかぬと。おとなしく誓うならば無事に故国に帰してやる」


 ルカイヤの行動は逆効果であった。ペレウスは他人から脅迫、強要されることを何よりも嫌っている。ひるみよりも怒りが上回り、かれは月明かりに光る手槍の先端ごしにルカイヤをにらみつけて言った。


「なぜぼくがいるとファリザードの体面に傷がつくんだ。ファリザードがぼくを……その……ぼくと親しくしてくれるからといって、それが知られると問題になるのか」


「当たり前だ! 並みのジンでも嘲笑の的になるものを、ましてやイスファハーン公家の娘だぞ。人族の愛人を飼っているなどと知られてみろ、あの子の一生に取り返しがつかない汚点がこびりつく」


 その侮蔑のこもった言い草は、ペレウスの怒りをさらに募らせた。拳を固く握りしめてかれは尋ねる。


「……あなたはクタルムシュさんに助けられたんだろう。かれだって人族のユルドゥズさんを選んだんだぞ」


「痛ましい話だ」沈痛な声音に変わって、ルカイヤはそう言った。「クタルムシュ卿には大きな恩がある。救われたおれがかれの選択を否定するのは間違いであろう。だがそれでも、おれはファリザード様に、クタルムシュ卿の轍を踏ませるわけにはいかぬ。

 クタルムシュ卿は栄達を棒に振り、親族からは縁を切られ……おれのような、否、おれ以上に人族を嫌うジンからは冷ややかな目で見られる。人に唾棄するジンの数は決して少なくはないぞ。

 おれがあの子のそんな未来を見たいと思うか。

 もう一方には、いずれあの子が皇后となって帝国全土に君臨する輝かしい未来があるというのに!」


 ルカイヤが言い終わればすぐさま言い返そうとしていたペレウスは、最後の台詞に殴られたような衝撃を覚えて目を見開いた。


「皇后?」


「あの子は帝室とイスファハーン公家を結びつけるために上帝の太子と婚約した。あの子もそれを受け入れているようだが、もしも貴様が何かすれば揺らがないとは限らん。

 婚約は〈剣〉に対する同盟ゆえの成り行きだが、同時にこれは最上の縁談だ。貴様のごときちっぽけな人の子が妨げてよいものではない。貴様がファリザード様の子宮錠(ラヘム・コフル)を初めて浮かせた男だろうと、絶対に邪魔はさせん。

 いまならばまだ取り返しがつく。ファリザード様は悲しむだろうが別れを受け入れるだろう。時がたてば少しずつ笑顔を取り戻し、真っ当な幸せを手に入れられるはずだ」


 ペレウスは言葉を失っていた。昼間の出来事よりさらに、脳裏が驚愕に塗りつぶされていた。

 厳しい表情のルカイヤがかれに近づき、穂先を心臓の上にぴたりと擬した。


「われらジン族は火炎の精であり、貴様ら人族は唯一神が泥よりこねあげて造った存在だと伝わっている。

 炎と泥とで釣り合いがとれるか。

 もし貴様を伴侶として選ぶようなことがあればファリザード様はジンの中で白眼視され、それは貴様が死んだそのあとも続くのだ。小僧、貴様はあと何年生きる? 五十年か、七十年か? ほかのすべてと引き換えにしてファリザード様が手に入れるのは、わずかそれだけの期間の幸福なのだぞ」


 手槍の穂先よりもはるかに鋭く、その言葉はペレウスの胸を刺した。

 寿命の違いのことは、いままで深刻に考えていなかった。かれは本気でファリザードとの結婚のその先を考えたことはなかった。否、この内乱の間は棚上げにするべきだとすら思っていた。


 甘かった。


 月明かりよりも青ざめたペレウスに対し、隻腕のルカイヤはそこで初めて罪悪感の色を瞳に浮かべた。


「……悪く思うな、どうあっても諦めてもらわねばならぬのだ。

 ファリザード様に貴様自身の口から別れを告げると誓え。そののち、今夜にも貴様を北方のイムレッティ侯国へ送り出し、そこからヘラスへと送り返してもらうことにする……

 納得できないだろうが、貴様だけに失わせるわけではない。貴様が誓うなら、おれも代わりに唯一神にかけて誓ってやる。内乱が収まったのち、おれとおれの一族が力を貸せることがあれば、ひとつだけ必ず手を尽くして叶えてやろう。殺してほしい仇敵、手に入れて欲しい宝、あるのならば言うがいい。ジンの美女を手に入れそこねたことが惜しいならば、おれの身ひとつで満足するがいい。貴様にファリザード様を自発的に諦めさせるためなら、貴様の一生程度の時間、婢女(はしため)として仕えるくらいの代価は払ってやる。むろん嫌だし、わが身の名誉は綺麗さっぱり消え失せるだろうが、誓いは守る」


 淡々と、味気ないくらいに静かな声でルカイヤは告げた。ペレウスの心臓に突きつけられた刃は、覚悟を示すかのようにわずかの震えもない。

 それに対して、ペレウスは――

 顔を上げ、歯を食いしばった。


(炎と泥だと)


 かつてこの帝国に感じていた敵愾心がふたたびつのってゆく。

 それは眼前のルカイヤが代表する、ジンの理不尽な価値観への反発だった。再び高まった敵意が、かれに危険な言葉を言わせた。


「去ることをぼくが拒んだら?」


「ほう」


 ルカイヤの瞳がきゅっと細まった。


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