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2-18.風向きくるくる

ペレウス街中に花の香を嗅ぐこと

 勝利をアーガー卿に確約されて、諸侯は晴れ晴れとした笑みを交わし、口々に言い合いはじめた。「は、は、勝てるではないか。これまで浮き足立っていた自分が恥ずかしいわ」「まったく、われらは何を過度に案じていたのでしょうな。すでにわかっていたことですのに。ホラーサーン公はいまや反逆の徒であり、自領をのぞく帝国全土を敵に回しているとなれば、自滅は必至であろうと」「そうよ、われらイスファハーン公家は他家と協調して進めば良いのだ。すでに必勝の態勢が出来上がっておる」


(目に見えて雰囲気が緩んだな)


 ルカイヤも肩の力を抜いた。怯えていたくせに調子のいいことだと諸侯を見下げるつもりはない。

 かれらは兵を動かして馳せ参じてくれたのである。それはとりもなおさず以降〈剣〉の直接の怒りを買うということであり、ここに集った者たちはその圧迫にこれまで耐えてきたのだ。精神の重荷が取り払われた反動で浮かれても無理はなかった。


 ルカイヤがもう少しよく見れば、喜悦をかけらも見せていない者たちもいることに気がついただろう。

 雄鶏公トゥグリルは内心をはかりがたい無表情であり、断水公バハラームはあからさまな嘲笑をうつむかせた面にのぞかせていた。そしてファリザードは押し黙っており……

 と、雄鶏公が肩の力をふっと抜いた。


「……では無理をすることもありますまい。腰をすえ、機を待ち、他家と歩調を合わせてわれらの軍を南下させましょう」


「それが適当だろうな」「うむ。先走る必要もないことだ」と、諸侯の賛意を示す声が続々上がる。うなずいて雄鶏公は「それを待つ間、ひとつ提案したい」と続けた。


「提案はこうです。集まった兵力を無為に過ごさせないために、軍を北部の治安回復に投入するべきです。

 聞けばこの前までここテヘラーンを騒がしたカースィムの造反には、アルボルズ山脈をねぐらとする山賊どもが傭兵として手を貸したとのこと。

 山地を攻めてみませんか」


「……山地を?」とファリザードが顔をあげ、はっきりと懐疑的な声を出した。ルカイヤは少女に視線を当て、そして思い出す。


(そういえばファリザード様は、軍が集まりしだい急いで南下するという方針であったな)


 雄鶏公は直視してくるファリザードのほうを向き、流ちょうに説明しはじめた。


「山地を攻める意義は三つあります。第一に山賊どもがカースィムに協力したことへの罰。

 第二に、山地にはイルバルスに追い回されるエラム様が隠れておられる。お救い申し上げねばなりません。

 第三にですが、昨今、許可を受けておらぬ奴隷商人が北部に跋扈しているのですよ。困窮した民の身を安く買い叩くだけでも違法ですが、その上にかどわかしまで行うとか。

 山の無頼漢どもははたして一連の拉致事件に無関係でしょうか?」


 雄鶏公の提案に、ほかの北部諸侯らもこれまた雷同する。


「その問題があった。わが領地でも女子供がつぎつぎ行方不明になっておる」


「世相が乱れておる昨今、そのような賊が増えてもおかしくはない」


「おかしくはないが、放置しておけるかというと話が別だな。トゥグリル卿の言やよし、軍の引き締めをかねて軽く山賊の掃討におもむいてみるか。なに、拉致とは無関係でも、本物の違法奴隷商どもへの示威になろう」


 ルカイヤは(これは雲行きが怪しいのではないか)と危ぶみ始めた。ファリザードは困り気味のしかめっ面になりはじめている。

 雄鶏公の誘導に諸侯はやすやすと乗った。かれが指摘した治安の悪化は、この場のおのおのが元から頭を悩ませていた事柄だったのである。

 戦略会議はひとつの結論に傾きつつあった。“集めた軍をもって北部に留まり、一帯の治安を回復しながら他家の参戦を待つ”と。場はすでに方針は決まったといわんばかりの雰囲気である。

 その証拠に、諸侯のひとりがふとしんみりした口調で言った。


「一息つけますな……しかしまあ、勝利確実と気付かされたあとで考えてみれば、〈剣〉も敵の首魁ながら哀れなもの。一公領の大君主でありながら、命と帝国を賭した戦いに臨むときに三万程度の兵力しか連れてこれなかったとは。

 やれやれ、そのことを思えば、他の四公家の〈剣〉への遇し方が不当であったというホラーサーン公家の非難は一理あるかもしれませぬ。〈剣〉の力を疎んじ、警戒し、抑えつけようとしすぎた面があったやも。あれは誇り高きジンゆえに、不快を感じても無理はない」


 それもまた緊張の糸が切れた直後がゆえの台詞であったろう。

 しかしさすがに軽率であった。すぐに別の諸侯が「何を言う。野心に満ちた獣を警戒するは当然であろう」とたしなめの声をあげた。「実際にその危惧が正しかったことはすでに明らかではないか。むしろ警戒が足りなかったがために貪欲な牙をして喰らいつかれたのだ、哀れみなど無用よ」


「もちろん謀反人に哀れみをかけるつもりはないが、しかし一片の同情の余地があると……」


 反論しかけた諸侯の声は、横合いからの大声の嘲弄に粉砕された。


「〈剣〉に同情だと。貴様は阿呆か」


 場から言葉がかき消えた。叫んだ断水公バハラームは酔眼で座を睥睨すると、瓶に入った強いナツメヤシ酒(アラク)をあおった。「なんと申した、バハラーム卿」と気色ばむ男をせせら笑い、かれはまたも言い放つ。


「兵数が少ないことで油断させ、〈剣〉は奇襲によって存分に戦果を拡大した。未来は知らず現在われらは負けているのだぞ。連敗している側が連勝中の敵に同情だと、こっけいすぎて涙すら出るわ。

 だいたい、あのホラーサーン軍三万は……」


「――先鋒(・ ・)だ、おそらくは」


 そこで視線を引きとる声をあげたのは、ファリザードであった。強い光を瞳に宿した少女がすっくと立ち上がると、羊毛の肩掛けがぱさりと足元に落ちた。


「諸侯よ、考えてみてほしい。イスファハーン公領をぶち抜くように横断し、恐怖を刻みつけていったあの三万が、撹乱(かくらん)の役目を果たす先鋒だったとしたら? 敵陣に最初に突入してかき乱すのが役目の騎馬隊のようなものだったとしたら? 本隊があとから押し寄せ、穴だらけとなったわが領地を完全に掌握にかかるとしたらどうなる?

 思い出せ。十三年しか生きていないわたしですら知っている歴史を。伯父がこれまで六百年間、ただの一度たりとも敗北したことがない怪物だということを。〈剣〉はこのまま少ない手数で消耗戦に持ち込まれて、順当に削り殺されてくれるような生やさしい敵ではない。

 伯父の手元の兵が三万しかいないからといって、それがすべてのホラーサーン軍ではない。後発の軍が来ないとは限らない。いいや、きっと来るだろう。

 それを断じて合流させてはならないのだ。わたしたちは南下する!」


 ルカイヤは見た。諸侯ことごとくがファリザードの凛冽たる声に唖然とし、思わずといった様子で背筋を正すのを。断水公が目を丸くし、雄鶏公が誤算だったというように苦い顔をするのを。ルカイヤはそっとため息をつく。


(この子はもう、ただのいとけない子供とはいえなくなってしまった。すべて戦のせいだ)


 ルカイヤは知っている。床に臥せっていたアーガー卿の代わりにファリザードが書記官たちを監督し、来援を乞う数十通もの手紙を諸将や他公家にしたためさせたことを。北部諸侯軍の結集を待ちながら、「こうも遅くては南下の機を逸してしまう」と焦れに焦れていたことを。

 それは成長なのかもしれない。それでも変化をルカイヤは哀しく思うのだ。

 乳母が胸を痛めるあいだにも少女の演説は広間に響きわたっている。


「他の公家の着陣を待つ? いいや、わたしたちは常に伯父の先手をとるつもりで戦わねばならない。伯父の軍の後背地にされてしまったイスファハーン公領すべてを奪還し、ここにいない諸侯にわが家の威を示さねばならない。伯父の軍とホラーサーン本国を結ぶ線を断ち切り、かれをほんとうの意味で孤立させてしまわなければならない!

 何度でもいう、わたしたちは南下しなければならないのだ」


 ファリザードが演説を終えたとき、断水公バハラームが吠えるように笑って賛成の声をあげた。


「はっは、あんた、やるべきことをよくわかっているではないか! そうとも南下だ。おれはあんたについていくぞ、薔薇の姫よ。南の港を取り返さなきゃナツメヤシの酒が北部に入ってこない……いや、そんなことより。

 姫にひきかえ、さっきから聞いていればトゥグリル、おのれの知恵は雄鶏並みに退化したのか」


 断水公は首をめぐらせて旧敵を痛罵しはじめる。


「なにが山地攻めだ? 聞くに堪えぬたわごとを口走りおって、アルボルズ山脈が天然の要害であることを知らぬわけでもあるまいに。一年攻めても山岳民を屈服させられるか怪しいものだ。エラム殿を救うなら山岳戦に慣れた部隊を動かすだけでよかろうが。奴隷商人の一掃? そんなものしばらくうっちゃっておけ、戦時には優先順位というものがある。

 ……おう、そうか読めたぞ。さてはわが軍を北部に足止めさせておこうとするのがおのれの目論見か。ホラーサーン軍がさぞ喜ぼうて。

 いったい貴様は裏切り者か愚か者か、どっちなのだ?」


 悪意たっぷりの皮肉に、雄鶏公は断水公を射抜くような目で見据えた。「酒毒が頭に回りつつある痴愚者に言われたくはないな。空気を読まぬ戦馬鹿が」軋るような声を出したのち、雄鶏公トゥグリルは向き直り、うやうやしげに頭を下げた。黙ってかれを見つめるファリザードへと。


「お許しください、ファリザード様。私はあなたを見誤っていたようです。戦略のことはなにもわからぬ小娘であろうと。それは間違いだったとたったいま知りました……

 ……しかし、こうなったからにはあえて諫言させていただきます。他家の準備が整うまで、南下は思いとどまるべきです。そして、どうか理由の詳細はこの場でおたずねにならないでください」


 諸侯たちが息を飲む。「はっ、話にならぬわ。薔薇姫、こいつをほんとうに謀反罪で牢にでも放り込んだほうがよくないか」吐き捨てたのは断水公だった。「これは時間との勝負だ。〈剣〉とてすぐにはバグダードは落とせまいが、その援軍がホラーサーンから来る危険があるとトゥグリル、貴様も気づいていたのだろうが。薔薇姫のいうとおりすぐにも南下を行わねば、遅きに失する怖れがあるのだぞ。それを阻害して、しかも理由は尋ねるなだと!」


「待て、バハラーム卿。……トゥグリル卿、貴殿の望みどおり後で話そう。

 だがよほどのことでないかぎり、即時南下は行わねばならない。それは譲らない。貴殿もわたしに協力してもらう」


 ファリザードの揺るぎない言葉によって、重みのある静寂が場を支配した。

 だが、雰囲気は緊張はしてもふたたび暗くなることはなかった。雄鶏公に代わって場を主導する少女の、小さな姿と高い声とに満ちる英気が、諸侯の心に芯を入れたかのようだった。

 ややあって、


「是非もなし、この小さな薔薇にはたしかに〈剣〉の血が入っているようだ。かくなれば微力を尽くして奉公いたします」


 深々と嘆息した雄鶏公の肩に、羽ばたきとともに雄鶏が飛びのる。

「罰なしでは甘すぎるぞ」うなったのは断水公だが、その手の酒瓶をファリザードが鋭く一瞥するとかれはぴたりと口をつぐんだ。


「バハラーム卿、トゥグリル卿、はっきり言っておく。能力と忠義さえ示してもらえるなら多少のことは多めにみよう。だが同僚との角の突き合わせだけは以降、許さない。両名ともに、否、ここにいる全員がわが家に仕えてもらわねば困るのだ」


 釘を刺してファリザードがあぐらに戻る。ルカイヤは落ちていた肩掛けをファリザードの後ろからそっとかけなおした。小さな体が冷えぬように。

 どれだけ成長を見せても、ルカイヤにとっては愛し子なのだった。

 ましてルカイヤは知っている。急な成長の陰には癒えない傷がある。ファリザードは夜に悪夢にうなされるのだ。「車輪の姿をした多神教の悪魔が追いかけてくる夢だ」と、起こしたルカイヤにしがみついて少女が震えながら打ち明けたのはたった数日前のことだった。


(いましがたの威厳だって、八割は虚勢を張りとおしただけのことだろう。まだまだ、この子はおれが守ってやらなければ)


 ――そのルカイヤにとって、もっとも気になるのは……


「ところで……アーガー卿、さきほどのファリザード様の婚約の話がありましたが、相手はいずこの誰なのですか?」


 ルカイヤは手のひらの下のファリザードの肩がぎくりと固くなるのを感じた。

 発言したのは諸侯の一人であった。厳粛に引き締まった場の空気を変える気遣いでもあったろうが、瞳に好奇心と懸念が光っている。懸念はルカイヤも同じで、彼女はすぐに耳に神経を集中させた。


(そうだ、誰なのだ?)


 問われたアーガー卿は病み衰えた面立ちにうっすらと誇らしげな色を浮かばせた。


「そうだな……それも説明しておかずばなるまい。

 ファリザード様の相手は、上帝の嫡子だ」


 ジンたちの眼の色がさらに変わった。興味から歓喜を混じえた興奮へと。「詳しくお聞かせ願えましょうか」一座を代表する声に、アーガー卿は手元から一枚の紙を取り出した。


「われらの若き主である新イスファハーン公イブン・ムラード様は、帝都バグダードにあって上帝と行動をともにしておられる。そのかれが、〈剣〉の軍に帝都が完全包囲される直前に、伝書鳩を飛ばしてテヘラーンに重要な文書を送ってきた。

 それがこれだ。すなわち公領全土に抵抗をうながす檄文であるが、そのなかでイスファハーン公家と、現帝室であるダマスカス公家との縁組を告げられている。これは公的な決定である。なにしろこの文書には上帝ご自身の認可の印が押されているのだ。

 書かれていることによればまずイブン・ムラード様ご自身が上帝の長女であるライラ姫と。

 そしてここにおられる御妹のファリザード様を、上帝の長男であるセリム太子と(めあわ)せることになっている。

 イスファハーン公家とダマスカス公家の同盟はこれでいよいよ強固なものとなった。内乱が終わればわれらは大円城で二組同時の結婚の宴に参加することになろう。いや、エラム様が無事に戻られれば、三組となるかもしれん」


 これはたしかに驚喜に値する話であった。帝室の長男長女がどちらもイスファハーン公家の子らと婚約したというのだ。


「なんと喜ばしい! これ以上の良縁はない」


「ああ。時勢が時勢でなければ三日三晩の宴を開いて慶事を祝うところだ」


 諸侯らがはばかりのない歓声をあげる。ルカイヤはファリザードにそっとささやいた。


「ファリザード様、婚約のことは……」


「知っていた。あの文書はテヘラーンに入ったときに見た」


 ぽそっと答え、ファリザードはうつむいた。物思いに沈む面持ちであった。しかしながら立って異を唱える様子はないのを見て、ルカイヤはひとまず胸をなでおろした。


(よかった。この子はやはり成長している。ことの軽重をわきまえているようだ)


 もしもファリザードが人族の愛人にこだわって、そのことを理由に兄の決めた婚約に逆らうような運びになっていれば、単なる醜聞ではすまないところだった。

 幸いにもルカイヤが乳を含ませた子は、思っていたよりずっとものの道理をわかっていたとみえる。


(完全に安堵はできないが……)


 うつむくファリザードは無意識なのか胸の前に左手をやり、そこに下がった首飾りの石を握りしめている。治癒石はしょせん道具であって装身具ではなく、大事な席にふさわしい飾りとは言えないのに、彼女はそれを身につけてきていた。

 それを見るとルカイヤは不安に胸がうずくのである。


 館の主人であるアーガー卿が手を叩いて、召使を呼んだ。料理を温め直すようにとの命令である。


「話が長引いてすっかり料理が冷めてしまったな。諸卿よ、われらの南下作戦については昼餐ののち細部を煮詰めようではないか」


………………………………

………………

……


 急報が入ったのはその日の午後だった。南下する軍の補給経路・編成・万一の場合の方針などの大枠を決める話し合いが終盤にかかったころである。

 館の中庭に乗り付けた馬から転がりおちるように伝令兵が下り立ち、会合の席へ激しい勢いで乗りこんできたのである。その荒々しいほどの余裕のなさに、よもや伝令をよそおった刺客かとルカイヤが警戒したくらいだった。


「馬鹿者、なにを慌てている。諸侯会合だぞ。緊急の報せでももう少し穏やかに踏み込め」叱咤して伝令兵を恐縮させたのは断水公バハラームであった。


「失礼、なにか変わったことがあればいつでも報告を持ってこいと命じていたもので……それで、なにがあった」


 伝令兵がすぐにかれのもとに駆け寄り、ささやいた。広間の中の者たちは、杯を傾けながら報告を聞くそのジンが突如としていっさいの動きを止めたのを見て、不安にかられた。

 かつかつと、トゥグリル卿の雄鶏が皿の炒り豆をつつく音がする。

 それから、「……わが領地からの報だが、良き報せかどうかはなんとも言いかねるな」断水公は鼻にしわを寄せてうなった。


「サマルカンド公家軍が予定を早めて進発した。十万には満たないが総勢四、五万、その先触れはすでにわが領地を通過したとのことだ。その進路は南西、明らかにここを目指している」


「なんだと?」


 ファリザードが解せないとばかりに眉根を寄せた。


「ちょっと待て、サマルカンド公家はなぜそんな決定をした? すぐにも援軍が来るのはありがたいが、遠方のかれらにとっては長駆せずすぐ南のホラーサーン公領に攻め入るのが無理のない戦略のはずだ。

 進軍時期を早めたことといい、なぜそうまでしてここに来るんだ?」


「それが……サマルカンド公の長子ティムールが、薔薇姫、あんたとダマスカス公家との婚約を知って不服を唱えているとのことだ。十中八九、やつらは直談判に来るつもりだろう」


   ●   ●   ●   ●   ●


 同時刻の市場(バーザール)


「ちっ、食い物の値が先週より上がってら」


「どれもこれも価格が急騰していますね」


 ホジャがぶつぶつぼやき、同道していたペレウスは相槌をうった。白羊族の食料を買い求めてその値に顔をしかめたばかりなのである。行き交う人々の顔もどこか不満げ、そこかしこの店頭で押し問答がときたま起きている。

 物価高の原因はわかっていた。


「軍が招集されたからなあ」


 テヘラーンの内部や郊外に滞在する、北部諸侯が連れてきた四万もの兵のせいである。必要物資を一斉に買いだめされて、ことに食料は品薄になっているのだった。

 市内の井戸から汲まれる水は尽きてはいないが、なぜか食料に追随するように値段がじわりと上げられている。兵たちが郊外の軍営で独自に井戸を掘ろうとして騒ぎにもなった。「都市の水脈が断たれるからやめろ」と市民が抗議し、「じゃあそっちが売りつける水の値を下げろ」と応酬した兵とのあいだで乱闘が起きたのである。


「『カースィムの傭兵四百人がやっと消えたと思えば、諸侯がそれを百倍にして連れてきた。さっさとテヘラーンの近くから離れてくれとみんな願っている』……そう市場の顔見知りの肉屋さんに聞きました」


「へっ。……よく覚えといたほうがいいですよ、殿下。市民のやつらは敵が迫ったら軍になんで都市を離れてるんだ、戻ってきてくれと言い出しますから」


「市民も軍も険悪にならずにお互い折り合いをつければいいのに……」


「なあに、こんなのはまだまだ険悪なうちには入りませんや。

 ま、イスファハーン公領は平和でしたから慣れてないんでしょうよ、大軍の動員に」


 ――ふわりとその時、香りがかすめた。

 ホジャと話しながら歩いているペレウスの鼻に、どこかで嗅いだ花のような香が。

 道行くあまたの通行者の匂いのなかで、それは鮮やかにペレウスの嗅覚の記憶に訴えてきた。よみがえるのは、イスファハーン公の館の花々にあふれた庭の……


 立ち止まるや振り返ったペレウスを、ホジャが怪訝そうにうかがう。「殿下、どうしましたかね」呼びかけられてもほとんど頭に入らなかった。

 衝撃に指先までしびれていた。ペレウスの瞳は、雑踏のなかでかれとすれちがった少女の後ろ姿をとらえている。


(ゾバイダ)


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