5.皮剥ぎ公
敵のこと
数百年前のこと。
帝国のホラーサーン地方の大領主、〈剣〉ことアーディルは、戦で自分の皮膚にかすり傷をつけた人間種の部族を、幼子のみをのこして虐殺した。
死体の皮をのこらず剥いで家畜小屋にしきつめ、そこに生き残った孤児たちを奴隷として住まわせたという。
以来、皮剥ぎ公とも異名をとるかれは、上帝に次ぐジン族の階級・妖王であり、いまもホラーサーン公として君臨しつづけている。
● ● ● ● ●
――サー・ウィリアムに稽古をつけてもらうようになって五ヶ月あまりがたった。
きついが、楽しい日々だったと、あとになってからペレウスは思ったものだ。
修行開始五十日目あたりで、盾とともに片手剣をもつことを許された。
サー・ウィリアムは、みずからあまたの攻撃法やその組み合わせをいちいち実践しながら、ペレウスを厳しく教導した。
「片手盾は、敵の攻撃をただ受けるだけの防具ではない。
打撃用の武器であり、隙をついて敵の体や武器をおさえこむ道具だ」
「大ぶりの斬撃は、なるべく真正面から受けるよりかわすか受け流せ。つぎの一瞬がこちらが致命傷をあたえる機会となるが、この機会を本当に有効に使える者は少ない。日ごろからの地道な練習だけが確実性をます」
「手首への突きはとくに気をつけろ。小手先への攻撃でも、動脈を傷つけられたら致命傷になる。腱が傷つけば武器をにぎれなくなるぞ」
必死にくらいつこうとするペレウスの体型は、変わりつつあった。細身はあいかわらずだが、女の子並みに華奢で貧相な体つきから、従士の若者らしくひきしまった肉体へと。
ことに、子供には重すぎるほど重い盾をもたされつづけた左手は、右手よりたくましいくらいに変貌していた。
● ● ● ● ●
廃墟となった神殿のほこりっぽい薄あかりのなかで、炭が赤く熾っている。
呪縛にとらわれ、動けぬ王に、
ターン・ワザランの魔の騎士は問うた、
――すべての女が望むものは何ぞ?
陶製の火鉢のうえでゆっくり焼肉の串を回しながら、サー・ウィリアムが故国の言葉で朗々と吟じていた。
午前いっぱいと午後の大部分をついやした武術の修行が、ひととおり終わったあとだった。
ペレウスはいつものようにひどく疲れて、倒れた石の柱に腰を下ろしていたが、眠くなることはなかった。修行のあと、サー・ウィリアムが故国の言葉でつむいでくれるヴァンダルの騎士物語が、最近、いたくお気に入りになっていたのである。
……この数ヶ月のうちに、あっという間にアングル語には慣れていた。騎士物語にはまり、せっつきながら聞いていたおかげだろう。
ゾバイダに教えてもらったファールス語より上達が早かったくらいだ……もっとも、ゾバイダとは互いの言語をまったく知らず、教えあうところから始めたのにくらべ、サー・ウィリアムとのあいだには、すでに半分会得していたファールス語が介在していたわけだが。
「それで、王はどうなったの? 魔の騎士の謎かけ、答えはなんなの?」
もともと物語好きのペレウスは、少年らしく目をきらきらさせて続きをうながした。サー・ウィリアムはにかっと腹の立つ笑いをみせた。
「続きは明日だ」
「またですかそれ! いつもいつも、気になるところで切らないでくださいよ」
むうっとふくれたペレウスに、あぶっていた馬の焼肉の串を一本わたし、サー・ウィリアムはふんふんと鼻歌を流した。
その肩に駆け上ったサルのエル・シッドが、主人の耳をひっぱって肉の切れはしをねだる。小さな肉片を吹き冷まして、手わたしで与えているサー・ウィリアムに、少年は片眉をあげていった。
「……ご機嫌ですね」
「故国の言葉で好きなだけ語れるってのは気分いいもんだ。ありがとうよ」
思ってもみなかったことに礼をいわれ、ペレウスはびっくりした。いささか照れ、「べ……べつに。こっちが頼んだことですし」などとぼそぼそいいながら串をかじる。
ペレウスはこのヴァンダル人……いや、アングル国の騎士と、すっかり親しくなってしまっていた。不覚にも。
上機嫌のまま騎士がいった。
「おまえの剣の筋は悪くない。おまえの年頃のおれよりは強くなっているだろう」
こんどは褒められて、ペレウスは赤くなった。
「不気味ですよ、なんで急に……これまでそんなこといってなかったじゃないですか。むしろ、ひどいいわれようだった気がするんですが」
ど下手くそだの才能のかけらもみえんだの、しごかれながらぼろくそに罵られていた覚えがある。
若い乞食騎士は、口元を馬の脂で汚しながらうそぶいた。
「気にするな。罵りながら従士に稽古をつけるのは騎士の楽しみのひとつでね。気分爽快だからやっているだけだ」
その飾らなさすぎる言い草でペレウスに目を剥かせたあと、かれは考えながらいった。
「ちっと早いが、おまえには両手剣を持たせてみよう。……ミッドナイト流の本分はそっちだ、騎士の武技もな」
いよいよ本格的に、騎士の武芸の粋である剣を学べるんだ。ペレウスは興奮が血管を力づよく脈打たせるのを感じた。
……が、サー・ウィリアムは「どうしたものか」と上方に視線を向けてつぶやいた。
「肝心の両手剣がない。ヴァンダル式のあれは目立つから、イスファハーンの市壁のうちがわに持ちこむわけにはいかなかったんだよなあ」
「……木剣でいいんでは? いま教わっている片手剣だって木剣ですよ」
「両手剣は重い。その重さに慣れておくことが重要なのだ。
よし、市場で鉄の棒でも探してみよう。運がよければ、おれたち式の両手剣が置いてあるかもしれん」
ペレウスははしゃぎ声をあげかけた。
だが、サー・ウィリアムが「最近はファールス人どもが、賊の討伐に血道をあげているそうだし。殺された賊の武器が売られてるかもな」とつけくわえたのを聞いて、どう応じればいいかわからず沈黙した。
以前からイスファハーン近郊に出没する賊は、ヴァンダル人の一党だともっぱらの噂であった。
が、ペレウスの困惑に対し、サー・ウィリアムは同胞の末路をさほど深刻に気にとめていなさそうだった。
「なにしてる? 行くぞ」かれは火鉢にふたとして皿をかぶせ、エル・シッドを肩にのせて立ち上がった。
市場にひとつの死が待っているとは、思わなかった。
● ● ● ● ●
ファリザードはよく来る市場の果物屋の前に立っていた。裸に近い部屋着でもなく、刀をふりまわすときの男装でもなく、通常の女児のように丈の長い胴衣と長衣を身につけている。
伴をつれず、こうして気楽に市内に出ることがよくあるのだ。主に気晴らしとして買い食いするためであり、そのための小銭までわざわざ安い銅貨で持っている。
アンズ、ザクロ、イチジク、ぶどうと店前に並べられた新鮮な果実を、どれにしようかなとじっくり観賞する。
ひとさし指を当てたつやめかしい唇が、われ知らず楽しげな微笑の弧を描いていた。
「ファリザード様、こちらの桃はいかがですかの。昼前に入荷したばかりでしてな」
物心ついたころから顔なじみである果物屋の老爺が、前歯の抜けた笑顔もほがらかにすすめてきた。
「うん。とてもおいしそう」
少女は、自分の館に寄宿しているヘラス人たちにはけっして見せないような、無邪気な笑いで応えた。
数えもせず多めに小銭をわたして、小ぶりだがよく熟れた桃をひとつつかみとり、やや行儀わるく店先でかぶりつく。彼女は果物が好きだった。
幸せそうに果肉をほおばる少女を、孫娘をみるような目で老爺がにこにこながめている。
通りを行きかい、値引き交渉でどなりちらしている人々も、一瞬ちらりと微笑ましげな視線を少女にむけていく。領主の娘はよちよち歩きのころから、この市場界隈の常連なのだ。
ペレウスたちは誤解していたが、ファリザードはすべての人間を嫌っているわけではなかった。
たしかにファールス帝国の一般的なジン族の感覚としては、人は異種族であり、自分たちに支配される者であり、自分たちより一段劣る存在だ。
しかし、人間がほかの動物を愛でることができるように、その意味ではジン族は人を慈しむことができた。それは、人が忠良な犬をかわいがるのに似ているであろう。
……ただし、親愛や慈愛の情を向けることができるのは、忠実で良き犬――つまりジン族の支配下にあることを受け入れたファールス人だけであり、もっといえば自分の一族の支配する領民だけだ。
こちらを噛み殺そうと群れをなして攻撃してくる野犬はけっして愛さない。ヴァンダル人やヘラス人は、ジン族にとってそういう種類の、撲滅すべき犬だった。
そして、人に慣れた犬であろうが野犬であろうが、人にとって犬との結婚など通常は考えられるものではないように、ジンにとって人を伴侶にすることは常識外のことだった。
イスファハーン公が画策する、娘とヘラス人との結婚は、ジン族の通念では犬との結婚にひとしいのだ。結婚話がなければ、ファリザードはヘラス人使節たちにああまで当たることはなかっただろう。
異種族とは仲良くできることもあるが、恋愛感情を抱くなどはありえない。そういうことだった。
数軒となりのパン屋の太った女房がわざわざ寄ってきて、大声で少女に話しかけた。
「ファリザード様、蜂蜜菓子の新作がありますよ! 試食してもらえますかい」
「食べる! ちょっと待っ……」
快活に叫びかえしたファリザードの声が途中で途切れたのは、開門を告げる鐘のためだった。
市場のだれもが、いっせいにひとつの方向をみた。
イスファハーンをとりかこむ茶色い市壁――その西側の門が、市場からは一望できた。砦と鐘楼の役をはたす二基の尖塔をつけた巨大な門。
午後の大気を重くふるわす鐘につづき、人の頭より倍も巨大な、太古貝の笛が鳴らされた。
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ――――――――ウウウウウウウウウウウウウ――――――
それは軍勢入城の合図だった。
縦横二十ガズずつある巨大な石の扉が外側に開き、鎖巻き上げ式の格子ががらがらと上げられ、馬蹄がずしゃりと門前の広場にふみこんだ。そうして、二百人ばかりのかれらがやってきた。
まず楽器を手にした奏者たち。旗持ち。弓を鞍につけた軽騎兵。鎖かたびらをつけた重騎兵。顔面を、怪鳥をかたどった恐ろしい面頬で守り、玉ねぎのような形の兜にターバンを巻いている。その兵士たちは、急行してきたのか全員が馬に乗っていた。
楽団以外は沈黙をまもり、市民に顔を向けもしない。たった二百名の軍勢ながら、かれらは圧迫感をまとって、イスファハーン公の館へ通じる道をあるきはじめた。
旗には、黒い剣の紋章がかかげられていた。
その紋章がひるがえるのをみた瞬間、市場におののきまじりの緊張がさっと走った。ファリザードの横でパン屋の女房があえいだ。
「なんてこった、アーディル公ですよ。ホラーサーンの皮剥ぎ公……」
その呼び方で、ファリザードが複雑な表情になったのをみて、「……おい」果物屋の老人がパン屋の女房をとがめる声をだす。中年女ははっと口をおさえ、いいわけをはじめた。
「いえね、ファリザード様、伯父さまを悪くいったんじゃないですよ、ただ……」
「……いいよ。本当いうと伯父御のことは、わたしも怖い」
ファリザードに刀をくれた母方の伯父というのは、ホラーサーン公のことである。それにもかかわらず、ファリザードは伯父が苦手だった。ジン族と人族とを問わず、かれを苦手でないものがいるだろうか?
そのジンの大貴族の名は、帝国だけでなく大陸諸国にとどろいていた。ファールス帝国でもっとも危険な妖王という評判とともに。
古代ファールスを滅ぼした征服戦争のときから武将であり、生ける伝説であるかれは、ファールス帝国の地方軍閥における第一位の者である。
〈剣〉と呼ばれて恐怖されているのは、理由あってのことなのだ。
そしてかれは、対ヘラス戦の最強硬派として、和平にもっとも強く反対している男でもあった。そのかぎりでは頼もしいのだが……少女は苦笑して正直に吐露した。
「伯父御については、近寄るより、遠くから武勇をたたえていたいな」
「ええ、そうそう、そんな感じですよ。あ……フ、ファリザード様、また店にいらっしてくださいね」
懲りずにまたいったパン屋の女房は、果物屋ににらまれてそそくさと退散していった。
軍列の先頭が市場にふみこんだとき、市民のだれかが地にひざまずいた。唯一の主神への礼拝のときのように頭を地につけることまではしない。これは、大領主級の高位のジン族、つまり妖士や妖王などにむける礼である。
つぎつぎと自発的に市民がひざをおっていく――
この街の領主であるイスファハーン公相手におこなうときと違い、その礼は敬意からではなく、気圧されてであった。ひざまずかねば何をされるかわからない。〈剣〉の名とその統率されきった沈黙の軍勢には、そのような危惧をいだかせる異様な威圧感があった。
タカが軍勢にさきがけて市場の上空を舞っていた。
見上げて、伯父御はタカが好きだった、とファリザードは思い出した。
滅びた古代信仰と、火と光輝の神は、ゾロアスター教およびその主神のアフラ=マズダー神が元ネタです。
対極に、暗黒の神アンラ=マンユがいます。