2-17.北部諸侯会合
近寄ったネズミが素早く踏み潰された。
それまで身動きひとつせず黙坐していたジオルジロスは、ひざを立てて獣をぐりぐりと踏み潰し、足の下で血と肉に変えながら牢内の闇に呼びかける。
「六つの腐った卵を産む神よ」
テヘラーンの地下牢は凍えんばかりに寒い。
息を吸えば肺に沁みるような冷気のなかで、暗黒の神の司祭は唱える。
「“渇欲”……“熱”……“無秩序”、“虚偽”、“背信”。そしてわが守護霊たる悪思。
暗黒の六霊を従える方、万象を呪う闇を司る方よ」
岩の隙間から水が染み出る地下牢の中は、冷湿の悪環境だ。いかに生命力の高いジン族といえども病を得てしまうほどに過酷である。だからこそかれはここに閉じ込められたのである。ファリザードたちの心に、かれに対する哀れみはなかった。
にもかかわらず、閉じ込められてすでに一月近くを経過しながら、ジオルジロスに衰弱した様子は微塵もなかった。
「アンラ・マンユ――“最悪思”よ、御身のためにここに供物を捧げる。
御呪あまねく腐らせ給え」
ジオルジロスの革靴の下で、踏み潰された小動物の屍が突如として融けた。
融けた血肉は水たまりのように薄く広がり、毒煙のごとき猛烈な腐臭をたてる。
完全な闇のなかのその光景は、ただ奇怪きわまるというだけではなかった。急速に腐る屍からは、さざ波のようにゆっくり力が広がってゆく。牢番はたまたまこの時不在であったが、もしもこの場にいたとすれば、得体の知れないゆらめきを精神に直接感じたであろう。その無形の波は、岩壁という物理的な障壁を無視して外の世界へと突き抜けていったのである。
満足気に唇を舐め、ジオルジロスはひとりごちた。
「狼煙としてはまずまずか」
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衛兵を兼ね、ルカイヤはファリザードとアーガー卿の後ろにひっそり立っていた。
アーガー卿の館の大広間のじゅうたんには、狩猟の風景が文様となって入っている。その上で、クッションにあぐらをかいて雁首をそろえたのは、武張った軍服や貴人の服に身を包んだジンたちであった。
北部イスファハーン公領に領地を持つ諸侯たちである。
かれらの前には大皿小皿に入った山海の珍味が並べられている。「海」の食材といっても、北部の巨大な湖であるハザール海のものが主であるが。
……しかしかれらは皿に手をつけようともしなかった。重苦しい顔を見交わして隣の者と暗い声でささやき交わすのみである。
それでもかれら北部諸侯は出席するだけましであったろう。都市カーシャーンや都市バードなど南部よりの領主は、誰一人この会合の呼びかけに応じず顔を見せていない。
居並ぶジンの貴族たちへと、麗しく着飾った少女の声が上座から響いた。
「呼びかけに応えてくれて感謝する」
諸侯たちはいっせいに上座のファリザードに視線を注いだ。
といっても、全員ではない。
――髪はぼさぼさ、服も食べこぼしの染みのついたジンがいる。かれは周囲の諸侯と違って不安の色を見せず、ファリザードを見てもいなかった。すでに泥酔して後ろにひっくり返り、いびきをかいているからであったが。
ファリザードが可能なかぎりその男を気にしないように努めているのが、ルカイヤにはわかった。
「まずはゆるりと杯を交わして久闊を叙し、その後に議題に入ろう」
手にしていたざくろのジュースの入った杯をファリザードがかかげたが、
「そこのバハラーム卿はすでに杯を重ねておりますがね。時間がたつほどそいつの言うことは支離滅裂になりますから、そいつか議題のどちらかをさっさと片付けたほうがよいでしょう、ファリザード様」
酔っ払った男の向かいに座ったひとりのジンが、あごでかれを示し、冷ややかな笑みを片頬に刻んだ。
ファリザードはぐっと言葉をこらえたようである。彼女が何か言いたくなるのも、何を言うべきか戸惑うのも無理はなかった。
なぜといって、発言したジンの前では、歳をとった雄鶏が皿に盛られた焼き飯をつついている。
困惑するファリザードに代わり、その左手側の席を占めるアーガー卿が咳払いした。場をもたせる発言をしようとしたのだろうが、はずみでか咳が止まらなくなり、うつむいてごほごほと苦しげに咳き込む。あわててルカイヤが合図すると給仕がすっとんできて、蜂蜜湯で解いた薬をかれに飲ませた。アーガー卿はつい先日まで反乱を起こしたカースィムに幽閉され、拷問を受けていた身であり、まだ本復していないのだった。
アーガー卿に場の視線が集まっている間に、
「……ルカイヤ、おい、ルカイヤ」
すぐ後ろに控えていたルカイヤに向け、ファリザードが周囲に聞こえない小声をかけてきた。
片膝をついてルカイヤが少女に耳を寄せると、ファリザードは「なんだ、あの変な奴らは」と聞いてきた。
北部の辺境の諸侯について年若いファリザードが知らないのは無理もない。ルカイヤは彼女にささやいて教える。
「さっき発言したのは、トゥグリル卿。北の蛮国イムレッティ候国と境を接する北辺の領主だ。
“雄鶏公”と呼ばれている男だ」
「それはいいあだ名だな、一目で由来がわかる。で、由来であろうあの雄鶏はなんだ。こんなところに連れてきているのはただの酔狂か」
「いや、誓いの産物だ。
トゥグリル卿は数年前、同格の近隣諸侯との抗争で、部下たちを前に約束した。『唯一神の両眼にかけて誓う。この戦いで大功を立てた者をこの先、わが食卓に招き、われと同じ物を口にし、同じ話を耳にする栄誉を与える』と」
執拗な敵の数次に渡る攻撃を迎え撃ち、完全にそれを打ち払ったと信じたトゥグリルの軍は、そこで不覚をとった。激戦続きで上から下まで軍は疲れはてており、夜の見張りに立つはずの兵までが気絶するように寝入ってしまったのである。全軍撤退したかに見えた敵は、夜討ちのための一隊を付近に潜ませており、陣が寝静まったころに猛攻をしかけてきた。
ところが、たまたま、トゥグリル軍が糧食として農家から徴収していた雄鶏の一羽が、まれに夜鳴くことのある変わり種だったのだ。夜討ちされる寸前にその鶏鳴によって兵の多くが目覚めており、応戦がぎりぎり間に合ってトゥグリルは命を拾ったのである。
公領北部では知らぬ者のいないそうした事情をルカイヤは要約して話し、
「その後、恥じ入った部下たち含めて、『最大の功をあげた者は鶏である』と意見が一致し、誓いは守らねばということでトゥグリル卿は以降、かの雄鶏を食卓に必ず伴うそうだ」
事情を聞いたファリザードがいわく言いがたい表情となった。彼女はゆっくりと首をめぐらせ、今度は卓に上体をつっぷしたジンに目を止めた。
「それで、あっちの酔いつぶれている汚い格好の男は?」
「“断水公”ことバハラーム卿。サマルカンド公領と境を接する北東辺の都市の領主。
実はかれがかつてトゥグリル卿と干戈を交えたジンだ。
『日輪と月輪にかけて誓う。あん畜生に負ければこのバハラーム、二度と真水を飲まぬわ』と言ったものの敗北を喫してしまい、それから水の代わりに酒を飲むようになったそうだ」
「……その二人以上の馬鹿はさすがにこの場にいないだろうな?」
半目になってつぶやいたファリザードを、ルカイヤはたしなめる。
「ファリザード様、うかつなことを言うな。雄鶏公と断水公はどちらもイスファハーン公領屈指の戦巧者だ。
二人ともがあなたのお父上に辺境の防衛を任されたのは偶然ではないし、だからこそ私戦を起こした罪も、バハラーム卿の領地がハザール海をへだてた東の対岸に移されるだけで済んだのだ」
「それにしたって……雄鶏を旗印にするくらいで満足しておけばいいだろ。酔っ払っての軍議参加はもっとたちが悪い」
ぶつくさ毒づくファリザードを、ルカイヤは眉を寄せて見つめた。
変わったジンということでは、人族好みのあなたも同様だぞ――その言葉は、腹の底にしまい込んだ。
(この子はあの人族の小僧に本気だ。たしなめても効果はあるまい)
一時の気の迷いなどということはジンの恋には存在しないのだ。
ルカイヤは色香をたたえた厚めの唇をきつく噛み締めた。
人知れず早いうちに、この問題にはすっぱりとけりをつけてしまわなければならない。たとえファリザードに数十年ほど泣かれることになったとしても、どうにかして諦めさせなければならないのだ。
(小僧を説くほうが易しいのは間違いなかろう。理を説いても聞かねば、脅すか餌で釣るか)
ルカイヤの思案のかたわら、ようやく咳をおさめたアーガー卿が、まだ苦しげながら胸をさすって語りだした。
「では軍議は後にするとしても、食事前にひとまず情報を共有しておこう。バハラーム卿を起こしてくれ」
人族の老人のごとくやつれた顔ではあるが、面持ちは厳しく声には威がそなわり、北部第一の長者の名に恥じない。
その声をもって、かれは告げた。
「まず諸将の奉公に感謝する。おのおのがたがテヘラーン近郊へ率いてきた兵は、合わせて四万に達しよう。
次にこのことを伝える。ダマスカス公家が、ヘラス諸都市との休戦を無期限延期し、さらには急きょ都市アレッポの十字軍とも休戦交渉をとりまとめたという」
一座にどよめきが走った。ダマスカス公家は十字軍に国土を荒らされてきた。ヘラスはともかく、十字軍にかれらが妥協するなどという話は、だれにとっても信じがたい成り行きであったのだ。
「十字軍との休戦によって、背後や横腹をおびやかされることなくダマスカス公家軍はその矛先を東に向けることができるようになった。“盾の峠”を通過するべく、東進はすぐにも始まるだろう。もとよりダマスカス公家は戦争状態にあり、大軍を動かす用意は整っていたのだ。
ダマスカス公家軍は、練度ではさすがにホラーサーン軍に及ぶまいが、それでも長年の対ヘラス・対十字軍の戦争に鍛え上げられた帝国二位の軍。同数でも必ず負けるとは限らぬ。まして今この時ダマスカス公家が全力をあげれば、動員できる総兵力は二十万。これが上帝ダーマード様ご自身の保持する七万の近衛軍と合わされば、兵数において〈剣〉の十倍近くとなる」
アーガー卿の報告が続くほど、諸侯の瞳に宿った輝きは明るさを増していった。上帝の実家であり、帝国二位の強国であるダマスカス公領がついに起ったという知らせは、これ以上ない朗報だ。
しかし、諸侯の面には喜色に混じって微量の不満も混じる。だれかが低い声を出した。
「ヴァンダル人の十字軍ども、それにヘラス人どもめ、処刑執行が棚上げとなって歓喜に踊り狂っていることだろうよ。
まったく、十年以上も侵略者と戦ってきて、ようやく完勝を目前にしながらこちらが戦場を放り捨てることになるとはな」
アーガー卿が「やむを得まい」とそのジンに応える。
「最終的な敵の危険度が比較にならぬ。
十字軍がたとえ戦場の勝利を幾度あげようと、かの蛮族どもは大地を荒らして民心を離すだけだ。公領の一国を支配下に置く能力すらない。まして“盾の峠”を越えて帝国の東に入ってくる力は持ちえぬ。
だが〈剣〉は違う。十字軍の残虐さは規律なきがゆえであり、無道の賊がごとしの一言で片付けられるが、〈剣〉の軍の統制のとれた酷烈さは、恐怖による一種の秩序を築きあげてしまう。
もしもホラーサーン軍が竜骨山脈の東側を制圧し、帝国の五分の三を手に入れれば、〈剣〉は力を養ってから必ず竜骨山脈をまたぎにかかる。ダマスカス公家のある帝国の西側も、やつの靴の下に踏みしめられることになるだろう」
しんと広間が静まり返る。アーガー卿は安心させるように言葉を継いだ。
「心配はいらぬ、〈剣〉に余裕を与えればそうなるというだけだ。
いまのうちならば〈剣〉に勝てる。
バハラーム卿、おぬしの携えてきた知らせをこの場でもう一度語ってくれまいか」
「ああ……うん……おう……」
身を起こして酔眼をしばたたいていたバハラームは、さぞ酒臭かろうと思われるげっぷをひとつして両隣の諸侯に眉をひそめさせたあと、物憂げに報告した。
「サマルカンド公家が大軍を動員しつつある。あの東方のくそったれどもは対ホラーサーン公家戦に参加する旨を伝書鳩で伝えてきた。兵力十万は下るまい」
おお、と再度のどよめきに座が沸いた。
雄鶏公トゥグリルが、旧敵の報告に目を細め、「ほう」と洩らす。次にアーガー卿はかれに目を向けた。
「トゥグリル卿、北方の蛮族どもの動きはどうかな。白羊族はこちらに協力する姿勢を示しておるが、その他の諸部族は今回の帝国内乱にいかなる動きを見せておるか」
「グルジア王家をはじめ、蛮族どもはひとまず静観のかまえですな。ですが、われらと〈剣〉とどちらかを選ばされれば、おそらくこちらに付くでしょう。あやつは帝国の周辺国にとってつねに災いそのものでしたから。
ふむ……アーガー卿、あなたの言わんとすることはわかりました。〈剣〉はたしかに、常識で考えればこの戦争に勝てますまい。敵が多すぎますから」
「然りだ、トゥグリル卿。どれだけ強くともしょせん、現在のきゃつの従える軍は三万のみだ。その兵数はこれよりじわじわと損耗していくだろう」
ここにいたって、だれもがアーガーの意を了解した。ルカイヤは目を閉じて思う。
(……おれの生まれるその前から、ずっと昔からホラーサーン公家は強かった。味方にすら恐怖と警戒を抱かせるほどに強すぎた)
バグダードがホラーサーンの方角をつねに注視してきたことは、帝国のだれも口にこそしないが薄々感づいていた。
現にホラーサーン軍が戦わされるのはつねに大陸の北方か東方から来る侵略者相手であった。もしも〈剣〉が西へ、つまり帝国中央部へ向けて十万に迫る大軍を進めるような真似をすれば、即座にそれを止めるべく上帝による処置がとられただろう。
〈剣〉が大軍を帝都へ向けて西進させた数少ない例外は、背信帝との戦いのときである。それを除けば、ヘラスへ攻めいった“第二次ファールス戦役”とヘラス側でいわれる遠い昔の戦いにおいてすら、ホラーサーン軍は参陣を断られたのだ。そうでなければヘラスはとうに帝国の一地方と化していたであろう。
(だから〈剣〉は謀反を起こすと決意しても、絞りに絞った三万の精兵しか自領から連れ出さなかったのだな)
そのうえ、繰り出された三万は、最初は兵力を細かく分散して進軍していた。そうまでして自らの軍を弱く見せたがゆえに、誰もが油断させられたのだ。あの兵数にあの行軍隊形なら万一にも滅多なことは起こすまい、と。
そのせいでこちらは見事に奇襲を食らった形になったが……
(ホラーサーンの皮剥ぎ公よ、その苦肉の策の代償は高くついたぞ。あなたは寡兵で敵地深くに孤立することになった)
アーガー卿が二度三度と咳きこみ、「――まとめさせていただく」と喘鳴混じりの声をしぼりだした。
「ダマスカス公家がついに起った。サマルカンド公家もまもなくだ。ヒジャーズ公家もこのまま沈黙を続けはするまい。〈剣〉は上帝のおわします帝都バグダードの三重の城壁を攻略しようと猛攻をくわえているが、しばらくは攻めあぐねるだろう。奴らは大がかりな攻城用の兵器を持ってきていないのだからな。
われらの側は参戦する諸侯や部族によってどんどん兵力を増すだろう。対して〈剣〉の軍は、少しずつであっても精鋭たちを失って弱まってゆく。いや、四公家連合軍数十万対ホラーサーン公家軍三万の戦いであれば、正面決戦でも負けるとは思えぬ。早ければ三ヶ月以内に、われわれは〈剣〉の首を叩き落としていることだろう。
われらイスファハーン公家は約束された勝利にどう乗りにいくべきか? 諸侯諸将よ、それがわれらの議題だ。そのあとは、ファリザード様の婚礼の話でもしようではないか」
アーガー卿が口にした景気づけの台詞の最後で、ファリザードがぴくっと身じろぎしたのをルカイヤは見落とさなかった。