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EX3.贈り物

時系列的には2-16.嵐の前の安寧〈下〉の直後の話です。

 ファリザードに誘われ、ペレウスはテヘラーン市内に遊びに出てきていた。


 大市場(バーザール)は、昼なお薄暗い。通りにかぶさったアーチ状の天蓋が太陽の光を遮断しているからである。しかしうら寂しい感じはまったくない。歩けば体と体がこすれずにはすまないほどに人が密集しているのだ。


 にぎやかな薄闇には香りが満ちている。居並ぶ店の入口に吊るされている角灯から漂うごま油の臭い。占い師が炊く乳香や麝香の香、鉄板で炒められる香辛料入の米、ざるに積み上げられた熟れた果物、それに麻薬(ハシーシュ)呑みのくゆらせる妖しい煙の匂いである。人々の体臭も濃厚に鼻をつく。

 一歩先を歩くファリザードの甘い匂いがペレウスの鼻をかすめる。衣服に香を焚きしめてあるのだろう。

 その匂いを嗅ぎながら、ペレウスは列柱が支えるアーチ天蓋をあおいだ。


(ここなら空からの危険も心配しなくていいな)


 ひそかに安堵する。

 テヘラーン近辺に来ているホラーサーン将イルバルスは、イスファハーン公家の嫡子たちの首を刈って回っているという。市壁など軽々飛び越えてくる相手である以上、街中とはいえ完全には安心できない……だが、天井のあるここならば上空から見てもファリザードの存在には気付かれないだろう。


「ペレウス、あそこだ、見つけたっ」


 目的の屋台を発見したファリザードが足を速め、人の隙間を縫って快活に駆けていく。ジンの少女が走るのを見たテヘラーン市民が奇異の目を向ける。市場をちょろちょろ走りまわって趣味の買い食いに励むファリザードの姿は、都市イスファハーンの界隈では珍しくもない情景だったろうが、このテヘラーンでは衆目の見慣れぬところである。もっともファリザードはあまり視線を気にするふうもなく情報を聞き集め、新天地を開拓しているようだった。


「兵のひとりから聞いたんだ。この串焼きと揚げ物の屋台は、珍しい肉をつかってやっているそうだ。らくだのかかと肉やヤマネの蜜漬け、紅鶴(フラミンゴ)の舌や白鳥の水かき、ツグミの脳髄なんかだな」


 仕入れた知識をファリザードが得意げに話す。言われてみれば串刺しになって炉のまわりであぶられ、または鍋で揚げられている肉片は、大半が見慣れない形状である。


「紅鶴の舌にツグミの脳? 珍味だって話に聞いたことはあるけど……食べられるのかい?」


「試してみるか?」


「そ、それは今度でいい。もうちょっと口にするのが易しめのを」高級食材だそうだがさすがに異文化の人間からすると食欲をそそらない。


「じゃあ、これなんてどうだ」鍋の横に置かれて揚げられるのを待つ肉片のうちのひとつをファリザードが指す。ペレウスは少し警戒しつつも物珍しげに眺めた。


「なんの部位、それ?」


 と、屋台の太った主人が丸々した顔を上げ、愛想よく説明してくれた。


「羊のしっぽだよ。椰子の実の汁と塩と砂糖で下味を付けて、砕いたナッツの衣をつけて揚げるんだ。買って食べてみないかい」


「そうですね……じゃあ、二つください」


 金を渡して揚げた羊尾を椰子の葉に包んでもらう。ペレウスはその場でかぶりついた。濃厚な旨味をともなった熱い脂が口内に弾けたが、少々熱すぎた。「あちちちっ」ペレウスは目を白黒させて口を離した。


「おや、いけない。これを使いな」


 店主がのんびりと言ってなにかを手につかみ、炉越しに身を乗り出す。口を押さえて火傷に悶絶するペレウスの眼前に、黒ずんだ硬貨のような小さな円盤を差し出してきた。


「火傷した口に当てて待つんだよ。ほら、早く」


 わけがわからないが、言われるままペレウスは親指の爪ほどしかない円盤を取り、唇にそれを押し付けた。

 ――驚くべきことに、徐々に火傷の痛みが引いてゆく。ペレウスは目を丸くした。

 心配そうにしていたファリザードが、「魔法をこめたダマスカス鋼か」と目をみはる。

 店主が顔をほころばせた。


「効くだろう。こいつは“治癒石”という便利な代物でね。ほんのちょっとした傷にしか効かないんだが、ごらんのとおりすぐに治してくれるんだよ。こんな商売していると小さな火傷が多くてねえ。重宝するんだね、これが」


「どこで手にいれられますか」


 ぺらぺら自慢気に話す店主に向け、ペレウスはつい言い出していた。たとえ小さな傷しか治せないにしろ、武芸や馬術の修練で生傷の絶えない身としてはこれは垂涎の品である。

 店主は「なんだ、欲しいのかい」と眉を上げた。


「いまとなっちゃ簡単に手には入らないよ。

 これはダマスカス公領産だよ。向こうじゃ魔石を加工してこういうものを作る技術が発達しているみたいだね。この治癒石は効果が小さい失敗作で、通常の値の十分の一以下で売り払われたそうだけど、それでもかなりのお値段なんだよ。

 もっとも私は、これの使い方を知らないでこねくり回していたお大尽からただ同然で譲り受けたんだけどね。いや、ついてるよ。ダマスカス公領に行ったことがあるから使い方を知ってたのさ。

 欲しいとしたら気の毒だね。皮剥ぎ公の軍がダマスカス公領へと通じる西への道を塞いじゃったから、あっちに行くこともできないしこうした貴重品が入ってくることももうないんだ」


 店主はおしゃべりな男のようだった。察するに自分がうまくやったことを自慢したくてたまらないらしい。ペレウスは少し考えてから言った。


「売るとしたらいくらで売ります?」


 突如として店主は黙りこんだ。かれはいささか警戒したようにペレウスの持つ治癒石に手を伸ばして取り戻した。


「売らないよ」


「そうですよね。すみません」


「まあ、待ちなよ。売らないけどね……そうだな、金貨(ディーナール)五枚。はは、そんな大金払えないだろ」


 店主に言われ、ペレウスは固唾を呑んだ。


(金貨一枚で銀貨(ディルハム)十四枚分。金貨五枚なら銀貨で七十枚か)


 今日のペレウスは無一文ではなかった。ずしりと重い大金の袋が懐中にある。

 ファリザードに誘われて出てきたときに、ユルドゥズに銀貨の入った袋を渡されていた。『ホジャたち馬鹿どもが、あんたが竪琴で稼いだ金を勝手に酒代に使ったからね。残っていたお金に加えて弁償してある。ちょっとは嬢ちゃんに甲斐性を見せなくちゃだろう』そう白羊族の族長は言ったのである。

 袋の中の銀貨は、六十一枚だった。ペレウスは思い切って切り出した。


「まけてくれませんか?」銀貨六十枚くらいにと言おうとして、


「――銀貨四十枚くらいに」


「帰んな」店主が表情を消して冷淡な声を出す。あわててペレウスは食い下がった。


「銀貨五十五枚! もとはただなんでしょう」


「私がただで手に入れたからって、あんたにまけてやる義理はないね。だが、銀貨六十五枚なら考えてやってもいいね」


「銀貨五十八枚でどうです」熱心に交渉するペレウスを、横でファリザードが目をぱちくりさせて呆れ顔で見ている。


「銀貨六十二枚。これ以上は一枚も……」


「一枚まけてください!」


 鼻息の荒い店主に拝みこむようにしてペレウスは値切った。


………………………………

………………

……


「宝石商の言うところでは、安いものではないが、いいところ金貨二枚だそうだぞ。

 値切り交渉は市場で買い物するときの醍醐味だから止めなかったけど……値切ったつもりが見事にぼったくられてて残念だったな、ペレウス」


 ファリザードがにやにやしている。彼女は市場の一角にある宝石商の店舗に立ち寄って、効果の弱い治癒石の値段を聞いてきたのである。

 ペレウスはうなり、腹立ちまぎれに手にした羊尾に食いついた。かなり脂っこい味だったが、若い胃袋にとっては気になるほどのものではなく、なによりも美味だった。ぺろりと平らげてしまい、道端の犬に残った骨を投げてやる。親指についた脂を舐めながらペレウスは考えた。


(この国に来て二年か。こっちの料理にも慣れちゃったな)


 極端な珍味だとさすがに手を出しづらいが、基本的な味付けには順応してしまっていた。言葉もいつしか、生粋のファールス人に比べても遜色ないまでに熟達している。ひっかけられたとはいえ、値切り交渉ができるくらいなのだから。

 まったく、来たばかりのころと比べると隔世の感があった。

 あのころは、隣にいる少女を含め、この帝国のほとんど全てが嫌いだったのだ。


「あの屋台は表通りの肉料理屋が親戚を雇ってやらせてるそうだ。本店では仔羊の骨付き肉料理が有名だそうだから、また今度はユルドゥズたちも誘って食べに行こう」


 楽しげに語っているファリザードに、ペレウスは呼びかけた。


「ちょっと待って、ファリザード」


「なんだ、どうした?」


「これ、受け取ってほしいんだけど」


 治癒石を差し出すと、ファリザードがぽかんと口をあけた。


「……おまえが? わたしに? どうして?」


「どうしてって……贈りたいからだよ、それでいいだろ」慣れないことをする羞恥と緊張で声に力みが入ってしまう。


 最初は自分が治癒石を欲しかったのだが、ペレウスは途中から、これをファリザードへの贈り物にしようと思いついていたのだった。

 最初、それはいい思いつきに感じられた。贈るにしても並みの宝石などであれば、たとえ金貨百枚分のものだろうとファリザードは不自由しない。イスファハーン公家の所有する動産は、手形や宝石という形でテヘラーンにも保管されているからだ。入手困難となったこの治癒石のような魔具は、希少性という点でそこらの宝石より勝るかもしれない――そうペレウスは考えたのである。

 『ちょっとは嬢ちゃんに甲斐性を見せなくちゃだろう』――というユルドゥズの声が頭に残っており、ペレウスは有り金全てをはたいたのだった。


 だが、いま見てみれば、黒ずんだ治癒石はさほど魅力的なものにも思えなかった。


(失敗したかな)


 息をつめたペレウスの前で、ファリザードの表情がゆっくり笑みへとほころんでいった。


………………………………

………………

……


 治癒石には穴が開いており、紐か鎖を通せるようになっていた。

 ぼったくったことで鷹揚さを取り戻していたのだろう、屋台の店主が革紐をおまけにつけてくれていた。

 背を向けて髪をかきあげたファリザードの優艷なうなじのところで、ペレウスは紐を結んだ。


「……ありがとう」


 ペレウスが首飾りを装着し終わると、ファリザードが恥じらいと嬉しさに満ちた微笑を浮かべた。

 少年はうなずいて一緒に歩き出しながらも、奇妙に落ち着かないものを覚えていた。

 横目でかたわらをうかがえば、少女は幸せそうに胸元の飾りを触っている。こころなしかうつむいた表情は微醺を帯びたように上気し、口の端にはかすかな笑みが今もって刻まれていた。


(うれしそうだな)


 どこか戸惑いに似た思いをペレウスは抱かざるをえない。


 ――金貨二枚程度のもの、きみが当たり前のように身につけることができる宝石類に比べるとたいしたものじゃないのに。


 以前に公衆浴場の前で会ったときファリザードが見につけていた衣装を思い出す。服地には金糸銀糸の刺繍がまばゆく照り映え、鳩の卵ほどもあるオニキスが額に輝いていた。

 あの絢爛たる装飾品に比べると、ペレウスがいましがた贈った治癒石などは便利なおもちゃ以上のものではないだろう。


「……ごめん。きみには金銭面でいろいろ世話になっているのに、そんなものしか返せなくて」


 無粋極まりないとわかっていてもそんなことを言ってしまう。ちゃちなおもちゃでも喜んでくれたなら嬉しいと割り切れるものではない。

 が、顔をあげたファリザードは、首をふってきっぱり言った。


「そんなの気に病むことじゃない。おまえはもともと使節でイスファハーン公家の客分だ。わたしは使節の饗応役を父上から任されていたんだから、わたしが公家の財産でペレウスの生活を保障するのは当然なんだ。

 ……対してこれは、おまえが自分で稼いだ金で個人的に買ってくれたものだ。だから、わたしのほうが多く受け取ってる」


 台詞の後半は温かい幸福感の響く声だった。ペレウスは先刻にも増して甘酸っぱい困惑がつのるのを感じた。「……そう」としか言えない。

 戸惑いに似た疑問を抱く。かれとてまんざら木石ではなく、ファリザードに深い好意を寄せられていることは今ではよくわかっているのだが、


 ――ぼくはこの先、この子とどう接したらいいんだろう。


 ファリザードの想いを垣間見せられるたびに戸惑ってしまう。それがペレウスの悩みだった。

 初めて彼女の恋心に気づかされたとき、ペレウスは約束していた。結婚については『ちゃんときみに気持ちが向いてから、こっちから申しこむ』と。

 そのことは、帝国がひっくりかえるような事態になったためにうやむやになってしまっているが、律儀な(さが)のペレウスは忘れたわけではなかった。


 ――でも、ファリザードが示してくれるほどの好意をぼくはまだ彼女に抱いていない。こんなはっきり定まらない心境で、うかつに応えることはできない。


 なまじ深い想いに接してしまっているだけに、二の足を踏んでしまう。ふとしたはずみにファリザードが垣間見せるそれは、ペレウスがいまだ持ったことのないものだった。

 とはいえむろん、彼女を嫌っているということはありえない。

 いまや内戦状態となったこの国にとどまるのも、ひとつには彼女の抱えているであろう苦悩を少しでも減らしたいからだ。愛着、友情、そう呼ばれる何らかの情をファリザードに対して抱いているのは確かだった。

 けれどそこに、ファリザードがかれに向けてくる想いと同じ種類の熱さはない。依然としてかれは、胸を焦がすほどの情熱を彼女に感じてはいないのだ。こんな息苦しくなりそうなほどの慕情は……


(ゾバイダに対してはどうだったろう)


 イスファハーン公の館にいた奴隷娘ゾバイダと接していたときにかつて抱いた、漠然とした高揚感を思い返してみる。


(でも、あれも違うような……)


 あれはかれの初恋ではあった。だが、いわゆる「ジンの愛」に比べれば取るに足らない、ほのかな憧れにすぎなかった。今にしてわかることだが。


「言っとくけどペレウス、だからといってもう街中の竪琴弾きをさせる気はないぞ」かれの沈思をどう勘違いしたのか、ファリザードがかれの袖をちょっとつかんで拗ねた表情で口を尖らせる。「どうせ奏でるならアーガー卿の館に来て、わたしのところでやればいいだろう。そうしたら、わたしがお代を払うから」


 それをやると「一層ひも化が進んだ」と白羊族にからかいの種を提供すること確実である。まっぴらごめんだった。ペレウスは眉を寄せて口の両端を下向きにひんまげた。


「天然で言ってるのか、それ」


「て、天然って、おまえには言われたくないぞ! この朴念仁!」


 真っ赤になったファリザードがぽかぽかと肩を殴ってくる。速度があり手数が多いため防ごうとしても防ぎ切れないが、拳は軽く大して痛痒はない。そうなるとじゃれあいにしかならない。

 彼女の拳をつかもうと試みながらも、ペレウスは思考に立ち戻った。どうも自分とファリザードの会話は完全には噛み合わないが、


(……この子の相手をしていて、居心地は悪くない。それだけは確かだ)


 妹がいたらこんな感じだろうかと、かつてファリザードを見て思ったことがある。あれもいまと似た感じでじゃれているときだった。ファリザードに感じている愛しさは、肉親の情に近いのではないだろうか。


    ●   ●   ●   ●   ●


 後日談。

 市場の屋台とつながりがあるという、仔羊骨付き肉が名物の料理屋。

 久々にクタルムシュおよびユルドゥズの夫婦と同席した昼食の場だった。


「……家内がすまないね、なんだか」


「いえ……」


 呆れと嘆きを声に五分ずつこめて、ペレウスとクタルムシュは食卓の上にうつむいている。かれらの嘆息の理由は、横で食卓に身を乗り出して争う女組だった。


「族長の身分で意地汚くがっつくのはどうかと思うぞ、ユルドゥズ。ここは若い者に譲るべきだろう。わたしに譲れ」


「老いてなお健啖であるところを見せないと族長の威厳を保てないからね。嬢ちゃんこそ育ちを疑いたくなる行為はつつしんで年長者に譲りな」


 ファリザードが両手で、ユルドゥズが片手でそれぞれ肉切りナイフを最後の骨付き肉に突きたて、自分の前に確保しようとしているのだった。膠着状態に陥りながら、相手の手を引かせようと舌戦中である。

 それはどちらのナイフが先に肉に食い込んだかの主張から始まり、それがほぼ同時だったと双方がしぶしぶ認めたあとは「先に肉を取ろうと動いたのはあたしだよ。あんたがナイフふりかざしたのはその後じゃないか」「わたしは心の片隅でこの肉を常に気にかけていたのだ。それゆえ即応して後の先をとることが可能だった」「だからナイフ突き立てたのは同時だろ、後の先とれてないだろ。だいたいあんたは坊やと出かけたときにこの系統の料理を食ったんだろ。じゃあもういいだろうが、手をひきな欲深娘」「ボケたかユルドゥズ。以前の肉は以前の肉、今日の肉は今日の肉だ」と、一歩も譲らず泥沼の争いを続けている。同席しているのが恥ずかしい。


「嬢ちゃんは果物が好きなんじゃなかったのかい。この肉はあたしに渡し、そこの皿の干しブドウでも頬袋に詰め込んでな」


「果物やお菓子はたしかに好物だが、わたしは乳製品も肉も魚もまんべんなく好きだっ。偏食という欠点はわたしに存在しない。ゲテモノ料理でないかぎりどんな食品も愛する度量の広さがあるぞ」


「とことん食い意地張ってるだけだろうが。肉一切れにそこまでこだわるとは度量の狭いこって」


 ふたりともだよと突っ込みたくなってくるのは下手に会話に耳を傾けてしまうからだろう。ペレウスはクタルムシュと目線で示し合わせ、女性陣からそっと自分たちの椅子を遠ざけて卓の端に座った。食後の白湯を運んできた店主の笑顔が微妙にひきつっているが、その程度でもう心は乱さない。男二人で静かに白湯をすする。


(ファリザードがたまに大人びて見えるのは、やっぱりなにかの気の迷いだろうな)


 ペレウスがおかしな安堵を覚えたときだった。


「……ん?」


 醜い争い真っ最中のユルドゥズが口論を中断し、片眉をあげていぶかしげにした。


「嬢ちゃん、その胸……」


「え、な、なんだっ」


 町娘の格好をしたファリザードはこの日、ペレウスの贈った首飾りをつけてきていた。治癒石の揺れる胸元をまじまじ見られた少女が動揺の面持ちになる。だが肉は離さない。

 ユルドゥズが邪悪な笑みを浮かべた。


「……ふーん。ちょっと、坊や。嬢ちゃんの胸のとこだけど」


 ペレウスはとうに覚悟を決めていた。うろたえればからかわれるだけだ。なるべく心を波立たせずにさらっと認める。


「ええ、その飾りはぼくが贈ったものですが、それがどうかしたんですか」


「いいから見てみな。ほら、気づかないかい」


 言われてペレウスはファリザードの胸元に視線をそそいだ。治癒石に特に変わったところは見られない。


「別段、何もありませんが……」


「飾りじゃなくてその下。飾りののっかってるとこ。ほら、明らかにおっぱいが大きくなってる」


「ぎゃ――っ!!」


 ナイフを放り出して両腕で胸を隠したファリザードの叫び声が響く。硬直したペレウスは白湯を手にこぼして「熱っ!」と悲鳴をあげた。

 その隙に素早く肉を引き寄せてユルドゥズががつがつ貪りだす。「ユルドゥズ……」面を下に向け、いたたまれなさげに手で目元を覆ったのはクタルムシュである。


「さっ、ささ、最悪だこの女!」背を丸めて胸を抱くファリザードが真っ赤になって喚いた。勝ち取った肉にかぶりつくユルドゥズが悠々うそぶく。


「けっこうけっこう、食欲旺盛なだけあって順調に大人の体に育っているようじゃないか。いかんせんおつむのほうがてんでガキだけど」


「なっ、なっ、なにをぬけぬけとっ、それはユルドゥズのことだろうが! これが部族を背負う族長のやることか!?」


「動揺するほうが悪いのさ。これ見よがしな露出の多い服装を好むジン族のくせに、なにをいまさら隠してんだい」


「ふざけるな死ね、そういう衣装はジンの伝統だから着てるんであって、見ろと喧伝してるわけじゃない! 知ってるだろうが! だいたいペレウスに凝視させといて動揺するなとか無茶言うな!」


「店内の人に凝視されているよ。この話題いいかげんにしてくれないだろうか」首筋に汗を伝わらせつつペレウスはさすがに苦言を呈した。と、かれを見たファリザードがいよいよ胸を抱いて赤面を強める。


「待って、ペレウス、こっちを見ないでくれ」


 ぼくがどこを見ると思ってるんだと言いそうになったが、胸うんぬんの話に巻き込まれたくない。口を出さないほうが得策であろう。ペレウスは不機嫌に口角をぴくつかせつつ、顔ごと目をそむける。

 しかし静かな時間は戻ってこない。ユルドゥズのファリザードおちょくりが止まないからである。


「おうおう、ちょっとふくらんだくらいで過敏なこって。不格好なふくらみ方なのかい」


「そんなわけあるかッ」


「でも恥ずかしくて坊やにはとても見せられないんだろ。自分の体に自信がないなんて、美に優れる種族と自分たちで豪語するジンには珍しいねえ」


「だ、誰が恥ずかしいなどと言った! これは不意打ちだからうろたえただけでっ……!」


「じゃあそろそろ心の覚悟くらいできただろ。背を丸めて隠すのをやめて堂々としてればいいじゃないか。おーい坊や、いいからこっち向いて育ち具合を検分してやんな」


「やめ、ペレウス……む、むっ……」制止しかけたファリザードが呻き、涙目ながら開き直って服に包まれた胸を張った。「いいだろう、たしかにこのわたしの体に隠さねばならない箇所など本来ない! 検分でも観察でもしたければするがいい!」


「お断りします」無表情になったペレウスはつい反射的に答えてしまった。


「え!? どういうことだその言い方!? わたしの胸なんて見る価値もないということか!? たしかにまだ小さいけどひどい!」


「き、きみはたまに絶句するほどアホな方向へ話をかっ飛ばすな! ユルドゥズさんにのせられるのはやめろ、それと二度目の懇願だがこの話題いいかげんにしてくれないだろうか!」


 ペレウスは我慢しきれず突っ込みを入れた。

 クタルムシュが静かに移動してユルドゥズの横に戻る。かれはけらけら笑いっぱなしの妻にぼそりとつぶやいた。


「骨付き肉をもう一皿頼めば良かっただけでは……?」


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