EX2.手袋
本編26部「クタルムシュとユルドゥズ」で省いた村滞在中の話です。
山脈がかなたにみえる村――途中で出会った騎馬部族を新しい護衛隊として、ペレウスとファリザードは旅の終着地にようやく至っていた。
村は湧き水に恵まれ、周辺は砂漠というより草原である。
畑には水路がはりめぐらされ、葉が青々としたアンズの木が植えられている。漆喰とレンガで建てられた茶色い家々が点在していた。
ファリザードたちが滞在する村長の家は石造りになっており、日中でもひんやりとしてここちよかった。
旅装を解いたファリザードは、へそを出す長袖の赤い胴衣と、ゆったりした草色のスカートを身につけた姿になっていた。
窓ぎわにクッションをおいて編み棒をたゆみなく動かしている……といいたいのだが、しばしばその手は止まり、そのあいだ彼女は窓の外をながめている。
庭先で、ジン族の男が、人族の少年ペレウスに体術を教えているのである。
「相手の手首をこうやってとらえ、外側へねじるのだ。やってみなさい」
「こ、こうですか?」
「だめだ、つかみの時点で力みすぎだ。
指先に力を入れようとするな。てのひらを相手の手の甲に吸いつかせるように密着させて握るのだ。
そして腕ではなく腰の力でねじって投げる。このように」
「あいたたたっ!」
庭を闊歩するニワトリや羊の鳴き声に、少年の悲鳴が混じっている。
(怪我したばかりなのにあんなことに夢中になって、ペレウスの右手はだいじょうぶかな。無茶をいいだしたらほんとうに自分を曲げないんだから)
ファリザードは眉を下げてため息をついた。とはいえ口の端には微笑が浮いているのだが。
彼女の前で向い合って同じくクッションに腰かけている老女が、「いちいち気にしなさんな、嬢ちゃん」と編み棒をかざしていった。
動作のきびきびとした、姿勢のよい隻眼の老女である。騎馬部族の女族長ユルドゥズであり、庭にいるジン族の男はその夫クタルムシュだった。
「うちのクタルムシュはあれでも三百年の齢を重ねたジンだ。教え方も坊やの怪我の程度もこころえているよ。ほら、教えているのは左手の技だろ?
それよりあんただ、いちいち手を休めるんじゃない。あたしがここで編み棒なんかにぎっているのはあんたが『教えてくれ』って頼んできたからだろうが」
「う……すまない。だって、頼るはずだったわたしの乳母が巡礼中で村にいないとは思いもしなかったんだ」
「だからあたしを村内に呼んだわけかい。
まったく、人に似合わないことさせといて、自分はぼけっと恋しい男にみとれてんじゃないよ」
「こ、恋しくない! みとれてないっ!」
「五歳児すらたばかれそうにない嘘をつくんじゃないよ。説得力をもたせたかったら窓の外を熱っぽい目でみるのをやめな。
だいたい編んでいるその手袋からして、坊やにあげるために編んでいるじゃないのかい」
「たしかにそうだけど、これはお礼みたいなもので……」
往生際悪く言い訳するファリザードの声が、尻すぼみに小さくなる。
――手袋をあげたいとはじめて思ったのは、砂漠でふたりきりだった数日前の夜のことだ。寝ているかれの手におずおず触れてみて、冷たさに気づいたときだった。
状況に緊張してこぶしを胸元にちぢめていた彼女のほうは、手が冷えることはなかった。
相手の体に腕をまわして抱きしめてくるのは、いつもペレウスからだったのである。指を広げた手が冷涼な外気にさらされるため、かれの手は起きるころにはこわばるほど冷たくなっていた。
(眠るときも、わたしが冷えないように守ってくれていたんだろうか)
考えすぎだろう、単に彼自身がぬくみを求めていただけだ――とわかってはいるのだが、そう夢想するだけで胸奥に桜色の熱がじんわりしみこんでくる。
いつしか視線がまたふらふら庭へと流れていた。
「坊やの姿がみえるところだとどうしても気が散るようだねえ」
不機嫌そうにユルドゥズが鼻を鳴らし、ファリザードはあわてて顔を前に戻した。
すこし暗くなるけど場所を窓辺から離すかね――といわれそうなことを見てとり、「気になったんだがっ」とっさに質問をもちかけて強引に話を変える。
「ユルドゥズは人族なのになんでジン族と結婚したんだ?」
「よくよく集中の続かない子だね……いや、なるほどね、最初からそれが聞きたかったわけかい」
ユルドゥズがますます顔をしかめて再度鼻を鳴らす。ファリザードは首をすくめて赤くなった……が、否定はしなかった。
編み物を教えてほしいというのは彼女を呼ぶ口実だった。乳母が不在でも、編み物を手ほどきしてくれる女くらいはこの村じゅうにいるのだ。あえてユルドゥズを、村外に設営された彼女の部族の野営から呼んだのは、異種族間結婚の話を聞きたいがためだった。
「だってその、ジンと人の夫婦なんて変……いやすまない、あんまりないことだろう?」
「変でいいって。じっさいかなり妙ちきりんな取り合わせだと思うし。猫と犬が夫婦になるようなもんだからね。
いやはや、自分たちのことながら四十年前は頭がどうかしてたんじゃないかってたまに思うね」
「そ、そこまでは変じゃないはずだ!」
つい前のめりになってクッションから腰を浮かせ、否定の声をあげてしまった。
「ほう」してやったりとユルドゥズがにやりと片頬をつりあげる。われにかえってファリザードは頬を燃やしたが、気をとりなおし、なかったことにして次の問いに進む。
「子供はできなかったのか?」
「できなかったね。といっても、人族の女とジン族の男の組み合わせだからかもしれないけど。人族の男とジン族の女ならたしか前例があったんじゃないかい」
「そ、そうか……うん、そうか……
その、まわりの反応はどうだった? 一緒になったとき反対されなかったのか」
「そりゃもう、されたに決まってら。あたしゃクタルムシュの親戚から何度か殺されかけたよ。この左目はあいつの弟につぶされたのさ。
おしまいにはクタルムシュは一族と絶縁しちまったよ」
ファリザードは息をのんだ――自身の兄たちのことを考えた。彼女とヘラス人との結婚に反対してきたかれらのことを。「このような結婚を受け入れることはないぞ、いま父上は少しおかしいのだ」といちばん歳若い兄が慰めてくれたことを思いだす。ファリザードがペレウスに惹かれているなどと知れば、かれらはどうするだろうか。妹もおかしくなったと蔑むだろうか。
「……まわりに祝福されなかったのに、そこまでしてなんで一緒になったんだ?」
「んなもんクタルムシュに押し切られたからに決まってる。あいつしつこいの何のって」
なんだかはぐらかされた気がして、ファリザードは眉を寄せた。
ユルドゥズは微妙な顔をしたファリザードをみて鼻で笑った。「あんたみたいな色気づきはじめた子供は好いた惚れたの話を聞きたいんだろうがね」とからかう調子でいう。
「あたしゃ気に入ったお宝ほどしまいこんでひそかに愛でるたちなんでね。
うちの人とのそういう思い出の詳細は、なるべくふたりの秘密にしたまま墓に入りたいのさ」
のろけと話題の封殺が同時に行われて、ファリザードは話の続けようがなくなった。
そのうえにユルドゥズがおっかぶせるように、一転してそっけない言葉を発した。
「あんたがこの先どうするかはあんたが悩みな。
悪いがあたしゃ部族に責任をもつ族長だよ。ジンの大貴族であるあんたの家がこのことでごたごたするなら深入りはしたくない。『騎馬部族め、ファリザードによけいな入れ知恵を』とだれかの恨みを買うなんてごめんだからね」
ぐうの音も出ない。
それでも、ファリザードはあとひとつだけと訊いてみた。
「……幸せになれた?」
問うようなものではない愚かしい質問であることはわかっていた。それでも答えを聞きたかったのだ。
「そうさね。望んだ道を選べてとくに後悔もないから、ぼちぼちだろうね」
編み棒を止めて編み目を検分しながら、ひとごとのように淡白な口調でユルドゥズはいった。
それから、
「どのみちあたしがいえることはないよ。嬢ちゃん、あんたのなかで答えはもう決まってしまっているんだろう」
唐突に看破されてファリザードは固まる。
顔を上げたユルドゥズがふふと笑いかけた。若かりし日の凛とした美しさを残す面立ちのなかで、隻眼がふと優しい光を帯びた。
「ジンの恋だものねえ、転がりだしたら歯止めなんてきかないだろ。これでも連れ合いがジン族だから、多少はわかってるのさ」
うまくいくといいね。
そう声をかけられて顔を伏せ、ほんのりと頬を染めて「…………うん」ファリザードは小さくうなずいた。虫の羽ばたき音並みに小さな声だった。
………………………………
………………
……
ファリザードの編んでいた手袋は、翌朝に完成した。
完成したものをしげしげと眺めた末に、開口一番彼女はいった。
「これは捨てる」
「捨てるんじゃない、お馬鹿!」
「こんなみっともないものを渡せるもんかっ」
若干情けなさそうなファリザードの手に、赤い毛糸のかたまりがある――分厚いそれには指がついており、かろうじて手袋だとわかる程度の出来である。
呆れ顔でユルドゥズは首をふった。
「夜のうちに一気に進めたのかい? 集中したら速いじゃないか。でも初めてなんだから、焦らずやればよかったのに」
「いいんだ。実をいうとこれは最初から練習用として編んでいたんだから。もう一枚、今度は丁寧に編もうと思っている」
「いいじゃないか、初めての作品だから下手だけどといって渡せば」
「いやだ。こんなのペレウスにみせられない。もっと上手にできたものを渡す」
ファリザードはぐっと両手をにぎりしめて大真面目にいった。
「わたしが作ったものにふさわしい出来でないと、ペレウスのなかで、なにごとにも完璧な美少女というわたしの印象が傷ついてしまうじゃないか」
「ははは、このガキ、なかなか自己評価が高めにかっ飛んでるようだね」
乾いた笑いをして半目になったユルドゥズだったが、ややあって肩をすくめた。
「ま、あんたがそういうならいいけどね。捨てるのはもったいないよ。
あたしによこしな。この村に雑貨を取り扱ってる小さな店があったね。ちょっくらそこの店主にこの習作を引きわたしてやる。
製作者を伏せておくからそれでいいだろ」
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………………
……
その日の夕食前。
第二の手袋をせっせと編んでいたファリザードが、ぷるぷると震えはじめた。
彼女が凝視しているのは、クタルムシュとともに村長の家に入ってきたペレウスの手にしたものである。
陶器でらくだの乳の酒をすすっていたユルドゥズが、思わず破顔した。口をぬぐい、笑いにひくひくと口の端を歪めながらユルドゥズはいった。
「おやまあ、個性的な手袋」
持ち帰ってきたものに言及されたペレウスが、にこりとして高々と戦利品をかかげた。
「体術修練の合間に、クタルムシュさんに雑貨屋で蜂蜜入りの薔薇水を買ってもらいました。
その雑貨屋でこれをみつけたんです。ちょうど手袋欲しかったんですよ!」
「ぷっ、く、くひひ、いやしかし、不恰好な手袋だね」
「笑うほどですか? まあ不恰好なのは確かですけど、ちょっと形が崩れているのはしょうがないんですよ。由来を聞いたら、なんでも編み物初心者の女の子がはじめて作ったものらしいですから。
でもそのおかげでただ同然に安かったんですよ! もったいないと思いません? 素材は新品同然なのに」
腹を抱えて笑いの発作をこらえているユルドゥズが、そばのファリザードにしか聞こえない程度につぶやいた。
「きひひひ、ああ、そういや雑貨屋に引き渡すとき適当にそう説明したね……」
笑顔でペレウスが手袋をぷらぷら振っている。
「でも心をこめて編んでくれたみたいで、編み目はしっかり詰まってますから保温には問題なさそうです。
ぼくにとっては掘り出し物ですよ。銅貨一枚で買えました」
「だめーっ!」
「うわっ!?」
限界に達したファリザードが編み棒を放り出し、かけよって手袋をもぎとろうとした。
目を白黒させながらも手袋を奪われまいと背にかばったペレウスが、おっかなびっくり訊く。
「な、なんだよ、ファリザード」
「それをよこせ! そんな手袋だめだ!」
ファリザードはペレウスの背中側に回りこんで手袋を奪取しようとする。ペレウスがむっとした表情になった。
めまぐるしく伸びてくる彼女の腕から手袋を防衛しつつ、かれは訊いた。
「だめと叫ばれても……なんだか知らないけど、頭ごなしにぼくの買い物に文句つけられるいわれはないんだけど。
それともなにか理由があるの?」
「だって、もっと形がきれいなもののほうがいいだろ!?」
「ちょっとばかり崩れてたからなんだというんだ。ぼくはこの手袋が気に入ったんだ」
「き、気にいった、って……」
ファリザードがどもり、急速に腰砕けになった。
初めて編んだものが結果として好きな人に褒められている状況に気がついたのである。
「こういう実用的なのが趣味に合うんだよ。ぼくの国の現在の主流文化は倹約と質実剛健を旨とするんだ」
笑いをようやくおさめたユルドゥズが「それって単に貧乏なのでケチってるってことじゃないのかい」とつぶやいている。その声を気にしないペレウスは天地に恥じるところはないとばかりに胸をそらした。
「とにかく、このモコモコした感じも含めて好きになったんだからいまさら手放さないぞ」
「好っ……!?」
ファリザードが絶句した。尖った耳の先まで熱を帯び、焼きリンゴのようになった両頬を押さえる。湯気が頭頂から出そうである。
いきなり彼女が半泣きで静かになったために、ペレウスは意固地な態度を大幅にゆるめた。「え……そんなにこの手袋が気に入らない?」とこわごわ尋ねはじめている。
ユルドゥズとクタルムシュの夫婦が、すこし離れた炉端から面白そうにそれを眺めているのだった。妻が夫の腕をつついた。
「ところで、嬢ちゃんのほうはみての通りだが、坊やのほうは嬢ちゃんをどう思ってるんだい?」
腕を組んだクタルムシュがあごをつまんで「ふむ」と声を洩らした。
「どうも判然としない。あれはまだ体を動かすことのほうが楽しい時期だな。
そうなるとファリザード殿のほうから動かねばならんだろうが、あの娘はまず赤面症を治したほうがいいな。好機がくるたびあのように固まっていてはどう進展しようもないぞ」
「まあそのうちどうにか勇気をしぼりだすだろ。
それにしても、色恋沙汰は自分が話の種にされるとなると真っ平御免だが、他人のはみてるだけで楽しいもんだねえ」
「悪趣味だぞ、ユルドゥズ。しかしまったく同感だ」