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2-16.嵐の前の安寧〈下〉

ペレウス腹蔵せる政略を打ち明け

直後にろくでなしであったことが発覚すること

  あたりに(くん)ず衣の香 ともしび揺れて消え失せぬ


 声帯と竪琴の弦を細く震わせながらちらりと見てみれば、予想通りファリザードが真っ赤になっている。

 官能的な旋律を奏でつつ、選曲を間違えた、とペレウスはつくづく自分のうかつさを呪った。


  おぼろの影のゆらめきて 夢まぼろしの時は過ぎ

  (こま)やかなりし小夜更けて 甘き疲れにまどろめば


 路上で弾くようになって以来、かれは一曲弾くごとに歌を変え、同じ歌を一日のうちにけっして二回繰り返さないようにしてきた。かれの奏でられる曲は百通り以上あり、そのような芸当が可能なのである。

 が、多くの曲から適当に選んだ結果、よりによって途中から愛の場面が入る歌を弾いてしまうとは。


  何方(いづち)()にけむ 愛しき人

  (とばり)離れて 足音遠く……


 これまでのファールス人聴衆はヘラス語の歌詞の意味など解しないので、ペレウスもあまり気にしなかったのだが、ファリザードはヘラス語がわかるのである。それを失念していた。

 妖しげな雰囲気の箇所をまるまる飛ばそうかとも考えたが、伝統の古歌への侮辱である。それはできない。というわけでペレウスは自身もくすぐったい恥ずかしさに奥歯を噛み締めながらも、手を抜くことなく弾ききった。またも聴衆の拍手が雨のように降り注ぐ。


「む、む。良かったけど、その、大胆な歌だな……」


 茹だったファリザードが、敷き布の上に座った体をもぞつかせながら視線を落としている。恥ずかしさで没頭しきれずにいたようだった。

 あぐらをかいたユルドゥズが長い沈黙ののち、首をふってしみじみと感嘆の声をあげた。


「いや、これは驚いた。こっちが予想していたよりもずっと巧いじゃないか。そんな特技隠していたとはね」


 そう言われ、ペレウスは苦い気分になった。

 べつに隠していたわけではないが、この一年半ほどは竪琴を疎んじ、遠ざかっていた。それには理由があったのである。そうとも知らずユルドゥズが話しかけてくる。


「真面目な話さ、坊や、あんた、こっちに才能があったんだね。

 武術の筋も悪かあないけどさ、異国人の耳で聞いたって弾き語りのほうが百倍も優れてるよ……どうした、そんな顔して。嫌なのかい」


「……あまり嬉しくはないです」


 故国からこの帝国に使節として送りこまれたとき、ペレウスは長く愛用してきた竪琴を持ってきた。

 だが、その竪琴はかれの眼前で笑いながら壊された。かれが対立した都市アテーナイの使節セレウコスとその一派によってである。ペレウスがその次に手にしたのが竪琴ではなく剣であったのは、必然であった。

 あの頃はとにかく力が欲しかったのだ。竪琴は一転して無力の象徴となり、もう手にしたいとは思えなかったのである。


(もっと強くなりたいのは今もか)


 しかし、力を欲する理由がセレウコスたちへの憎しみであったあの頃と比べると、今はだいぶ事情が違う。

 長く遠ざかっていた竪琴をふたたび手に取ったのは、その憎悪を克服するためでもあった。さりとて完全に苦い思いが消えたわけではなく、ペレウスは内心を反映させたぶっきらぼうな口調で言った。


「五歳のころから一日の半ばを音楽の練習に費やしていれば、竪琴なんてだれでも弾けるようになります」


 その言葉に、少女と老女がちらりと目を見交わした。さっそくユルドゥズが疑問を呈する。


「変な話だねえ。あんたは王子だろ? なんでそんな教育受けさせられてたんだい。ほんとに楽士を育てようっていうんじゃあるまいし」


「……ミュケナイの王はある意味、楽士みたいなものです。王は大神官を兼ね、王宮は神殿を兼ね、神官は祭祀の一部として音楽を学びます。次代の王である太子も神官として育てられ、竪琴の稽古と神話の暗記が必須です」


 ペレウスは国の事情を説明した。


「政治の実務は家臣団、立法は元老院にまかせてしまいます。王は古い歌を語り伝え、歌によって神々に奉仕し、また民に神話や歴史を説くんです。

 音楽における調和(ハルモニア)が、気まぐれな神々をなだめ、国の調和につながるという古来の教えですから」


 調和。

 そう、調和だ。

 これからは自国のみならず、ヘラス諸都市の調和と結束をこそ、奏でる歌にこめよう。そうペレウスは決心した。


「ぼくは本国に連絡をとりたいんです」


 長く考えてきたことを、ペレウスはふたりに打ち明けた。


「ヘラス諸都市は、自分たちのためにも〈剣〉を討つこの戦いに参加し、帝国諸家を支援しなければならない。それを本国に具申するつもりです。すでに書信はしたためてあります。

 それはアーガー卿に頼んでなんとかミュケナイに届けてもらうつもりでいますが……私信とは別に、使節たちの総意としてもヘラス諸都市に報告を送りたいんです。

 正式な手順を踏むのと踏まないのとでは大きな差がありますから」


 となれば、ペレウスのやることは決まっていた。どこにいるかわからない使節団員をなるべく多く見つけ、報告書への署名を募ることである。全員でなくとも、主要都市の代表使節が数人いるだけで要請の重みが違う。


(……連絡役がよりによってあいつらというのが心配だけれど)


『ヘラスへの報告書は、「代表団の監督役」「書記官」を勝手に名乗っているセレウコスたちを通さなきゃならないんだぜ』――賊に殺された都市クレイトールのパウサニアスが言ったことを思い出す。

 都市アテーナイのセレウコスはじめとする民主政都市の一派は、ペレウスたち王政都市の使節たちへ陰険な圧迫を加えてきていたのである。特に目の敵にされたのはペレウスで、うんざりする扱いを受けていた。竪琴を壊されるなど序の口だったのである。


 しかし、首を振ってペレウスは不快な過去の記憶を頭から押しやった。民主政都市の者たちも、同じヘラス文明を共有する同胞なのだ。セレウコスに受けた屈辱のことはけっして忘れてはいないが、


(もう民主政都市も王政都市もない。ヘラス全体の存亡の危機なんだ。私的ないがみ合いをひきずっている場合ではないと、あんな奴らでもそのくらいはわかっているはずだ)


 ペレウスはそう心に言い聞かせ、「だから、ひとりでも多くヘラス人使節を見つけたいんです」ときっぱり言った。


「ふうむ」と興味深そうにユルドゥズがうなり、


「あんたもいろいろ考えてるんだね。やらしい稼ぎしてるだけじゃなかったんだ」


 と、あさっての方向へ話を飛ばした。


「やらし……なんですそれ!?」


 憤然と噛み付くペレウスに、「だってねえ」ユルドゥズは肩をすくめて、聴衆をあごで示した。


「若い女多いじゃないか」


 ユルドゥズのその指摘に、ファリザードがはっとして慌てて聴衆を見回す。せっかくファリザードが気づいてなかったのに余計なことを、とペレウスはのどの奥でうめいた。

 案の定、顔を前に戻した少女がにらみつけてくる。


「おまえ、こ、こんな歌を公衆の面前でずっとやってたのかッ」


「やってちゃ悪いか」


 憮然としてペレウスは言い返したが、


「まあ、弾き語りって昔から女ひっかける手口の常套だしな」


「それ不思議なんだが、なんで弦楽器なんだよ? 太鼓叩きやラッパ吹きはなぜ竪琴弾きよりもてないんだ」


「お前、飲み食いに夢中で殿下の弾き語り見てなかったのかよ。見てたらわかってるはずだって、半端じゃなく様になってるんだよ。

 指も舌も繊細かつなめらかに操れるんだよ、ちゃんとした竪琴弾きってのは。そりゃあ女の扱いもうまいと古来言われてるわけよ。笛だって指で笛穴押さえながら吹く種類のやつはもてるだろ」


「おお、なんだか色っぽい理由だな。納得した」


 いつのまに戻ってきたのかホジャ含む白羊族の若者たちが、聴衆の一角に混じってどうしようもない会話を始めていた。

 あっち行ってくれないかなとペレウスは真剣に念じるが、そんなかれの突き刺す視線にも気づかず酔っぱらいたちの馬鹿話は続く。


「演奏する姿に色気感じるなんてもてる理由としては二の次だろ。やっぱり音そのものだよ。

 殿下の奏でる調べ、気品のある音色だけどどこか(たら)しっぽいだろ。あれが女を吸い寄せるとみたね」


「ああ、あの音色には媚びのかけらもない清らかな色香を感じるよな」


「清らかっていうか、女に媚びず技術で酔わせる部類の女たらしの清々しさだよな」


「なんだかかっこいいな。でもよく考えたらやっぱり最悪だな」


「そういえば殿下がこれまでの旅中の護衛料や宿賃や水、食料の代金払ったことって一回もないな。俺らもこの都市の上層部も、ファリザード様と親しい殿下に普通に食い物分けて寄宿させてきたわけだけど、イスファハーン公家の家中の者じゃないなら厳密には別計算にすべきだよな。なし崩しになってるけど。

 それ考えると殿下ってファリザード様の威光でただ食いしてるみたいなもんじゃねえの」


「女のおかげで食えてる……つまりひも(・・)か」


「おいおい、そいつあ事実誤認だぞ。なし崩しじゃねえ。前に隊内の会計官に聞いたけど、殿下にかかるもろもろの費用は、ファリザード様が一括して支払う護衛料に含めることで話がついてるんだとよ。あれ、それってやっぱりどう考えても」


「生活にかかる金を女に全部出させてるならひも確定だろ。あの若さで外道だな」


「ばっか、あれよ、寄進で食ってても権力や大衆に媚びない神官と同じことだよ。超然として突き抜けてればひもでも気品が宿るもんなんだよ、きっと」


「それだ。殿下は養われてても一点の恥じることもないとばかりに図太く胸張って生きてるからな。小国の出といえどさすが王族、高貴なひもの資質があるな」


 わざと聞かせてるのかと疑いたくなるほど、好き勝手な論評が言い放題に垂れ流される。ペレウスの胸中で産声を上げるのは殺意である。

 ユルドゥズが若者たちを意外そうな目で見やりながら言った。


「ほお……あの馬鹿どもは戦と酒だけが能かと思っていたが、音楽を聞く耳もちゃんとあるじゃないか。音色の評価が当を得てる」


「ユルドゥズさん、ぼくそろそろ怒り出していいですか」


「ペレウス、話は終わってないぞっ」


 憤慨した様子のファリザードがばんばんと敷き布を両手で叩く。


「街中の竪琴演奏は禁止だ禁止! たしかにあばらの怪我が本復するまで武術の訓練はするなとは言ったが、だからといって、こ、こんな……歌で四方八方の女を惑わす破廉恥な真似に手を染めてはいけないっ!」


「ぼくが妖術で街の風紀乱しにかかってるみたいな言われようだな。女性に限らず男の人だって竪琴を聞きにきてるだろ」


「お金も、欲しければわたしが工面してやるから! 手広くほかの女からちゅーちゅー吸い上げるのはよせ!」


「人聞き悪すぎること言い出すな! さっきのぼくの話で悟ってくれよ、仲間の使節たちを探すために始めたんであって他意はないよ! きみまでぼくをどんな男だと思ってるんだ!? ……あ、えっと、これまで出してもらった諸費用については感謝する……考えてなかった、今まで図太く生きててごめん……」


「嬢ちゃん、嬢ちゃん」ユルドゥズがファリザードの肩にそっと手を置く。「ひもをあまり甘やかすな……じゃなかった、坊やにも男の沽券があるんだからそこを考えてやらなきゃ」


 にやにやを含んだわざとらしい言い間違いが腹立たしいことこの上ない。

 ペレウスはむすっとしてヘラスのある西方の空を見上げた。ファールス帝国が内乱に陥って以来、故国ミュケナイからの仕送りは絶えている。連絡さえついていないのだから当たり前だが、とにかくペレウスは懐に無一文の身なのだった。


(竪琴の芸で金を取るのは嫌だ、なんて甘いこと言ってられなくなってきたかも……)


 気は進まない。進まないのだが、このままイスファハーン公家つまりファリザードの財布に頼りっぱなしのほうがペレウスにとっては気まずいのだった。


 ――ヘラス人を喚ぶ狙いの演奏の効果は、数日後に出た。



時系列に沿って読む場合はEX3にお進みください。

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