2-15.嵐の前の安寧〈上〉
ペレウス弾き語りにて不本意にも名をあげること
透き通った独唱と独奏が人々を魅了する。
竪琴の弦を弾き鳴らしながら、市街の路傍に座りこんだペレウスが歌をつむいでいる。
冥王竪琴の音に感じ入りて死の法掟を曲げ
召出せるエウリュディケの手をオルペウスにとらせしも
欣喜せるオルペウスに畏怖き声もて告ぎたり
竪琴弾きゆめゆめ禁を忘れたもうな
冥界のいやはてに至るまで背後の妻をかえりみることなかれ
もし冥府を出でぬうちにエウリュディケを振り向くことあらば
汝が妻は二度と汝が胸に戻ることなかるべしと
ヘラスの神話に題材をとったその歌は嫋々として哀調を帯び、聴衆の胸をしめつける。忍び音のごとくすすり泣きが調べに混じって流れるのは、居並ぶ大衆のうち、涙もろい者たちが感極まっているのだった。
本来ならばありえないことである。
なぜというに、ペレウスが弾き語りしている歌はヘラス語でつむがれている。都市テヘラーンの聴衆が異国の歌詞を解するはずもないのだ。
それにもかかわらず、少年の歌と弦奏は評判を呼んでいた。ペレウスがこの街路で竪琴を手に歌うようになってからまだ七日もたっていないが、かれの前で耳を傾ける者は日に日に倍加し、今ではすっかり街角の名物となってしまっていた。
「もう帰るのか? もっと歌ってくれないか、幼いヘラスの楽士よ。歌の意味はわからぬが素晴らしい、おぬしは類まれな奏者だ」
ペレウスが歌と弾奏を終わらせて立ち上がるやいなや、万雷の拍手のなかで、町民の代表とみられる裕福そうな老人が切り出した。
さすがにペレウスは辟易した表情を見せた。
立ち上がろうとするたびにもう一回もう一回と引き止められつづけ、今日だけですでに二十回は弾いているのだ。正直、指が痛い。
「いえ、そろそろ夕刻ですので、宿に帰らないと……」
「宿を引き払ってわが屋敷に来てはどうかね。羊と鶏を屠らせて夕食としよう。案ずるな、ここにいるおぬしの仲間の者たちもともに歓迎しようではないか」
老人はちらりと視線を地に落とし、ペレウスの周囲で酒を頭から浴びるように呑んだくれている白羊族の若者十数名を示した。「え? ほんと? ご馳走してくれるの? 俺行く!」へべれけとなった白羊族の若者たちが肩を組んでふらふらしながら立ち上がる。ペレウスは渋い顔になった。どうやらこの酔いどれ共と一緒に旅芸人かなにかをやっていると思われているらしい。
「誤解があるようですが、ぼくもこの人たちも、芸人というわけではなく……」
裕福そうな老人は聞く耳を持たず強引に誘いに出てきた。
「いっそしばらく滞在せんかね。わが家で弾いてくれるならば、食費も宿賃もいらぬ。それどころか滞在一日につき、おぬしには銅貨五枚を払うぞ」
老人がひげをしごきつつ申し出た誘いに、町民たちのうちから不満の声が次々上がった。
「汚いぞ、ご隠居。楽士を客として独りじめする気だな」
「そのようなことは意図しておらぬ」文句を言われ、老人は悠揚迫らぬ態度で手を振った。「むろん、みなも来てわが家の座敷や庭でこの者の至芸を心ゆくまで楽しむがよいぞ」
「わざわざ移動せずともここでいいだろう。この楽士はしっかり稼げる腕があるんだ、銅貨五枚ぽっちでそっちの家になんか行く道理がないだろ」
「このような街角などより、もっと落ち着けるところで演奏してもらうのがよいではないか」
「どうせその楽士のべっぴんっぷりに惚れ込んで家に囲おうってんだろう。目付きがあやしいぞ、助平じじいが。四六時中狙われてたらてめえの家なんて落ち着くどころかい」
「なんと申したな。わしに少年趣味はないわ。たわごとをぬかすと承知せんぞ、唯一神が貴様の呪われた舌を腐らせますように」
品のないやじを飛ばされた老人がいたく憤激し、やじった者に向けて大声で言い返す。
べっぴん呼ばわりされたペレウスも機嫌を損じたが、眼前で喧嘩を始められると自分の不満は飲み込むしかない。口汚い応酬をあわててさえぎり、ペレウスは「お金が欲しいわけではないので」と否定した。
が、町民たちはそろっていぶかしむように首をかしげ、「だが銭を集めているではないか」と指さした。
「お代はこちら。お代はこちら」
指された方向では、酔っ払って足取り定かならぬ白羊族の若者たちが碗を持って人垣を歩いている。放り込まれる貨幣がちゃりんちゃりんと涼やかに鳴り、どの碗もたちまち満杯になってゆく。
ペレウスの眉が吊り上がった。
「ご、護衛と称してあの連中……」
ついてきた白羊族のかれらがいつのまにか酒を飲みだしていたのは気づいていた。小遣いがないと常日頃からぼやくすかんぴん共がどこに酒代を貯めていたのだろうと演奏しながら不思議に思っていたが、どうやらペレウスの弾き語りを利用して代金を勝手に聴衆から集め、酒に替えていたらしい。
ペレウスの形相に気づいた若者のひとりが、「まあ、まあ、まあ」と寄ってきてばんばんとかれの背中を叩いた。ははははと笑いが酒臭い。
「殿下、ここはひとつ、これが護衛料代わりってことでどうですかね」
「護衛なら泥酔するのはどうかと思いますが!?」
「だっていい音楽をそばで聞くときはいい酒を合わせたいじゃないですか」
わかるようなわからないような理屈で堂々と開き直られ、ペレウスはあきれ果てて怒気を削がれた。
「……あのですね、ぼくが弾いているのはお金を取るためじゃないんです。仲間を探すためなんですから」
ペレウスは同じヘラス人の少年使節たちの行方を探していた。
すでにファリザードやアーガー卿を通じ、使節たちの情報を集めてもらっている。だが、ひとり手をこまねいているのは性に合わず、悩んだ末にかれは自らの特技を使うことを考えたのである。
ヘラスの音楽を街角で奏でていれば、ヘラス人とゆかりのある者が興味を覚えて寄ってくるかもしれない。その中には帝国じゅうを歩きまわる旅人や貿易商がいて、どこかにいる少年使節たちの情報を持っているかもしれないのだ。
また、それだけでなく、こちらから所在を明らかにして目立っておくことで、こっちの情報が逆に仲間たちに伝わるかもしれない――という心算もあった。なお、ヘラスと帝国の長い戦争状態にもかかわらず貿易は完全には途絶えておらず、ヘラス式の竪琴は市場で買うことができた。
が、計算は狂った。人目を引くことができなかったのではなく、その逆である。受けに受け、目立ちすぎているのだ。
目論見通り情報を発信できているのは喜ばしいが……ペレウスは複雑な心境であった。
もともと、ミュケナイの王族の一人として神殿兼王宮で研鑽させられてきた神聖な芸を利用するのは、ただでさえ忸怩たるものがあったのに。この上、金まで取るともはや大道芸ではないか。
「とにかく、お金を勝手に集めないでください」
ペレウスの念押しに、白羊族の若者は歯を剥きだして笑み崩れた酔顔を見せた。
「固いこといわないいわない。代わりにこっちの言葉での知るかぎりの口説き文句を教えてあげますって」
「な、なんですかその交換条件はっ! 断じてけっこうです!」
「だって殿下、テヘラーンじゅうの町女に人気出てますよ。この場を注意して見渡したらどうです。
この聴衆の半分以上は若い女ですぜ。はしたないってんで男の前にでてこないし、大声でおおっぴらに褒めたり野次ったりしないから目立たないけど」
言われてペレウスは気づいた。たしかに妙齢の女性が多い。頬を染めてくすくす笑いながらかれをちら見し、息を弾ませるようにして仲間内でひそひそ話をしている少女たち。歌の余韻が冷めやらないのか、木陰からぼんやりと熱っぽい目でペレウスを見ている婦人。明らかに娼婦風の服装をした者たちまでいて、目が合うとからかい半ばの蠱惑的な笑みを投げかけてきた。
口元をこわばらせて赤面したペレウスに、にやついた若者はさらに言ってきた。
「よりどりみどりじゃないですかあ、え? 俺たちに感謝してもらいたいところですよ、『あの楽士は優男に見えるがああ見えてカースィムを倒したジン殺しの勇士だ』って歌の合間に触れ込んだから、ますます殿下に興味示す女が増えたわけで」
「ちょっと、な、なにを事実からほど遠いでたらめを……!」
かれはカースィムを殺していないし大部分はファリザードが戦っていたのである。ペレウスは抗議したが、
「まるきり事実に根ざしてないわけじゃないし、問題ないですって。
これでも俺含めて白羊族の若い奴らみんな、ジン族と決闘なんて無茶ができる殿下の度胸には感心してるんですよ。あれ以来、みんな殿下には丁寧な態度取ってるでしょ」
急に真面目な顔で言われ、いよいよ返答に困ったペレウスだった。だが、
「――っても、まだガキすぎて自分から女をひっかけに行く度胸はなさそうですね。
あ、でも、ほんとに手を出すなら慎重にやるくらいでちょうどいいか。女の旦那や父親にばれたとき血を見ますし」
一転して軽薄な馬鹿笑いを轟かせる若者に、ペレウスは怒気をよみがえらせて脳天から立ち昇らせた。
「そっちの度胸はいらないし身につけるつもりもない!
というか、丁寧な態度になったってどのへんがだ!」
「ジン殺しは嘘でも女殺しの素質はたっぷりなのにもったいないなあ。吟遊詩人なんて浮き名流すのが商売の半分みたいなもんなんですぜ。
ああそっか、心配無用ですよ。ファリザード様には黙っときますって」
「ちっ、違う、別にファリザードを理由に言ってるわけじゃっ……!」
陶器の酒瓶を手にからかう若者と、竪琴を抱いたままむきになるペレウスだったが、
「わたしがどうかしたのか、ペレウス?」
きょとんとした少女の声と、
「おい、ホジャ。あんたらがいい気分できこしめしてる酒の出どころについてちょっくら説明してもらおうかね」
霜のおりた老女の声が路地に響き渡り、ペレウスと若者双方の赤面が急冷して蒼白に固まった。
ねじ切れそうな勢いで首をめぐらせたかれらの前に、予想通りの二人が聴衆のざわめきを浴びて立っている。質素な服装のファリザードと、背をまっすぐに伸ばした隻眼の老女ユルドゥズである。
「宿にいないから探したぞ、ペレウス。ところでなんでこんなに町の人が集まっているんだ?」
首をめぐらせるファリザードの周囲から、虎から逃げる胡狼のように素早く人垣が引いていく。かれら町民は、ジン殺しと噂されている少年に喝采しているところを、少女とはいえ支配層のジン族に踏み込まれて、驚愕と緊張を覚えたようだった。
そうした類の畏れとは無縁であるペレウスだが、現在は別の理由で微妙にファリザードにびくびくしている。
「い、言っとくけど不埒な目論見でやっているわけじゃないぞ」
「? なにをだ? 竪琴を持っているが、おまえそんなものが弾けたのか?」
首をかしげるファリザードは幸いにして、ペレウスが(若い女中心に)評判となっていることを知らないようである。人族の社会と、その上層にあるジン族の社会とでは、噂のめぐり方が違うのかもしれなかった。
ユルドゥズが離れたところからファリザードに教えた。
「ああ、その坊や、最近はそれを弾いて歌うことで有名人になってるらしいのさ」
彼女はそれから若者に向き直って無表情となり、じっとねめつけた。ホジャと呼ばれた若者が「ぞ……族長。こんな狭い路地にお越しで」とおののき混じりにつぶやく。ユルドゥズは佩いた刀の柄をとんとんと指で叩きながら追求を始めた。
「あんたらここにいる連中は、たしか、今月の給料を全て博打ですった組だったね。ふんふん、この匂いは上等のぶどう酒じゃないか。酸っぱい馬乳酒やらくだの乳の酒みたいな安酒じゃあない。こんないい酒を飲めるとはどういうわけだい、あん? 博打で大勝ちでもしたのかい?」
「……そう、そうです、目をつけていた鶏が、闘鶏で素晴らしい勝ち方をしまして!」
「ペレウスと名前がついている若い雄鶏かい」
ユルドゥズが瞳を細めて鼻先で笑う。はははとひきつり笑いをこぼす若者に、老女は剣呑な眼光で応えた。
「どうも近頃、若い連中は元気が有り余ってるようだね。ウルグも兵を調練したがっていたし、明日あたり久々に城外に出て数日ぶっ続けで訓練といこうか。いつも通り死人が出るすれすれくらいでやるから、今晩はぐっすり寝てせめてもの精気を養っときな」
「あ、ありがとうございます……」
ほうほうの体で若者が逃げ出す。銭を集めていたほかの白羊族の青年たちも、いつのまにか姿を消している。あたりに散乱するつまみの食べ残しや空の酒の瓶を見てユルドゥズが嘆息した。
「っとにもう、若い奴らの阿呆さ加減ときたら……あれでも戦士としては優秀な者を選抜してきたんだけどねえ。
ま、それはそうと」
どっかりとその場に腰をすえ、ユルドゥズはペレウスにあごをしゃくってうながした。
「よければあんたの竪琴、あたしにも聞かせとくれ」
「あ、それはわたしも聞きたいな」
ファリザードまで興味を示してくる。もう帰るつもりだったのにと思いながら、ペレウスはしぶしぶ座り込んで竪琴の弦に手を添えた。
一度は遠巻きに離れた町民が、かれが奏で始めたのを見てそろそろと近寄ってきていた。
ペレウスが演奏スキル持ちなのは、序盤で武芸スキル皆無の文弱少年だったことと関係があります。そのあたり詳しくは次回に書きますが。