2-14.空戦力
イスファハーン公子エラム救出隊、敵に逆襲されるも
その隊長、死地にて希望を見出すこと
風は凍てつき、白い山腹を駆け抜けている。
都市テヘラーンの北、アルボルズ山脈につらなるひとつの山。そこは海抜三千ガズを超える高峰であり、溶けることのない雪に覆われていた。
旋回していたタカが舞い降りる。
高みから投げつけられたナイフのごとく、死を伴って飛鳥の影は急降下する。迎え撃つべく弓を手に雪原からはね起きたジン兵の頭上で、その影が姿を変ずる。タカの身が転じて屈強な肉体と化し、ホラーサーン将イルバルスの姿が顕現する。
イルバルスの鎧の胸甲に埋め込まれた、半月形の魔具が赤く輝く。
世界がまたも傾ぐ。
足場は斜めに、それから垂直に近づき、大地は絶壁となる。
積もっていた雪がざあっと鳴り、水流のように地平へ向けて流れ落ちる。
縦横が倒転したことで、今まさに空中の敵を迎え撃とうとしていたジン兵の体勢も大きく崩れる。叫びかけた兵の顔面を飛来したイルバルスが勢いのままに踏み砕く。爆発同然に兵の頭が吹き飛び、脳漿が雪原を彩る。
ジン兵の死体が横へと落下していく。
殺された兵の仲間である都市テヘラーンのジン兵たちは猛る。囲むように殺到し、イルバルスに前後左右から斬りつけたいとかれらは願う。しかしそれは叶わない。動けないからだ。かれらも血眼となって腹ばいになり、横へと落ちぬよう岩やまばらな木にしがみつくだけで精一杯だからだ。
自身の魔具の力で自らも雪原を滑り落ちつつ、イルバルスは雪煙を蹴立てて飛び出した。タカに変じて羽ばたき、空へと戻ってゆく。
怒りに震え、ジン兵の隊長は身を起こす。イルバルスがジンの姿から変わるやいなや、世界を傾けていた力は消えている。
次の獲物を見定めるかのように頭上を舞うタカを見つめながら、隊長は煮えたぎる憎しみの中で現実を直視する。部下たちは戦意を失ってはいないがあと十六名しか残っていない。
(われわれの戦力ではあやつに勝てはしない)
かれらはファリザードに遣わされたイスファハーン公子エラム救出隊、もしくは敵将イルバルス討伐隊だった。都市テヘラーンのジン兵のうちから選ばれたのが三十名。同じく選りすぐられた人族の兵が五十名。といっても、行動をともにしていたわけではない。
身軽なジン兵は山に分け入ってエラムもしくはイルバルスを探す。
人族の兵は、白羊族とやらいう傭兵どもになりきって砂漠に留まる。その場所は、白羊族が留まっておくようイルバルスに命じられた場所だそうで、そこに兵は罠をはり、彼奴が来たならばだまし討ちでもなんでもとにかく討ってしまえばよい。
それが当初の計画だった。
その計画は、数日たたぬうちに破綻した。
(判断を誤った。愚かにも)
奇襲は、それがあることを敵に看破された時点で成立しなくなる。
いつのまにかかれらは狩る側でなく狩られる側となり、発見され、追跡され、攻撃されていた。
おそらく罠をはっていた人族側がしくじったのだろう。日に一度の、煙を利用した安否報告が昨日から途絶えていた。
イルバルスの力量のほどを知ったいまでは、それも仕方ないと思える――人族の戦士五十名に取り囲まれても、イルバルスはなんの動揺も覚えるまい。襲われたと認識した瞬間、魔具の力で世界を傾けることでいっぺんに片をつけてしまったのだろう。体が重い人族は数ガズを落下しただけで簡単に死傷する。
だが、誤ったというのはそこではない。
こちらの攻撃の意図がイルバルスに漏れた時点で、一目散に下山して逃げるべきであったのだ。索敵範囲も追撃速度も圧倒的なこの敵から逃げ切れたかは別として。
(エラム様を探すことに固執するべきではなかった)
かつてエラムに会ったことのあるかれは、それゆえにこの即席の救出部隊の長に抜擢されていた。またそれゆえに、引き時を見失ってエラム救出にこだわりすぎたのである。
(早めの撤退を決断していれば、部隊を半壊させずに済んだかも知れないのに)
半壊どころか全滅がちらついてきている。
雪嶺を横切るときにイルバルスにとうとう襲撃され、追いたてられはじめたのはつい先ほどのことだ。三十対一であったにもかかわらず、もう半数近くが討ち取られた。しかもホラーサーン将は明らかに面白半分で狩猟に興じている。そうでなければ戦闘とも呼べぬこの一方的な殺戮がだらだらと引き伸ばされているはずがない。
「あいつの使う魔具、話に聞いていたあれですか。対軍級」
隣で雪にまみれて身を起こした副官のジンが吐き捨てる。対軍級魔具“虚空の覇者”――イルバルスの二つ名ともなっているその魔具は、スライマーン王がジンに鍛えさせたと伝わる伝説的な魔具のひとつだった。
飛翔能力を有するジンが持つことで最大限に力を発揮する代物。
こちらの平衡感覚と、実際の大地の吸引力をねじ曲げる力。
当代の数学者、地理学者、それに占星術師をかねる天文学者の言うことによれば、この世界は丸く、大地の中心にはあらゆる物体を引きつける力があるのだという。その力が垂直に物体を引くがゆえに、物は「落下」する。イルバルスの“虚空の覇者”は、半径数十ガズにわたって、その引く力を地と並行にねじ曲げる。それは現在、ここで死戦する部隊が確かめさせられている。
(鳥に変化する力だけでも手に余るのに、はた迷惑なものを使いおって)
イルバルスが縦横倒転の魔具を使うだけで、こちらは部隊行動が阻害される。羽のない虫が木の幹にとりつくように、絶壁となった大地にしがみつくことしかできなくなる。
個々の距離はそう離れていないのにまともに動けず、空中から捕食者に襲われて各個撃破されてゆくのだ。
副官が決断を求めてくる。
「どうします、隊長? イルバルスを陰から討ち取るにはすでに機を逸しました。ここに踏みとどまれば、あの野郎にわれわれを狩る楽しみを提供するだけだす」
(エラム様のことは諦めよう。どうにか生きてテヘラーンに戻り、イルバルスは奇襲が通じる相手ではないと報告することが第一だ。やつを討つためにもっと強力な部隊、いや、軍を送りこむようファリザード様とアーガー様に具申せねば……)
屈辱を胸の奥に押しこみ、隊長は命令を下した。
「抗戦はあきらめるぞ。森か洞窟、せめて岩場に逃げこめば助かるはずだ。縦が横になっても足場がある地形だからな」
「承知しました……ですが、そこにたどり着くまでにひとりずつ潰されそうですね」
「俺が残って奴の遊び相手になる。その間にお前が指揮をとって皆を逃がせ」
言いながら隊長は合図用の呼子を副隊長に渡した。
そして自分の呪印の力を巡らせはじめた。魔石を織り込んだ布の服が毛皮と同化し、四肢が獣のそれとなってゆく。
最初は雪豹に変ずるこの力を冬の山地で存分に役立てられるだろうと思っていたのだが、あいにく甘い考えであった。敵の能力はこちらを歯牙にもかけていない。それでも、部下たちを逃がす間の囮程度にはなれるだろう。
なにか言いかけた副官が口をつぐみ、呼子を加えて三度鋭く鳴らした。撤退の符牒である。戸惑った表情で振り返る部下たちの顔に次々理解が浮かび、かれを口々に制止しようとする。副官がそれを抑え、かれの毛を生やし始めた耳にささやいた。
「あなたではなくわれわれのほうにやつが来たら、あなたはその姿のまま逃げてください。
テヘラーンに報告するためには誰かひとりが逃げられればよいのですから」
副官は振り向いてジン兵たちを叱咤し、山麓へと向けて走り始めた。ためらいながらも兵がその後ろに続く――動かない数名に対し、雪豹は早く行けと牙の間からうなりを上げた。
(この死地は俺の責任だ)
……ようやく部下の全員が走りだす。雪豹は天空を旋回する敵を見上げ、俺のほうに来いと強烈に願った。
イルバルスの呪印の力は“変化”と“大力”――厄介なのは変化によってもたらされる飛翔能力だが、大力においても、鉄の棒を両手でねじ切るという。接近戦ではほとんどのジンはまず勝てまい。
それでも殿として、命あるかぎり抗って時間を稼ぐ必要がある。
死が降ってくるのを待ちながら、俺ではなくクタルムシュ卿に指揮をとってもらえばよかったのではないか、と雪豹は思う。あの元近衛隊長を務めたほどのジンは、まさに奇襲向きの人材だった。その手練のほどは助けられたことでつぶさに見せられている。
(次があるなら、相手が客分などということに頓着せず、是が非でもクタルムシュ卿に頼むべきだ。
イルバルスを討てるとするならクタルムシュ卿くらいだ。あやつは、必ず討たねばならない)
〈剣〉本人は言うに及ばず、その幕僚であるアルプ・アルスラーン、ザイヤーンやウルジェイトゥなどほかのホラーサーン軍のジン将も、イルバルスに負けず劣らず怪物めいた能力を持つ連中だとは聞く。
だがその中でもイルバルスは、生かしておいては厄介すぎる。そう、厄介なのだ。斥候としても通信兵としても暗殺者としても。
むろん戦場における遊撃の将としても。
呪印と魔具の力で、山岳戦を、平野戦を、騎馬戦を、船団をもってする水上戦を制されてしまう。
ホラーサーン将イルバルスは、空戦力をまるで持たないイスファハーン公領の軍とは相性が悪い。空戦力を抑えこめるのは空戦力なのだ。こちらに飛翔できるジンさえいれば、討てずともやつが自在に飛び回るのを牽制することができるのに……
沈思から我に返り、雪豹は空を見上げる目を細めていぶかしんだ。
(なぜ降りてこない?)
鳥影は落下せず、部下たちのほうを追うわけでもなく、ただ頭上に円を描いているだけである。
見定めているようにも見えた――だが、何を?
それが明らかになったのは、タカがとうとう雪豹の頭上の高みからついと離れ、峰の一つへと舞い降りたときだった。
大敵が離れていったにもかかわらず、雪豹は困惑し、見つづけていた。ひどく嫌な胸騒ぎがしていたのである。
一本きり雪中から突きでたかのような大木に、ジンの姿となったイルバルスが片腕でつかまる。
鎧の胸甲の魔具が光る。
イルバルスの周囲の雪が横に落ち始め――
突如、雪豹の脳裏でがちんと理解の歯車が噛みあった。
視線の先、雪の瀑布の中で、イルバルスが大きく口を開ける。舌のない口腔が火のように獰猛に赤い。がッ、がッ、がッと濁った音が赤い口からほとばしる。
それが嗤笑だと、雪豹は理解した。敵がなにをしようとしているのかも。
(あやつ、魔具の力で雪崩を起こすつもりか)
横に落ちる雪は連鎖を呼び起こし、イルバルスの“虚空の覇者”の効力範囲を出てもとどまらず、そのまま激流となるだろう。
その流れの向かう先が雪豹には予見できた。雪崩は戦場から離れつつある部下たちを襲うはずだ。
(やめろ)
やめろ、と叫ぶ。声は焦った咆哮となった。
雪豹は敵めざして駆けた。接近すれば殺されることはわかっていても、今すぐに敵を止めなければならなかった。全速力で雪原を滑るように走る。
赤い笑いが、愉悦混じりの殺意をもって待ちかまえている。
だがその時に、声がする。
谷をはさんだ向かいの峰から、峨々たる山間に反響する叫び。
「こっちだああああ――くそ野郎――!」
そしてその直後に小さな飛鳥の影が、向かいの山頂から飛び立ち、見る間に雲海に姿を消した。
雪豹は唖然とすることになった。笑みを浮かべていたイルバルスがすさまじい形相に変わってばっと身をひるがえしたのである。奔雷のごとき勢いで宙に飛び出し、変化して向かいの峰をまっしぐらに目指す。半ばまで討ち取った敵の部隊をかえりみることなく、こちらへの一切の興味を投げ捨てて、ホラーサーン将が空の彼方に遠ざかっていく。
命を拾ったと思うより先に、雪豹は呆然として目撃したものを判断しようとした。
こちらを救ったあの声の主は、
(……エラム様?)
それに、遠すぎてはっきり見えはしなかったが――声の直後に飛び立った影は、明らかに飛鳥のものだった。
(それが理由なのか? イルバルス)
まだイルバルスがエラムを仕留めきれていないのも、これほどまでに執拗に追っているのも。
(エラム様はお若く、前にお会いしたとき呪印の力はまだ目覚めていなかったが)
興奮に雪豹の尻尾がくねる。
もしかしたら。
もしかしたら、空を制することのできる貴重な戦力が、イスファハーン公家側にも備わるかもしれない。
雪豹は尾をめぐらせて駆け出す。あえて部下たちの後は追わない。
死ぬわけにはなおさらいかなくなった。
救われたこの命をもって、絶対にテヘラーンに帰還し報告せねばならなくなった。次の救出部隊こそ必ず成功させねばならない。