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2-13.乳母〈下〉

ルカイヤ、ファリザードの成長に一喜一憂させられること

 残念ながら、特別な報酬を払う気は失せつつあった。

 着付けのためだけに存在する奴隷も一人か二人手配するべきだったと、ルカイヤは後悔している。


(着付け専門の奴隷ならば黙って本分を尽くすだろうに)


 ルカイヤ自身はすでに軍衣を身につけているが、ファリザードはまだ裸だった。

 浴室では専門職として文句なしの働きぶりを見せた浴室奴隷たちは、脱衣場に上がるやいなや目も当てられない有り様となった。ファリザードの衣装を手に彼女らは議論を戦わせている。


「この首飾りに合わせるなら断然こちらの服よ。開いた胸元がほどよく強調されて、そこで首飾りの宝石が官能的な輝きを見せつけるわ」


「だめよ。ファリザード様のお体の寸法なら、お胸を強調するのは誤りよ。こちらの衣装ならば体型の優美さが引き立てられるはずだわ」


「そもそも、なんで首飾りに合わせるのよ。服に合わせて装飾品を変えるべきよ。その首飾りはファリザード様には大きすぎて不恰好だわ」


 百人でもいちどきに入れる広い脱衣場だが、白い漆喰の壁に声が反射してかまびすしいことこの上ない。

 彼女らの手にある何枚もの衣装は、アーガー卿がファリザードのために手配した品である。生地は絹や仔羊毛。装飾品は耳飾りや首飾りなど無数に取り揃えられており、金銀をはじめとして翡翠(ヤシュム・サブズ)トパーズ(ヤークト・ザルド)ルビー(ヤークト・サルフ)サファイア(ヤークト・カブード)、星のように貴金属が輝いている。

 自分が身につけるわけではなくとも、これだけ贅美を凝らした衣装で、極上の素材を着飾らせるのは楽しいものらしい。ああでもないこうでもないと互いに言い合いまでして熱心に選定している。


 ルカイヤは苛々した。早くしろ、この子の体が冷えたらどうする――と、体を拭く布でファリザードをとりあえず包みながら考える。


(おれが着付けをやったほうがよさそうだ)


 そう考え始めたとき、ルカイヤと同じく苛立った表情で、まとめ役の解放奴隷の女が「早くしなさい」と一喝した。我に返った奴隷たちが慌てて口をつぐみ、てきぱきと服を選び出す。


 解放奴隷の中年女は深々と嘆息し、言い訳した。


「ファリザード様に近い年齢の者をということで若い子たちを選んだのですが、技術はともかく細かいところでの教育が行き届かず……」


「では、以後はよく仕込め。他の公領であれば、今しがた無駄口を叩いていた者らはそろって罰されてもおかしくないのだぞ」


 ルカイヤが冷ややかに言うと中年女は青ざめて口をつぐんだ。ファリザードに服を着せ始めていた奴隷たちもルカイヤに怯える目を向けた。

 忌々しいのは、萎縮した奴隷たちが救いを求めるように一斉にファリザードをふりあおいだことだった。


「ルカイヤ、そこまで厳しく言わずとも。わたしのために熱心に選んでくれてたんだ」


 ファリザードがルカイヤの袖を引いて取りなしてくる。

 先ほどの解放奴隷より深いため息をルカイヤはついた。そのようにあなたが甘やかすから奴隷があなたの前で増長するのだ――そう言いたくなる。


(こうした甘さは御父君そっくりだ)


 先ほどのルカイヤの叱責は脅しではなく事実である。奴隷に沈黙と能率を求めるホラーサーン公領であれば、間違いなくこの女奴隷たちは舌を切り取られているだろう。〈剣〉ほど酷烈でなくとも、このような失態には何がしかの罰が下されるのが通常だ。

 それがイスファハーン公領では大目に見られてしまう。公領法の定めるところにより、奴隷を罰するには持ち主であっても煩雑な手続きを踏まねばならないからである。

 人族の平民や奴隷に対し、イスファハーン公領は帝国のうちでもっとも慈愛に満ちた土地なのだ。それもこれも大領主のイスファハーン公家の温柔な家風ゆえである。


(慈悲の濫用は力の濫用とおなじく間違いだ。ファリザード様にはそのうち、もっと支配者らしくふるまうことを説かねば)


 不機嫌に腕を組んだルカイヤだったが、服を着せられるファリザードを見るうち、徐々にその険しいまなざしはゆるんでいった。


 薔薇の刺繍をあしらった薄手のシャツとスカート。

 黒ビロードの腰帯になめし革の赤い胴衣。

 細い手首には黄金の腕輪。

 鳩の卵ほどもあるオニキス(ジャズ)を象嵌した黄金のひたい飾りが、秀麗な眉目の上に輝いている。

 首巻きをふわりとまとって、ファリザードは久々に少女らしい装いである。


 大鏡の前で体をひねって服装を確かめているファリザードを、ルカイヤは満足気に眺める。美しく育った娘を見つめる母の目で。


(まだ十三歳だが、この子ほどの佳人はジン族にもそうはいるまい)


 親馬鹿気味にルカイヤがそう思ったところで、


「まともに着飾るのはひさしぶりだ。ルカイヤ、似合うか?」


 そう問いながらファリザードはつま先を立て、スカートのすそをつまんで楽しげにくるくる回りだした。ルカイヤは微笑ましくなる。


(中身はいかんせんまだまだ落ち着きのない子供か)


 ファリザードのふるまいに現れるのは色香よりも稚気である。

 だが、もう数年もすればその比率も逆転するはずだ。ルカイヤはファリザードの両肩に後ろから手を置いて回転を止め、かがみこんで耳にささやいた。


「似合うとも。どんな男でも、そいつに定まった相手がいない限りあなたに見惚れることだろう。

 回ったりせず慎み深くしていれば、だが」


 とたんに――

 ファリザードがかあぁっと首筋まで血を上らせた。首根っこをつまみあげられた猫の子のようにおとなしくなって、うつむいて呼吸音並みの小声でつぶやく。


「そ、そうか? うん、じゃあ回らない」


(おや)


 これまで見たことのない反応にルカイヤは目をみはった。このおてんば娘が、異性の目を意識するようになっているとは。

 ファリザードが大人になるのは、思っていたより早いかもしれない。

 どういうわけか、今度は満足ではなく感傷的なうずきがルカイヤの胸にこみあげた。彼女は首を振ってそれを否定した。


(……悪いことではない。まるきり子供のまま嫁ぐことになるよりは)


 戦の流れによっては、ファリザードはまもなく結婚せねばならなくなる。その流れはルカイヤにもはっきり読めるのだ。

 イスファハーン公領における薔薇の公家の支配権は、ここ北部のそれも一部をのぞいて崩壊状態にある。独力でホラーサーン軍を打倒できる望みはない。

 必然的に、現帝室のダマスカス公家をはじめ、帝国全土の諸家と手を組むことになるだろう。


 そして結婚は同盟を強める手段だ。

 イスファハーン公家のまだ生き残っている子らはあと三人。そのうち末弟であるエラムは行方不明で生死も知れない。

 確実に結婚の道具として使えるのは、上帝のもとにいる長男イブン・ムラードと、わずか十三歳の女児ファリザードである。


 ――それを理由にして、諸家はここぞとばかりに眼の色を変えて彼女を求めるだろう。〈剣〉のことがなくとも、諸家はのどから手が出るほどファリザードを欲しがるはずだ。イスファハーン公家の女児は「濃い血を受け渡す」。優秀な子を産んで嫁ぎ先の家系を強化するという特殊性を持つのだから。

 求められて早晩ファリザードは、だれかを選ばねばならなくなるだろう。

 ふと、ファリザードの恥じらいの様子を思い出し、ルカイヤはまた胸が締め付けられるような思いを味わった。


(あの反応――まさかとは思うが、すでに好きな男がいるのだろうか。そいつにこの服を見せることを考えていたのでは)


 知らずルカイヤは手に汗を握った。

 あとでよくファリザードに訊いておかねばならない。相手のジンが身分の低い小貴族などであれば厄介なことになるだろう。


(『そこらの貴族程度ではイスファハーン公家の姫に釣り合いはしない』求婚者たちの一部は納得せずそう言いだすこと必定だ。

 最終的に小貴族は排除され、ダマスカス公家かサマルカンド公家か……イスファハーン公家と同格の身分、最低でもそれに準ずる大諸侯の家柄の男がご夫君になることだろう。

 ……感情に従った末でのジンらしい自然な結婚とは言えぬが)


 このような時代でなければ自由に相手を選ぶことも出来たかもしれない、と嘆く一方で、しかしとルカイヤは思う。


(しかし、もともと進んでいた結婚の話よりはましだ。

 亡きイスファハーン公ムラード様には悪いが、ファリザード様とヘラス人との結婚がうやむやになったことだけは幸いであった)


 ルカイヤが領地として所有していた村を離れたのも、実はその結婚話が大いに関係していた。

 彼女は、ファリザードの結婚を潰すべく都市テへラーンに出向いたのである。

 ヘラス人の結婚をファリザードが嫌がっていることをルカイヤは聞きつけていた。それゆえ、イスファハーン公を説得してくれるよう大諸侯のアーガー卿に懇請するために、北部に来ていたのだ。アーガー卿は彼女の親戚筋であり、兵役を退くまでは直接の主君でもあった。


(イスファハーン公はよいお方であったが、あの件だけはまったく狂気の沙汰だった。人族、それも敵にファリザード様をめあわせるなど)


 ルカイヤの夫と娘は、ダマスカス公領において“十字軍”の襲撃で殺されている。


………………………………

………………

……


 女奴隷たちを従えて外に出る。

 浴場の前ですでに列を作っている一般の客が、視線を向けてきた。

 本日は先刻までファリザードのために新湯を貸し切りにしていたが、その後に誰かが入ることまで禁じた覚えはない。が、


「……しまった、いまは男湯の時間か」


 ルカイヤは思わず毒づいた。男どもが入る時間をやり過ごしてから出ればよかった。

 テヘラーンの公衆浴場に男湯女湯の区別はなく、時間を決めて交互に入るのである。ジンの美少女と美女の後に入ることになった人族の男の市民たちが、妙に嬉しそうなのが気色悪い。

 だが、眺め渡すうちに見知った顔を男たちの中に見つけてルカイヤは目を丸くした。相手もルカイヤに気づいたようで声をかけてくる。


「なんだ、ファリザード殿とルカイヤ殿ではないか」


「クタルムシュ卿」


 クタルムシュに気さくに手を振られ、いささかぎこちなくルカイヤは手を上げて挨拶し返した。いかに呑気な笑顔をしていようと、自分を助けたこのジンが凄腕であることをルカイヤは知っている。


「卿は湯に……」


 言いかけたルカイヤの視線がすーっとクタルムシュの脇に泳いだ。かれは汗の臭いのするぼろ雑巾のようなものを小脇に抱えていた。


「……卿、なんだ、その人族の子供は?」


「うむ。この子の特訓に付き合っていたのだが、無茶をしすぎて気絶したのでな。冷たい水をかければ起きるだろうが、どうせなら浴場の冷浴室にでも連れて行ってやろうと思った次第だ」


「卿自身が武術を教えているのか?」


 ルカイヤは解せぬ思いである。クタルムシュほどに実力のあるジンが、どうして人族の子の鍛錬にそこまで手間をかけるのか。正直もったいない。しかもこれから周囲の有象無象とともに入浴しようとしているらしい。

 物好きなことだと思ったところで、


「ペレウス!?」


 もう一名、物好きなジンがルカイヤの後ろから飛び出した。

 ファリザードの声で気がついたらしく、クタルムシュに抱えられた少年がうめき声を発して顔を上げた。人族にしてはなかなか端正な面であるが、朦朧としていても傲岸不遜な眼光がルカイヤには気にいらなかった。


「ファリザード? こ……ここはどこだ」


 少年は自分の足で地面に立ち、意識が混濁しているのか頭を押さえる。ぐらっとふらついたところで、ファリザードがそばに駆け寄って手で体を支えた。

 男に触れるなどはしたなさの極みとルカイヤは長嘆息する。その前でファリザードは少年をぽんぽん叱りつけはじめた。


「カースィムに蹴られたあばらの骨にひびが入っているかもしれないと医師に言われたじゃないか! テヘラーンに入った日は歩くだけで痛いと呻吟していたのに、なんで鍛錬なんてしてるんだ。おまえに必要なのは安静だ! 医師の許可が出るまで運動するなっ」


「し、死にやしない。十日もたってるんだ、ちょっとくらいで文句言うなよ。

 だいたいひびが入っているとしたら、そいつはきみが決闘直後にぼくの胸に頭突きしたせいで大きくなったのかもしれないんだが」


「は、話がすりかわってるじゃないかっ!」


 ぎゃーぎゃーやかましい言い合いが始まる。


(ファリザード様が気にかけてやっているというのに、なんという無礼な小僧だ)


 少年にルカイヤは怒りを抱いたが、寄ってきたクタルムシュが「……この子は他国の王族で、ファリザード殿の友人でな」となだめるように言った。


「友人?」


 ルカイヤは当惑してクタルムシュの顔を見返した。


「うむ。それゆえにファリザード殿とは対等な立場で話している」


「それは……いくらなんでも」


 行き過ぎではないだろうか。懸念をありありと顔に出すルカイヤに、クタルムシュが「問題ない、問題ない」となぜか妙に早口になる。


「ときにルカイヤ殿、我々はそろそろ入浴して汗を流さねばならない。

 貴女も市営の宿舎に奴隷たちを返さねばならないのではないかな。立ち話はこのあたりにしてまた後日にゆるりと」


 たしかに笑顔のクタルムシュの頬に汗が伝っている。気のせいかその笑顔はこわばっている気がした。

 得体の知れない不安をルカイヤは抱いたが、恩人相手に強いことは言えない。


「……そうか。では、ファリザード様と一緒にこれで失礼させてもら――」


「と、ところで、ペレウス。今日のわたしを見てなにか言うことはないか」


 ファリザードの声が響いた。決して大きくはない声だが、ジン族の鋭い聴覚はそれを確かに捉えた。

 ルカイヤは愕然としてファリザードに顔を向け直した。


 ファリザードが少年の前に向い合って立っていた。体の後ろで手を組み、胸を反らして衣装を見せつけながら批評を待っている――高揚して頬を染め、期待と不安に満ちた上目づかい。

 傍から見る誰もが一目で気づくほどに、少女が少年に向ける感情はあからさまだった。


 クタルムシュが天を仰ぎ、手で目を覆っている。その傍ら、ルカイヤはあまりのことに自分の顔から血の気がざあっと引く音を聞いた。


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