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2-12.乳母〈上〉

ファリザードの乳母ルカイヤ大浴場に少女を誘い

ともに杯を乾して憩うこと


 傷に湯が沁みた。

 顔をしかめ、ルカイヤは巨大な浴槽から立ち上がる。

 ジン族の傷の治りはきわめて早いが、さすがに十日そこらではカースィムの手勢に付けられた深手は本復していない。

 一本きりの手で長い髪をわずらわしげにうなじにかきあげ、彼女は紫紋大理石の浴槽のへりに腰を下ろした。


 ここはテヘラーン市内にある大浴場の温浴室――高いアーチ状天井の、彩色された玻璃(ガラス)の窓から赤や紫の光がさしこんでくる。光は渦巻く蒸気に弱められながら、成熟したジン族の女の裸身を妖しく照らしだす。隻腕であることは、ルカイヤの彫刻的な肉体の美を損ないはしていない。

 背後には白布を体に巻き付けた女たちがかしこまってたたずんでいる。都市テヘラーンが所有する専門技能を持った奴隷――浴室での按摩や香油塗りの技をもって仕える人族の女奴隷たちであった。


「お靴を?」


 奴隷たちをたばねる解放奴隷である中年の女が、短く尋ねてくる。浴場の石床は熱く、木靴やサンダルを履いて移動するのが一般的なのである。上がって按摩を受けますか、御髪を洗いますかと訊いてきているのだった。


「今は無用」


 素っ気なく答え、ルカイヤは振り向きもしない。ことさらに尊大にふるまっているわけではなく、それが人族の下僕に対するジン族のごく一般的な態度であった。

 彼女は湯気の薄膜の向こうを見透かそうとしている。そちらに熱気で満たされた発汗室があるのだ。

 やがて木戸が開き、揺らめく熱気とともにジンの少女の裸が現れた。なめらかな小麦色の肌が汗で輝き、すっかり上気している。ファリザードの足には少々大きい木靴が履かされてあり、歩を進めるとがぽがぽ鳴った。

 その後ろからついて出てきた、銀器の水差しを持った女奴隷が三人、彼女に歩み寄り、


「お汗を流しますわ」


「うん。やってもらおう」


「心得ました」


 薔薇水をファリザードの頭からちょろちょろとかけて汗を洗い流した。猫が顔を撫でるような手つきでファリザードは顔面を洗っている。かと思うと目を閉じて顔を上げ、注がれる薔薇水の一筋を口で受けて飲み始めた。

 妖王の娘にあるまじきそのはしたなさにルカイヤは眉間を押さえたが、笑壷に入ったらしく歳若い女奴隷たちは笑いさざめいた。


「いやだ、ファリザード様、そんなにのどが乾いていらしたんですか」


 短時間でずいぶん打ち解けたものだな、とルカイヤは少し驚いた。カースィムの乱が起きる前、この大浴場には毎日のように来ていたルカイヤは知っている。奴隷たちは同じ人族の客相手ならともかく、ジン族を相手にしては談笑することなどほとんどないことを。それは当然で、ジン族のほうとて命令を出すとき以外は人族と話さないのが普通だ。


(あの子は相変わらず、人族の召使にまで気安く接しているのか)


 ルカイヤは危ぶんだ。そうだとすれば、あまり褒められたことではない。ジン族と人族の関係は、互いの分をわきまえたものであるべきだ。


(……まあ、逆に残酷に扱うよりはよほどよいが)


 数歳年上の少女たちに笑われたファリザードは、発汗室でとっくに肌を紅潮させていたが、さらに赤くなったように見えた。あわててこぶしでぬぐった口元を彼女は尖らせる。


「なにか飲みたいと訴えたら、薔薇水を持ってくるとおまえたちさっき言っただろう。これを飲めってことかと思うじゃないか」


「それは別に用意しておりますよ。氷砂糖を溶いて、レモンの果汁をちょっと搾って、高山の上から取ってきた雪片を入れてお出しできますわ」


「それ、すぐに欲しいな。ルカイヤは飲み物はどうする?」


 ファリザードが首をめぐらせて、彼女の乳母であるルカイヤに聞いてきた。


「そうだな……おれはいつもの酒を」


 ルカイヤの注文に、背後の中年女が感情の通わぬ声で「承りました」と厳粛な口を利く。

 ほどなくして、玻璃の夜光杯が二つ持ってこられた。ルカイヤが手にしたのはサマルカンド公領産の蒸留されたぶどう酒である。

 雪片を入れてはいるが原酒のきつさはのどを焼かんばかりである。杯をちびちび傾けながら、ルカイヤは眼前のファリザードを見つめた。


 巨大な浴槽には新しく沸かされた湯が満たされ、季節外れのはずのジャスミンや薔薇の花弁が浮かべられて香気がたちのぼっている。ファリザードは浅めの寝風呂で、設置された石枕に頭をあずけ、脚を伸ばしてお湯に浸かっている。

 冷たい薔薇水の杯を持ち、水に浮かぶカワウソのごとくくつろいだ調子である。


「あ――……生き返るー……」


 ゆるんで間延びしたファリザードの声にルカイヤはおかしみを感じた。


「古老のようなことを言う。まだ赤ん坊のくせに」


「しょうがないだろ、しばらく風呂を楽しむどころじゃなかったんだから。ひどい臭いのするところに入りもしたし。鳩の塔なんか二度とのぞくものか」


 鳩の塔と言ったときファリザードは嫌そうな顔をした。

 その話は何回か聞いているため、ルカイヤは黙ってうなずく。カースィムによってアーガー卿がそこに囚われていたのをファリザードが助けたのだ。奇しき実話であった。

 と、ファリザードがルカイヤをふりあおいでにっこりした。


「アーガー卿を見つけたときもびっくりしたが、おまえがテへラーンにいるのを見たときも驚いたぞ。

 でも、こういう驚きのほうがずっといい」


「おれもだ」


 ルカイヤは微笑した。彼女にとって、ファリザードは娘のようなものだった。

 かつて彼女は、自らの片腕とともに、結婚して二十年もたっていない夫と生まれたばかりの実の娘をいっぺんに失った。そのあとに、イスファハーン公が乳の出るジンの女を探し、彼女に赤子のファリザードの世話を任せてくれたのである。


『この子は母親を失った。貴女は娘を失った。どうかこの子に母の愛を与えてくれないか』


 当時、茫然自失して廃人のようになっていたルカイヤは、ファリザードに死んだ娘の面影を重ねた。娘が生まれ変わって目の前にいるように感じ、その世話に心を砕くことによって生きる意味と意欲を取り戻したのである。

 ――愛しい娘が、「そういえば、ルカイヤ」と彼女を呼んでいる。


「なんで北のテヘラーンにいるんだ? おまえの領地の村に行ったのに、いなかったから会えなくて不満だったんだぞ」


「まあ……おれはもともとテへラーン軍属で、この傷ゆえに療養させられていただけだからな。今回は直接の主であるアーガー卿に頼みごとがあって北上していたのだ」


 それはもういいんだが、とルカイヤは話題をそらした。


「それよりその小生意気な言葉づかい、そろそろどうにかならぬのか。あなたの立場にそぐわないと何度注意させる気だ」


 微笑を苦笑に変えたルカイヤに、ファリザードは杯を手の中で回しながら親愛の情のこもった笑みを返した。


「おまえのほうがよほど武張った口調じゃないか。だいたい、だれから伝染(うつ)ったと思ってるんだ、ルカイヤ」


「だから困っているのだろうが……おれのこの口調は兵として男の同僚と言い合ううちに染み付いたものだ。あなたとは立場が違う」


 支配層のジン族であることは同じとはいえ、ルカイヤとファリザードでは地位に天地の開きがある。

 ファールス帝国のジン族戦士階級は、ルカイヤのような妖兵(ジャーン)と呼ばれる一般的なジン兵と、妖士(イフリート)と呼ばれる一握りの強者に振り分けられる。妖兵や妖士はそれぞれ領地を持つジンの貴族であることが多い。都市や一地方をまるごと統べるような者は大諸侯と呼ばれ、たいていは妖士である。

 さらにその上に立つ帝国五公家は、戦士にして領主であるジンたちをまとめあげる。おのおのの当主が妖王(マーリド)の位を持ち、一公家のみで富の豊かさ、領地の広大さ、動員できる軍の規模のいずれにおいても、帝国外の小国の王を笑殺してのける。ファリザードは五公家のひとつであるイスファハーン公家の嫡流であるのに、乳母とはいえたかが一兵卒で小貴族のルカイヤの口調を真似するなど……


(エラム様からも怒られたな、妹に悪影響を与えるなと)


 ファリザードの末の兄のことを思い出し、ルカイヤは苦笑を徐々に消した。


(捜索隊がかれを早く見つけられればよいが)


 ファリザードの兄エラムが現在、ホラーサーン将イルバルスに追われてこの近辺に逃げてきているのだという。おそらく山岳部にでも身をひそめているのだろう。

 味方のだれにとっても気がかりな話であった。無事ならば都市部へと逃げこんでくるはずなのだ。

 音沙汰がないということは、身動きがとれない状況にあるということだ。怪我を負っているのかもしれないし、イルバルスの監視網をかいくぐることができないのかもしれない。


(あるいは、すでに討たれたか)


「ルカイヤ?」


 彼女の憂い顔で勘違いしたらしきファリザードが少し不安そうに見上げてくる。


「わたしがおまえに似た口調だと、そんなに困るか?」


 ルカイヤは頬がゆるむのを感じた。赤子のファリザードが口を利くようになったころの記憶がよみがえる。物心ついた最初から、ファリザードはルカイヤの言葉をまねようとしていたのだった。


「……もう十年以上、あなたはその口調で通してきただろう。いまさらこちらの顔色をうかがうふりなどせず、話したいように話すがいい」


 兵の話し言葉を使うなど、ファリザードの立場上、むろん良くない。良くないのだが、ルカイヤは乳を含ませた子に対してつい甘いことを言ってしまう。

 ファリザードが喜んだ。


「じゃ、この先もこのままで通す」


「まったく……そのうち周囲に寄ってたかって矯正されてもおれは知らぬぞ」


 再度温かい微笑みを浮かべ、ルカイヤは、エラムがすでに死んでいるかもしれないという先刻の懸念は心の裏に押しこんだ。

 口にする意味はない。ファリザードの眉がまた曇るところを見たくはない。

 ファリザードはここ数日、仲のよい末の兄のことを心配していた。エラムを捜索、保護するために早急に一部隊を山岳部へ遣わし、それでもなお日夜気を揉んでいる。そんな彼女をルカイヤは慰めるべく、アーガー卿に頼んで一時貸し切りにしてもらった市内の大浴場に連れだしたのだった。身体がほぐれれば心も幾分かは安らぐだろうと考えたのである。

 現在のところ、その思惑はまずまず功を奏したといえる。


(奴隷たちの借り出し費用はすでに市に支払ったが、あとで一人につき銀貨一枚を直接与えてもよいな)


 ここの女奴隷たちの貴人に奉仕する腕は確かである。ましてそれが今日はファリザードの愁眉を解かせたのならば、異例の報酬を弾もうという気にもなる。

 たいていのジン族は人族と親しく交わりはしないが、技能にはそれなりの対価を払う。


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