2-11.毒虫〈下〉
都市テヘラーン奪回の戦いにひとまずの決着つくこと
革袋から半透明の膜でできたぶよぶよの球体を取り出し、
「斬ってみるがよろしい。それだけの技量があればだが」
言うなりカースィムは手から放った。
飛石のごとく顔面を狙ってきたそれを、ファリザードはあわてて身をかがめて避けた。――挑発に乗って反射的にその飛来する球体を斬らなかったのは、賢明というものであった。
液体が詰まった破れやすそうな球体であることを、ファリザードは見て取っていたのである。
凄惨な絶叫が彼女の背後から聞こえた。肩越しにちらりと視線を向けたファリザードは、瞬時に顔色を変えて息をつめた。
カースィムの投擲した球体の直撃を食らったのは、かれの連れてきた傭兵の一人であった。ファリザードがかわしたために代わって災難をこうむったその男は、叫びながらがりがりと顔の皮膚を掻きむしった。鳥がひっかくような傷が幾筋も刻まれて、頬が血まみれになっていく。男は、倒れ伏して瀕死となってもまだ顔を掻いており、赤い掻き傷のはざまから見える肌には青黒い斑点がぼつぼつと浮かび……
「“悪しき膨れ”だったか……変わった闘い方だな、カースィム卿。猛毒の液体を投擲して使うか」
ファリザードはカースィムから視線を外さず言った。
生命をかけた戦闘に臨みながら、いま自分でも不思議なほど彼女は集中できていた。ペレウスが殺されかけた瞬間に戦闘意欲が爆発的に膨らみ、圧縮されて冷え固まっていたのである。それは本能的な怯えを上回るもう一つのジンの本能だった。
それでも、背後でぴくぴく痙攣している傭兵の無惨な死に様はなるべく考えないようにしていたが。周囲の人間たちも、みずからが巻きこまれる可能性に直面して、一人残らず戦慄の面持ちである。
「西南の大陸には巨大な蛙が住みます。その膀胱を加工し、毒をそそぎ入れました。
この“珠毒”、姫には存分に堪能していただこう」
たったいま結果として部下を殺したにも関わらずカースィムは気にした様子もない。彼はあらためて肘まである革の手袋を右腕にはめながら、ファリザードに平然と答えた。
「汚い武器を使いやがって!」
恐々として塔の壁にはりついた白羊族の一人が罵る。次の珠を取り出したカースィムが罵声に応じる。
「なんということもないお笑いぐさの武器だ。手投げの毒矢に比べれば鋭さに欠け、毒刃に比べれば軌道も単純。ただそれらと比して利点があるなら」
悠々うそぶきながら、かれは毒の珠をにぎった腕を後ろに引いた。
「触れれば弾ける膜の薄さゆえに、斬ることも受け止めることも能わぬことかな!」
たちまち飛来する猛毒をファリザードは体の軸を回転させてかわした。続けて跳びかかるために足をたわめる。
だがすぐさまカースィムは、彼女と自分の間の床に毒珠を投げつけた。
珠が潰れて猛毒のしぶきが飛び散る。浴びればそれは衣服にしみこみ、肌に付着するだろう。突っ込もうとしていたファリザードは驚愕して真上に跳躍することでかろうじて逃れた。着地して体勢をととのえる暇もなく、第三、第四、第五弾が次々と彼女を追って放たれる。
「“連珠爛毒”ご覧じ候え」
革袋を足元に置いたカースィムの両手には、お手玉を投げ上げるがごとく数個の球体が常に巡っており、それが続けて宙を舞う。
刀術の歩法をつかって間一髪で即死の毒をすべてかわしきるが、ファリザードは余裕のかけらもない状態に突入させられていた。
カースィムの言うとおり、珠がぶつかって弾ければ中身の毒が浴びせられる。直前で斬るなりはねのけるなりしてもしぶきが飛び散る。
液体相手に、刀では防御のしようがない。
床や壁で投げつけられる珠が弾け、鼻をつく毒気が鳩の糞の臭いに混じる。
右に左に飛び跳ね、塔の壁を蹴ってとんぼを切り、ひしゃくの水撒きから逃れる猫のように、ファリザードは逃げまどわざるをえない。きりきり舞いしているのは彼女の背後にいる人族たちも同じであった。敵味方の区別なくファリザードの後ろに位置せぬよう壁際を右往左往し、外れた珠毒を食らうまいと血相を変えていた。
「布の靴でいつまでもつかな?」
カースィムが嘲る。壁際の床には毒水の溜りがそこかしこに出来ており、たしかにうかつに踏めば足から毒に浸されるだろう。ファリザードが逃げまわれる空間が狭まっていく。
「カースィム卿、貴殿のような男は類まれだな!」
少女の形勢危うしと見た白羊族のウルグが突如として大音声を発した。
「これまで忠武の人アーガー卿の配下として、婿として薫陶を受けてきたことだろう。
それでいながら主たるアーガー卿も、主の主たるイスファハーン公家の方も弑逆しようとするそのねじ曲がった反逆者根性は、どうやって身についたのかね! 蟻の巣にサソリが生まれようとは!」
痛罵をもってせめてカースィムの注意を惹きつけようという意図――それは成功した。
にわかに、
「ほざくな、害獣!」
カースィムは気色ばんで雷喝した。一瞬、珠毒をウルグの方へと投擲しようとして、もったいないと思い返したか腕を引っ込めた。
その間に、毒の飛沫を避けて跳ね回らされていたファリザードがようやく一息つく。その呼吸は胸が破れそうなほどに荒くなっていた。
だが彼女に追い打ちをかけることなく、カースィムは横を向いていた。
その視線の先にいる床に転がったアーガー卿は、散らばった毒水を浴びることもなくまだ生きている。
「……こやつが忠武の人か。そうとも」
かれを見つめるカースィムの目ににわかに毒が燃えるがごとき鬼火が揺れた。
「そうだな。まぎれもなく忠義者といえる。
こやつは主家のためにみずからの娘を……私の愛しい妻であったアーミナを見捨てたくらいの忠義者だ。
百二十年前、帝国を騒がせた背信帝による内乱のとき、わが妻はバグダードにいて背信帝に質にとられた。背信帝からアーミナを手中にしていると告げられ、奴への服従を名指しで呼びかけられたにもかかわらず、その男アーガーはイスファハーン公家から離反しなかった。兵を主家に提供し、都市テヘラーンが薔薇の公家の旗の元にあることを公布した。それが背信帝の激怒を買い、娘であるアーミナにどういう結果をもたらすか知っていながらだ」
鬼火がしたたる。ぽたぽたと。
「わが妻は呪印を削がれ、バグダードの牢獄送りとなった。ジンの貴族の身でありながら、人族の男の罪人どもが群れる牢に投げ込まれた。そして鳩の糞にうずまるよりおぞましい五十日間ののちに引き出されて広場で処刑されたのだ。〈剣〉の軍を中核とした四つの公家の連合軍が背信帝の軍を打ち破ったのはその直後のことだ。
すべてが終わった後、世人はアーガーの選択を褒めたたえた。娘を捨てても主家を選んだその男を忠義なるアーガー卿と礼賛した。
だが私は、その男と、その信ずる忠義とやらに思う存分唾をかけてやれる日をずっと待っていた。このように汚物に沈めてやれる日々を待っていた」
ジンは愛する。激しく長く。
ジンは復讐する。執念深く。
「背信帝は〈剣〉が殺してくれた。
残ったアーミナの仇らにも〈剣〉が私に代わって復讐してくれる。〈剣〉はわが妻の死の遠因となったイスファハーン公家を滅ぼし、わが妻を汚した人族のすべてを永久に鎖につないでくれるだろう。素晴らしい。私は諸手をあげて新帝となったかれを支持しよう。
ただアーガーのみはどうでも私の手で殺さねば気がすまなかった」
「……それが反逆の理由か、カースィム卿」
ファリザードはようやく口を開いた。だがすぐに言葉に詰まる。
言うべき台詞が見つからなかった。
(この男は敵……裏切りをはじめ卑劣な行いに手を染めた敵だ。歪んだ理由がなんであれ、同情など論外だ……それなのに)
ファリザードの胸の奥に、小さなしこりが生まれていた。それは憐れみかもしれなかったし、共感かもしれなかった。
愛する者を見つけたいまでは彼女にもわかる――これがジン族なのだ。
カースィムがややあってうっすらと微笑した。
「おや、私を憐れんでくださるのですな、ファリザード様?」
「……なにをばかな」
しかし、カースィムの悪意は微塵も揺らぐ気配を見せなかった。
「優柔なる家風のイスファハーン公家の生まれにふさわしく、なんと慈悲深い薔薇姫であることよ。
あなたがたはやはり、〈剣〉には勝てぬ。兎が獅子を食い殺すと信じられる者がいようか」
かれは嘲弄する。イスファハーン公家の未来を否定し、戦うという彼女の決断を否定する。
「それに、その慈悲深さがあるならば、なぜ臣下のことを考えて賢明な降伏を選ばなかったのか?
ホラーサーン軍はひざまずかない者を容赦せぬ。そして過去の罪をゆるがせにすることもない。もしもあなたがたの全員が捕虜にされた場合、そして過去にホラーサーン軍に敵対する行動をとっていたことが明らかになった場合、あなたに付き従った者には裁きが下されることになる。処刑されずにすむのは先に戦場で殺された者だけとなろうぞ」
その脅しは、ファリザードの痛いところを的確に突いた。まさにそれこそ彼女を日夜苦しめていた懊悩であった。カースィムがかさにかかって非難する。
「臣下を守らぬ主君には、それだけで主たる資格なし。守る力もないくせに戦いを選ぶのも同じことだ。守れぬのならばひざをなぜ屈さぬのだ。
百二十年前、アーガーが私のアーミナを死に追いやったように、あなたは幾人もの妻を失った夫、夫を失った妻、そして親を失った子をイスファハーン公領全体に生み出そうとしているのだぞ。
そうなる前に私が貴様を断罪してやる――イスファハーン公家のファリザードよ、ここで毒に爛れて死ぬがいい。今よりとどめをくれてやる」
もはや形すらも敬う口ぶりなく、カースィムは革袋を抱え上げ、毒の珠をつかみ出した。
だがそれが投擲される直前のことだった。
「戦う理由なら『誇りある自由のため』で十分だ!」
叫ぶやアーガー卿の横たわるそばから床を蹴って、横合いからかれめがけて走りだした影があった。カースィムの表情がぎょっと強張るが、いかに虚をつこうとその少年の突進はジン族の反射速度からすればいかにも鈍いものでしかなく……
「やめてえっ!」
ファリザードが制止の悲鳴をほとばしらせた。
姿勢を低くして突っこむペレウスにカースィムは即座に向き直っている。叩きつけるように珠毒を少年にぶつけた。
だがペレウスは、走りながらそれを手にしていた方形の盾で受け止めた。
一目見て誰もが気がついた――革張りのそれは、アーガー卿が座らされていた椅子の背もたれであった。蹴り飛ばされて吹っ飛んだペレウスは、かれにぶつかってばらばらになった椅子から即席の盾となりうる背もたれ部分をつかみ出したのだった。
……武器防具には相性というものがある。
刀はカースィムの珠毒を防ぐことはできなかった。鎧であっても、まともに浴びせられれば毒の液は鎧の隙間から流れこんだだろう。だがペレウスが手にした即席の盾は、液体の攻撃を防ぎきったのである。
とっさに蹴りを放とうとしたカースィムへ、“七彩”が飛刀と化してファリザードの手から放たれた。気勢を刀身に凝し刀尖は敵の心臓を指す、これぞ絶技“飛棘”である。だが刀を手放すがゆえに後のない一手でもあった。
少年を守ろうとする飛刀の勢いに、連続して不意をつかれたカースィムは狼狽して防ごうと左腕をかかげ――
瞠目、驚愕、そして絶叫。
それが一瞬後のカースィムの反応だった。
ファリザードの飛刀はカースィムの左腕を貫いて止まっていたが、それは致命的なものではなかった。それと同時のペレウスの盾での体当たりが、革袋を中身の毒の珠ごと押しつぶし、猛毒のしぶきでカースィムの右腕を濡らしていたのだった。手袋で守られていないところまでを、ぐっしょりと。
革袋を投げ捨ててよろよろと後ろによろめき、左腕に突き立った刀の背をカースィムはくわえ、口で引き抜いた。次の行動は果断さを褒められるべきだったろう。
かれは抜いたばかりの“七彩”を左手でふるい、毒を浴びた自分の右腕を切り落としたのである。
「やってくれたな、幼獣」
おびただしい鮮血を右腕の断面から噴き上げながら、カースィムは急速に血の気を失ってゆく顔でペレウスをねめつけた。かれをペレウスは真っ向からにらみ返している。鏡合わせの純粋な敵意。
ファリザードはカースィムとにらみ合う少年に駆け寄り、背中にかばった。
辟易したように少年が言う。「よせ。あまりぼくを守ろうとするな、ファリザード」と。
「……舐めおって」
刀を手にカースィムが一歩を踏み出そうとした。しかし、限界に達していたらしくがくりとひざが沈み、“七彩”がその手からこぼれ落ちかけた。人族より生命力の強いジン族とはいえ、付け根近くから片腕を失えば急激な失血で朦朧とした状態に陥る。
踏ん張って倒れ伏すことだけは寸前で回避したかれに、ペレウスが指摘した。
「あんたの右腕は無くなった。左腕も傷ついている」
戦うのはもう無理だ――言外にその意味が含められているのは明らかだった。
カースィムは歯ぎしりし、それでも認めざるをえなかったようで、よろめきながら下がった。かと思えば、連れてきた傭兵たちへと振り向いて叫んだ。
「こやつらを殺せ!」
人族の傭兵たちは、その命令に互いに顔を見合わせた。幾人かが刀を抜きつれて前へ出てくる。
対抗するように、これみよがしに三日月刀や半弓をかまえた白羊族がずいと出てファリザードとペレウスの周囲についた。
しかし、傭兵たちの大部分は動かなかった。前へ出た者たちも、仲間が動かないのを見て取ると黙ってひっこんだ。
「何をしている、命令を出したぞ!」
流れる血で半身を赤く染めたカースィムが続けて怒鳴る。
白けた顔をした傭兵たちの中央で、熊のような濃いひげ面の男があごをこすって発言した。
「決闘で負けたじゃないですか、あんた。逃がすくらいしてやればどうです」
色が悪くなりつつあるカースィムの顔に焦燥が浮かんだ。続いてそれが憤怒に変わる。
「貴様らになんの関係がある!? 報酬しだいでなんでもするというのが貴様らの売りだったろうが!」
「じゃあ言わせてもらいますが、カースィムの命の落とし前をどうつけてくれる気で」
「何だと?」ぽかんとしたカースィムに、
「あんたと同名なんですよ、そこのそいつ」
熊ひげの男は、毒を浴びて床に倒れ伏し、無惨な死骸となった男を指さした。
声に、抜き差しならない剣呑さが含まれ始めていた。
「ええ、金と契約は大事ですよ。ですがそれより重んじるものもあるんでしてね。仲間の命もその一つなんで」
冷ややかな傭兵たちの視線がカースィムに突き刺さる。
熊ひげの男が、あごを撫でながら不気味に静まった声を出す。
「山で一緒に育った連中とやってる稼業なんでね……雇い主が人族への悪口を言うくらいはどうってこたあないんですが、気心の知れた同郷のもんを殺されればさすがに、ねえ」
「なんだ、あっちも部族でやってるのか」白羊族の側からそこはかとなくつぶやきが漏れた。少しだけ親近感が含まれていなくもない。
山ということは都市テヘラーン北のアルボルズ山脈に住む山岳民か、とファリザードは考えを巡らせている。
カースィムたちの仲間割れの様子に、なんとなく静観の構えとなった一行だったが、ペレウスがファリザードに届く小声で指示してきた。
「あっちの傭兵たちに、全てを許すとこの場で約束するべきだ、ファリザード」
え、と振り向きかけて、ファリザードはかれの言わんとすることに気がついた。
声を高らかにあげる。
「カースィムに雇われた山岳民よ!」
傭兵たちが一斉に彼女を見つめた。緊張を感じながら彼女は宣言した。
「ここでカースィムと縁を切るなら、おまえたちがかれの反逆の罪に加担したことは忘れる。イスファハーン公家の名において約束する、いまならばだれも罪には問わない!」
熊ひげがちょっと考えるそぶりをして、肩をすくめた。
「あんたらに味方してこのジンを殺したところで、〈剣〉が勝てばどうなる? 〈剣〉は、ジン族を殺した人族を許しやしねえ。仲間の仇を討ちたいという気持ちもあるが、俺たちは一族ごと皮を剥がれるのはごめんだ」
「イスファハーン公家に味方せよとは言っていない。これ以上カースィムに手を貸さない、いまはそれだけで十分だ。カースィムは……この場では殺さない。かれはいったん追放する。
後々わたしたちがかれを捕殺しようと、それならおまえたちの咎にはなるまい」
「いいでしょう」
至極あっさりと、熊ひげはうなずいた。苦痛と怒りで口も利けないほどになっているカースィムへと言い放つ。
「そういうことで。大金はもらったが契約はこれで終わりだ、カースィム殿」
「……貴様らすべて呪われてあれ」
全てを失ったカースィムは吐き捨てた。かれはよろよろとアーガー卿の元へ向かい……殺意を察したファリザードとペレウスにさえぎられて憎悪に顔を歪ませつつ、向きを変えて塔から出て行った。
それを見届け、熊ひげが言った。
「俺たちもこれで。砂漠で待機している仲間がこれ以上カースィムの命令に従わんように伝えねばならんからな」
山岳民たちが列をなして戸に向かう。かれの背に、ファリザードは短く呼びかけた。
「聞き入れてくれて礼を言う」
熊ひげが肩越しにファリザードを見た。
「さっきの話は聞いていたろ。里に帰れば、死んだやつの女房子供がいる。まったく落とし前をつけずあのジンに協力し続けるとなれば、おめおめと遺族に顔を合わせられるものかよ」
それから熊ひげの視線が、ファリザードからペレウスに向いた。目が笑みを含む。
「やるじゃねえか、坊や。ジン相手に大した度胸だ、個人的には溜飲が下がったぜ。
客として山に来るなら酒宴を張って歓迎しようじゃねえか……もうちょっと慎重にならんと、おまえは次会うまで生きていないだろうがね」
山岳民もまた消えていった。
一行はアーガー卿をそっと動かして鳩の塔からかつぎ出し、星々がまたたく清浄な空気の下に連れだした。
アーガー卿の手当てを白羊族が始める。ウルグ曰く、「拷問で心身を削られ、おそらく障害が残るだろうが、命には別状ない」との見立てだった。
うなずいて、ファリザードは静かな声で「ペレウス」と呼びかけた。戦いの興奮が醒めはじめた顔つきのペレウスは、彼女のきつい視線に気まずそうに顔をそらした。
「何だよ。……助けてくれたことはありがたいと思ってるけれど、守ろうとなんて今後はほんとにしなくて――」
その胸にファリザードは思いきり頭突きした。
「ぐふっ」と呼気を漏らす少年を抱きしめる。周囲の目が気にならないほど怒りと安堵がこみ上げていた。
床に一度蹴転がされたペレウスが鳩の汚物まみれなのも気にとめず、かれの胸にぐりぐりと額を押し当てた。
「向こう見ずのばか、無茶ばかり、もし死んだらっ……!」
大げさではない。死んでもおかしくはなかったのだ。
もっとなじってやるつもりだったが、涙声は喉に詰まった。
ペレウスの困惑した声が降ってくる。
「……たしかに向こう見ずだったかもしれないが、ぼくはあのくらい体を張らなければ役に立ちそうもない。
それに、ぼくが死んだとしても、後のことはきみに託すことができるし」
「ばかあ!」
頭に来てファリザードはとうとう怒鳴った。涙で視界がぐちゃぐちゃだった。
こいつはやっぱりわかっていない。ジンのことをわかっていない。
「おまえが死んだら、わたしはっ……!」
自分はおそらく、カースィムのように狂ってゆく。〈剣〉への復讐しか心に残らなくなる。その未来がファリザードにははっきり見えた。
「もう、危ないことはしないで……おまえを危険に晒したくない……」
本心だった。
ペレウスを、作戦会議はじめ、具体的な軍事行動になるべく関わらせようとしなかったのはそのためだった。
〈剣〉ににらまれることを、かれにさせたくない。せめてテヘラーンを奪取して、北の地に勢力を確保するまでは。ホラーサーン軍に攻められてもすぐにペレウスだけはヘラスへ送り帰すことができる態勢を整えるまでは。
浅ましいとは自覚があった。いかに〈剣〉と因縁があるとはいえユルドゥズたち白羊族は巻きこんでいるのに、最も大切な者の安全だけは図るのだから。
それでも、決して死なせたくないのだ。
父の屍を見た直後、かれが手を握っていてくれた。やっとのことで立ち直れた夜もそうだった。それ以前からもかれに恋心を感じていたけれど、あの日以降は……
「おまえがいなくなったら、後のことなんか引き受けてやらない」かれの胸にひたいをつけたままファリザードは鼻をすすった。「死んでやる」
ペレウスの体がこわばるのがわかった。
……しばらくしてから、かれの手が彼女の髪を撫でてきた。
「……ぼくは守られる一方ではいたくない、断じて」
優しい手つきの一方で、不満を押し殺すこわばった声でかれは尋ねてきた。
「簡単には死なずにすむだけの力がぼくにあれば、きみを心配させずにすむのか」
強くなくたっていい、とファリザードはぼんやり思ったが、かれは今後も庇護を屈辱と感じて強硬にはねつけるだろう。やむをえず、彼女はうなずいた。
ペレウスが約束する声が聞こえた。
「わかった。必ず強くなる」
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――僭主カースィムの支配下にあった都市テヘラーン、イスファハーン公家のファリザードの元に奪還さる。
これによってイスファハーン公領北部に反撃のための拠点確立。
投稿が長く空いてすみません(;´Д`)
盆の週はまたちょっと休みますが、あとは元通りのペースに戻れそうです。もともとそんな早くもなかったですが……