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2-9.鳩の塔

イルバルスの来訪ファリザードを思いつめさせ

運命は転がって奇妙なる状況に陥ること


 ジオルジロスの誘いかけに、ファリザードは顔を上げた。

 何か、おそらくは拒絶の言葉を言おうとして、――黙る。その沈黙にペレウスは胸騒ぎを感じた。


「惑わされちゃだめだ、ファリザード。心を操る薬なんていかがわしすぎる」


「自分勝手な小僧だ。姫に自ら考えることもさせてやらないとは」


 言い立てるジオルジロスをペレウスは強烈な敵意をこめてにらんだ。

 しかし、舌戦が再開することはなかった。

 翼持つ者が飛び立つ気配に、全員が上方をふりあおいだ。

 暮色の濃い空へと一羽のタカが舞い上がっていく。


(上から探す気か?)


 魂が消し飛びそうになり、ペレウスはファリザードの軽い体を抱え込むと、手近な馬の腹の下にもぐりこむようにして彼女に覆いかぶさった。ジオルジロスについてはどうしようもない。上空のイルバルスの目に、このジンたちが見つからないことを祈るしか無かった。

 実際より長く感じる恐怖の時間――ファリザードの手が背中に回されて、きつくすがってくる。


 やがて、「……やつは去ったぞ」ウルグの声が響いた。


 馬の腹の下から這いでたふたりの目に、げっそりしきったウルグが戦慄いまだ去らぬ表情の白羊族たちとともにしゃがみこんでいた。


「やつは別の者を探す途中で、たまたまわれらの野営を補給のために利用しただけのようだ。水と情報を要求された」


 ウルグは真っ青な顔にふと笑みを浮かべた。


「あの間抜けめ、われらがファリザード様をかくまっているとは気付かなかった。白羊族がホラーサーン軍に逆らおうとしているとは思ってもいない様子だった。

 まあ……それもそうか、こちらからは手も出せないのだからな」


 自嘲気味のそらぞらしい笑い――そのあと、「畜生め」とウルグはうなった。屈辱と悲憤がこもった声で。


「やつはしばらくこの近辺を捜し回るようだ。我々はここに留まって火を絶やさず、水と糧食を提供せよと命じられた。

 人族をあごで使おうとするジンには慣れているが……よりによって仇にまで、下僕のように扱われるとはな」


 一様に蒼白な顔の白羊族から、怨念が陽炎のように立ち上る。

 ペレウスは黙然としているファリザードの髪から砂を払い落としつつ、「仇……白羊族全体のですか?」と尋ねた。


「むろんだ。

 個人としては初対面だが、やつのことは白羊族の言い伝えに残っている。“変化”術使いのジンのうちでも希少な飛翔型であり、当代でもっともそれを生かした戦闘に長けている男……元はアビシニアの王で、ファールス帝国を攻めて〈剣〉に舌を抜かれて以来、かれの臣下に加えられている男……残忍さでは主に劣らない戦士だという。

 遠い昔、われら白羊族が〈剣〉の支配に逆らって決起したとき、戦闘能力と残酷な気質をあのイルバルスは証明してみせたのだ」


 言葉がいったん切られる。乾いた砂がさらさらと風に鳴っていた。

 長嘆して、ウルグは焚き火のほうを指さした。


「……それにしても、言い伝えどおり口が利けないのだな、あの男は。羊の骨で砂に文字を書いて我々に伝えてきた」


 ファリザードがそれを見に行く間、ファールス文字の読めないペレウスは留まってウルグに話しかけた。


「これからどうしますか。ここはイルバルスの行動範囲内に入ったんでしょう」


「どうもこうもない。

 平野で戦うかぎりわれらはカースィムとその兵三百名など恐ろしくはないが、ホラーサーン将が相手だと話がまったく別になる。

 一度目はよくても、二度目でファリザード様が見つからないという保証はない」


 ウルグは髪のない頭をかきむしるかわりにか、毛虫のような眉毛を神経質にいじっている。

 白羊族の一人が発言した。


「こうなった以上、いっそ平原を捨てて、早急にファリザード様を堅固な屋根の下に隠したほうがよい。

 我らの天幕ぐらいでは心もとないし、騎馬の民の最大の武器にして身を守る術である『地を駆ける速さ』はイルバルスには通じん。呪いのことがなくとも相性が悪すぎる」


「空を駆ける敵に対し、相性のよい戦いができる者がいるのかは疑問だがな」


 別の一人が皮肉ったのち、「だが逃げるのは賛同だ」と意見を述べはじめた。


「今すぐ動くべきだ、ウルグ。やつがすぐ戻ってこないとも限らん。

 “変化”はそのジンの能力を変化した肉体のものに置き換えると聞いた。逆を言えば、変化したものの肉体上の弱点も備わってしまうそうではないか。

 通常、ジンは夜目が利くが、鳥は逆に夜に視力を失う。そしてまもなく夜になる。ゆえにすぐ移動するべきだ。

 広大なイルバルスの索敵圏から逃れるのはむずかしいが、夜のうちに屋根のあるところにファリザード様をお移しすることはできるはずだ」


 斥候から戻ってきたばかりの若者が手を挙げた。


「ここから二ファルサング(約10km)ほど西へ行ったそう遠くない場所に一つ塔を見つけています。

 “鳩の塔”です」


 ウルグがぽんと手を叩いた。


「“鳩の塔”! そうか、それがあった。イスファハーン領ならどこにでもあるが、あれならば扉を封鎖すれば即席の防護施設になる」


 そこまで聞き届けてから、ペレウスはファリザードに近寄った。

 弓を引けず、ジオルジロスに「臆病者」そう言われて屈辱の涙をこぼしていた彼女が気にかかっていた。

 ファリザードは、凝然と立ち尽くして砂の上の文章の一部を見つめている。ペレウスは慎重に話しかけた。


「その文字、なんて書いてあるの?」


「……“イスファハーン公家第十一子エラム”

 イルバルスが追いかけてきて探し回っているのはかれらしい」


 振り向いたファリザードは、焦燥とどうにもできないもどかしさを面に宿していた。


「わたしの、末の兄上だ」


「……きみの兄君」


「……どこにいるかわからないエラムを助けるためにも、早急にテヘラーンを手に入れなければならなくなった。

 いまの勢力ではクタルムシュ卿を含めても、イルバルスに対抗できるかは心もとない。ホラーサーン将を討てるだけの兵をかき集めてから、早急にかれを探して保護しなければ」


 噛み締めるように彼女はつぶやく。ぶつぶつと。


「向く向かないなんて関係あるものか。一族が殺されていく……わたしは戦わなきゃいけない」


「…………」


「さっきのような失敗は、二度と繰り返さない」


 思いつめた声。

 彼女は戦意を失ってはいない――が、ペレウスはその孤影悄然とした立ち姿にどうしたわけか痛ましさを感じた。


「……ファリザード。きみはいまから鳩の塔というところへ移されるそうだ。

 それと、蛇の言葉は気にしたらいけない。ジオルジロスの妖言なんか耳を素通りさせときなよ」


 ふりむき、ファリザードは明らかに無理の混じった笑いをかれに見せた。


「鳩の塔か。快適とはいいがたい場所だがやむをえないな。……気にしていない、もちろん」


  ●   ●   ●   ●   ●


「ファリザード様をここから離し“鳩の塔”へ隠す。おれ含めて三十名ほどがその任を負う。残りは陽動をかねてここに留まり、焚き火を絶やすな。

 斥候たち及び族長が戻ってきたら伝えよ、われらは鳩の塔へ移動したと」


 ウルグの声が響き、白羊族が支度にいそしむ。喧騒をぼんやり聴き過ごしながら、ファリザードは手に握りしめたものを見た。

 みなが慌ただしい中、ジオルジロスから押収した荷を探って見付け出した、緑色の玻璃の小瓶。

 中で揺れるのはどろりとした液薬。


“飲めば狼の心を持てるだろう”


 蛇の声が鼓膜に反響する。

 ぐっと握りしめる。飲まない。こんなものを飲むつもりはない。ただ、持っておくだけだ。


  ●   ●   ●   ●   ●


 三十名で一団となって馬を駆る――暗くとも上空からの視線を気にして松明は持たず。

 ウルグの差配にしたがってひどい緊張のなかで黙々と馬を飛ばし、ついに騎行の速度が緩められたときはペレウスは汗びっしょりになっていた。

 だが、とにもかくにも速度を落とさずついていくことはできた。それには満足である。

 以前はお世辞にも巧いとは言えなかったかれの馬術だが、騎馬部族と行動をともにしているうちに人並み程度には近付いてきたのである。

 そばにいる二名のジンと比べると自信を喪失しそうになるのだが。


「ふん、鳩の塔か。明日の朝食には卵をつけてもらおうか」


 手首を縛られたまま平然と馬を駆けさせたジオルジロスがうそぶいている。

 迅速な騎行で息も切らせていないファリザードが、「ここの鳩や卵を捕るのは禁じられていることを忘れるな、犯罪者」と釘をさしていた。


(これがイスファハーン領各地にあるという鳩の塔)


 黒ぐろとそびえ立つ塔影が、かれらの目の前にあった。

 興味を覚え、馬から下りながらペレウスはこの施設の意義について尋ねた。


 ――鳩はファールス帝国の重要な家禽である。

 肉や卵が食卓に供されるばかりではない。

 ある意味で肉や卵より重要なのは「糞」だ。

 ハルボゼというメロンをはじめ、西瓜、ざくろ、ぶどう、アンズ、桃、リンゴ――帝国の土地で収穫されるあらゆる果物は、鳩の糞を肥料として育つのだ。

 その糞を集めるために、イスファハーン領各地に、「鳩の塔」と呼ばれる施設がある。


「内部の壁には鳩の巣穴が無数にあって、床は鳩の糞を貯める場所になっている。

 何千羽、ときには万を超す数の鳩がねぐらにしているんだ」


 塔の門に向けて歩きながらのファリザードの説明に、ペレウスは感心した。ヘラスにはこのような肥料生産のための専門施設はないのである。


(ミュケナイにも導入できるかな)


 ペレウスは貧しい祖国のことをなんとはなしに考えながら、「ここで過ごすの?」と尋ねた。


「しょうがない。ここならば平野の真ん中よりは安全なんだ。屋根があるし壁は厚いし扉もそこそこ頑丈だ。

 鳩は天井近くの金網の目から入れるが、鳩を捕食する大型のタカは体がつっかえて入ってこれない。

 なにより、こんな臭うところにわざわざ近づく奴はいない。

 しかし……」


 渋面をつくって少女がぼやく。


「できれば一生、こんなところに避難するのはごめんこうむりたかったけど」


「たしかに……臭いが身を守るといっても、身をひそめるには辛いものがある」


 ちょっと離れていてもぷんと鳩の糞の臭いが鼻をつく。内部がもっと臭うであろうことは想像に難くない。

 辟易気味の二人を置いてけぼりにして、白羊族たちがさっさと扉を押し開けた。



 中にいたカースィムとその兵達が一斉に振り返った。



「――――な」


 双方が金縛りとなり、驚愕の視線を突き刺しあう。なぜこのようなところにこいつらが、その思いを面に出して。

 鳩の塔の中にいた傭兵たちは二、三十名。ひとりが松明を手にしている。

 かれらのそばをすり抜けて、白羊族側の目が、あるものに吸い付けられた。


 いつから放置されているのか鳩の糞にまみれて、背もたれのある椅子に半裸の男が縛り付けられていた。

 右肩から右胸にかけて皮を剥がされ、血が足元に溜まってすでに乾いている。目隠しをされ、口には鳩の死骸が突っ込まれていた。明らかに拷問で責めさいなまれた様子。

 そして、種族はジンだった。


「……ア……アーガー卿……?」


 都市テヘラーンの正当な領主の名を、ファリザードがかろうじてつぶやく。

 ファリザードがアーガーの顔を認めたと知って、カースィムが黙りこくり、瞳を底光りさせた。


 ――遭遇戦というものがある。

 敵味方のどちらの指揮官も歓迎しない、叡慮や戦術とは無縁の、無秩序に支配されがちな戦闘。

 だがそれが、戦場においてはしばしば起きる。


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