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2-8.犬、猟犬、狼

ファリザード、みずからの腕を大いに恥じ入り

ジオルジロス甘言をふたたびささやく


 高く、疾く、遠く飛ぶ――


 かれは数百年前、遠い西南の地にある小国の王だった。

 百歳にもならないうちに、その力量をもって故郷を荒廃させていた戦乱を勝ち抜き、ジンのひとつの部族の長から国の支配者へと飛躍した。

 だがその小国の玉座などは取るに足らない。

 たいして広くもない土地の王と呼ばれていたことなど、この雄大な天空にあってかれが占めていた覇者の座と比べれば取るに足らない。


 砂漠の上空、両翼で乾いた空気を切りながら思う――


 どんなジンも虚空ではこの己に勝てぬ。“変化”(マスクー)の能力中で最も希少で最も使いこなすことが難しい飛翔型――それを完璧に統御する己の才にだれも勝てぬ。この高みには誰も手が届くまい。

 天空を支配する己こそ武において他者の追随を許さぬ戦士である。

 ……かつては、そう本気で信じていたのだ。

 増上慢が極まって、同じジン族の国であるファールス帝国に手を出したあの日までは。


 残照に赤らむ夕雲の下を飛び、砂まじりの突風を突っ切る――


 よりにもよって、と思うことはある。

 そのとき、かれがみずから飛翔部隊を率いて侵したのは、ファールス帝国西南のヒジャーズ公領であった。

 それなのに、よりにもよって、そのときのヒジャーズ公領には、帝国の東部を領する妖王(マーリド)が客として招かれていたのだ。

 数百年を経ているにもかかわらず、鮮烈によみがえる記憶がある。

 忘れられない恐怖がある。

 大地を歩くしかない虫のような者どもを蔑んでいた己が、味方の屍散らばる地面をまさに芋虫のように瀕死で這いずらされる。首も起こせないかれを、異様な音が出迎える。ごりごりと、ジン兵の屍の胸からえぐりとった魔石を噛み砕く音。まるで石臼にかけるような。

 それから、畏怖(おそろ)しき声がぼそぼそと降ってきて重くかれを打つ。


『アビシニアの王イルバルス』


 思いだす。あらゆる他者の武を粉砕する巨大な石臼の存在感。現在の主君の声。


『わしに服従を誓うなら一度かぎり命を助ける。しかし帝国を侵せと自国の民を煽ったその舌は許さぬ。

 帰順するつもりがあるならば、今すぐみずから舌を引きちぎれ。それを立て板に釘付けて、貴様が罪をあがなったことを満天下に知らしめる』


 聞くなり理解した。そうしなければ、板に釘付けられるのはかれの首か全身の皮だと。

 かれは“鷹爪”と称されてきた大力の指をもって、自分の舌を引きちぎった。

 ためらいはなかった。精鋭の二十数人よりなるかれの飛翔部隊を、蠅でも叩くように無造作に殺し尽くしたそのジンの武に接したあとでは。


 砂漠に燃えている騎馬部族の野営の火をめがけて滑空する――


 かれは〈剣〉に屈した。

 だがかれは、恐ろしさがゆえに帰順を選んだのではなかった。

 肌に走る戦慄も、

 骨まで沁み通る恐怖も、

 心臓を握りつぶされるような威圧感も、絶望と同義の澄明な悟りには及ばなかった。

 生きているかぎりけっして勝てない。武の高みにいたはずの己がまったく届かない。いいや、そうではない、高低の差でさえない――武の次元が違う。

 〈剣〉一人だけが他のジンと次元が違う。


 だからかれは〈剣〉だけは、明確に己の上位者であると認めた。

 だがそこまでだ――ほかの誰かが武においてかれの上に在ることは我慢がならない。敵の誰かであれ、同僚のホラーサーン将であれ、かれより高みに立つ者は容認できない。

 ゆえに〈剣〉と同じ血の流れる者たち、すなわち〈剣〉の妹の子らであるイスファハーン公家の次世代の者どもは生かしておかぬ。なぜなら、その者たちに将来、万一にも〈剣〉と同じ力がそなわれば、この世界の武におけるかれの順位はおびやかされることになろうから。

 よって、かれはみずから志願して狩人の役を務めている。〈剣〉の血が混じった若造どもを、一人残らず狩りたてるつもりだった。


 タカの姿の変化を解き、羊を焼く焚き火のそばに着陸すると、下界の塵芥(ちりあくた)どもが総立ちになってかれを驚愕の目で見つめた。


 一切を黙殺し、かれイルバルスは羊の脚を火から拾いあげて()む。長距離の飛翔によって失った体力を補うために。

 むさぼり食って人心地がついてから、イルバルスはようやく周囲を見回す。

 見定める。かれにこの焼けた羊を提供することになった人族の男たち――白羊族なる遊牧騎馬民族――〈剣〉の刻印によって未来永劫、ジンの脅威にはなりえぬ一族。

 イルバルスは白羊族の指揮官らしき禿頭の大男をさしまねいた。


 かれが追っているイスファハーン公家の生き残りたちの行方を知らないか、尋ねるつもりだった。


  ●   ●   ●   ●   ●


 ウルグがイルバルスに手招きされて、顔をひきつらせながらおずおず寄っていく。

 その光景を岩陰にはりついてのぞき見ながら、ペレウスは舌を打ちたくなった。


(なんてことだ、まったく)


 ホラーサーン将イルバルス――味方の中に降り立ったその相手はただ一人である。

 それでいながら、ペレウスたちがのっぴきならない窮地におちいったことは明らかであった。白羊族は呪いによってジンに手を出せないのだから。

 横でファリザードが打ちのめされた声を出した。


「なんで……よりによってクタルムシュ卿をテヘラーンに向かわせたこのときに!」


 彼女の言うとおり、仲間内でイルバルスと渡り合うことができるのはクタルムシュくらいだったろう。そして、かれはここにはいない。


(……いざとなれば、ぼくらがやるしかない)


 勝てる勝てないを度外視すれば、この場でイルバルスに武器を向けることができるのは、ペレウスとファリザードの二人のみだ。


「ファリザード、弓矢を」


「……え?」


「どこに置いてある?」


「馬の鞍につけて……なにをするつもりだ、ペレウス?」


「もちろん、あいつがぼくらを探すようなら、見つかる前にあいつを物陰から射て片をつけてしまうつもりだ」


「だめ――」


 怯えきった瞳で、ファリザードが唇から制止の言葉を出そうとした。

 が、彼女は急にまぶたをかたく閉じ、震えながらうなずいた。

 イスファハーンに〈剣〉とともに訪れていたイルバルスが、父親の仇の一人であることを思い出したのかもしれなかった。


 四つん這いで岩陰に隠れたまま、ふたりは音を立てぬように移動する。地下水を組み上げた水場の周りに群がった、予備馬を含めた百五十頭超の馬群の中へと。そこまで行くと馬体が少年と少女の姿を隠してくれた。

 馬の一頭一頭の鞍に、弓矢は置かれてあった。


「……わ、わたしが射る。おまえは弓に触るな。ぜったいにだ」


 ペレウスに背を向けて弓を取りながら、ファリザードが硬い声を出した。ここ数日の、ペレウスを避けていたときのようにかたくなな態度。


(土壇場でなにを言うんだ)


 ペレウスはむっとしたが、弓射の腕は彼女がかれを圧倒している。言い争いはせず、かれはおとなしく引き下がろうとした。

 しかし、水場の近くの大岩に縛り付けられていたジオルジロスが声をかけてきたのはその時だった。


「やめろ、馬鹿なことを考えるな。イルバルスに皆殺しにされるのがおちだ」


 かれの言葉には、いつものふてぶてしい余裕はなかった。皆殺しにされる者のなかにかれ自身が含まれるからであろう。

 硬直したファリザードとペレウスに、ジオルジロスは愚か者めといいたげに吐き捨てた。


「ここは平原で、相手は飛翔能力者だ。一撃で戦闘能力を奪えねば悲惨な結果が待つのみだ。

 しかして姫よ、そのわななきのおさまらぬ手でまともに矢を射つことができるのか?」


 指摘にファリザードが一言もなくうつむいた。

 ぎょっとしてペレウスは彼女の手元を見やる。弓を握りしめた手は、酒毒に侵された者の手のようにぶるぶると震えていた。

 嘲りの声もあげずただ冷ややかな視線を送っていたジオルジロスが、「縄を解け」と唐突に要求した。


「わたしを解き放って武器を寄こせ。今すぐに」


 意表をつかれてペレウスはそのジンをまじまじと見た。言われて気づいた。自分とファリザードだけではなかった。この腹黒い男はいざとなればイルバルスと戦える三人目であり、おそらくは自分たち二人よりは戦闘能力において上回るだろう。

 だが、この男を解き放つのは……


「……おまえは昨夜ぼくを子ねずみと呼んだな、ジオルジロス」


 ペレウスの言葉に、その男は片眉を上げた。ペレウスは不信の念をありありと面に出して言葉を叩きつける。


「タカと戦わせるために蛇を解き放つようなものだ。

 奇跡が起きて蛇がタカに勝ったとしても、ねずみたちがそのあと蛇に食われない保証がないんだが」


「……はっ、用心深いことだ。では絶対に射つな。このまま馬の腹の下にでも隠れてやりすごせ。

 それでも射ようとするならば小僧、貴様が射ったほうがまだましだと忠告しておく。

 今のファリザード姫では駄目だ。その小娘は本質的なところで、戦士としての資質が無い。それを克服する調練も受けておらぬ」


「……っ!」


 その痛烈な否定は、おそらくファリザードの胸をえぐったのだろう。

 弓を持つ左腕の震慄を止めようと同じく震える右腕でつかんで必死に力をこめていた少女が、喉の奥でうめきをあげた。それは少女の矜恃が押しつぶされる音に聞こえた。

 震える彼女の肩に手を置いて、ペレウスはジオルジロスに怒りの目を改めて向けた。


「ファリザードの武芸の技量を知らないくせに、知ったふうなことを。この子は並みの人族の大人よりはるかに武器をうまく扱えるぞ」


「技量以前の問題だ。

 小僧、貴様を子ねずみと呼んだことは訂正してやる。その姫に比べれば、貴様のほうがよほど殺しには向いている。

 問題は心の領域なのだ。気づいていなかったのか? その姫は、臆病者だ」


 間近に迫った生命の危機に余裕をかなぐりすてたジオルジロスの言葉には、微塵の斟酌も含まれていなかった。


「新兵にはよくあることだ。わめく敵兵が間近に殺到し、自分たちが戦わねばならないと頭でわかってはいても、体が麻痺したように動かずそのまま殺されるという現象はな。練習や遊びでは抜群の成績を残しても、みずからの身に敵意を浴びて生命のやりとりをする実戦に投入されれば……

 その姫がそれだ。見てのとおりだ。

 体が拒否している。最初の矢を外せば殺されるという恐怖と向きあうことだけではなく、みずから同種殺しに手を染めることにもだ。

 むろん戦士としては致命的だ」


「ちがう! なにを的はずれな……好き勝手な、ことを……!」


 ファリザードが否定した。あまりにも必死な声で。

 父の仇を間近にしていながら震えを止められない少女には答えず、ジオルジロスはペレウスに視線をめぐらせた。


「小僧、貴様はわたしの人族の手下を殺したことがあったろう。首や腹に刀を叩き込んで命を取ったろう。それをそのあと後悔したか?」


 質問の意図がとっさにつかめず、眉をひそめながらペレウスは即答した。


「する訳がないだろう。罪のない人々を殺して回っていたあんな連中、死んで当然だ」


「それだ。お前は義や信念のためであれば同種殺しを気に病まぬ者だ。

 聞け。ジンと人とを問わず、この世の生まれてくる者は戦場においては三種に分かれる。

 第一は、戦場においては駄犬である者たち。殺しの適性がもともと無く、訓練と経験によってどうにか猟犬の心を身につける者たちだ。

 第二が、生まれながらの猟犬だ。天性の兵士であり、おのれの正義に従って殺しに手を染める。良心の呵責に悩まされることは少ない。

 第三は狼だ。これは殺戮者だ。殺戮をどうとも思わぬ、または殺戮を好む。

 お前は“猟犬”だ、小僧。信じる正義のためならば、人を殺して気に病まぬ。だが、その姫はあいにく」


 そこでファリザードに目線を戻し、ジオルジロスはあごをしゃくった。


「犬だ。駄犬だ。

 絹の褥で育てられ毛並みは麗しいが、自分の牙を敵の血に染めたことのない美しい役立たずだ。

 平和の中であれば驕慢にふるまい、武芸をもてあそんで大言壮語を吐いていられただろう。あいにくそれが現実だ、小娘。おまえは猟犬や狼の獲物、戦の賞品にしかならぬ」


 総身を震わせるファリザードは、もう何も答えなかった。役に立たなくなった腕を見る瞳から、ぼろっと大粒の悔し涙がこぼれた。

 ペレウスはまなざしを険悪にしてジオルジロスにつめよった。


「こんなときに、おまえはなにがしたいんだ。口先でファリザードをいたぶるだけか。だいたいおまえがっ……」


 ジオルジロスに囚われかけたとき、反抗したファリザードは腹を殴打され、辱めを受けかけた。


(もしかしたら、あれがファリザードの心に、強い立場の相手への恐怖を刻みつけてしまったのかもしれないのに)


 しかし、ジオルジロスはかれの怒りをいなすように首をふって申し出てきた。


「その逆だ。姫にその気があるならば、わたしは姫を助けてやらぬでもないのだ」


「……なに?」


「生まれながらの駄犬は、長く厳しい調練や環境によってようやく猟犬となる。

 壊れることによって、まれに狼となりうる。

 殺戮を忌む心の一部を壊す方法は、古来より幾例かある」


 ジオルジロスの上下の唇がにちゃりと糸を引いて開閉し、妖言をつむぐ。


「“扉の宝玉”とともにおまえたちが取り上げたわが荷の中に、ひとつの薬がある。緑色の玻璃の小瓶だ。麻薬(ハシーシュ)を基として幾種もの生薬を合わせ、調えたものだ。

 飲めばたちまち、その手の震えは止まるぞ。

 姫よ、おまえは一時的に狼の心を持つだろう。身にそなわった武芸の技能を、殺しのために無駄なく使えるようになるだろう。おまえの伯父である〈剣〉のように」


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