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2-6潜入〈下〉


クタルムシュ、都市テヘラーン奪取の道しるべをつけ

その合間に奇縁の存在を目の当たりにすること



 ……二十二人目の見張りの口を手のひらで覆い、短剣を背に刺してぐりっとねじる。正確に腎臓を裂けば人体はショック状態に陥り、声をあげずにほぼ即死に至る。剥いた眼球から指先に至るまで痙攣し、刺された兵は虫のように死んでいった。

 最後の二十三人目は、先刻から異様に静かすぎることにようやく気づいて、周囲を見回し始めていた。くずおれる二十二人目に突き立った短剣はそのままに残し、クタルムシュはついと手を伸べてかれの首を片手でつかんだ。頚骨のへし折れる音がして、最後の見張りも闇を騒がすことなく永久に黙った。


 背後から忍び寄って刃物で殺すとき、主な狙いは喉、延髄、腎臓の三箇所である。

 喉をかき切る殺し方は多人数を連続して殺すには向かない。噴き出る血が多いため一人殺せば気づかれやすくなり、加えて刃の切れ味は血糊で鈍くなってゆく。

 延髄を穿つのも、(きり)状の得物を使うならともかく、短剣では骨に当たって刃こぼれしやすい。


 ゆえに、短剣しか持っていなかったクタルムシュがこの夜選んだ方法は、腎臓を刺すことであった。

 監獄となった岩室周辺をうろつく傭兵たちの後ろから無造作に歩み寄り、口をふさいで一刺し一捻りで殺し、屍体はほかの兵から遠ざけておいて次に移る。

 ごく短時間で終わったこともあるが、最後の一人にいたるまで、カースィムの雇った兵たちは自分たちが殺されていっていることに気付かなかった。


「……こんなにも静かに速やかに殺すジンは初めて見た」


 一連の殺戮を流れるように行ったかれの手際に、離れた物陰で待機していた女兵士ルカイヤが感服しきった声を出した。


「歩けば十歩に一人を殺す――その表現が誇張でない者がいるとはな。おぬしは傭兵ということだが、妖士(イフリート)級の手練ではないか」


 妖士だった――と言おうとして、クタルムシュはやめた。かつては近衛隊の長、のちには太守に昇進した身であったが、人族と結婚したときにすべての称号は剥奪されている。

 なにか言うかわりに、かれは岩室の前に立った。地下に通じる入り口を閉じる扉には、(かし)の板が幾重にも打ちつけられていた。

 クタルムシュは板に手をかけ、足を扉に置いて、扉を封じる板を引き裂きはじめた。


「……固い樫板を、ちょっと厚いだけの紙のように破るのだな」


 ルカイヤが感嘆を通りこして呆れに近い表情を浮かべたときだった。

 扉の内側から、かすれた声が響いた。


「よせ……この扉には毒が塗られ、板にも毒を溶いた水が染みこませてあるとのことだ。うかつに触れてはならん」


「そんなことだろうと思った。手袋をしている」クタルムシュは答えた。


 “大力”はジン族の呪印の力のなかでは最もありふれた能力である――クタルムシュに並ぶ力量の者は稀だが、それでも扉を破ることくらいはできるはずであった。それが出てこないのなら、相応の理由があると見当はつけてあった。

 使われている毒物が、ジオルジロスに語らせた例の経皮吸収の毒ほど強力なものかは知らないが。


「……外の方、面目無い……わずかでも内側から封鎖を破ろうとする気配があれば、毒水毒煙を扉の穴から注ぎ込むと言われて、動けなかったのだ。それがなければ毒の扉もなんとかしてとうに出ていたのだが」


 申し開きをするジン兵の声に、ルカイヤが扉に駆け寄り、扉の裏側へと声をしみとおらせた。


「その声はカイスか? みなは無事なのか!? 助けに来たぞ!」


 ややあって、


「……ルカイヤか。井戸水の毒のほか、三人が板の猛毒に触れて倒れた……

 地下室の壁に穴を穿って逃げようとしたのだが、岩盤に当たってそれもならなかった。岩盤の隙間から地下水がにじみ出てきたため、幸いにして渇きだけは味わわずにすんでいるが、みな食もなく衰弱してろくに動けない。

 だが、弱ってはいるが、地下で七十六名が生き残っている」


「十分な兵数だ」クタルムシュは言葉を差し挟んだ。「カースィムの雇った兵は何人だった?」


「え……ああ、五百名はおらなんだが、四百名以上はいたような……」


 戸惑いを含んだカイスの答えに、ルカイヤが嬉々として言った。


「カイス、朗報だぞ。そいつらの大方はどういうわけか市門を出て、いずこかに消えた。奴らの姿が減ったゆえおれも市中に這い出てこれたのだ」


 傍らで聞くクタルムシュは、思いをめぐらした。かれは傭兵たちの行き先を知っている。カースィムが砂漠に伴ってきたのは三百名ほどであった。

 となればテヘラーンに残っている敵兵はだいたい人族が百名。それも今しがた多少減って、この中のジン兵たちとはほぼ同数になったわけである。


「ルカイヤ殿、それにカイス殿」クタルムシュは呼びかけた。「体調万全といかぬところを悪いが、この夜のうちにあなた方はテヘラーンを奪還したほうがよい」


「なっ……」


 扉の内外で言葉を失うかれらに、クタルムシュはたたみかけた。


「時間を置けば敵が防備を固めるだけだ。いまにもカースィムが兵を連れて戻ってくるかもしれぬ。そうなれば都市奪還は難しくなるぞ」


 悠揚とかまえてはいられなくなったことをクタルムシュは感じていた。

 カースィムはすでに完全な反逆に手を染めた。あの男は最初、ファリザードの一行をテヘラーンに寄せ付けず追い払おうとした――しかし目論見は外れ、追い払うべき彼女は足を止めたのみで、テヘラーンの近郊から離れていかなかった。となれば、カースィムは次はいよいよ実力行使によって、自分にとって危険な少女の排斥にかかるかもしれないのだ。


(戻ってくる途中でないのならば、カースィムはあの引き連れていた三百人をもって、ファリザード殿のいる野営を襲おうとしているかもしれぬ)


 百戦錬磨の白羊族ならば、同じ人族の傭兵の襲撃には対応できるであろう。しかし早く戻るに越したことはないのだ。

 重ねて確認する。


「やれるか?」


 静寂ののち、カイスの声が、「……やろう、外のお方」と返事した。


「やれる。閉じ込めおった奴らに、一太刀浴びせねば気がすまぬ」


「そうか……テヘラーン市民の力も借りたほうがよいな。火と適当な武器をもって駆けつけさせるだけでよかろう」


 群衆が蜂起するのを見れば、傭兵たちの士気は下がりに下がるだろう。

 ――が、クタルムシュの提言に、ルカイヤは太いが形のよいくっきりした眉を寄せた


「市民は……役に立つのだろうか」


「うむ?」


「このテヘラーンの市民は二十万人に達する。だがそれだけ人数がいながら、かれらはカースィムの呼び入れたわずか四百名の傭兵の暴力に怯えて、今にいたるまで形ばかりの反抗もできないでいた。

 毒を飲まされて早々に半病人のていたらくとなったおれたちが言えた義理ではないかもしれんが、市民は不甲斐なさ過ぎる」


 彼女の声と表情には単なる不満ではなく、人族に対する不信と、かれらに手を借りたくないという隔意が色濃く浮かんでいた。その暗い色は、なにか事情があることを伺わせた。

 クタルムシュはしかし、時間をかけて丁寧に説き伏せるつもりはなかった。

 このあと、かれは市壁をふたたび越えて、外に待機するユルドゥズたちに事の成り行きを説明しなければならない。それからさらに市壁の内側へ戻り、城門を開いて白羊族の兵たちの突撃入城を手引きせねばならない。無駄にしていい時間はなく、市民の蜂起を煽る役は自分以外の誰かにやってもらわねばならなかった。


「やらないよりはましだ、ルカイヤ殿。それにおそらく大丈夫だ。

 市民たちに、かれらをおびやかしていた傭兵は、市内にもう百名も残っていないと伝えてやるがいい。先頭に立って戦うのは主にジン兵であり、市民は灯火をかかげて叫びながらそれに続くだけで良いと教えてやるがいい。傭兵を引き連れて城壁外に出たカースィムを締めだす好機は今をおいてないと煽れ。

 そして、なにより肝心なことは、この知らせを聞いた男は今すぐ戸外に出て、まだ聞いていなかった別の市民五人以上に教えるようにと必ず伝えることだ」


 そのやり方ならば、東の空が明るくなるまでに二十万市民の全員が事態を知る。そして武器をとって駆けつける者が百人に一人であったとしても、二千人が傭兵たちを押し包むことになる。

 熊が樹の皮を剥ぐようにばりばりと音を立てて板を破り捨てるかれをルカイヤは見つめていたが、やがてため息をついた。


「……わかった。クタルムシュ卿、おぬしに従う。おぬしはおれたちの誰よりはるかに戦に慣れているようだから」


 きびすを返して市街地に向かうルカイヤの背に、最後の板を剥がしながらクタルムシュは呼びかけた。


「城門のすぐ外には、イスファハーン公家の者に属する軍がカースィムを断罪するため近付いている。そのことも言ってやるがいい」


 去りかけていたルカイヤの足がぴたりと止まった。


「イスファハーン公家の? それは事実か」


「正確にはイスファハーン公家に雇われた私の仲間の兵だ。近くにいるのは二十騎足らずだが、その能力には全幅の信頼をおいてよいと――」


「さえぎって悪いが待ってくれ。

 知りたいのは、イスファハーン公家の誰がおぬしらを雇ったのか、そのことなのだ」


 足早に戻ってきたルカイヤが訊く。全身の傷も忘れたような剣幕であった。詰め寄られて不審に思いながらクタルムシュは答えた。


「薔薇の姫君、ファリザード殿だ」


 その瞬間、隻腕のジンの女は「あの子が!」と叫び、それから半開きの口を覆って呆然と立ち尽くした。


「ファリザード様が……」


 驚嘆、喜悦、旧懐、情愛、憂慮――いくつもの感情が混然となってその面をよぎる。

 その様子にクタルムシュはおやと眉根を上げた。


「もしや知り合いなのか」


 ルカイヤの、わずかにはにかんだ表情での返答は、クタルムシュをしてこの夜はじめて絶句させた。


「……おれはファリザード様の乳母だった」


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