2-5潜入〈上〉
ユルドゥズの夫クタルムシュ、都市テヘラーンに侵入し
町中で狼を助けること
この夜は月は細く、その光は弱かった。
都市テヘラーンの市壁の上には一定間隔で灯火がかかげられているとはいえ、照らしきれない闇は存在する。その明かりの影になる部分で、黒衣をまとったクタルムシュは高さ八ガズの市壁をなでまわした。指に引っかかる石壁のかすかな凸凹の感触を確かめる。ややあって影がへばりつくように壁に身を寄せ、上へと這い登りはじめた。
トカゲか、もしくは岩山羊のように。
テヘラーンの内情を、かれは探るために来たのだった。
“大力”の呪印が、血の色をもってクタルムシュの肌に浮き出る。
右鎖骨部から衣服下の胸肌にかけて浮かびあがったのは、洗練された書体のような、美しい赤蛇を象るような、優美な曲線によって成る印である。軽く柔軟な筋肉が熊の膂力を宿して張りつめる。宿る力は敵との闘争のときのみならず、さまざまな形で発揮されるのだ。
その体重の軽さに加え、“大力”を持つ一部のジン族にとっては、壁や崖を登る程度のことは造作もないことだった。
(登りやすいな……せっかく滑り石で壁面を覆っているのに、長く手入れされていない)
指先のわずかな引っかかりだけで体を上方へ引き上げながらクタルムシュは思う。通常、かれのような能力に習熟したジン兵の登攀を防ぐため、レンガの市壁を覆う大理石の表面には磨きをかけるものだ。だが、イスファハーン公領ではそのような戦への備えは長く怠られていたようで、指をかける細かい傷には不自由しなかった。
〈剣〉の脅威に接した今、こうした平和ぼけの有り様は憂慮すべきことではあろう。だが、この壁を越えねばならないクタルムシュにとっては、それはこの局面に限りありがたい話だった。
レンガがむき出しの上部までたどり着くと、登るのは一層楽になった。
市壁の上にたどり着きかけたころ、かれは人族のにおいを感じて、壁に張り付いた状態で動きを止めた。
壁上の通路には、灯火のない箇所にもかかわらず――いや、だからこそか――歩哨がいるようだった。それも二名。まだこちらには気付いていないが、このまま壁の上に顔を出せばさすがに発見されるだろう。こう至近距離だと“隠形”の術で姿を誤魔化すことも難しかった。
酒で酔わせてぐったりさせたコウモリをクタルムシュは懐から取り出す。
小さな獣を、歩哨の気配がする場所から少し離れた市壁上へ投げ入れた。転がったコウモリが鳴いて、歩哨二人のざわめきが聞こえ始める。何か音がしたか。おっ、見ろ、これが鳴いたんだ。飛んできて落ちたようだな。病気かな、生きているがふらついているぜ。
その隙にクタルムシュは矢狭間を乗り越えて音なく市壁上に降り立つ。歩哨たちが酔ったコウモリを足先でつつく数瞬の間にその背後をよぎり、こんどは市壁内側へ張り付いて身を隠す。気づかれた場合は黙らせる必要があったが、幸いにしてそうはならなかった。
するすると壁を下り、なんなく都市の地面に降り立って、かれはひとりごちた。
――少々、たわいなさ過ぎる。
“隠形”があるとはいえ城壁にやすやす近づけたことといい、兵の数が少ないとクタルムシュは感じた。カースィム卿はまだ帰ってきていないらしい。
(それにしても、寡兵であること以上に、夜目がきき、耳も鼻も人族より鋭いジン兵が歩哨に立っていないのが妙だ)
思えば警備隊長を名乗るカースィムが現われた時から違和感はあった。かれが引き連れていたのは人族の兵が三百人――カースィム当人以外にジン族の姿はなかった。
そのときは都市テヘラーンにジン兵を残してきたのかと思っていたが……
学院や修道場の荘厳な建物のそばは避けて街路を行く。居住区に入り、らくだ二頭がかろうじて横並びで入れる程度の小路についと立ち入る。黒いマントをたなびかせながら、かれは嗅いだ。
静まり返った夜半の都市の臭いを。
小路をはさんで立ち並ぶレンガの高層建築の中で息をひそめる、市民たちのよどんだ感情の臭いを。濃い闇を満たす、恐怖と反感の臭いを。
――その一方で、屍が腐る臭気はほとんどない。
疫病の流行はやはり嘘であった。しかし、それならば街中に満ちた暗い雰囲気はなんなのだろう。カースィムが実権者となっているのなら、かれの統治は好意をもっては受け入れられていないということだろうか。
(まずは市民に実情を聞くことにしよう)
話さえ聞けるなら善人でも悪人でもいい。
むしろ、尋問するなら、適度に絞り上げてもよさそうな相手が望ましい。聞くだけ聞いて始末しても誰からも文句のでない悪党なら言うことはない。
もちろん、善良な市民で、都市の内実がどうなっているかを進んでしゃべってくれる協力者が現れるのでもよいのだが、そんな人間を夜更けに探すのは難しそうだった。
クタルムシュはじぐざぐに配置された小路をくぐりぬけつつ、探す。
または、待つ。
いずれ現れるであろう夜遊びの輩か、追い剥ぎを。どちらも見つからなければ、街角に必ずいる抜け目のない情報屋、つまり乞食を。
しかし、かれに情報をもたらすことになったのは、そのうちの誰でもなかった。
鼻腔に届いた香りに、クタルムシュは立ち止まる。
血のにおいが夜風に乗って路地に香っていた。それも極めて新しい、ジンと人の双方の血のにおい。かれは向きを変え、血臭が導く方へ向かった。
私道である袋小路の奥――争いの音がそこでしていた。
猿ぐつわをかまされかけた獣のうなり声。
傷だらけの大きな狼が、人族の兵二人によって仰向けに押さえこまれていた。
兵のひとりは狼の腹の上に座り込んで手で首を絞めている。狼の三本の足――右の前足が欠けていた――が、のしかかってくる敵を懸命にかきむしろうとしている。銀の毛皮のそこかしこが赤く染み、暴れるほどに血が飛び散っていた。
「絞め続けろ。“変化”できなくなるまで弱らせるんだ。この畜生がジンの姿に戻ったら、意識朦朧としているうちに呪印を肌ごと刀でこそぎ取れ」
三本足の狼の口に布を噛ませて頭ごと押さえつけている兵が、荒い息とともに同僚であろう兵に命令している。
クタルムシュはさほど悩まなかった。狼を絞めることに熱中している兵の背後に歩み寄り、右腕を静かにかれの首に巻きつける。同時に、猿ぐつわを噛ませていた兵ののどを伸ばした左手でつかむ。そして二人ともを狼の上からどかすようにひょいと持ち上げ、絞め続けた。
たちまち兵たちの顔色が赤黒く変わる。目を丸く剥き、万力のごときクタルムシュの腕と手を外そうともがいて暴れる。それも長くは続かなかった。
――……気管と頸動脈を的確に圧迫されると、意識が落ちるのは意外に早い。
失神した人族二人を下ろしたとき、クタルムシュは喘鳴混じりの声が地面から届くのを聞いた。
「おぬしはいずれのジンだ、テヘラーンの兵ではないな……」
狼――ではもはやない。組み敷かれていたその姿は、右腕のない満身創痍のジン兵に戻っていた。兵士であることはその身にまとう軍衣でわかった。ところどころ切り裂かれて血と塵埃にまみれ、いつから着替えていないのかやたら汚い軍衣であったが。
「だが、誰かは知らねども、礼を言おう……おぬしはおれの恩人だ」
長身を地面に弱々しく這わせるそのジン兵は、血が気管に入ったのか咳き込みはじめる。クタルムシュはかがみこんで訊いた。
「どういうことかな。身なりを見れば、あなたはテヘラーン兵のようだが」
「いかにも……アーガー様に忠誠を誓った……」
「どうして人族の兵とこうなっている? この者たちは種族こそ違え、同じテヘラーンの兵ではないのか」
「違う……こいつらは、市民から募った兵ではない、よそから来た傭兵だ」
「その傭兵がなぜ市内で幅をきかせている。カースィム卿が雇ったのか」
その名を出したとき、
「カースィム……そうだ、奴こそが元凶だ。あの毒虫に神の呪いあれ」
それまでは血泡と細い声しか出さなかった口が、怨念もあらわにぎりっと歯を鳴らした。
………………………………
………………
……
隻腕のジン兵の赤銅色をした長髪が、地面に落ちかかって流麗な筋を作っている。
「おれはルカイヤだ。恩人殿、名を教えてくれ」
名乗ったジン兵は、座って路地の壁にぐったり寄りかかりながら問うてきた。人ならば瀕死になっていておかしくないところだが、ジンの生命力は平均的に人よりいくらか強い。傷だらけとはいえ、ルカイヤの呼吸は落ち着きはじめていた。
「クタルムシュ。傭兵だ」
「クタルムシュ卿……傭兵……」
ルカイヤのまなざしに疑いと警戒の光がわずかながら揺れるのを見て、クタルムシュは「むろんカースィム卿に雇われてはいないぞ」と付け足した。どうもイスファハーン公領では、傭兵というだけで十把一絡げに見られるきらいがある。無理もないことではあったが。
「高名なアーガー卿によってテヘラーンは治まっていると思っていたのだが、どうも様子がおかしいので事情を探っているところだ。
よければ教えてくれまいか、ルカイヤ殿」
申し出ると、ルカイヤは暫時ためらったのち、そうだな、と洩らして話しはじめた。
「アーガー様は裏切られたのだ。娘婿であり右腕とたのんでいたカースィムめによってな」
ルカイヤの話によれば次のような次第であった。
……カースィムの反逆がいつから計画されていたのかはわからない。だがその実行は、しばらく前に、ルカイヤたちアーガー卿に忠誠を誓う兵を無力化することから始まったのである。
カースィムは兵舎の井戸水に、効果が一日遅れで現れるしびれ薬を入れたのだ。
そしてジン兵の大部分が倒れて身動きもならなくなったところで、人族の傭兵を都市に引き入れ、兵の呻吟する病床ごと兵舎を押し包んだ。ルカイヤ含め、水をたまたまあまり飲まなかった少数の者はどうにか動けたが、逃げるだけで精一杯であった。カースィムが雇った傭兵の囲みを切り開くときに何人のジン兵が死んだかわからない……
「動くこともできなかった同僚たちは、今は兵舎近くの、酒を冷やす地下の岩室に閉じ込められているときく」
「……カースィム卿がそのような仕儀に及んだ理由はなんだ?」
「おれは奴の心は知らず、実際になしたことを知るのみだ。だがそれで足りる」闇に歯噛みが軋る。「カースィムは〈剣〉のイスファハーン領侵攻に合わせ、このテヘラーンを乗っ取った。つまりはそうしたかったのだろうよ……主の地位を奪うには最適の時期だというわけだ。いずれ〈剣〉に忠誠を誓う旨を宣言するだろう」
怒気燃えるかと見えたルカイヤの瞳が、ふいにクタルムシュを見て深みを増した。かれのひととなりを探り、一方でそろばんを弾く目付き。
「……おれはアーガー様の安否を知らねばならぬ。兵舎の仲間を救けねばならぬ。毒虫カースィムめを誅せねばならぬ。
しかしいま、市中をうろつくジン兵は問答無用でさっきのように誰何を受ける。じっとしてはおれぬと潜伏場所を捨てて街に出たはいいが、口惜しきことに“隠形”の使い手ならぬこの身、しかもいまだ本復もあたわぬ。ふらつくうちに間抜けにも見つかってしまったのだ。
しかし至高なる唯一神は、善き信徒を忘れず見そなわしたもう」
ルカイヤは隻腕を伸ばしてクタルムシュの袖をとり、親しみをこめるように軽く揺すぶった。
「こうしておぬしに救けられたのだからな。
クタルムシュ卿、正式に雇ったことはないので作法は知らぬが申し出る。おれに手を貸していただけまいか。すべてが片付いてからおぬしの功をアーガー様に言上しよう……いいや」
声がふいに甘みを帯び、眉が太めの凛々しい美貌が官能的な秋波を送る。
彼女はクタルムシュの腕を隻腕でからめるように抱き取り、豊満な胸に抱きしめた。切り裂かれた生地の裂け目からむちりと柔肌がはみ出るほどに実った乳房が、ぼろぼろの軍衣の胸部を張り詰めさせている。
「尽力してもらえるなら、たとえ結果がどうあれ、最低限の報酬は確実に払う。それは日輪と月輪にかけて誓おう」
やつれてもなお肉感的な肢体を寄せて、そのルカイヤという女性のジン兵はささやいてきた。ぽってり厚めの唇からすべりでる甘みを帯びた声とは裏腹に、妖しく輝く瞳の奥には、見つけた利用できそうな相手を逃がしてはならないという必死の決意が見え隠れしていた。
傭兵によほど先入観があるのだな、とクタルムシュは苦笑しかけた。これだけはユルドゥズに報告できんなと胸中につぶやき、「妻帯者でな。触れられるのは困る」言って腕を引き剥がした。色仕掛けをあしらわれたことでルカイヤの面に、しくじったかと悔やむ色が浮かんだが、
「それでは後からアーガー卿への口利きをよろしく頼もう」
クタルムシュの台詞に彼女の目は丸くなった。喜びよりも先に、あまりにもあっさり承諾されたことに戸惑いを覚えたようだった。
「……迷いがないな。おれが言うのもなんだが、本当にかまわぬのか」
「すでに潜入している以上、危険はいまさらだからな」
それに、と内心でつぶやく。都市テヘラーンをファリザードのため獲得するという目的に、ルカイヤの申し出は合致しているのであった。
「ルカイヤ殿、同僚がたが軟禁されているという岩室はどちらか? さっそくだが案内してもらおう」
「東の市壁に沿ったところに……待て、いきなりどうする気だ。岩室の前には兵の番屋がある。何度か見てきたが、そこで見張る人族の兵は常時二十人以上いるぞ」
「テヘラーン出身の市民兵でないならば始末しても問題はあるまい」
話が簡単になったな、と思いつつクタルムシュは手袋をはめる。気を失っている傭兵ふたりの首をあらためてつかみ、東に足を向けた。
足を引きずりながらついてくるルカイヤが戸惑い声で訴える。
「それは、殺せるなら問題はむろんないが……恥ずかしながらおれはこのざまだし、ふたりで二十人は手に余る。第一、兵舎周辺が騒ぎになればすぐに奴らは市壁の上の救援を呼ぶぞ。そうなればなます斬りだ、慎重にやらねば――」
「救援を呼ばせるつもりはない」
かれは歩きながら、傭兵二人の首をつかんだ両手に力をこめる。頚骨の砕ける手応えを得て、屍体二つを暗い側溝に放りこんだ。