3.修行
ペレウス、異国の地で異国の剣をまなび
風変わりな特訓にころげまわる羽目になること
がらくたの中にあった盾には、表面に古代ファールスの神が描かれていた。その「日輪に翼」の紋章を、サー・ウィリアムの一撃が打った。
(剣術じゃないよ、これ!)
剣も持たせてもらえない剣術があるか。
ペレウスは歯を食いしばって、重い青銅の円盾を左手一本でかかげた。右手は――わきをしめて身体にくっつけるように縛られていた。
滅びた神殿の高い採光窓から、長方形の光がさしこんでくる。
崩れかけていることに目をつぶれば、悪い場所ではなかった。幾本もの円柱にささえられた天井は高く、剣を振り回せる程度には広い。鈍い音が石壁にひびく。
都市イスファハーンの一角にある、その砂色の石とレンガ造りの建物は、たんなる古い納屋ではなかった。かつてジン族の征服の前、ファールス人が崇めていた光と火炎の神にささげられた神殿であったという。古代神に代わって「唯一なる主神」を崇めるようになった現在のファールス人は、無関心というよりあからさまにこの場所を忌んでおり、がらくた置き場にされていた。
そこはいま、ウィリアム(サーを付けろとかれはいう)というヴァンダル人の乞食がねぐらにしており、またペレウスの修行の場にもなっていた。
汚い下穿きに汚い長衣を身にまきつけた、乞食衣装のサー・ウィリアムが踏みこんできた。ひび割れ、一部は粉と化している床のタイルを踏みしめ、木剣を薙いでくる。
「きちんと盾で受けろ、へぼ従士! 本来なら門外不出の真夜中城の剣術だぞ。それを教えてやってるんだから一撃ごとに感謝を新たにして受け止めろ」
(なにがミッドナイト流剣術だよ! 一月かけても片手盾での受けしか教えてくれてないじゃないか!)
盾をかまえたペレウスは心中で罵ったが、まあ実際、防ぐだけでせいいっぱいである。しかも盾での防御に専念していてさえ、ぺらぺらしゃべるサー・ウィリアムが無造作に繰り出す剣を、十のうち七程度しか防げない。ヴァンダル人が半分でも本気になれば一剣すら受け止められないだろう。
それにしても木剣で打たれるのはひどく痛かった。少年はうなりをあげる斬撃に怯え、盾をかかげながらよろめいて後じさった。
サー・ウィリアムが、せせら笑った。
「なにをへっぴり腰になってる、ちゃんと受け止めろ。そら、足が前に出過ぎだ」
男の手首がひるがえり、鞭のようにしなった木剣がペレウスの太ももを痛烈に打つ――痛苦が肉にしみわたった。悲鳴をあげて腰が砕けた瞬間、足を足で払われて、ペレウスは盾ごと床に転がった。
(もう動けない、左手も上がらない)汗まみれで、うつぶせになり荒い息をついていると、信じられないことに背中を木剣の先で強烈に突かれ、また悲鳴をあげさせられた。
「だれが寝ていいといった? これが本物の斬り合いの場ならいまので死んでるぞ、おまえ。さあ受けろ」
いたぶることを楽しんでいるに違いないヴァンダル人は、にやにやしながら踏みこんで大上段から斬り下げるかまえを見せた。
とっさに転がり、盾で地を押してはね起きた――右手が使えないため、最初のうちは倒れてしまったら身を起こすのにもたついていた。即座のはね起きをこなせるようになるまで打たれっぱなしだったのだ。
ペレウスはどうにか重い盾をかかげ、真っ向から斬撃を受けた。盾をもつ手がしびれ、指の股に裂けるような痛みがはしって、少年はみたび連続で苦痛の声をあげた。
「……よし、一ヶ月もかかったが防御だけはほんの少しさまになってきたな。ここらで一息つくか。エル・シッド、このど下手糞が持ってきた酒の袋をとれ」
木剣を肩にかついで偉そうにサー・ウィリアムがいう。サルのエル・シッドがペレウスの荷物をかきまわし、らくだの膀胱でつくった酒袋をとって主人にさしだした。
荷物を勝手にあさられてもペレウスはそれに反応する気力もなかった。水がめに這って近寄り、生ぬるい水をひしゃくで一口飲むや、半死半生で床に倒れた。
……とたんにサー・ウィリアムが、恥ずべきものを目撃したかのように眉を寄せた。
「こら、従士、騎士が横たわらないうちから寝ようとするとはなにごとだ。いますぐ立て」
従士――なんだか知らないが、騎士につく小姓のようなものらしい。「真夜中城の剣は身内にしか伝えない決まりでね。そこを曲げて教えるんだから、せめて従士になってもらおうか」と腹のたつ条件をだされたのだ。
由緒正しきヘラスの王族が蛮族の小姓にされるなど屈辱の極み、と最初は憤慨したものだが、どうせたいした束縛はないと踏んでけっきょくはしぶしぶ呑んだ。
呑んだ自分を罵りたい。いつのまにか弟子と師としてきっちり上下関係があることになっている。
恨めしげなペレウスの目の前で、サー・ウィリアムは酒袋に口をつけてごくごくと飲み……
「なんだこりゃあ、そこらで売っている馬乳酒じゃないか! 昨日まで持ってきたぶどう酒はどうした、このクソガキが」
「い、いいかげん、イスファハーン公の家令に、睨まれたんです、よ。ヘラス産ぶどう酒、を、あなたの要求どおり、毎回、酒蔵から持ち出していたら……! たっぷり嫌味をいわれましたよ」
立ち上がろうとして子鹿のように四肢をぷるぷる震わせつつ、少年は怨嗟した。
この若いヴァンダル人は、一日一袋、ぶどう酒を持っていく端から水のようにごくごく飲んでいたのだ。ヘラスの至宝である最上級のぶどう酒なのだから、せめて味わって飲めといいたい。
顔をしかめたサー・ウィリアムは、
「ちっ、ぶどう酒に免じて手加減していたが、今日からは情け無用でいくぞ。どろどろしたレモン水みたいに酸っぱい馬乳酒を持ってきやがって」
八つ当たり気味に、鍛錬をさらにきつくすると宣言した。ペレウスは無言でうなだれた。
(この都で会う人間は、ほとんど意地が悪い)
修行がはじまってからの最初の二週間は地獄だった。あれは筋肉痛などという生やさしいものではない――三日目の朝など、冗談抜きで、床から起き上がれなかったくらいだ。
腕を固定するバンドもない盾をにぎらされる手のひらには、血豆が次々でき、それは片端からたちまち潰れた。取っ手が血でぬるぬるしてすべると訴えると、おざなりに手に布を巻かれたうえで盾を拾わされた。
周囲に気づかれないよう、サー・ウィリアムは肌が露出するところは打たないでくれたが、そのかわり服で隠れるところは斟酌せず打ちすえてきた。ペレウスの体はすっかり棒状のあざだらけになっていた。
サー・ウィリアム――ゾバイダが紹介してくれたこの若い男は、ヴァンダルの一部族、島国にすむアングル族の「騎士」という階級であるという。かれは、持てる武芸をペレウスに文字どおり叩きこんでくれていた。
ヘラスの最強の戦士であるラケダイモンの子息たちでさえ、こうまで苛烈な武技教育は受けないだろうというほどの徹底したしごき方で。
「おかしい……、これ、剣術だよね。剣術しか教えられないっていったじゃないか、あんた」
ペレウスは気息奄々でたずねた。「そうだが?」と悪びれないサー・ウィリアムに重ねて文句をつける。
「ぼくが持たされているのが剣じゃなく、武器ですらなく、盾だってことはこのさい置いておくとしても……そっちの攻撃も、めちゃくちゃじゃないか!」
「問答のまえにいっておくが、騎士には敬意を払った言葉づかいをしろ、従士くん」
「……足を払ったり、つかんで引き倒したり、いきなり短刀を突きつけたり! 剣以外の攻撃を平気でしてくるじゃないですか! 格闘術だか剣術だかわかりません!」
「実戦で、敵が細かい分類を気にするか? 相手をひっくり返せば一気に有利になるんだよ。ことに、防御力の高い重い鎧を着ている相手だったら、転がしたうえで、こう、隙間に剣先をつきおろす。組み合って密着していたら短刀だ。
そういった攻撃技はそのうち伝授してやる。ごたごたいわず守りの構えから完璧にしろ」
「ヴァンダルの騎士みたいながちがちの全身甲冑を着た相手と戦うわけじゃ……」
ぶつくさこぼしたペレウスに、サー・ウィリアムがにやりと笑いかけた。
「へえ、おまえが憎む相手はやはりファールス人か? それならたしかに、やつらは軽い装備で戦うからな。
おっと、いまさらとぼけようとするなよ。まわりに隠れて強くなろうとする理由なんて意趣返しと相場がきまっている」
ペレウスは沈黙した。セレウコスのことを思い浮かべる――まさか、真っ先に復讐したい相手は同じヘラス人なんだとはいいにくい。
あのわがまま娘のファリザードはとても嫌なやつではあったが、彼女相手とセレウコス相手では、抱く憎しみの種類がちがう。ジン族の姫ファリザードにはもう関わりたくないが、アテーナイのセレウコスにはこれまでの礼をしてやらねば気がすまなかった。
サー・ウィリアムがすこし考えて口にした。
「ファールス人の毒矢と槍と三日月刀は、この砂の地ではたしかに厄介だ。やつらは踊るように戦う――おれたちの全身甲冑では、足を砂にとられて体力を消耗し、周囲をかるがるはねまわって鎧の隙間に斬りつけてくるやつらに疲れきって、不覚をとっちまうことが、まあ、ないとはいえないな。
だがな、それでも、おれたち騎士は鎧を身につける。なぜならおれたちの戦法のみならず生き様にあっては、防御こそがかなめだからだ。おれたちは罪なき者を護り、おれたちはすべての女性を護り、おれたちは誇りと名誉を護る。そのかぎりにおいて、神がおれたちを護ってくださる。たとえ身は殺されようとも魂は護られる」
酒をあおって、その「騎士」は歌うように祈った。
「神よわれらを護りたまえ、異教の敵から護りたまえ、砂と風から護りたまえ、獅子と蛇から護りたまえ、三日月刀から護りたまえ」そして最後に小さく、そそくさと謎めいた言葉――「わが身を闇から護りたまえ、深き夜から護りたまえ」
男は指で十字をきるしぐさをしてから、ペレウスに釘をさした。
「おまえの意趣返しだが、ぜったいにやるなとはいわんさ。気にくわないやつってのはいるものだからな。
だが、騒ぎを起こすなら、おれがこの街の市壁を無事に出ていってからにしろよ。それも手伝ってもらうぞ」
そうだ――それにも手を貸すことになっているのだ。
ファールス人は、交易によって昔から見慣れているヘラス人はまだしも、戦争でしか接してこなかったヴァンダル人は骨の髄まで憎んでいる。ヴァンダルの騎士とばれれば、サー・ウィリアムは首を斬られるか吊るされるだろう。かれはいますぐにでもこの街から逃げ出したいようだった。
しかし、都市イスファハーンをぐるりととりかこむ長大な市壁は、ヴァンダル傭兵をふくむ賊の一団が外で暴れまわるようになってから、出入りの見張りが格段に強化されている。なかなか逃げ出せるものではない。
(そもそもなぜこの人はここにいるんだろう?)
そこでまた浮かんだ疑問そのままにペレウスは訊いた。
「……あなたはヴァンダル人なのに、この敵地のどまんなかでなにをしているんですか?」
(まさか、外の盗賊の間諜じゃないだろうね)
サー・ウィリアムは、あからさまにごまかそうとした。
「おや、自分を棚にあげて妙なことをきく。おれの目の前にも、なぜか敵地にいる異国人の子供がいるんだが」
「ぼくは……ぼくたちは人質です。ヘラスとファールス帝国は和平交渉に入っています。それがまとまるまでこの街のジンの貴族に預け置きされることになっているだけです」
「まとまるかな? ジン族は恨みを忘れないときくが」
「無責任な。ひっかきまわしたのはあなたがたヴァンダル人でしょう」
ペレウスの声は激しそうになった。
『ペレウス、聞きなさい』――人質としての出立のまえ、ペレウスにそういった父と叔父の声が耳によみがえってきた。
『向こうに行く前に、「ファールス戦役」のまことの歴史を王族としておまえに教えておかねばならん……』
ミュケナイ(ミケーネ)、アテーナイ(アテネ)などの名前であからさまですが、ヘラスの元ネタは古代ギリシア文明。
ヘラスの呼称自体もギリシアを指します。
実際は、ミュケナイ文明は都市アテーナイの最盛期の数百年前にはとっくに滅びていますが、この話はフィクションなので好き勝手しています。
都市ミュケナイとクレタ島の文明を+しています。